昨年(1991年)の十一月下旬から十二月上旬にかけて丁度二週間、米欧へ産業廃棄物関係の調査 に出掛けた。最初の訪問地はシカゴだった。到着したのが、日曜日の朝だったせいもあ って、空港では、タクシーがなかなかつかまらず、やっとつかまえたら今度は、タクシ ーのトランクに同行四人分のスーツケースが閉じ込められ、交通警察のハンマーでやっ と開けてもらうというハプニングもあり、空港からわずか七ドルの所にあるホテルに午 前中かけて着いた。午後は、四人揃って、都心の四百メートルもあるシアーズ・ビルの 展望台から、小雪の舞うアメリカ第二の大都市を見下ろしたり、シカゴ美術館でおびた だしい美術品を駆け足で見て回ったりして過ごした。
訪米第一夜の夕食は、シーフード にしようというので、JALの案内書を頼りに老舗のシーフード・レストランへ向かっ た。気温が零下五度の中を、不正確な地図に惑わされ、行き過ぎたり引き返したりして 、ドレーク・ホテルの中にあるその店にたどりついた時には体はすっかり冷えきってい た。
店内は、船室のような作りで、ランプの灯で薄暗い。ウエイターはいかにも年季が 入った感じの、きさくでユーモアのあるいい人ばかり。雰囲気は最高だ。メニューを見 るとスープの欄に、シーフード・ガンボと書かれている。一度は本場で食べたいと願望 していたガンボに訪米初日にめぐり合えたのだ。早速注文したのは、いうまでもない。
実は、ガンボには懐かしい思い出がある。四年前ニューオーリンズへ行ったとき、例 によって土地のスパイスをいろいろ買って帰った。そのなかにガンボ用のものが混じっ ていた。ガンボなるものを食べたこともなく、名前もそのとき初めて知ったのだが、シ ーフードなどによく合うので、自分で料理するときはもちろん、家内のつくった料理に もかけて食べ、味は気に入っていた。読んだ本のなかにも、ガンボに触れたものが二三 あって、ますます興味と食欲をそそられ、本場で一度でいいから食べてみたいと思って いたのである。
軽妙なタッチの推理小説で知られるエルモア・レナードの「ラブラバ」(鷺村達也訳 早川書房)には、食欲を刺激せずにはおかないこんな会話が出てくる。探偵役のカメ ラマン、ラブラバに対して、老写真家でホテルの経営者であるモーリス老人がガンボを 作ってやりながら、言うセリフである。 「いい匂いだろう?今夜のご馳走はオクラのシチュー、ガンボだ。もっとかき回さな くちゃならんから、飲物はきみが作ってくれ」(三九六頁)
「ちょっと味わってみな。 これぞ本物のクリオール・ガンボだ。ルイジアザ州のグレトナー出身のご婦人からレシ ピーを教わったんだ。彼女の名前はタディといって、体重はたった三十七キロ、鼻眼鏡 をかけたかわいい女だったが、ガンボ作りの腕前は世界一だったね。それに惚れて、わ しはあわや結婚というところまでいったんだが...」(三九七頁)
「普通わしはかに をいれるだ、小えびと一緒にな。だが今日は、かにの気に入ったのがマーケットになか ったから、代わりにかきを入れた。かきもいいもんだよ。チキンを入れてもいいがね。 ガンボをうまく作るこつは、オクラの調理法にあるんだ。炒めるときに手早くして、か き回す手を絶対に休めないこと。ルーを入れてからも、途中でやめないで、茶色になる までかき回しつづけることだ。聞いてるか、おい?」(三九八頁)
出てきたのは、文字通り茶色のこってりしたシチューだった。かにやあさりなどいっ ぱい具が入っている。アメリカのオクラはとてつもなくでかいが、香ばしい匂いは、あ のオクラが、絶え間なくかき回されたお蔭だろうか。スプーンにすくって、一口食べて みる。他でもないあの懐かしいスパイスの味がするのだ。ピリっとペパーが利いて美味 い。この店のコックが女性なら結婚してもいい味だ。もう、夢中でスプーンを口に運ん だ。
