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北海道で今シーズン、二度目のスキー(1998/2/28〜3/1)
一日目は、札幌国際スキー場で、二日目はテイネハイランド・スキー場で、天候にも恵まれ、たっぷり滑ることができ、大満足して帰って来た。
それというのも、北海道に十年前赴任した際の、お師匠さんであるYさんの尽力あっての賜である。車での送り迎えから、メンバーのアレンジ、実地の指導まで何から何までお世話になった。多謝。
札幌では、このところあったかい日が続いたということで、札幌国際へ向かう国道230号線にはほとんど雪がなく、東京の道のように乾ききっていた。
しかし、スキー場にはたっぷりと雪があって、雪質は上々だった。10時少し過ぎから滑り始めて、昼食までに7本も滑った。2km近いゴンドラで上まで行き、Yさんを先導役にして、途中一度か二度小休止するだけで、ほとんど一気に滑り降りてくるのである。
Yさんは、70を超えているが、顔つきも十年前と全然変わらず、フォームは安定そのもので、疲れることを知らない。もう一人のTさんも私より十年先輩だが、山男でタフ、こちらも疲れをしらない。
したがって滑る回数、スピードは、同行した妻いかんにかかってくるのだが、このところとみに技量をあげてきたので、ほどほどのスピードなら、なんとかみんなと一緒に滑れるのである。しかも、今回はYさんのすぐ後ろにくっついて滑れたのだから、これはものすごくいい勉強になったはずである。
お昼に食堂で会う約束だった、KさんとMさんとも、ゴンドラを待つ行列の中で偶然隣り合せになり、午前の最後の3本は一緒に滑ることができた。
昼食は、三階にある、レストランでゆっくり、たっぷり楽しんだ。一品メインの料理を注文すると、サラダとスープはバイキング方式でいくらでもお替わり自由なのだ。二階の混んだ食堂に比べると、けっこう割安である。話も弾んだ。
午後は、一時半頃から滑り始めて、二時40分頃まで二本、みんなで一緒に滑ったが、Tさん、Kさん、Mさんが先に帰るというので別れて、残ったYさんとわれわれ夫婦だけがその後一緒に滑った。
妻が珍しく、今まで行かなかった上級コースで滑りたいと言い出したので、ダウンヒルと名付けられた一番右側のゲレンデに向かった。その時分、霧で視界が悪くなっていて、雪の表面が見にくくなっていたが、妻に言わせると人がいない分、ましということのようだ。他のゲレンデは広すぎて、何人もが、同じコースを同時に滑るので怖いというのである。
サホロでも、全コース一緒に滑ったので、ゆっくりならどこでも滑れるのである。
結構きつい坂もあったが、たしかに人も少なく、ぶつかる心配はない。なんとか無事、三本滑り終えて、怪我もなく帰路につくことができた。
夜は、札幌在住で旧知のTo夫妻と一年振りに会い、北海道ならではの山海の珍味美味を味わいながら、ビールを飲み、積もる話に花を咲かせた。
二日目は、札幌時代に、さんざ通ったテイネハイランドである。やはり懐かしい。空は晴れ渡り雲一つない。山頂からは、札幌市、石狩湾、暑寒別岳、さらに遠くの山々までくっきりと見える。風もほとんどなく、温度もそれほど低くない。雪質は最高。
今日も最初は、YさんとTさんにわれわれ夫婦の四人で一緒に滑った。11時過ぎに、Iさん、T2さんと合流して、一緒に滑った。パノラマコースから滑り始めて、人が多くなったら、空いたゲレンデを探して移動を繰り返し、ほとんどすべてのゲレンデで滑った。
女子大回転や、男子回転のコースも何度か滑りおりた。結構きつい斜度のところもあったが、妻も転んだのは一度だけ。10時過ぎから4時まで、昼食をゆっくりとったとき以外は、とにかく飽きもせず、滑り捲った。後で乗ったリフトを数えてみたら25本ほどにもなった。
妻も、最後には、足が痛いと言い出したが、それでも丸二日、滑り通せたのだから、体力もついてきた。
終日、土地の人も驚くほどの好天に恵まれ、快適なスキーだった。最後に、ホテルまでYさんに送ってもらい、何事もなく、定刻の便で帰京できた。
翌日の新聞を見たら、東京は前日雪で羽田空港は午前中クローズし、200本以上の便が欠航し、4万4千人に影響が出たとあった。知らぬが仏とはこのことだ。
10年目のClub Med サホロは上天気(1998/1/21〜1/25)
Club Med サホロには、平成元年から毎年欠かさず出かけている。
大いに気に入っている証拠だろう。今年は、好天にも恵まれ、十分満喫して帰ってきた。平成2年以来、決まってこの時期、四泊五日のスケジュールで出かけるのだ。今回は、朝一番の飛行機を使って帯広経由で午前11時前に到着、午後から早速、スキーのレッスン、最終日は、午前中いっぱい滑れる便だったので、とにかくよく滑った。
毎日、レッスンを取ったので、滑りが安定度を増してきたのが、自分でも分かった。一番急な坂も、一定のスピードで、コントロールしながら降りられるようになった。最初の日は、のどかさん、二日目からは、雪さんが、インストラクターだった。どちらも若く気持のいい女性で、いいアドバイスを沢山くれた。雪さんは日本人の父とフランス人の母を持つハーフで、日本語は勉強中。エンルギッシュで、
「オニバ!」
と叫んで、先頭を切って滑りまくる。その後を10人ないし6人の生徒が必死に追うのである。「オニバ」はフランス語で、「さあ、行こう」の意味である。圧雪したゲレンデばかりでなく、新雪のあるコブコブのところまで滑った。難しかったが、滑り終わると達成感は一段と高い。
ゴンドラを降りると、周りの山々が一望できる。十勝山、富良野山、阿寒山、などなど実に美しい。
鳥の鳴き声を聞きつけて、近くの白樺の林に目をやると、四十雀が盛んに飛び回っているのだ。零下10度で、白一色の世界でも元気で過ごせるものらしい。
Club Med サホロには、朝から晩まで、お客を飽きさせないようにしようという、バカンス王国のフランスのクラブらしいノーハウがびっしり詰め込まれている。
朝昼晩の食事。これが、すべてビュフェ方式だが、日毎に、イタリア、アジア、メキシコ・テキサス、等々とテーマを変え、手を変え品を変えて、コックが腕によりをかけた料理を並べるので、五日程度滞在しても、同じメニューを強要されることはない。ほんのすこしずつ食べたにしても、とうていその二十分の一の種類を食べることも不可能だし、体重を増やさずに、村を離れることも不可能に近いのだ。ワインも赤白、飲み放題。デザートの類の充実度も並みではない。ケーキ類、果物類。なんでもある。
夕食後のショーも、なかなかのものだ。スタッフをMOと称するが、ショーの玄人から、スキーのインストラクターなどの素人までMOのほぼ全員が日替わりで参加して、歌あり、踊りあり、寸劇ありの楽しいバラエティショーを毎夜繰り広げるのだ。これが、かなりのレベルなので、毎年実に楽しみなのだ。
ショーが終わると全員参加型のゲームの数々。ミニゴルフ、ピンポン、様々なゲームが用意されていて、毎年つい熱中してしまう。
スキーでは、レースも恒例になっている。わたしのグループからは、10人全員参加したが、私が60人中18位になり、銅メダルを貰っただけ。雪さんは、残念そうだった。
ゲームでも、金メダルを貰った。これは、10の異なったゲームをこなすのだが、バスケットボールのスローインあり、重さ当てあり、釣糸を瓶に入れるゲームありで、結構難しいのである。100点満点で80点取った。
GOのアンソフィーとは昨年親しくなった。彼女は昨年はショーのコスチュームのデザインを担当していたが、今年は、クラフトとアートを担当していた。絵がお互いに好きなので、今年も、話が弾んだ。この一月に書いたばかりの水彩画をカラープリンターでプリントしたのを持っていってあげたら、とても喜んでくれた。他のGOとも、仲良しになった。
S夫妻とは、毎年一度ここで交歓することになっている。住まいは同じ東京の落合なので、歩いても行けるほどの近くなのだが、会うのはこの時だけである。45年前に知り合いになって、毎年、ここで会い、食事をともにしたり、ショーを一緒に見たり、バーで話し合ったりして、楽しむのである。年に一度なのに、もっと頻繁に会っているような親しみが湧くのが不思議である。Sさんには、これまでスキーのレースで勝てなかったが、(最初の頃は、順位は、かなりあいていたが、昨年はすぐ後だった。)今年は、Sさんは27位で、私が18位、初めて勝てた。滑りが少し向上した証拠だろう。
最終日は、妻と二人でフリーで滑った。ゴンドラを三回上がったが、妻も私の後を、ちゃんとついてこれるようになった。12時まで滑って、最後の昼食をたっぷり取って、満足して帰ってきた。来年も行くことになりそうである。
昨年のClub Med サホロの項へ
暮れの30日から年初の2日までは野辺山で滑った。昨年とほぼ同じ日程である。ゲレンデは今年も昨年同様空いていて快適だった。(ここをクリックすると野辺山ハイランド・スキー場の写真が見られます。)
今回も、妻と一緒。泊まったペンションは、これまた昨年同様の「かぁてんこーる」。今回で三回目になるが、若いオーナーの石井夫妻が明るく親切で、わたし同様多趣味人間な上、料理の腕も確かなので気に入っている。スキー場まで車で送り迎えしてもらえるので、いつもJR線で出かけることができるのも、好都合なのだ。
ただ、オーナーによると客は昨年の半分だという。拓銀の倒産のニュース以来、電話がぱたりとかかって来なくなったらしい。
毎日、飽きもせずよく滑った。ここは、人工雪なので、十分雪があり、長野県下でも唯一心配しないで、滑れるゲレンデだったらしい。今年は暖冬で新潟の湯沢や苗場にも雪がないというのに、幸運だった。あまり、知名度の高いゲレンデではないが、FISの大会が今年も二回も催され、FIS関係者には知られたコースらしい。
最初の日は午後1時半に滑り始めて5時まで14本。翌日は午前9時半から午後5時まで、30本。三日目、元日の日には午前9時40分から午後5時まで26本(妻は25本)、最後の日には午前9時40分から12時20分まで11本、合計で71本も滑ったことになる。
競技用のコースで、オリンピック選手の木村さんが愛用しているスーパーレッド・コースは、着いた日から降雪機を終日動かし整備にかかっていたが、それこそ最後の一本分しか時間が残っていないところで、やっとオープンになり、なんとか一本だけ滑ることができた。それこそ文字通り滑り込みセーフ。
整備はまだ十分でなく小石状の雪の塊がごろごろしていて、かなり神経を使ったが、滑りがいはあった。
妻も、ちょっとしたアドバイスが効いて長足の進歩を遂げた。いつもは足が疲れたとコースの半ばで一
休みしていたのが、無理な筋肉を使わなくなったせいか疲れなくなり、ゲレンデを一気に滑り降りることができるようになった。その結果、一本を除き、70本全部わたしと一緒に滑った。
スキーからペンションに帰った後は、ヘルストンの風呂で汗を流し、その後ビールを飲みながら、持参した碁盤で妻と碁を打った。8子局。7時から夕食。フルコースのフランス料理をワインとともにゆっくり味わう。その後は打掛の碁を決着まで打つ。
大晦日の日には久しぶりに紅白歌合戦を最後まで見た。遊戯室に備え付けの大きなテレビに、音楽好きのオーナー好みのボーズのスピーカーで、臨場感ある歌唱をたっぷり楽しめた。その後、年越しの景気付けに、オーナーから心尽くしの「バナナケーキ」が振る舞われた。それを賞味し、年が改まった直後の寒気厳しい屋外へ出て、夜空を見上げた。空中、星がそれこそびっしりと詰まっているようで、オリオン座の大きな四角形の中にも小さな星がいくつも見えるほどだった。赤っぽい流れ星を見ることもできた。[良い年になりますように」と祈った。