ビールは土地もののオールド・スタイル、ワインは、一度訪ねたことがあるシアトル のシャトー・セント・ミカエルのものにした。メイン料理としてアラスカのキング・ク ラブ(たらば蟹)を頼んだら、びっしり肉の詰まったあしが、大皿に山盛り一杯出てき た。おいしいのでこれまた夢中になって食べたものの、いくら食べても片づかず、同行 の若い人の助けを借りた。デザートのライムのシャーベットも特大で、とにかくお腹一 杯食べて飲んで、四人分で三百ドル弱、一人一万円もしない勘定だ。帰りに、アンディ ズという店で、生演奏のシカゴ・ジャズを楽しみ、すっかり満足の体でホテルに舞い戻 り、訪米第一夜は、願望成就の安らかな眠りに就いたのだった。(時評1992年4月号)
その日は、セントルイスから南へ、ひたすら車で走ることになっていた。シカゴを振 出の廃棄物再資源化調査旅行の次の目当ては、アメリカのほぼ中央部、イリノイ州の片 田舎ローズモンドにある廃タイヤ処理工場の視察だったからである。
セントルイスでは、わずか三年前に建てられたというのに、まるで前世紀の中頃に建 てられたかのようなクラシックで豪華なホテルに一泊した。翌朝は見事に晴れ上がり、 十一月も終わりに近かったが、零下五度のシカゴに比べると春のようだった。私の一行 四人に日本からの別の一行を加えた総勢八人は案内役で少壮経営者のコンビであるジョ ージとミス・ローラの運転する特大の乗用車にピクニック気分で乗り込んだ。セントル イスの中心部を抜ける時には、大リーグの名門チーム、カージナルスが本拠とするブッ シュ記念球場や高さ百八十メートルもあるステンレス製のアーチ、バドワイザービール の本社工場、数多い教会の尖塔、大河ミシシッピーの河港などを車から物珍しげに眺め たのだったが、郊外に出ると景色は一変し、牛馬ののどかな放牧風景になった。
ところ が行けども行けども同じようななだらかな丘陵地帯が続くのだ。その中をまた果てし無 く真っ直ぐなハイウェイが伸びている。「ドーロは続くぅーよ、どこまでもー」ついつ い替歌でも歌いたくなってくる。走るにつれて、車数も減り、道幅も四車線から、最後 は二車線になった。
こんな所を一人で運転していたらたちまち眠気を催してしまうだろう。と思っている と、そこはよくしたもので、さすが車王国らしい工夫が施されているのだった。正面衝 突を避けるためにかなり広い中央帯が設けられているのは当然として、道の中央部が盛 り上げられており、ハンドルがおろそかになると、車は自然に路肩に出る仕掛けになっ ている。路肩には砂利が敷いてあって、スピードは落ちる、ザザザザという音はする。 居眠りしていても、大抵の人は目が覚めるらしい。目が覚めなければ、どうなるか。牧 場に突っ込むか、到る所に顔を出している岩盤に激突してそのまま永久に目が覚めない ことになる。
工場を見る前に昼食を済ませようということになって、連れていかれたのが、HOM E OF THROWED ROLLSと看板の出た、田舎風平屋造りのキャフェ・ラ ンバートだった。入ってすぐの板壁一面、夥しい数の名刺がピンで止めてある。これま で食事に来た人全員分に違いない。インディアン人形や、ビール樽などが所狭しと置か れている中を縫って、木造りの大きなテーブルとベンチが幾つもある食堂に出る。天井 からは「翼よあれがパリの灯だ」のTHE SPIRIT OF ST.LOUIS号 を始めとする様々な飛行機や熱風船の模型がぶら下がっている。壁という壁はマリリン ・モンロー、ジェームス・ディーン、エルビス・プレスリー、ジョン・ウェイン、映画 「風と共に去りぬ」のポスターや星条旗を始めとする各国の旗で占められている。