天候にも恵まれ、最初の日を除いて、美しい八つが岳を見晴らしながら滑ることができ、今年は春から縁起が良いと思った四日間であった。特に最後の日は、霧氷(ここをクリックすると、写真が見られます)が素晴しく、二人とも大いに満足し、私も、いささか腕を(脚を?)上げたらしく、前回よりかなり安定して滑れるようになって帰って来た。
帰る直前になって、オーナーから、私が書いた絵の絵葉書をもう一枚欲しいという話があった。昨年、オーナーに差し上げたのが、食堂に飾ってあるのだが、それに興味を持ち、是非欲しいという常連客がいるというのだ。今、もっていないが、その絵はわたしのホームページに掲載しているので、プリンターがあれば、そこからプリントアウトできますよという話から、それでは早速開いてみようということになった。他人のパソコンる自分のホームページや水彩画を見るのは初めてなので、興味深かった。絵のサイズはもう少し大きくしたほうが、見栄えがするように思えた。このことが取り持つ縁で「かぁてんこーる」のホームページとリンクを張る話まで発展した。「かぁてんこーる」のアドレスは下記の通り。よかったら、大いに利用してあげてください。私のホームページを見て,と一言添えていただいたら、幸甚です。
<http://www.avisnet.or.jp/~cc836tk/>
今シーズンの幕開けは、例によって軽井沢(1997/12/6〜7)
いよいよスキーシーズンの到来である。
このところ初滑りは、軽井沢に決まっていた。MMグループの一員として、呼ばれたら参加するという方式で、いつも20人あまりの人と一緒に滑るのを習わしとしていたのである。ところが、主宰者のMMさんの体調がおもわしくない様子で、お誘いがない。とすれば、自分で予約して行くよりない。ということで、昨年とはぼ同じの12月6日から7日、軽井沢プリンスホテルの予約を取り、われわれ夫婦二人で出かけたのである。
例によって、土曜の朝はゆっくりと9時35分に、愛車パジョロを駆って出発。関越高速道は、わりかし空いていて、結構スピードが出せる。11時半には、横川サービスエリアに到着、そこで、峠の釜飯を食おうというのである。ところが、峠の釜飯は帰りのサービスエリアにしか、おいていないという。どうしようかと迷ったが、似たような弁当を売っているので、それを試してみることにした。
名付けて「だるま弁当」赤い達磨を形作ったプラスチックの容器に入っている。ご飯は冷えても美味しい米を使っていますというだけあって、わざわざのように店の前の風に当たるところにおいてあるので冷えきってはいたが、おいしい。手作りで一生懸命作りましたと、説明書が入っているが、具も多く、なかなかのものである。峠の釜飯を巡って争いがあったような話を聞いたような気がする。調整の結果、下りには「だるま弁当」ということになったのであろう。対抗上、努力をしているらしい。
ちなみに、確認した具を並べると、まいたけ、ひらたけ、椎茸、銀杏、花豆、山くらげ、ベビーコーン、菜の花、人参、ごぼう、小茄子、鶏のロースト、と盛りだくさんであった。
ホテルに着いたのは12時半。ちょっと休んで、滑り出したのは、午後1時。リフトが動いているゲレンデは3つだけ。もみの木コースのAとB、最初は向かって一番右のコースを滑ることにした。どちらも380メートル程度の、短くしかもなだらかなゲレンデである。足馴らしに、ちょうどいいのである。
一年振りとなると、最初はどうしても、おっかなびっくりになる。腰が引ける。体重がうまくスキーに乗らない。昨年はできた滑らかなショートターンができない。体が勘を取り戻すには、何回か滑らなければならないのだ。焦るなかれ。まだ、初滑りの、しょっぱなではないか。
人工雪だが、まあ、滑れる。温度が高いのでシャーベット状で、雪煙が舞い上がるようなことは、けっしてない。
滑っているうちに、次第に昨年のレベルに近づいて行くのがわかる。そうだった、といろいろ思い出しながら、AからBなど、リフトの空いているほうを選んで滑った。
妻も、飽きもせず、ひたすら滑る。久振りのせいか、まだ調子は出ていないが、転ばなくなったし、去年までは、Bゲレンデのスタートの際、しばしば躊躇していたのが、そんな素振りがまったくなくなって、すいすいと降りていく。
リフトで同乗した人に、岐阜から来た人がいた。行程300キロメートル。4時間から4時間半でこれるのだそうだ。私が150キロメートル、約2時間だから、話は合う。変な間道に入るより空いた高速を飛ばしてくるほうが早いという。
お茶の時間には、ケーキセットで、疲れをとり、その後もリフトが止まるまで滑って、部屋に戻る。部屋からも浅間山が見える。去年まではいつもリフト側だったのが、今年始めて浅間山側になったのだ。目の前には落葉松のまだらな木立があり、その向こうに浅間山が見えるのである。ゲレンデの滑り出すところからは、よく全景が見えたが、なだらかな陵線がくっきりと映えて実に美しい。とくに日が沈んで、暮れなずむころの、灰青色の微妙な色のグラデーションが、良かった。
テレビでゴルフ日本シリーズを見ると、18番ホールで丸山茂樹が、バーディパットを決めて、10アンダーとなり、首位に並んだところ。明日は、同じスコアが4人もいる混線。尾崎将司を逆転して賞金王になるには、この大会と最終戦の大京戦を制しなければならないらしい。
夕食は、7時から、東館から西館へ移って、例年の同じく中華料理を食べることにした。昨年までは、大きな丸テーブルを二つ、仲間で囲んでわいわいと騒ぎながら食事をしたものだったが、今年は二人だけ。はじめて窓際にすわり、すぐ目の前の池にひ鯉が泳いでいるのを見ながらの食事である。
中華料理の場合、大勢だと出る皿の数が多いと妻はいう。それでも6皿でたので、沢山でたじゃないかというと、妻は昨年は10皿以上出たという。6皿でも、お腹ははちきれそうになった。10皿では食べきれまい。
暖めた老酒を2合、二人ともこれですっかり酔ってしまった。
部屋に帰るとバタンキュウ。8時半に休んだことなど、このところ記憶がない。
翌朝は6時過ぎには目を覚まして、テレビで碁の番組を見、せっかく持参したのだからと、桐野夏生の『OUT』を読んだ。
滑り出したのは、9時過ぎ。妻は、起きたのはわたしより遅かったが、一足先に出かけた。だれもいないゲレンデを滑って見たい、のだそうである。
まだ、比較的空いている。Aゲレンデを一回滑って、妻が見当たらないので、Bに行ったら、スタートのところにいた。
「誰もいないところを2回ほど滑ることができた。MMさんが、毎年やっていて、気持ちがいいと言っていたのでやって見たけど、素晴しかった」
昨日に比べると、天気は良くない。曇っていて、浅間山は中腹から上は、雲に隠れて見えない。小雨がパラつきだしたので早めの昼食をとった。天候次第では、そのまま止めるつもりでいたが、回復してきて、青空もときおり、顔を出した。それじゃ、とまた滑り出した。私の後について滑らせるなど、しょうしょう腕を上げるべく努めたが、かなり、うまく付いてこれるようななった。
二時にはお茶にし、昨日気に入ったチーズケーキのセットをふたりして食べた。
それから、もう一度ゲレンデに戻り、3時まで、仲良く滑って、帰路に着いた。
ホテルを出たのが4時、自宅に着いたのが7時、途中渋滞もあったが、まあまあの時間で着くことができた。
帰りの横川サービスエリアで「峠の釜飯」を買い込み、家に着いてから食べた。
容器が釜なので、まだ暖かみが残っていた。結構美味しかったが、「だるま弁当」の必死さに比べると、名前に溺れているようなところがあった。漬物についている茄子ひとつにしても、大味で、だるまの小茄子のうまさには遠く及ばないし、具の種類も少ない。名前倒れにならないようにしてもらいたいものだ。ニュースを見ると、ゴルフ日本シリーズで丸山が優勝し、賞金王への夢をつないでいた。たいしたものだ。
いずれにしても、初滑りを怪我もなくこなし、今期のスキーに対する意欲が、どっと盛り上がってきた。
スキーは、1988年から1989年まで札幌に赴任したときに覚えたようなものなのだ。それゆえ、年に一回は、札幌で滑りたくなる。札幌に行くと、私のお師匠であるYさんが待ち構えていて、一緒に滑ってくださる。仲間もいる。妻もこのところ毎年同行していて、皆さんと顔なじみになっている。これだけの条件が揃っている。行かざるべからず、ということで、今年も出かけた。
初日。寒気を伴う低気圧の襲来で、全国的に大荒れの一日。札幌も例外ではなかった。終日小止みなく雪が降り続いた。札幌は一月はあまり雪が降らず、道路にもほとんど雪がなかったという。それがこの数日前から大雪になり、平均降雪量に追い付き、この日から追い越すのだという。道路の両脇には、除雪した雪で壁ができている。
札幌赴任時代の私のホームコースである手稲ハイランドで滑った。午前中は、雪で視界が悪い。そのうえ前日来の新雪で、ゲレンデはでこぼこ。本州の雪に比べればそれでも、軽いのだが、視界が悪い上に、私は独眼で滑らなければならなくなったのだ。その前日、眼鏡屋で鼻に当たるパットの調節をしてもらったのだが、そのせいか、右のレンズがぽろりと取れてしまったのである。
お師匠さんを先頭に、妻、私の順でついて滑った。Yさんは、妻の実力を考慮してゆっくり滑ってくれるので、独眼流の私も反射的な利益を受けることができた。女子大回転コースもゆっくりなら妻も滑れる。
翌日。風が強く、手稲ハイランドのリフトは、一番短い初心者用の一基以外全部止まっていた。そのうち他のリフトも動き出すとと思っていたが、一向に風は収まらない。次第に人も増えてきて、30分に一本滑るのがやっと、という混みようになってきた。リフトを待っているうちに体が冷えてくる。やっとのことリフトに乗っても、降りるのにはものの一分もかからないのだ。四本ほど滑って、冷えた体を暖めようと、コーヒーブレークを取ることにし、食堂に引き上げた。コーヒーを飲んでいるうちに、このまま手稲ハイランドにいてもらちがあきそうにないので、近くの手稲オリンピアコースに行こうということになり、早めの昼食をとった。
手稲には、数え切れないほど来たが、手稲ハイランド以外で滑ったことがない。オリンピアコースは、ハイランドコースへ行く道路から見えるので大体の様子はわかっているような感じがしていたが、滑ってみると意外と奥が深くて面白いコースだった。こちらはハイランドより低地にあるせいで全部のリフトが動いている。千尺コースなど距離がたっぷりあり、なかなか楽しい。雪の滑りもこちらのほうがいい。こっちに来たのは正解だった。
最終日。これ以上はないというほどのスキー日和。風もなく、青空が広がっている。手稲ハイランドで滑る。眼下に広がる、札幌市、石狩市、石狩湾がよく見える。ゲレンデも初日よりは手入れが良くて滑りやすい。
今日もYさんに先導されて滑る。三日目だけに、調子も出てきた。結構人も多いが、穴場のパノラマ二号リフトを中心に、滑る。
終日滑って、最後に妻が休むというので二本だけお師匠さんの後を滑ったが、73歳のはずのお師匠さんは、相変わらず元気でうまくて、全速力で滑られるとどうしても全コースはついて行けない。
とにかく三日間、たっぷりと滑って、大満足し、お師匠さんに心からのお礼を申し上げて、帰京の途についた。
Club Medサホロ(97/1/22〜1/26)
さて、1月22日から26日までは、恒例のClub Medサホロへ。これで9年連続、10回目。妻は、9回目。天候にも恵まれて、スキー三昧の五日間。インストラクターは、昨年と同じLeroi(ニュージーランド出身)。パラレル・ターンが少しうまくできるようになった。スキーレースでは、ブロンズメダルを獲得。
夜は夜で、毎晩GOとGerald村長の演ずるショーを楽しむとともに、余興の卓球大会でも、Leroiのガールフレンドのケイコさんと組んでブロンズメダルをもらった。「おかまショー」では、マリリン・モンローから指名されて、ステージで一緒に踊った。優雅で素敵だった、と思いもかけないいろんな人から、後刻、声をかけられた。バラエティショーの衣装を担当している若いフランス女性(GO)とは、水彩画を通して、話に花が咲き、「こんなに素晴しい夜は初めて」と言ってもらえた。(注)
毎年、この時期にご一緒するS夫妻とは、三日連続で夕食をともにし、交流を深めた。最後に日には、骨折した女性の第一発見者になり、救助活動に当たった。水彩画もポストカード大のものを一枚書き上げてきた。昨年、月刊誌の表紙を飾った(8月号、11月号)水彩画を、出版社がポストカードにしてくれたものを持参していたので、村長やスキー学校の校長、衣装担当のGO、S夫妻などに差し上げて、喜んでもらえた。
妻も、とみに腕を上げ、今年から私と同じ、2Aクラスに入った。レースも完走したし(残念ながらメダルは取れなかったが)、最後の日、一緒に滑ったが、かなり急なところでも遅れず、ついてこれるようになった。大変な進歩である。
こうして、たっぷり楽しんで、帰ってきた。来年も行きたい。
(注)97/5/30:二週間ほど前、フランスから絵葉書が舞い込んできた。誰だろうと思ってみると、彼女だった。いまちょうど、クラブメッドのGOは、休暇の時期なのだ。お母さんの家に帰っているらしい。来期もサホロではたらくことにしたので、また会うことが出来るでしょう。あなたが送ってくれた水彩画の絵葉書は素晴しい。としたためてあった。あの後、彼女に私の水彩画を絵葉書にしたのを、送ったのだ。
暮れの31日から年初の3日までは野辺山で滑った。空いていて快適だった。今回もも、妻と一緒。野辺山は娘も一緒だった。ペンションは、今回が二回目で、オーナー夫妻が親切で、料理もおいしいので気に入っている。二日の夜は、凄まじいおろしに驚かされた。三人とも大いに満足し、いささか腕を(脚を?)上げて帰って来たように思ったことだった。
今シーズン(1996年暮れから1997年)は、12月7日から8日、話好き、スキー好きの仲間が20人ほど、軽井沢に集まり、恒例の初滑り。人工雪だが、雪質はそれほど悪くない。初日、少々左膝を痛めたが、二日目も丸一日滑った。帰京後、このスキー仲間でもある、スキー医学の権威のお医者さんに、膝に溜まった水を抜いてもらい、2週間、スポーツから遠ざかる仕儀と相成った。
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1998/7/19 | レインボー | 開場記念杯 | K:44、45|N:48、43| |
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東名高速は乗ったところから渋滞。24キロという。今日は夏休み最初の日曜日なのだ。まず、その点の認識不足があった。定刻に着くことを諦めた。しかも、思ってもみなかった、雨。天気予報にはなかったはずだ。
集合時間に30分遅れて到着。同じ東名経路の遅着組と最終組で出してもらうことになった。雨もスタート前に止んで、プレイ中はまったく降らなかった。 なかなか感じのいいふたり組で楽しく回れた。気が合うのもそのはず、なんと一人の人の名前が毅、もう一人が薫一郎。わたしが毅一郎だから、私の名は、二人の名前から一部を貰って出来たようなものである。後半になってバッグの名札を見て、気付いたので、紹介したら、二人ともびっくり。不思議なご縁ですね、ということになった。 そのせいでもないが、スコアも似たりよったりで、89、90、91とわたしを真ん中に並んだ。開場記念とかで、12ホール、ブラインドの新ペリア方式でハンディキャップを決めて勝負を争う。算定の結果、89を出したKさんのハンディが18となり、19位に入賞(20位まで入賞)、わたしは一番きついハンディになって、96位。くじ運がよくなかった。 帰りも高速道路は渋滞し、途中で一眠りして帰ったので、5時に出発して、帰宅したのは7時半過ぎ。長いゴルフになった。 |
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1998/7/11 | レイクウッド(西) | プライベート | O1:45、46|O2:49、48|M:52、51 |
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先週の土曜日ほどではないが、暑くなった。風はほとんどない。湿度がそれほどないのが、救い。
インモアウトの順で回った。このコースは、わたしの生涯ベストである79(40,39)を1994/9/4に出したコースである。それほど、難しくない。 まったく練習もせずに、コースにでたが、前半は、ロングホール2、ミドルホール3のダブルボギーが出て、パーが一個も取れず、50。後半は、ダブルボギー1、パー2、バーディ1、他はボギーで42。最後の4ホールは、すべてワンパットで、前半取られたオリンピックを取り返した。お友達も含めて10枚のプラス。ドライバーがもう少し安定すると、スコアは改善されよう。 |
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1998/6/28 | レインボー | プライベート | Aさん(10):|Iさん(18): |
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昨年、12月に加盟したのだが、今日が初ラウンドである。家を7時10分過ぎに出て、8時15分に着いた。8時48分のアウトからのスタートで、3人組で回った。
Aさんは、ハンディ10、住まいはこのコースのすぐ側で歩いても来られる距離とかで、毎週来ているとのこと。Iさんはハンディ18で、住まいは東京赤坂。ふらりと来る人も結構多いらしいが、この組はIさんが一組押えていたのが、他の人がキャンセルして、われわれが入り込んだもののようだ。仲間がいるので毎週、押えておくという。 コースは悪くない。もう一つの加盟コースである足柄森林に比べて、安心して打てるだけ、こちらがいい。ハンディは22を貰っているので、今日のスコアはネットでパープレイ。近いことでもあるし、もっと来たいものだ。 |
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1998/6/25 | レイクウッド(東) | プライベート | K:|K2:|F:
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やっとのことで、久しぶりに、80台が出た。
今年に入って、大スランプで、100を切るのさえ大変で、一度は初心者の時もほとんどない60以上も叩いてしまい、スイングの基礎を見失い、自信喪失に陥っていた。 これではいかんと改良に取り組みだしたのが、5月に入ってから。自分の連続写真を念入りに見、ゴルフのテレビ中継のプロのスイングを見比べて、打ち方に、大いなる欠陥があることに気付き、フォーム改良に取り組み、やっとそれが実ったようだ。 取り組んだと言っても、近くに手頃な練習場がないので(これは、いいわけだが)、もっぱら、改良したスイングをイメージしながら室内でも振り回せる長さ70センチのスイング練習用のクラブで素振りを繰り返しただけだったのだが、ラウンドすると、少しずつ、スコアも良くなってきて、最初は、一方が50台、片方が40台となり、三回くらい前から、やっと、両方とも40台が出るようになってきた。 今日は、また、少々、スイング改良のポイントに気付き、それを実行してみたくてうずうずしながら乗り込んだのですが、ぎりぎりながら89でホールアウトし、やっと念願を達成することができた。 最初のハーフが43、ひょっとすると80台と期待に胸を膨らませての後半、まあ順調に行っていたので、スコアの集計はしていなかったのだが、残り1ホールのところで、よせばいいものを、念のために集計してみたら、38。最後のロングホールを8以下で上がれば80台。これならなんとかなる、と思ったのが、余りよくなかったようだ。
第一パットは、相当思いきって強く打ち、上の段には届かせたものの、2メートルもショート。これさえ入れれば80台。どちらが先に80台を出すかを争っている人のことを思い浮かべながら、なんとか80台をと必死の面持ちで打ったパットが左端からホールを巻くようにストンと転がり込み、他のパートナーには意味不明の小さなガッツポーズをしたことでった(オネストジョン方式のコンペでしたので、これが入るとアンダーパーになり、事実上、優勝がなくなる)。 これですっかりスイングが身につくほどゴルフは甘くはないだろうが、ただ、なによりも、スイングの改良の方向性が間違っていなかったようなので、安心した。
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1998/6/20 | 大宮ゴルフコース | プライベート | M:84|O:|M2: |
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運転手が間違えて「大宮カントリークラブ」に連れていかれた時にはびっくりしたが、このコースは芝が良くついて、フラットで、キャディも良くて、実に楽しくプレイできるコースだった。桜の時期には、もっと素晴しいという。
スコアもまあまあにまとまり、パートナーも気の置けない人だったので、このメンバーでまた、このコースでやろうということになった。メンバーのMさんは、かなりのお年で、距離が出るわけでもないが、ショットが実に正確で、パットがうまく、この日も84。ゴルフはいかにフェアウエイをキープし、入れ頃のパットをセーブするかのゲームであることを教えられた。 |
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1998/6/7 | キングフィールド | 阿部杯@ | K:106|F:101| |
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ちょうど、20年前、わたしが課長を勤めた課の課員との、私の名を冠した初めての大会である。カップを出すことにした。
場所は、かなり贅をこらしたコースである。芝のつきがいい。景色もなかなかのもの。従業員への教育も行き届いている。クラブハウスも立派だ。 ショットは、今一つ安定せず、スコアは伸びなかったが、ショートホールでは、ティショットが、ピンに当たって、50センチもないところに落ちるような、あわやホールインワンというショットも出て、満更ではない気持ちも味わった。 6ホールをブラインドにした、新ペリア方式で、ハンディを決めるとかで、これはクラブ側がパソコンでサービスしてくれるのである。その結果が、0.4ストロークの差で、わたしの優勝ということになった。出したカップを持って帰ることになった。第一回でもあり、連続優勝はないことにして、貰うことにしたのだ。 気のおけない仲間とのラウンドで楽しい一日だった。この大会が長続きすることを祈りたい。 帰りは、初めてアクアラインを経由して帰ったが、箱崎経由に比べるとかなり早い。 |
体はともかく、心の準備もまったく出来ていなかった。ゴルフをやるにはそれ相応の心構えが必要なのだろうが、それがまったくなかったのだ。