私はトニック・ウォターとラムのリブ・ステーキを注文したのだが、飲物はやたらに 大きな青いジョッキで、木琴のようなリブステーキと、突き合わせに頼んだホワイト・ ビーンズやベィビー・キャロット(人参)は大きな皿の一緒盛りで出てきた。 さて、パンはと思って辺りを見回すと、テーブルの間を歩き回っているピンクの野球 帽のお兄さんと、パッと目が合った。といきなり、目の前にぶらざげていた駕籠の中か ら、ソフトボール大の物を掴んで、ピューッと投げて寄越すのだ。思わず、両手で受け 止めるとこれがなんと焼きたての温かいロールパンなのだ。
見ていると、絶妙のコントロールで、一人一人の客にロールパンを投げているのだ。 なるほど、これが「ロールパン投げのホーム」の解だったのか。ここで言うホームには 、本家、本元、発祥地の意味が込められている。壁に当店特製ミス・エラ手作りの世界 最大、世界最良のシナモン・ロールパンをどうぞと大書してある。なかなかいける。一 行のうちには、お兄さんと、思わず目を合わせてしまって、もう一つ余計にロールパン を配給(球?)され、ふうふう言っている人がいる。これでは迂闊に顔を上げるわけに も行かない。
テーブルの間を巡り歩いているのは、パン投げのお兄さんだけではない 。赤い蝶ネクタイのおじさんやおばさんもぐるぐると歩き回り、キャベツの塩漬け、甘 味赤トウガラシのソース、オクラのフライはいかがと、熱心に勧めているのだ。 店主は、大柄な体を白い割烹着に包んだ赤ら顔の中年男で、気軽に客と言葉を交わた り、一緒に写真に収まったりしている。店は近隣の農民らしい素朴な感じの客で溢れて おり、かなり賑やかだ。入口には、入りきれずに待っている人の列さえ出来ている。 結局、量が多すぎて、木琴も半分近く残してしまった。
でもすっかり愉快になって出 口に向かうと、そこに、店主の二一才で若死にした息子への追悼文が掲げられていた。 行く行くはこの店を継がせたいと思っていたに違いない。写真を見ると確かに若い。人 の良さそうなところが店主に似ている。きっと孝行息子で店の手伝いもよくしたのだろ う。
外に出ると、車以外には一人として歩く人のいない、相変わらず静かな田舎の昼下が りだった。歩くのは、犬にも劣るとして誰も歩かないせいでもあるのだろうが。
所期の視察を無事終え、帰路についたのが日没少し前、その夜ワシントンへ入るため には、八時過ぎの飛行機に乗らなければならない。例のハイウェイを、ミス・ローラま でもが、時速百マイルに近いスピードで飛ばしてくれたお蔭で、なんとか間に合った。 機上からのセントルイスの夜景は、きらめくように美しく、もう幾分懐かしさを帯び始 めていた。
(時評1992年5月号)
その日の調査が終わったあと、Nさんがアナポリスを案内してくれるという。アナポ リスといえば、知っているのは、海軍士官学校があることぐらい。首都からそんな近い 所にあることも知らなかった。予期しないところへ行けるのも旅の余得である。それに 海外で生き生きと暮らしている人の案内は面白いに決まっている。連れていって貰える レストランの食事も例外なしに美味い。その一端は昼の中華料理店で既に承知している 。密かな期待に胸を膨らませながら車に乗ったのだが、その期待は裏切られなかった。
アナポリスに着いた頃には既に日没が迫っており、海軍士官学校も夕焼けの中で広い 構内を一周した。ヨーロッパの古い小都市を思わせる町並みや照明で闇の中にくっきり と浮かび上がった市の議事堂を見たあと、案内してもらったのは、目抜き通りに面した シーフード・レストランだった。二階建てで、中は庶民的な雰囲気が溢れていた。
メニューはNさんにお任せである。生のカキとアサリを肴に、大ジョッキでビールを グゥッとあおったあと、出てきたのは、一ダースもの赤く茹で上がったワタリガニだっ た。アナポリスが面しているチェサピーク湾で取れたものだという。そう聞いた途端、 なにか懐かしい言葉を聞いた時のような反応が私の心の中に起きた。 「チェサピーク湾?」「チェサピーク湾のワタリガニ?」