一月半振りのゴルフ。前回のゴルフから、クラブを一回も振らず、しかも練習もせずにいきなり、ティグランドに立って、いいスコアが出るはずがない。しかも、スイングの基礎も忘れ、思い出そうともせず、漠然とクラブを振っただけ。鳴かず飛ばずの一日。
風邪気味で、薬を飲んでのプレイだったせいか、あまり考える力がなかったようなのだ。目の前に悲劇的な事態が繰り広げられていても、無関心。反省し、少しは、基本に立ち返って、みずからのスイングのチェックをするような気も起きず、何回失敗しても、学習効果を働かせることもなく、最後まで、そのまま。お陰で、池という池には必ず、池ポチャを繰り返し、まともなドライバーショットは皆無という有様。ベットも、全員に負けてしまった。
四国には、昨年末、17年ぶりに行ったのだが、行き出せば続くもので、今回は、坂出市でプレイすることになった。天気はよかったが、最後の2ホールは小雨に見舞われてしまった。
坂出ccは、戦略性に富み、ワングリーンで、仕上がりも上々、その微妙なアンジュレーションがチャレンジ心を掻き立てる。だが、せっかくの素晴らしいコースも、もう少しいいプレイをしてはじめて生かされようというもの。今回は、宝の持ち腐れに終わらせてしまった。もう一度プレイすることがあったらせめて今日より10ストロークは改善したい。50、54ではチト情けない。
ストロークの基本が身に付いていないことを痛感させられたのだから、基本に帰って少しは練習しよう。
1997/12/20:今年最後のゴルフも、スコアさえず、ベットのみに終わる
戸塚カントリーでプレイするのは、初めてである。ゴチャゴチャした住宅街の細い道を抜けたところに、忽然と丘陵地帯が現れ、そこがゴルフコースなのだ。コース側から見ても周りにビルがぎっしりと取り巻いているのが、よく分かる。
都心に近いので、人気が高く、会員権相場では、依然として高額の方に属している。名門とも言われている。その割にはコースは大したことはない。都会地に作ったせいか、やはり狭い。すぐOBにはなる。ペナルティはとられる。そんなわけでスコアはまとまらなかった。芝生もすっかり枯れてしまっている。ただ、家から一時間ちょっとで行けるのは有り難い。みんなが高い金を出してまで入りたがるはずだ。
当日はこれが、12月の20日とは、思えぬほどの温かい陽気。10月の中旬並みか。風もなくゴルフにはまことに申し分ない天気であった。
3人で回ったが、実力はお互いにあまり変わらない。従って、オールスクエアでアウト、イン、トータルで横で握り、オリンピックとニアピン、サンドイッチ、バーディが特別賞。オリンピックはストレートになるとボーナスがつく。
スコアは50、50で、Oさんには、アウト、イン、トータルと全部負けてしまった。もう一人のO2さんには、アウトで負け、インとトータルで勝って頂き。とにかく、9、8といったスコアが頻繁に出るのだ。
スコアが悪いときには、ベットに注力せざるを得ない。というほど、自由自在ではないが、最終的には、私が11枚のチョコレートを一番スコアの良かったOさんから貰っただけ。O2さんはプラスマイナスゼロ。オリンピックでストレートができたのと、3ホール分6枚かかったショートホールで、ニアピン賞を取ったのが効いたのだ。
最近買った3番ウッドが好調だったので、前日、同じスタイルの5番ウッドを仕込んで行ったのだが、一回打つチャンスがあったものの、力んでトウに引っかけ見事にミス。実力は分からず仕舞。
今年は、昨年より回数は増えたものの(22回)、スコアはついに90を切れずにおわった。
もう少し、練習するよりないなあ。
久しぶりに快晴の空の下でのゴルフである。実に爽やかで気持ちがいい。雨の中のゴルフではやはり、気が滅入りものだ。ただ、今日は風がかなり強い。
入間カントリー・クラブは、初めて。関越自動車道で鶴が島ICで降りる。距離的には、私の家から近い。朝、7時40分に出て、8時50分に着いた。
全長6,535ヤード。緩やかな丘陵地にあって、景色も良く、変にトリッキーなところもなく、楽しめるコースだ。
12月にしては驚くほど暖かい。風をまともに受けるところは寒いが、風の当たらないところに立つと、ぽかぽかの小春日和である。
一緒に回るHさん、Mさんは、かなりの名手らしい。どちらも初手合わせだ。もう一人のOさんとは、このところよく一緒に回るのだが、実力は、同レベルなのでオールスクェアで握り、Hさん、Mさんからは12のハンディをもらった(これはOさんがネゴして、決めたもの)。このハンディで、横で握り、アウト、イン、トータルで競うのである。それに、1-4位、2-3位のお友達、オリンピック、ニアピン、サンドイッチ、バーディを、それぞれチョコレートの賭けの対象にした。
スタートは10時アウトから。いきなりオナーになったが、ドライバーもまともに飛んで、ボギーのスタート。トリプルボギーとダブルボギーが一つずつで、あとは全部ボギー、前半は、グロス48。Hさんに4-2で、Mさんに5-4で、Oさんに4-2で勝ち、全勝。ただ、お友達は16-20。
後半のインでは、15番ホールまで、残り3ホール残して、Hさんに2ダウン、Oさんに0-3とリードされていた。Mさんには3-2、でリード。そこからHさんには3つストレートに取り、逆転。Oさんには、二つ取って2-3と、盛り返し、インは負けたが、トータルでは、6-5で勝ち。Mさんには、後半も5-2で勝ち。インのスコアは、49、グロス97。トリプルボギーが2つ、ダブルボギーが二つ、ボギーが3つ、パーが2つ。ちなみにHさんは、44、44で88。Mさんは、1ホールで13も叩いたのがたたって、58、50の108。Oさんは、51、47の98であった。お友達は、後半13-18、トータル29-38で9枚の負け。
ニアピン賞は、最初の三つのショートホール、誰も乗らず、最後のグリーンにHさんがかろうじて乗せて、各人から8枚ずつのチョコレートをせしめた。
つい先ごろ、レッドベターのゴルフのレッスンのビデオをデパートで通りがかりにちらっとみたとき、息を吐きながらスイングするといいとアドバイスしていたので、それを本番でいきなり試してみたが、うまく行ったのもあったが、それが気になってミスったのも結構あった。しかし、リラックスして打てるので、いいようだ。特に、最後のロングホール、ピン横3メートルに6番アイアンでスリーオンしたのだが、この一打、息を吐きながらの会心のショットで、これでOKパーにあり、ナッソーに勝てたのだ。
スプーンはかなりいいショットが打てた。ドライバーも会心の当たりが数発出た。全体にいいほうに向かいつつあるようだ。
帰りは、鶴ヶ島のICに乗るまでも、乗ってからも、かなり混んで二時間以上かかった。近いようでも、やはり帰りは大変だ。
酒匂ロイヤルでのコンペ。今回は参加者が少なくて、7人のみ(メンバーは約20人)。同年の仲間で作っているこのコンペの歴史は長く、私のハンディはいつのまにかシングルになっている。これは、最初の格付けが高かったのと、二位や三位の入賞でカットされたりしたせいで(四捨五入ではなく、全部切り上げ方式なのだ。1.1で2切り上げられたことがある)、優勝回数5〜6回の人並みの8なのだ(優勝は2回)。実力で上がった訳ではないので、近年ますます優勝から遠ざかっている。
今日は、ドライバーはまずまずであったが、ショートコースでワンオンしながら、フォアパットしたり、左を警戒するあまり狙い通り右に打って、OBするようなちぐはぐなところがままあって、イン48、アウト45のグロス93。「何年やっても、スコアは変わらんなあ」とパートナーの一人が嘆いていたが、まったくそのとおりである。
ハンディ8を引いて、ネット85であるにもかかわらず、二位になってしまった。優勝は、ネット80で、8オーバーパー。これも、ハンディが高くなっていることを証明している。私と同スコアの人もいたのだが、ローハンディという条件で私が2位になったのである。これでまたハンディが10%切り上げられて7となった。優勝は遠のくばかりである。
NP賞は二つのホールに設けられていたが、私のボール、両ホールともかろうじて乗ったようなところに止まったが、他の人が誰ものせなかったので、幸い二つともいただけた。DC賞は、一方はラフ、一方は力んで隣のコースに打ち込んで駄目。
オリンピックは、鉄ばかりしか出ず(5つ)、ぼやいていたが、最終ホール、18ヤードのロングパットが決まって、銀。これで稼ぎ頭に踊り出た。
帰りの東名高速は例によって渋滞。睡魔と戦いながらの帰路であった。
六組22人が参加してのコンペ。私は初参加でハンディも仮。仮ハンディの人には、1、2、3位の入賞の権利はなく、飛び賞の五位が最高。その五位を運良く獲得できた。
天気予報は午前中40%、午後50%、夜70%の降水確率。ところが、会場の東千葉ccに着く前に大降り、これではゴルフができるかというような降りだったが、スタート時点ではほとんどあがって、その後も、それほどの降りにもならず、天気予報の割には、あまり悪くないコンディションの中でプレイできた。
コースはそれほどアップダウンも激しくなく、随所に池を配し、レイアウトもゆったりとしており、なかなか良いコースである。ひときわ鮮やかな紅葉の木があった。
距離は短く、それほどトリッキーでないので、いいスコアが出そうなコースである。
ドライバーが調子が悪いので、ティーショットは、最近愛用しているIZYのスリーウッドを多用したが、これも、まあまあの出来で、前半は47。後半はドライバーも少し調子が戻って45、グロス92。仮ハンディは18なのでネット74、ツーオーバーで、同スコアが3人いたが、年齢差が利いて5位。
まあ、ティショットが、ほとんどチョロだった割には、第二打のリカバリーがうまくいって、このごろの私にしては、上出来の成績。
それにしても、ティショットの低迷を早くふっきる必要があるなぁ、と思った次第。
ゴルフの連チャンも実に久しぶりだ。
しかも、昨日は愛媛の北条で、ブルーの瀬戸内海を見下ろしながら、今日は静岡の裾野で、まだ、ほとんど雪を被らぬ紫の富士山を見上げながらのプレイである。ここ裾野カントリーは、富士山に池と様々な樹木を巧みに配し、景色の良いコースである。グリーンは、昨日のコースの二倍ほど早い。
ところが、プレイするのは同一人物なのだから、舞台変われどスコアは変わらず、昨日とグロスはまったくの同じ、ただ前半と、後半が一打ずつずれただけである。52が51に、46が47に。しかし、ペア戦をやったところが、良きパートナーに恵まれて、大勝。こっちは良いほうに大いに変わった。
インからの出だし、2ホール続けて、わたしはトリプルボギーをやらかして、連続の負け。嫌な出だしだった。
三番のショートホール。わたしだけがワンオンできず、ボギー。ここまでは、どう見ても負けの形勢だった。ところが、相手ペアのOさんが、一メートルそこらのパーパットを外し、その返しも外して、フォアパットのダブルボギー。よもやの逆転で、わがペアが勝ちを拾った。これですっかり流れが変わってしまったのだ。
その後は、我がほうのペアの歯車がよく噛み合い、たてに7ホール頂いて、トータルで5アップ(18枚の頂き)となった。
午後は、相手のペアから掛け率をダブルにしたいとの申し入れがあったが、午前勝った余裕でその申し入れを受けて立った。
「前半同様、最初の2ホールは上げますよ。その後を全部頂きますから」
と言っていたらそのとおりになって、結局後半も5アップ(18*2で36枚の頂き)、結局合計で54枚頂くこととなった。
昨日、3番ウッド(IZY Power)が、ようやく戦力に なりそうになってきた、と書いたが、少々不安定なドライバーに代わって、今日も大活躍。無理をしないようにすれば、スコアの向上も期待できそうだ。
四国は実に久しぶりだ。17年振りになる。1年10月も生活したところだから、機会があれば再
1997/10/26久しぶりに足柄森林ccの月例会に参加、スコアは冴えず
月例会に参加したのは、久しぶりである。前日がテニスの対外戦であったことでもあり、出ようか止めようかと、迷った挙句出ることにした。
車で走り始め、交通情報を聞くと、なんと東名高速道路は集中工事をやっており、かなり渋滞しているという。しかし、ままよと走り続けたら、これまでわたしが一度も経験したことのない大がかりな工事で、車線を変更するようなところがあっちにもこっちにも待ち構えていて、行くだけでもかなり時間がかかってしまった。それでも8時すこし前には着いて、エントリー。参加11組の最後のアウトの組みに入ることになった。
女一人を含む四人組み。冷え込むと言われていたのでセーターやら長袖やら、ベストやらをいろいろ持って行ったのだが、数ホール回ったら、半袖のポロシャツ一枚で十分な陽気になった。空も晴れ、この時期山頂当たりに一筋二筋うっすらと雪の白い模様の入った富士山もよく見えた。
天気は良かったが、ゴルフの内容は冴えなかった。出だし、ティショットが、いきなり右に飛び出して山の中腹に止まり、やっと5オン。オーケーに近い短いパットまで外して3パット。トリプルボギーの8のスタート。これが象徴するような、一日で、ちぐはぐちぐはぐしている間に、終わってしまった感じ。
良く、バンカーに捕まり、二回も、一打では出せなかったり、ティショットのOBも3度もやった。右へ押し出したり、左へドローがかかりすぎたり、要するにボールのコントロールができていないのだ。
ただ、最終18番ホール600ヤードもあるロングホールのティショットだけは、満足の行くもので、距離も方向性も申し分なかった。あれだけのショットを打つ可能性を秘めているのだから、精進して安定性を増すことさえできれば、まだまだ将来性があるぞ、次回につながるショットだと自分に言い聞かせた。
スコアは、55,52でハンディが22なのでネットで85。
帰りは、御殿場から高速道路に乗ってすぐのところから渋滞し、3時間半もかけて、家に着いた。やれやれ。
97/9/28:前回、前々回と、107,108もの大叩きをしている。ドライバーが不調なのだ。安定性がまったくなくなってしまったのだ。
この日も不調だった。まともに当たったのは、2回だけ、後はすべて、ひどいトップをして、4、50ヤード先の深いラフに捕まってしまった。昨日やったテニスで、トップスピンの球を打った余韻が残っているのではないかと、冷やかされた。キャディさんまでが、トップでもう少し待たなきゃ、などとアドバイスしてくれる始末だった。
日頃、練習はしていても、確かに狭い室内練習場では、ボールが先の方でドロップしていてもわかりようがないのだ。とはいえまともに当たっていないのだから、練習場のせいにもできない。
ただ、救いは、ラフからのNo.4やNO.3のアイアンが良く当たったことと、グリーンには2度乗って、ニアピン賞をもらったことだ。オネストジョンは当然のことながら、大外れ。今回も不本意な金を預金させられてしまった。
アウト52、 イン49、でトータル101。前回より、6ストローク改善したが、3回連続で100が切れないでいる。これが、あの練習の成果かと思うと泣けるが、まあ、ドライバーがあの調子で、前回よりスコアが改善したということでせめてもの慰めにしよう。
付け焼き刃の対策は功を奏さないのだから、半年後を目標に地道に頑張るよりない。
前回は、108もの大叩きをしてしまった。これはいけない。ひとえに練習不足のせいである。と、考え、先の三日続きの連休の際には、殊勝にも練習場に通ったのである。歩いて1300歩ほどのところに(万歩計を着けて行った)、室内練習場があった。入場料が300円で、使用料は時間制で30分500円である。
時間制なので、ひたすらばしばし叩いたら、少しはうまくなった気がしてきた。なんとなく、スイングの要領を会得したような気にもなった。
そんなわけで、珍しいことに練習いささかも怠りなし、今日こそは、先日の轍を踏むことはあるまいと意気込んで出かけたのである。
ところが、東名高速を走りだしたら、出鼻をくじくような、大雨になった。ワイパーを最高速度で動かさないと、前が見えないほどの激しい雨が降り、こんな日でもゴルフをやらなければならないのかなという消極的な気分になった。
クラブ(酒匂ロイヤルcc)に着いても雨は止まない。そこで、練習は、まったくやらずに、レインウエアの重装備で、ティーグランドに立った。幸いなことに、雨は上がって第一打を打つ前に、あわててサウナのようなレインウエアを脱ぐことができた。
ティーグランドに立ち、練習場で仕入れた、スイングを思い出しながら、ドライバーで第一打をばしっと打つと、ボールは右側へ飛び出していった。危うくOB。急な斜面のラフの中に止まってしまった。
そのとき、気付いたのである。練習場では、飛距離がわずか7メートル程度しかなかったことを。ボールは確かに前に飛んでいたが、まっすぐ飛んでいたという保証は何もなかったのである。この日はドライバーで右に3っつもOBしてしまった。球に威力は増したように思えたが。
要領を掴んだはずのアイアンも飛距離が定まらず、何度か、グリーンオーバー。前回よりは、ピンに目がけて飛んで行くようになりはしたが。
うまっくいっていた練習場のスイングを思い出して打とうという思いと、実際の結果を見て、こんなはずはないという思いとが交錯し、一日、ちぐはぐなまま終始した。
上がって見ると、なんとイン50、アウト57でトータル107。前回より、わずかワンストローク改善しただけであった。これが、あの練習の成果かと思うと泣けてきた。ハンディは19でグロス88。
付け焼き刃の対策が功を奏さないということを思い知った一日だった。テニスでも一つの技術を身につけるには、最低半年は必要なのだ。わずか数日の練習で成果を期待するのは虫が良すぎる。
30人を超す、コンペだったが、順位が確定するのを待つ気にもならず(一応BB賞を免れていることは確かめたが)、帰路に着いた。
97/8/1:久しぶりに北の大地でプレイ
北海道での二年ぶりのプレイ。三井観光苫小牧ゴルフクラブ。コースは、ほぼフラット、滴るような緑、広々としたフェアウエイ。やる気の出るコースではあるが、北海道にしては今日は信じられないほど蒸し暑い。それにフェアウエイの芝が、寝ていて、ボールが沈み込み、なれないと打つのに苦労する。打ち込むとターフががばっと取れる。そのうえ、距離はたっぷりあり、思うようなスコアが出ない。前半(東イン)53。後半(東アウト)49、で100をオーバー。これでも一緒に回った5人のなかでは、ベスト。オリンピックでは、9枚稼いだ。金曜日といいながら、二人、三人の組で出させてもらい、プレイ時間が4時間30分。朝4時30分起き、6時55分発の飛行機で羽田をたち午後2時にはプレイを終えていた。北海道ならではのこと。4時30分の知事室のアポイントに悠々間に合った。
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97/7/19:会社対抗戦はまったくのイーブン
毎年、宇部興産ゴルフトーナメントが行われる名門コース宇部ccの万年池西コースでのラウンド。S社の二人とわが社の二人で、会社対抗戦をやった。両者のスコアの合計で、ホール毎に勝ち負けを競うマッチプレイ方式。イーブンのときは、持ち越して決着をつける。前半、後半の9ホールと全ホールでの3本仕立てで、握った。
前半は3-6で当方の負け。後半は当方が巻き返して6-3で勝ち。16ホールで8-8の
イーブンになり最後の2
ホールに勝負がかかったが、当方が先に取りワンアップ。しかし、最終ホールは取られてまったくのオールスケア。それでも、オリンピックとDC賞、NP賞で、10枚だけ稼がせてもらった。グロスは47,46の93(ノータッチ)。梅雨明けの強い日差しの中のプレイで、顔が炎症を起こしてしまった。
97/6/25オネストジョンが二人も出て、入賞ならず
会社の幹部連7人によるゴルフ・コンペ。毎年、この日にレイクウッドccでやることになっている。梅雨の最中ながら、雨の心配はまずなく、曇り空なのでいくぶんしのぎやすさはあったが、湿度が高くて汗はどくどく出た。ゲームはオネストジョン方式で、試合後ブラインドホールを六つアットランダムにくじを引いて決め、そのオーバーパー分をグロスのスコアから引き、その数と当初申告したスコアとの差が小さい人が優勝する。
ところが、ゼロの人が二人、1の人が一人出て、2だった私は入賞を逸することになった。ちなみに私の申告は82で、6ホールのオーバーパー分は7、グロスは91(45,46)で、このところのスコアとしては、いいほうだ。
パートナーとニアピン賞とオリンピックをやったが、ニアピン賞を二つとり、全体で8ポイントを稼ぎ、4枚のチョコレートをいただいた。
この日はウイークデーだったため、8時半にスタートして、1時半には上がって来た。ウイークデーゴルフは実に快適であることがわかった。
97/6/1楽しくクラス会のゴルフ
わたしが幹事役で、大学時代のクラスメートの昼食会をやっているが、すでに、56回続いている。その会で、久しぶりにゴルフをやろうという話が持ち上がった。引き続き、幹事を仰せつかり、足柄森林ccに二組8人で申し込んだものの、急に体調を崩した人が出たりして、最終的には、6人が参加することになった。
当日は、理事長杯の準決勝、決勝戦と月例会があり、ゴルフ場は空いていて、3人ずつ出してもらえた。賞品は、優勝、準優勝、BB賞、BG賞を用意したので、6人中、4人ないし3人は賞品にありつけることになった。
順ハンディキャップは、ブラインドホールをイン、アウトそれぞれ3ホール設け(これは試合終了後あみだくじで決める)各ホールのオーバー分(ダブルスコアまで)を三倍し、その合計に八掛けしたものとし、これで順位を決めることにした。念のため、同スコアが出た場合を想定して、ローハンディ、モーニングベストの順で適用する基準まで用意しておいた。
天気は上々、ほぼ無風の絶好のゴルフ日和。参加した六人は、日頃の研鑽の成果をそれなりに遺憾なく発揮した。午後には、ニアピン賞の提案もあったので、追加した。われわれの第一組は、オリンピックもやった。
上がって、あみだくじを、各人1ホールずつ引き、いよいよ優勝、準優勝者を決めようとしたら、わたしとTさんとが、まったく同スコアなのだ。しかも、グロスも同じで、ハンディキャップも同じ。午前、午後のスコアも同じ。ちなみに二人のスコアは、48、47。
幹事が用意した基準では、順位が決められないことになった。皆の提案で年齢順にすることになり、まず、わたしの生年月日を披露したら、Tさんの生年月日はその前日だという。わざわざ運転免許証まで見せてくれたのでまちがいない。驚いた。四つの基準を全部適用しても、一日分の差しかないとは!まさしく「一日の長」で、Tさんが優勝、わたしが準優勝になった。
行きも帰りも皆一緒に小田急線のロマンスカーを利用したので、朝早くから夜の八時近くまで、良く語り、良く飲み、仲良くプレーした充実した一日となった。
97/5/24雨中の苦戦
出かける直前の天気予報を見ても、降雨確率が、100%に近い天候の中での一戦。スタート時点では降っていなかったが、3ホール過ぎたころからぱらぱらとき出して、午前上がりの3ホールはそれこそ、しのつく雨。ズボンはびっしょり濡れてしまった。
スタートホールは一打目も二打目もいいあたりで、ツーオン、ピンによく寄って、バーディは逃したがOKパー。好調の出だしだったが、3ホール目には、早くも化けの皮が剥がれてOB。しのつく雨の中での上がり3ホールは、ダブルボギーの連続。