チェサピーク湾やワタリガニについてなにか知っているという感覚が何処かにあるの だ。でも結局思い出せなかった。ただ、どこで仕入れたか判然としないものの、チェサ ピーク湾が奥の深い大きな湾であることを思いついたので、さぐりを入れる意味でそれ を話題にすると、この湾がトム・クランシーの傑作小説『レッド・オクトーバーを追え 』の中で拉致したソ連の原子力潜水艦を連れ込んだ米海軍基地を湾内に擁していること にまで話は及んだ。クランシーを読んだために懐かしいのだろうか。どうも違う気がす るのだ。
ウエイターがテーブルを一枚の大きな厚紙で覆い、各人に、木槌とプラスチックのナ イフとを配った。紙のうえにじかにカニを置き、叩き切って食べるのらしい。ただ、ワ タリガニの食べ方なら子供の頃から習熟している。
多比良ガネは、私のふるさと島原の 名物で、有明海の底を渡り歩いているワタリガニに主な水揚げ港多比良の名を被せてそ う呼ぶのである。今は病床にある母がグラグラと煮立った湯の中に獲り立てのガネを入 れ、茹で上げてくれるのを待ち構えていて、へこ(胸部)をとり、つ(甲羅)を外し、 両断して、脚を切り離し、あっさりした酢醤油で食べたものだ。
アナポリスのカニはス パイスで十分に味が付けてあった。味噌もたっぷりだ。ビニールのエプロン姿の大の男 五人が、杯も忘れて夢中になって身をほじくる。隣の席の陽気なヤンキー娘が、一緒に 写真を撮ろうとやって来る。わたしは、右手に木槌、左手にワタリガニをぶら下げて写 真に収まった。
すっかり満腹して、一緒に注文したラムのリブステーキを入れる余地がなくなり、翌 日からの感謝祭の休暇にニューヨークに車で出掛けるNさんの弁当に転用することにな った。さて、料金は?なんと全部で八千円少々という。一人前ではない、五人の男が飲 んで食っての話なのだ。それを聞くと、奢ってくれたSさんに大散財をかけずに済んだ ことも手伝ってか、ワタリガニがそんじょそこらにないほど美味いとの思いがますます 高じて来た。
帰国後も、何となくチェサピーク湾とワタリガニが気にかかっていた。 二月もたって、ジョン・バースの『金曜日の本』(筑摩書房)を読んだせいであること に気付いた。この小文を書くに当たり念のために確かめてみると、巻頭にチェサピーク 湾の全図がちゃんと載っていた。著者の生まれたのが湾岸の「カニとカキの獲れる町」 東ケンブリッジ市で、今もその近辺に住んでいるということで、本の随所にチェサピー ク湾が顔を出していた。
しかも、読み差しの栞が二七〇頁に挟まれており、それは「小説と、小説の歴史と、チェサピーク湾のワタリガニ、もしくは、ついてについて 」という長たらしい題名のエッセイの半ばなのだった。本を買ったのが一九八九年の一 二月で、そのエッセイのすぐ前の文を、その月の二八日に読了したという書き込みがあ ることからして、同じ時期に読み掛けにしたらしい。それでも、ワタリガニはしぶとく 私の記憶の底を渡り歩いていたのだ。
そのエッセイの元は、著者の故郷ドーチェス ター郡歴史協会の冬の晩餐会での口演である。全文読んでみると、五種類のワタリガニ 、即ち剥製にしたチェサピーク湾のワタリガニ、『ナショナル・ジオグラフィック』誌 の挿画のワタリガニ、同誌の「ワタリガニ−『巨大な蛋白質工場』の主要歯車」の広告 の中のペン画のワタリガニ、土産物店で買った金メッキのタイ・タックのカニ、レンブ ラントの描く「カニ」を比喩に用いて、歴史文書、歴史、歴史小説、通俗小説と偉大な 文学の違いを巧みに解きあかしているのだ。
チェサピーク湾のワタリガニは、そんじょ そこらのカニとは違い、現代アメリカ文学の巨匠の文学理念をシンボライズする立派な 役割を果たしていたのだ。ここに至ってはじめて、チェサピーク湾のワタリガニの味が そんじょそこらのものと違っていた謎が解け、はたと膝を打ったのである。それに、私 が、今回、この高級なエッセイをよく消化でき、よく味わえたのも、チェサピーク湾の 本物のワタリガニを食べていたからに相違なかった。
(時評1992年6月号)
ホテルは、パリのど真ん中オペラ座のすぐ近くだったので、夜の食事は、近くの目抜 き通りの角地にあるレストランへ歩いて行った。室内は、アール・ヌーボー調の装飾で 、華やいだ雰囲気だ。客の入りもいい。大きなガラス越しに街を行き交う人々が見える 。
席に着くか着かぬうちに、なんと、大学時代のクラスメートが奥さんを引き連れて入 ってきた。世界も狭くなったものだ。結婚二十五周年記念で来たのだという。彼とは結 婚した日が全く同じなのだ。同じシルバー婚記念といっても東京のレストランで済まし たわが家に比べ、豪勢なものである。東京に帰ってもこの話は家内にはすべきではない だろう。
オードブルはシーフードの盛り合わせにした。四人いたので四人分頼んだが 、フランス料理のボリュームを頭に入れておくべきであった。日本人の尺度では、オー ドブルと言えば、殻付きの生カキなら大皿にせいぜい半ダース程度のものが出てくるも のと思ってしまう。それで値段は結構張るのである。
ところがどっこい、ここはフラン スだった。まず、真鍮のパイプ製の二段の鉢置きのようなものがテーブルの中央にどか んと据えられた。何事かと訝っていると、一抱えもする大きな皿が、二つ運ばれて来、 この真鍮の丸い輪の上にどんと置かれた。それぞれの皿には、細かく砕かれた氷の上に 実に様々なシーフードが小山状にびっしり盛りつけられている。上の段に置かれた皿は 高すぎて、首を伸ばしても、全体が見渡せない。全体を見るには立ち上がらざるを得な いのだ。
我々は必死になって食べた。生のカキ、クラム、ムール貝、カニ、大小の巻き貝、エ ビ。食べても食べても下の小山すら容易に片づかない。やっとのこと下の山を征服にす ると、ボーイがやって来て上の段の皿と入れ換えてくれた。まったく同じボリュームの シーフードがこんもりと小山を形成している。再び頂上踏破をめざして悪戦苦闘を開始 した。
御馳走の皿をテーブルいっぱい並べても、並べきれなかったらどうするか。おそらく 日本人は、テーブルやお膳を継ぎ足す。あるいは前の皿が終わってから次のを持ってく る。まさか伸び上がっても見えないほど高く立体重ねすることまで発想は飛躍すまい。 重箱は立体的だが本来保存用で、規模は極めて小さい。レストランの配膳に使うことは まずない。
先にも後にも、立体重ねで供されたのは初めてだったが、これはフランスでなら何処 に行っても見られることなのだろうか。しかし、こういう発想が出来るというのも、下 地があってのことだ。食べ物の供し方一つにも、その国の空間感覚が反映していると考 えてよい。
うまいフランス・ワインに酔った勢いで、パリと東京の都市構造の比較に応 用出来ないだろうかとまで思案を発展させた。
スペースが不足すると日本人は横に広げ、フランス人は縦に広げ(?)る。その結果 、日本の都市は東京のように限りなく横に広がり、スプロールし、都市としての機能が 麻痺するところまで行ってしまう。お皿さえ二段重ねするフランスでは、スペースが足 りなければ建物も重ねてしまう。これには地震がないので可能だった面もあるに違いな いが、スペースを立体的にとらえる感覚が身についていたせいもあったろう。パリの人 口密度は東京より高いのである。それでも都市美とか都市機能の点では、東京を数段上 回っているように思える。東京が、住みにくいのは、決して土地が狭いだけが理由では ない。
隣の席では、姪と叔母の二人連れが、大いにお喋りし、大いに食べている。姪はパリ で働いており、叔母はアビニオンから上京してきたという。どちらも小柄だったが、ち ゃんとデザートの大きなケーキまでぺろりと平らげ、われわれに「いい旅行を」と挨拶 して出ていった。男四人連れで廃タイヤや廃プラスチックの再資源化の調査に来たこと を説明したのだが何処まで理解してくれたことだろう。