午後はどうするか、迷ったものの、出ることにしたら、午後の降雨確率のほうが高かったにもかかわらず、ほんのちょっとぱらつく程度。午前の雨に恐れをなして、引き上げた組が多く、前方には人影を見ない貸切状況で、プレイできることになり、とんだ儲けものをした感じ。
笠間東洋ccのコースは芝の養生が良く、美しい緑で、さまざまな樹木に池を巧みに配した眺めもすばらしい。とは言え、ティーショットが落下点で水飛沫を上げ、ランはまったくない。ダフリが出やすいコンディションで、ずいぶんダフった。スコアは、伸びず、47、49。
四人で一緒に回ったのだが、その中の一人は、なかなかシュアな人で、オリンピックのグランドスラムは完成するは、ニアピンは独占するは、で、チョコレート132枚の荒稼ぎ。わたしは一番負けて、48枚の持ちだしになった。帰りは、ずっと激しい雨に見舞われ、140キロの道を2時間40分かけて家にたどり着いた。
97/5/18大コンペで、ドライバーが当たらず
箱根の千石ゴルフコース。42組参加する大コンペ。昨日に続いての連チャン。出だしのティーショットが、2発続けて大フック。ボールが左のOB線をかすめる。3打目でやっとまっすぐ飛ぶ。幸いにして、第一打が、セーフで救われたが、一日中ドライバーが不調で、スコアはままならず、結果を確認しないまま帰ってきたが、おそらく真ん中より後ろの順位だろう。練習をまったくやらないのだから、文句も言えない。バーディが一つ取れたのがせめてもの慰め。
45,50、ハンディキャップ15、ネット80。
97/5/17飛び賞(20/32位)とニアピン賞でなんとか格好がつく
八千代ゴルフコースでのコンペ。出だしから隣のコースに打ち込む始末で、前半が終わった時点で、せめてBB賞を免れることを目標にせざるを得ない、体たらく。後半はやや、ドライバーに当たりが出てきて、スコアを回復、幸運にも飛び賞の20位をいただく。谷越え150ヤードのショートホールで5アイアンでニアピン賞を獲得。オリンピックは、3枚持ちだし。
48,44、ハンディキャップ9、ネット83。
97/5/10最終3ホールで8オーバー、8/32位へ
酒匂ロイヤルでのコンペ。第15ホールまでは、ネットでほぼパープレイだったのが、16番、17番でダブルボギー。最終ホールでは何とダブルスコアの8をたたき、あえなく32人中8位へ。ラッキーセブン賞も、同スコアながらハンディキャップの上の人にとられ、谷越え打ち降ろしの難しいショートホール第15ホールのワンオン賞のみ。オリンピックは少々いただき。
46,50ハンディキャップ19。ネット77。
一月半ぶりのゴルフ。その間、まったくクラブに触れもしないでのラウンドなのだから、うまく行かないほうが当り前。
出かける前に、テレビでタイガー・ウッズのマスターズ三日目のラウンドを見たが、二位以下を大きく離しての独走体制。とにかくよく飛ばす上にパットが抜群にうまい。肩の回転が目に止まらないほど早い。
ウッズにあやかろうと、軸を固定して思いきり振ってみたけれど、なかなかうまくいかない。スコアは、まとまらないとなれば、オリンピックに専念するよりない。出だしは一番悪かったが、次第にポイントを重ね、結局銀1、銅3、鉄1で10ポイント。他が伸び悩んだこともあって、これでトップ、結局チョコレートを12枚いただくことができた。スコアは、52、52と散々。
今日の収穫は、アプローチの時にも、きちんと肩を回すこと。これまでは手のコックだけで打っていた。
翌日のウッズのパターを見ているとパターもちゃんと肩を回し、手首をまったくまげていない。要するのコックを、スイングのときもほとんど取らず、球を遠心力だけで打っているのだ。よし、今年はこの点に注意することにしよう。
TOP
約二か月ぶりのプレイ。レイクウッド。東コース、イン→アウト。このシーズンスキーで忙しくて、前回からスイング一回もしないまま、いきなりティーグラウンドへ。案の定大ダフり。前途を思いやられるスタートであったが、スコアは前半49、後半48。ま、止むを得ない。ただし、ベットは大いに稼いだ。
オリンピックは、最終ホールの最終パットでしぶとく「鉄」を決め。スラム達成。まず、前半で金、銅、後半で銀が出てリーチ。第16ホールで約50センチの横からのパットを外して、鉄を逃し、もう駄目かと思ったが、最終ロングホール、第3打はピンから約80ヤードの寄せ。すでに2メートルもないところにつけている人もいる。慎重になりすぎて、ソケットぎみに右のバンカーへ。ちょっと窪んだところに球があり、エイヤっと打つと球はグリーンを走り抜けて、反対側のバンカーへ。そこからピンまで15ヤード。グリーン側から1,5メートルにつけている人もいる。運を天に任せて打つと、スピンのかかったボールがころころころころとゆっくり下っていき、1.5メートルにある球を嘗めるようにしてほんのわずかピンに近く止まった。下りの1,3メートルほどのパットが残ったが、「鉄」の資格を獲得。ラインは1,5メートルの人(銅を獲得)がストレートであることを示してくれたので、20センチ前にあるスパット代わりの一点の上を通すことだけ考えてパット。これがやや左目からホールの縁を一回転してイン。本当に運良くスラム達成。そのほかにも、金をとったホールのバーディ賞。ドラコン賞(一つ)、ニアピン賞(繰越分を含め3つ)。それにスネーク(最後にスリーパットした人は、他の三人にチョコレートを上げなければならず、次のホールからは他の人が自分より後にスリーパットしてスネークが移らない限り、払い続けなければならない。したがってパット順は厳密に守らなければならない)は、全ホール成立したにもかかわらす、1ホール止りだったこと、お友達でも勝ち越したことなどが幸いして、スコアの割にはほくほくの一日だった。とは言え、いささか本道を離れたゴルフの楽しみかた。本筋に戻るためには、もう少し練習に精を出さなければと反省。
今年、初めてのラウンド。酒匂ロイヤル。アウト45、イン48。収穫は、ドライバーのヘッドをきかせて打てるようにすこしなったこと。パーも取れるのだけど、ショートでのダブルスコア、ロングでのトリプルなどがあってスコアがまとまらない。
天皇誕生日に、’96年最後のゴルフ。酒匂ロイヤル。飛距離はよく出たが、アプローチの勘が冴えず、スコアは、まあまあ。
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1998/7/25(土) | KAIGI | 阿部(6-5)S
T A |
阿部(6-4)I
H T2 |
阿部(6-4)T3
H2 O |
(コメント)朝起きると雨である。土も濡れている。念のためコートに電話を入れてみると、試合はあります、という返事。電車で行く。着いたのは、11時半。かんかん照りでないので、むしろテニス向きだが、結構暑い。第一試合は、Tさんと組んで、Sさん、Aさん組と。S、Aさんはわれわれペアより、かなり若い。試合は、相手がかなり粘り強く、0-2と先行されたが、追い付き、その後リードしては追い付かれて5-5。6ゲーム先取の、最後のゲームも30-30の接戦。それから2ポイント連取してかろうじての勝ち。
第二試合は、Hさんと組んで、これもわれわれより10年以上若いチーム。試合は、順調に滑り出し、今度は3-0とリードしたのだが、追い付かれ、その後4-3、4-4、5-4の展開で、最後はゼロゲームで相手のサービスを破って6-4の勝ち。 第三試合は、78才のH2さんと組んで、私より少し若いT2さん、Oさんチームと対戦。0-3、1-3、1-4とリードされ、苦しい展開だったが、そこから、粘って、走り回り、5ゲーム、ストレートに取って、6-4の大逆転勝利。相手ペアも信じられない面もち。これは、価値のある勝利で、今日の勝ち星3を加えて、S会の今年の対外戦の戦績は、5-4と一つだけだが、勝ち星が先行することになった。 終わって、シャワーを浴びようと、靴を脱ごうとしたら、今日も右足のふくらはぎが、痙攣。汗はびっしょり、顔は真っ赤に紅潮していた。2時間のうちに3試合、立て続けにやったので、かなりくたびれた。 家に帰りつかないうちに、また雨になり、夕刻からは、大雨。まことについていた。 |
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1998/7/23(木) |
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(コメント)朝まで大雨。雨に弱い明治神宮外苑テニスコートのことだから、とあまり期待せずに、夕刻、コートが使えるかと電話すると、やってますとの答え。すこし、雨に強くなったのかも知れない。
早速仕事の帰りに立ち寄った。まず、例によって、壁打の練習。バックのトップスピンと、このところ変調を来たしているサービスに重点をおいて練習。壁打の人の出入りは激しくて減ったり増えたり。一時間もやったころには、わたしとすぐ隣の若い女性の二人だけになった。見るともなしに見ていると、かなりストロークが安定しており、うまそうである。これなら、練習相手として、申し分なさそうだ。それに、最初に練習を始めるときにも、「隣でやってもよろしいですか」と声を掛け、礼儀も正しい人のようだ。 「打ちませんか」と声をかけると、「お相手していただけますか」とにっこり。 すぐ後ろにあいたコートがあったので、ラリーの練習。思った通りフォアも両手打のバックも安定しており、風上からのストロークはかなりくい込んでくる。 しばらくやって、シングルスの試合を申し込む。「シングルスはー」と遠慮していた彼女も、「練習の延長と思って気軽にやれば」という私の誘いにのって、やることになった。 聞くとテニスは一年ぶりだという。高校生の頃やったことがある。昨日コーチについてすこし習って、今日一人で練習に来た。大学を今年の春卒業して、また別の大学に入ったところで、最初の専攻が、英文学、今は歯学だという。 シングルスは、さすがに試合なれしていない分、スコアは私の6-1とすこし一方的になったが、内容は、なかなかのもので、イージーに勝てる相手ではない。バックのクロス、あるいはベースラインに深く伸びてくる球には手こずらされた。 試合終わって両者満足の態で、またの手合わせを願って別れた。彼女のイニシアルはN.I。話しても、面白く、爽やかないい感じの人だ。 わたしのHPのアドレスを教えたら、早速、見たとのメールをいただいた。これからもよろしくとの返事を差し上げたことだ。 |
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1998/7/4 | TOUDE | 阿部(4-6)S
K1 T |
阿部(6-1)I
K2 W |
阿部(6-0)S
N N |
(コメント)例年のことながら、この時期のこの対抗戦は暑い。今年は例年にも増して暑い日だった。
第一試合は、最初2-0とリードしながら、2-5と逆転され、3-5、4-5と追い縋り、デュースでなんどか5-5に追い付くチャンスはあったものの、競り負けて4-6で負けてしまった。2-5に追い込まれてからは、とにかく粘りに粘っていこうと、1ポイントとるにも、ラリーを10本も続けたので、試合が終わっても、体の火照りが治まらない。水道の蛇口に頭を突っ込んで5分も冷やしてやっと人心地が戻った。しばらく、出番を遠慮して、第2試合へ。 相手のバックサイドは、かつて早稲田の副将を努めたことがあるという。ストロークは確かに鋭いが、練習不足のせいか、ミスも多くて、6-1で勝ち。これが、今期の対外戦の初白星。このゲームはあまり疲れずに済んだので、もう一試合やる気になって、長年ペアを組んでいるNさんと組んで、第一試合でやられたSさん相手に、今度は6-0で楽勝。 試合後の懇親会の席で、まず、右足のふくらはぎが痙攣し、それを直そうと足を伸ばすと、太ももが痙攣する始末。右が治まると左が同じ症状を呈し、まったくぎりぎりまで足を酷使していたことに、気付いた。初めての経験。これが下腹部から心臓に昇ると心臓麻痺ということになるものらしい。おお怖。 |