われわれは、メイン・ディッシュはなおざりに済まし、デザートのケーキ等には見向 きもせず、数刻後、満腹のお腹を抱え、すこし冷え込んできた夜の街へさまよい出た。
(時評1992年7月号)
土曜日の午後だ ったせいで座席も七分程度埋まっていた。バスは中年の男女二人のガイド付きだった。 女性の方はいかにもプロらしく、茶系統の中間色を巧みに組み合わせたシックな服を身 に着け、英語でテキパキと案内する。客が質問すると、その言語に合わせて仏、英、伊 、西語で当意即妙に答える。男性の方は日本人で、服装からしてややだらりとして素人 っぽく、もちろん日本語で案内したが、どことなくピンボケの感じがした。日本語専門 のガイドが付くのも日本人観光客が多いからに違いない。
ガイドの説明によると、目指 す大聖堂は十一世紀から建造が始められ数世紀にわたって作られたもので、何度も火災 や戦争に遭い、その度に修復されたので、いろんな建築様式が混ざっている。特に有名 なのはステンドグラスとのことであった。
パリ市街を一歩でると、平坦で豊かそうな田園地帯が広がっている。麗らかな午後の 日和のなかを観光バスにゆられて約一時間半、遠くにシャルトルの寺院の二本の尖塔が 見えてくる。シャルトルの広場に着いたのは三時、そこで下車し、観光客は二派に別れ 、それぞれ好みのガイドに付いて、寺院に向かった。私は女性のガイドの方に付くこと にした。
寺院の西正面に並んだ南北二つの塔は、真下から見上げると首の骨が痛くな りそうなほど高い。両塔の建築様式が違うのは火事にあったせいと言う。南側の塔は、 均整のとれた塔であるが、一一六四年竣工当時のおもかげをいまだに多少なりとも留め ているらしい。正面玄関にはびっしりと浮き彫り彫刻が施されている。世界で最も美し い彫像群の一つと言われているものだ。
中に入ると、薄暗く、天井がおそろしく高い。 その中で折からの西日を受けてステンドグラスが鮮やかに浮かび上がり、いかにもカソ リックの教会にふさわしい敬虔な雰囲気を醸しだしている。キリスト教になんの縁もな い旅人の心をも洗い清めるものがひしひしと迫ってくる。この寺院のステンドグラスは 特に青色が有名らしいが、そう思って見るせいか、濃淡二色ある青が一際澄みきって輝 いて見える。
ガイドの話によると、往時は、書物が高く庶民の手に入らなかったので、ステンドグ ラスが教科書の役割を果たしたらしい。一七〇枚に及ぶ巨大な窓を彩る一枚一枚のステ ンドグラスには下から上へとキリストの生涯や、フランスの国の歴史が、凝った意匠で 描かれている。同じものは一枚もないという。よほどの物知りがいなければ、これだけ 多くのステンドグラスを全く違う物語で埋め尽くすことは出来なかったろう。庶民はこ のステンドグラスを仰ぎ見て、キリスト教や国の生い立ちを学んだのだ。一つの窓枠毎 のステンドグラスは、王侯貴族や富豪が寄進した。いや、それだけでなく、中小企業者 の組合であるギルドなども寄進したらしい。誰が寄進したかは、ステンドグラスの一番 下の絵を見れば分かる仕掛けになっている。水販売のギルドのは、革の水袋に水を詰め て販売している様子が、靴のギルドのものは、なめし皮を裁断して靴を縫い上げる有様 が描かれているのだ。
昨今、メセナとかフィランスロピーとかいって、企業の社会的 貢献が云々されているけれど、その原初的な形態はこういうところにあったのだろうか 。数百年たった今も、絵を見つめていると、彼らの清々しい生きざまが彷彿と蘇り、何 事かを語りかけてくる。
帰国後、BBC制作の同名の番組で著名なケネス・クラークの「芸術と文明」(法政 大学出版局)をひもとくと、このシャルトル大聖堂に十頁以上も割き、今でも巡礼者の 精神で丘を上り聖堂へ向かうことのできる、調和と帰依の精神を湛えた建物として紹介 してあった。同書によると、シャルトルは、ヨーロッパ文明を通じて最初に起こった大 いなる目覚めの縮図であり、ロマネスクとゴシックを、アベラールの世界と聖トマス・ アクィナスの世界を、やむことのない好奇心の世界と体系や秩序の世界をつなぐ橋でも あるという。聖母崇拝を広めるのに強い感化力を持ち、「奇蹟的に生き永らえた」この 大聖堂の建築工事からして、一種の奇蹟だった。
信仰心に溢れた人々が、職人たちのた めにぶどう酒、油、小麦といった食糧をどっさり抱えて、フランス全土から馳せ参じ、 自らも、石運びの荷車を石切場から大聖堂まで引っぱったという。そのなかには、貴族 や貴婦人もいた。職人たちの炊き出しを手伝うために全村あげての移住さえ方々で行わ れた。一一九四年の恐ろしい火事で消失したあとも、それを上回る人々が集まり、教化 という偉大な理想にたいして心を一つにして、さらに大きな建物、いっそう念入りなも のを作ったというのである。
ところで、第二次世界大戦で破壊されたステンドグラ スを戦後修復したものが数窓あったが、色つやがまったくお粗末で比較にも何もならな い代物だった。伝統的な職人が死に絶えて、昔の輝くような色はもう出せないのだそう だ。これほど近代科学が進んでも、今から考えればそれこそ零細の、名もない企業や職 人が培い、身につけていた技術・技能を再現することが難しいらしいのだ。伝統的な技 能、工芸を大切にしない罰の恐ろしさを目の当たりにした思いだった。
外に出ると、いつの間にか深い霧がかかっており、流石の大伽藍も迫り来る夕闇と霧 のなかに覆い隠されようとしていた。そこは正に中世さながらの世界だったが、歴史を 越えて存在する偉大なものが、確かにそこにあることを実感させるものがあった。
(全国協会情報92年10月号)
その日は日曜日だった。パリを発ってドーバー海峡を渡り、ロンドンの北西約二百キ ロにあるシュルーズベリという小都市まで行く旅程を組んでいた。一行四人で廃棄物再 資源化調査旅行に出て丁度一週間、そろそろ疲れの出る頃だ。一週間のうちに、太平洋 と大西洋の二大大洋を渡り、時差が変わること三度、初冬の時節で温度差も激しく、日 本に比べれば湿度の低い地域を強行軍で動き廻ったのだ。
私は風邪を引いていたが、パ リのホテルの空気はカラカラに乾いており、息苦しくて寝付けたものではなかった。そ こで、バスタブに熱湯を注ぎ、湯気をもうもうと立てて湿度を上げ、やっとのことで眠 った。
早朝、タクシーで深い霧の中をドゴール空港へ行き、BA機でヒースロー空港まで一 飛びしたが、これで四回目の時差変更だ。翌日戻ってくることになっているロンドンの 都心のホテルに荷物を預け、ウインド・ショッピングを楽しみながら、ユーストン駅ま で歩いた。
午後一時過ぎ発のシュルーズベリ行きの急行列車(インターシティ)に乗ろ うとしたところ、予定した便がないのである。どうも平日の時刻表で日程を立てて来た らしい。それでも、比較的近い時刻に同じ方面へ急行が出ることが分かり、それに乗っ た。
インターシティの一等席はゆったりしており、しかも、ガラガラに空いている。ただ 、かなり揺れる。車内サービスのコーヒーを飲むのが難しいほどだ。大きなガラス窓を 通して見るイギリスのカントリーサイドは、どこも比較的平坦で、畑や牧場が広がり、 その向こうになだらかな丘や疎林が連なっている。この時期でも芝生は鮮やかな緑だ。 霧が掛かったり晴れたり、いかにも湿潤な感じである。線路沿いの運河に船が行き来し 、小型船なら三百隻は係留できそうな碇泊池などが見えたりする。