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1998/5/9 | MITSU | 阿部(4-6)
T |
阿部(3-6)M
N W |
阿部(3-6)M
K |
(コメント)今年の対外戦の第一戦。今日は、もう少しのところで全部やられてしまった。ストロークもサービスも、もうひとつしっくり来ず、ずるずるとやられてしまった。 |
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1998/4/4 | 阿部(6-1)Ik
N |
阿部(4-6)Ko
N Ib |
阿部(6-1)Ka
N O |
(コメント)長年のペアで、この大会で六回優勝したことのあるNさんと組んで出場。前年の準優勝ということで一回戦はシード。準準決勝から登場。これには、勝ったが、次の準決勝で負けて、5年連続の決勝戦進出ならず。5-5になるチャンスがあったのだが、デュースにできる絶好のボレーを、わたしが凡ミスでサイドアウトし、負け。
準決勝で負けたチーム同士で戦った第三試合は勝って、せめてもの慰めにした。 |
1997/11/16Hクラブ秋の総会で最高殊勲賞を受賞
天気が心配されていたが、一日よく持った。この目白運動場、私の家から車で15分程度の至便な場所にあり、春秋の総会のときに使うのだが、春は桜の花びらが、秋は桜の紅葉した落ち葉がコートに折り敷く。今日も時折、落ち葉を掃き清めながらのプレイだった。
参加した42名が、4チームに別れての対抗戦、わたしはイエローズに属した。チームは、一戦目は勝ったが、二戦三戦には負けて一勝二敗。結局、三位になった。
個人としては、一戦目は6−3の勝ち。これは3オールで迎えた7ゲーム目、40−0とリードされながら、逆転したのが大きく、そのまま、一気に6−3まで突っ切ったもの。なかなか内容に富んだ熱戦で、試合後、観戦していたKさんが、「金の取れるマッチだった」と誉めてくれた。
第二戦目は、こちらの配球にほとんどミスがなく、6−0で勝ってしまった。みんなが6−0?と首を傾げた強いペアだったが、相手の力が出る前に勝ってしまったのだろう。
三戦目は、完敗だった。相手は強豪ペアであるのに加えて、こちらは、ミスの連続。先方には、ほとんどミスがなく、1−6の大差でやられてしまった。
さて、総会。恒例の今年の対外戦成績発表および賞状・賞品の授与式が行われ、わたしは26勝11敗(わたしの計算では28勝10敗)で、最多勝利を挙げ、男子の最高殊勲賞をいただいた。これで8年連続、同賞を頂いたことになる。今年の対外戦12試合のうち、出張と重なって出場できなかった一試合を除き11試合に出場。パートナーになってもらった人は22名だから、実に多くの人のお世話になっての殊勲賞である。
妻は8勝8敗で、敢闘賞をもらった。阿部家の勝利数は36勝で、総勝ち星の25%に相当する。
来年も、健康に留意してできるだけ多くの試合に参加しようと思う。
これまでのHクラブでの成績でわかる範囲のものを備忘のために、以下に記す。
1978(6勝3敗3分け)
1979(1敗2分け)
1979〜1981高松赴任
1983(10勝7敗)ダブルス優勝
1984(18勝5敗1分け)ダブルス優勝
1985(13勝5敗)ダブルス優勝・優秀賞
1986(17勝5敗)ダブルス優勝・優勝賞
1987(11勝11敗)
1988札幌赴任
1989(12勝7敗)
1990(14勝13敗)最高殊勲賞
1991(11勝14敗)最高殊勲賞
1992(30勝11敗)最高殊勲賞・皆勤賞
1993(19勝11敗1分け)最高殊勲賞
1994(27勝11敗)最高殊勲賞・模範選手賞
1995( )ダブルス優勝・最高殊勲賞
1996(28勝12敗)最高殊勲賞
1997(28勝10敗)最高殊勲賞
1997/10/25:Hクラブの今年度の対外戦の第十一戦(最終戦)、3勝0敗
今年の対外戦、最終戦である。
比較的歴史が浅い対抗戦で、今年で13回目になる。昨年は、都合で参加できなかったので、二年ぶりの出場である。
11時頃コートに到着すると、いきなり、夫婦でミックスをやってくれ、ということになった。
「奥さんと喧嘩しないでできますか」と旧知のOさんからの質問。「ええ、前回も組みました。少々ポジションを巡ってもめましたが」これで、パスしたようだ。
相手のSさんは、私と年次が同じ人で、これまで何回もやっている。攻撃的なフォア、バックはものすごくバックスピンをかける。結構うまい人である。ペアのWさんは新婚ほやほやという。大学時代やっていたとみえて、ストロークもボレーも鋭いものを持っている。苦戦を予想した。
Sさんのサービスで始まり、たちまち、40-15とリードされたが、そこから挽回し、デュースを繰り返したが、結局、わが方がブレークに成功。これが、心理面で大きかった。次の私のサービスをキープして2−0とリード。しかし、先方も粘って、2−2のタイスコアに戻されてしまった。しかし、今日は妻は、大変落ち着いていて、ストローク、ボレーから力みが取れ、Sさんの攻めをうまく切り返し、「奥さんはうまくなったなあ」とSさんに言わしめたほど。その後も、決して楽な展開ではなかったものの、立て続けに4ゲームを取り、結局は、6−2で勝ち。幸先のいい一勝を挙げた。
第二試合は、私の息子ぐらい若く、実際息子に良く似ているTさんと組んでの試合。相手ペアは私より少し年配の、なかなかシュアで安定感のある人たち。今日はTさんが、安定していて、これまで組んだときのようなばしっと決めるかと思うと、ばっしとネットにかけたり、バックオーバーしたりするプレーが影を潜め、ミスの少ないプレイぶり。結局、相手のミスより少なかったわれわれペアが2−0、2−1、4−1、4−2、6−2の展開で勝ち。
今年の最終戦の最終の試合。ということで、これまでもよくペアを組みHクラブで何度かダブルス戦で優勝したことのある同期生のNさんと組んで、先方の強豪ペア、Mさんと第一試合で対戦したSさんのペアに挑戦した。試合はデュースの連続でかなり、長期戦になった。粘ってMさんのサービスを破り、わたしがサービスをキープして、2−0、更にSさんのサービスを破って3−0.ここからは、3−1、3−2、4−2、5−2、5−3の展開。
第9ゲーム。Mさんのサービスになり、0−40に追い込んだものの、反撃に合い、デュースに持ち込まれてしまった。ここは勝負ところと、両者一歩も譲らず、取ったり取られたりでデュースを五六回繰り返した挙げ句、最後は相手のボールがサイドアウトしてゲームセット。
この試合が、今日の対抗戦の最終戦にもなった。
終わって、対抗戦の戦績を数えてみると、なんと18勝4敗の圧勝だった。かつてなかったことだ。相手のMチーム、今年は少し、年齢構成を上げ、こちらより、年齢的に高い組み合わせの試合が多かったためかもしれない。
これで、今年の対外戦は終わった。今年の私の総合成績は、
38戦28勝10敗。勝率は0.737となった。
テニスTOPへ
97/10/18:Hクラブの今年度の対外戦の第十戦、3勝1敗
この対抗戦も、もう30年以上も続いている。私は第一回からの参加者だ。荻窪の駅の近くにあったコートで、始まったのだが、数年前から、用賀の貸しコートで行われることになった。リストラの影響である。参加者の中には、第一回が始まった時には生まれていなかった人や、荻窪のコートも知らない人もいる。コートは二面しか使えないので、参加者は例年、割かし少ない。私もせいぜい二試合できればと思ってでかけた。出かける直前に妻も、昨年一試合しかできなかったので行きたくないとごね出した。結局行くことになったが、私は四試合、妻も三試合できて、満足の行く一日になった。天候も申し分なく、暖かく、風もなく絶好のテニス日和だった。
第一試合は、6年先輩と組んで、若いペアと対戦した。とにかく粘り合いの試合で、他のコートで、二試合終わってもまだ、続いていた。一ゲーム毎にデュースに次ぐデュースで、結果的には、われわれのペアが、6−3で勝ち。
第二試合は、私より6年若い人と組んで、これまたずっと若い人と対戦したが、試合慣れしたわれわれペアが、相手の強打をうまく封じて、勝ち。マッチポイントは、私の高々と上げたロブを、相手のフォアサイドが空振りしてひっくり返ってしまって決まるという、めったにないもの。
第三試合は、前回もくんだ22年先輩と組んで、相手ペアは一人は私と同年輩、もう一人は、20年も、若い人とのペアと対戦。3−1とリードされたがそこから盛り返して一気に4−3と逆転。優位に立ったが、そこから追いつかれ、追い越され、結局4−6で負けてしまった。しかし、平均年齢で言えば67歳のペアとしては、健闘したと言えるだろう。
第四試合は、ミックス戦。しかも、久しぶりに妻と組んでの一戦。相手は、第一試合で対戦した、Nさんと、20台後半の若い女性。妻は左効きなので、いつもバックサイドを取りたがるので、少々もめたが、私がバックサイドを取り、試合開始。妻も粘って、ミスも少なく、相手の力をうまく封じることができて、6−0の完勝。
チームとしても9勝5敗で、勝ち。9勝のうち、5勝にわれわれ夫婦が貢献したことになった。
今日の4戦3勝1敗で、Hクラブでの今年の対外戦の戦績は25勝−10敗(勝率0.714)となった。
毎年、体育の日はこの定期戦と決まっている。花小金井駅で降りてコートまで歩く道に、大きなかりんが植わっていて、今年もたわわに実を稔らせていた。
そこで、一首。
第一試合:withHさん(S16)(6-4)Kさん(S37)・Sさん(S47)
第二試合:withNさん(S38)(6−0)Yさん(S38)・Kさん
(S46)
第三試合:withTさん(H6)(6-3)K2さん(S49)・K3さん(H2)
第四試合 :withK4さん(S44)(3−6)K3さん(H2)・Mさん(H9)
今日の3戦3勝0敗で、Hクラブでの今年の対外戦の戦績は19-8となった。
第一試合:withMさん(6-1)Sさん・Mさん
第二試合:withKさん(4-6)Sさん・S3さん
第三試合:withAさん(6-4)Nさん・Mさん
今日の3戦2勝1敗で、Hクラブでの今年の対外戦の戦績は16-8となった。
第一試合:withHさん(6-1)Jさん・Nさん
第二試合:withSさん(4-6)S2さん・Kさん
第三試合:withTさん (6-4)K2さん・T2さん
東京地方は今年の最高気温を記録した。越谷では40.2。7月に40度を超えたのは64年振りという。いつもこの定期戦は、猛暑のなかで戦われる。熱射病で、相手側T社の最高幹部が倒れたこともある。まだ、十年に満たない定期戦だが、わたしは、ほとんど参加している。一回戦は、こちら側のコンビネーションがうまく噛み合って6-2で、楽勝。二回戦は、初めてMさんと組んでの試合だったが、もうすこしうまいかと思っていたMさんが、イージーボールをひっぱたいては、大きくバックアウトするような試合振りの人で、さすが粘りを身上とするわたしも粘りようがなく、0-6の惨敗。あまりこんな負けをした記憶がない。最後は当方のエースのM2さんと、相手もエースのKさんとFさんのペアに挑戦。2-2からのながいデュースを制して3-2、それから5-2まで一気に走り、最後は6-3で勝ち、今日は、2-1。チームとしては、15-15のタイ。
今日の3戦2勝1敗で、Hクラブでの今年の対外戦の戦績は14-7となった。
第一試合:withKさん(6-2)Iさん・Hさん
第二試合:withMさん(0-6)Yさん・Fさん
第三試合:withM2ん(6-3)F2さん・K2さん
今日の相手のS社とは、9年前から対抗戦をやっている。顔なじみも多い。なかなかの強豪が揃っているので、私が着いた時点では、一勝のみで5敗の戦績。
第一試合は、私より10歳若いSさんと組んで、大学時代にテニス部のキャプテンを勤め、いまもって老練で手堅く、なかなか勝たしてくれないIさんのペアにチャレンジ。Iさんは年間70回はテニスをやり、ゴルフも50回以上やるという。
試合はまったくのシーソーゲームになったが、4-4から、Iさんのサービスを破ったのが大きく、結局6-4で、貴重な(チームとしての)3勝目を上げることができた。
第二試合は、若手のM(30過ぎ)さんと組んで、N(私と同じ世代)さん、K(平成5年組み)さんペアと戦ったもの。これもシーソーゲームで、4-4から4-5とリードされ、しかも、40-15と、二つのマッチポイントをとられてしまった。相手のスマッシュを必死に拾いまくってなんとか5-5に持ち込み6-5とリードされたのも6-6に追いすがり、タイブレークへ。4-2とリードしたのもつかのま、4-6と逆転されて、相手側に二つのマッチポイント。またしても絶体絶命のピンチ。何度決められたかと思うようなショットをかいくぐり、6-6に追い付き、バックコートいっぱいの難球をなんとか返して、今度は7-6とリード。最後は相手のストロークが大きくバックラインを超え、ついに勝利。夏のように暑く、汗が吹き上げるようななかでの、大熱戦に嬉しい終止符を打てたのだった。チーム対抗戦では、5勝16敗。前回に引続いての大敗に終わった。
私は、今日は2戦2勝で、Hクラブでの今年の対外戦の戦績は12-6となった。
懇親会のあと、旧知の男性ペアを相手に、妻とのペアで対抗、6-3、4-6、6-4で価値ある勝利を上げることができた。
97/6/13:Hクラブの今年度の対外戦の第四戦:2勝2敗
これも伝統の一戦、対M社戦。昭和39年以来続いていて、その当時からの顔馴染みの人が大勢出るのでかかせない。全日本で優勝したり、高校時代にテニス名門高のNo.2だったり、大学でテニス部の主将だったりする人が、ずらりと並んでいる。対向戦が始まったころ、軟式テニスから硬式テニスに転向したばかりの私はよく教えてもらったものである。
今日はそのオール・オールド・スター・キャスト勢揃いで、途中道が混み、私と妻が、11時40分にコートに到着した時点では、ゼロ勝8敗。私が組んだペアが、勝ってやっと片目が開いたものの、両目が開くまで、またかなりかかって、結局5勝23敗の大惨敗。私は2勝2敗、妻が2勝0敗で、夫婦で、5勝利のうち、4勝利を上げた。勝因は、遅れて行ったため、相手が、勝ちすぎないように配慮してくれたのかも。
実は、最後の一戦(四戦目)は、それこそ、最後の試合になって、同期のNさんと組んで、われわれが、よく教えてもらったOさん、Kさんを名指しで、挑んだのだったが、われわれペアが4-1でリードした時点で、懇親会の集合の号令がかかったので、好意からのタオルを投げてもらもので、正確にカウントすれば、0.5勝といったところ。少々割り引かなければならないのである。
今期のHクラブの対外戦でのわたしの成績は、これで10(9.5?)-6。
第一試合:withTさん(6-0)Mさん・Tさん
第二試合:withNさん(5-6)Kさん・T2さん
第三試合:withOん(3-6)Mさん・Sさん
第四試合:withNさん(4-1)Oさん・Kさん
97/6/7:Hクラブの今年度の対外戦の第三戦:3勝1敗
今日は同期会のゴルフ・コンペの日でもあったが、伝統の対T社戦ということで、こちらを優先した。ところが、天気予報では、いかにも降りそうなことを言っていたので、選択を間違えたかなと心配していた。明けてみると、五月晴れのいい天気で、テニスにはもってこいの日和になった。コートは、朝日生命コートのすぐ近く、サーフェスはオムニ。なかなかいい感じのコートである。きょうも四試合したが、ハイライトは第四試合。相手チームのナンバーワンペアを相手に6-4で殊勲の一勝。これが、利いてチームも11勝10敗で優勝できた。相手ペアのHさんは、T社ではシングルス11連覇の人。もう一人のさんもそれに劣らぬ若手の強豪。二人ともものすごいサービスで、最初はリターンがネットを超さないような感じだった。まったく、これ以外の展開では勝ちようがないといった展開になり、運よく勝つことができた。
今期のHクラブの対外戦でのわたしの成績は、これで8-4。
第一試合:withYさん(+3)(6-3)Kさん(0)・Y2さん(+3)
第二試合:withTさん(+20)(6-3)K2さん(-6)・Iさん(-20)
第三試合:withMさん(-21)(5-6)Nさん(-5)・Mさん(-32)
第四試合:withMさん(-21)(6-4)Hさん(-17)・Sさん(-29)
注)( )内は、年齢。私が0で、-6とあるのは、わたしより6歳若い意味。
97/5/31:Hクラブの今年度の対外戦の第二戦:3勝1敗
天気予報では、今日は雨。雨天中止かと思っていたら、雨はまったく降らず、テニスには絶好の薄曇り、無風の日になった。今回は、井の頭公園のすぐ隣のコート。
第一試合:withNさん(0)(2-6)Iさん(-1)・Tさん(-5)
第二試合:withNさん(0)(6-3)I2さん(-6)・T2さん(-12)
第三試合:withKさん(-6)(6-3)I2さん(-6)・Mさん(-7)
第四試合:withM2さん(-23)(6-2)Sさん(-32)・S2さん(-32)
注)( )内は、年齢。私が0で、-6とあるのは、わたしより6歳若い意味。
97/5/11:Hクラブの今年度の対外戦の第一戦、2勝2敗
場所は、多摩霊園の近く、高速道路を飛ばして行ったので10時からの開会式に間に合った。30年以上も続いている伝統の一戦で、最高年齢者は、86歳。一番若い人とは60歳も開きがある。わたしは、4試合に出場し、2勝2敗。まあまあのスタート。懇親会のあともコートに戻って、なじみの人と、さらに3試合。最後の試合は、妻と組んで、ミックス。年齢的には、半分しかない相手ペアに、粘りに粘って、6-4の逆転勝ち。最終戦ながら、思わず、力が入ってしまった。昨日は一日ゴルフで、今日は7セット、少々やりすぎたようで、帰りに、車の運転をしようとアクセルを踏んだら、右の大腿が痛くて弱った。軽い肉離れのようだ。
97/5/2明治神宮外苑へ
先週も、勤務の後、明治神宮外苑に行ったら、同じHクラブコート青木さんが来ていて、一緒に練習したのだったが、今日も来ていたので、まずラリーの練習をし、隣のコートにいた人(手塚さん、塚田さん)をつかまえて、ダブルス戦をやった。その試合は6-1.6-2で勝った。コンビネーションがいいが、どこかの試合に出ているのかと聞かれた。手塚さんは奥さんが、もっとうまくて、一緒にペアを組むといつも喧嘩になるという。いずこも同じだ。
97/4/12Hテニスクラブ、ダブルス戦で準優勝。6年連続の年間最高殊勲賞を受賞
このところ、土日になれば雨、の悪循環がつづいたが、12日は、久しぶりの晴れの週末。私の前の職場のテニスクラブである、Hテニスクラブの春の総会が催された。
さて、当日は、よく晴れ上がったが、テニスには禁物の風の強い日だった。いつものクレーコートの会場が取れず、慣れないハードコートでの試合になった。膝をスキーで痛めているので、苦手なのだ。
一回戦は、昨年の準優勝チームということでシード。二回戦は、6-0、三回戦は6-4と順調に勝ち上がり、いよいよ決勝となった。
わたしのペアは、すでに30年以上もペアを組んでいて、これまでこのペアで5回も優勝したことのある、気心のよくわかった同期のNさん。対する相手は、われわれより、かなり若い20台と40台のペア。
この若手チームを相手に、わがチームもよく戦い、デュースの連続だったのだが、いま一つ決め手を欠き、結果的には、3-6で敗北。昨年に引き続き準優勝に止まることになった。
その後行われた総会の席上で、昨年の対外戦の結果が発表され、13試合中11試合参加して28勝12敗で年間最多勝利を上げたと言うことで最高殊勲賞をいただいた。この賞をこれで6年連続いただいている。
もうそろそろ春のシーズンが始まる。わたしの入っているクラブでは、春の総会のダブルス選手権があるし、対外戦もある。考えて見ると、ラケットを一月半も振っていない。調整をしておかなければ、出遅れてしまいかねない。ということで、夕方、6時半、久しぶりに明治神宮外苑のコートに出かけた。
壁打でもしようかと、一番奥にある壁のところに行ったら、なんと幸運にも、いつもラリーの相手をするoさんが、待ちかねていたかのように寄って来て、
「ずいぶん久しぶりですね、打ちませんか」
という。準備運動もそこそこにさっそくラリーの練習開始。oさんに確かめると、相変わらず、週に二回コンスタントに来て、練習しているらしい。40歳台の世田谷区のシングルスの大会でもいいところまで行った,毎日トーナメントにも出ているという熱心な人だ。はじめて会ったのは半年ほど前のことだが、練習の成果が現われて確実性が増して来ているように思える。特にバックストローク。
シングルスをやったが、最初の气Qーム、0さんのサービスを破ったのは良かったが、その後は、肝心なところでミスを連発して、ストレートに6ゲーム取られて負け、久しぶりのテニスで、しょうしょう足が心もとなくなって、庇っているうちに、二ゲーム目はゼロ封されてしまった。
バックで、トップスピンの球に安定性がないため、追い込まれると、スライスボールで逃げようとする。すると、球が弱くなって、ウイニングショットを打たれてしまう。今後の懸案はバックのトップスピンの安定性を高めることと、スライスをもう少しフラット目に打って球威を高めること、それに何よりも、もう少し練習回数を増やすこと。わたしより十以上も若いoさんが、これほど練習しているのに、1月半に一回の練習では、引き離されるばかりだ。
でも、久しぶりのテニスは、汗をびっしょりかきとても大変気持ちよかった。やはり、テニスはいい。
97/1/20:今年は、まだコートに立っていないが、テニス歴は45年に達する、テニス大好き人間。はやくやりたいなあ。
97/1/29:今年初めて、テニス。夜の6時半ごろから、明治神宮外苑で。壁打ちから始めて、同じ壁打ちをしていた小川さんに声をかけて打ってもらった。小川さんは、私より少し年配の感じだが、とても安定していてうまい人。小川さんのガットが切れたので、その後は、一人で、サービスの練習。
その夜、友人のKさんから電話があり、「今日、東レパンパシフィックテニス大会で、全豪で優勝したヒンギスに残念ながら負けたけれど、世界ランキング54位のグロリア・ピッツキーニと明日の夜、テニスをやる企画があるけれどどう」との誘いあり。二つ返事でもちろんok.
97/1/30:グロリア・ピッツキーニは、小柄だけど、さすが世界のランキング選手だけのことがあり、球は早いし、守備範囲が広く、お相手をしてもらった50歳台のおじさん3人はまったく歯がたたなかった。それでも、ゼロ封は免れて、彼女のボレーを決め返すプレーも飛び出すなど、結構楽しいマッチだった。彼女は、少しもすれたところのない好感の持てる21歳のイタリア女性。マッチ後、彼女を試合に誘ったイタリア人のVさんの邸に招かれて、奥様手作りのイタリア料理に舌鼓を打ちながら、よも山話しに花を咲かせたことだった。彼女の名前に掛けて、Kさんがグローリアスな夜と言ったが、まさしくその通りの夜であった。