乗員に確かめると、乗り込んだ列車は、シュルーズベリ直行ではなく、バーミンガム で乗り換えなければならないらしい。しかも、乗換に五分しかないというのである。バ ーミンガムに着いた頃は、十二月に入ったことでもあり日が短く、もう薄暗い。慌てて 下りて、駅員にプラットフォームを尋ねるとNO. 1という。階段を慌ただしく上り下り してNO. 1へ行くと人が溢れている。どうも様子がおかしいので、近くの人に尋ねると ロンドン行きを待っているという。再び今下りてきたばかりの階段をドタドタと駆け上 がる。とそこに先程の駅員がいる。尋ねるとNO. 1でもNO. 1bでおなじプラットフォ ームの反対端という。今度は反対側の階段を駆け下りる。確かに目指す電車が待ってい た。ドアは今にも閉まりそうだ。危うく滑り込み、一同、胸を撫で下ろす。
シュルーズベリで泊まったホテルは、小さな都市にしては料金が飛び切り高かったこ ともあり、期待していたが、やや期待外れだった。大変な老舗で、昔は国王や、ディケ ンズ、ディズレリーやら錚々たる人物が宿泊したとかで格式は高いらしいのだが、調度 品や造作など全体にやや草臥れた感じなのだ。継ぎ足して作ったのか、透明ガラスの入 った扉が数多くある廊下は、上がったり下りたり迷路さながらで、何度か迷わされた。
夕食には、インド料理を食べようということにして、レセプションデスクの女性にお 勧めの店を尋ねると、ホテルの三軒先にいい店があるという。 確かにあった。こじんまりした店だった。食事の前にちょっとその近くを散策しよう ということになって歩き始めたものの大方の店は閉まっており、人影もあまりない。気 温は低く、背中から寒気が染み込んで来る。数ブロックも行かないうちに引き返し、件 の店に入った。
ウエーターはインド人で、大きなメニューを持ってきた。私はインド料 理が好きで、東京でも時々家族連れで専門店に食べに行く。しかし、そのメニューを見 る限り私の生半可な知識など全く通用しそうにない。仕方がないので、オードブルとか 魚料理、肉料理、カレー料理などと書いてあるところから、ウエーターと相談しながら 何品かを選んだ。
運ばれてきたものの形状やら色彩やらは、想像したものとは相当へだ たっており、味の方はもっとへだたっていた。流石の私も少々辟易した。同行の三人も 持て余し気味である。
イギリスに来たからには、インド料理を食べよう。以前ロンドンで食べた時には美味 しかったからとやや強硬に主張しただけに、もうすこし美味そうに食べて見せなければ ならないのだが、いつもの食欲も湧かず、その上味がよく分からないのだ。どうもこれ は、風邪のせいばかりではなく、ひょっとすると料理そのものが、既にイギリス化( シ ュルーズベリ化?) しているせいでもあり、イギリス料理は不味いという、あまり与し たくない偏見を裏付けているのかも知れないとさえ思いかけ、まあ、しかし、食の探検 を志せば、たまにはこんな目に合うこともあるさ、と自ら慰めた。
後ろの席にいた若い男の二人連れが、何処から来たかと話し掛けてきた。日本からだ と応えると、この近辺にも日本企業が沢山進出してきたという話から話に花が咲いた。
ちょうどその頃オランダのマーストリヒトでEC通貨統合の話し合いが持たれていて、 この二人、ケビンとマーチンは大賛成だという。その話から、円の話になり、彼らは、 残念なことに日本のコインをこれまで一度も見たことがないというので、私の小物入れ のバッグの中にあった百円以下のコインを見せてやると、初めて見たと大変な喜びよう である。特に穴の空いた五十円、五円には目を丸くしている。そこでそれらをプレゼン トしようというと、ホントにいいのかと何度も念を押す。食事よりもすっかり話に夢中 になってしまい、こっちの方でなにがしかの満腹感を味わい、ホテルに戻った。
その夜 は、早めにベッドに入り、たっぷり安眠したせいで風邪も良くなった。
翌日はロンドンに戻り、新しいタイプのイギリス料理とやらを食べさせる店で,掛け 値なしに美味いイギリス料理を満喫し、前日の埋め合わせをするとともに、危うく囚わ れかけたイギリス料理は不味いという偏見から、きれいさっぱり放免されたのだった。
(時評1992年8月号)
昨年暮れ廃棄物再資源化調査に出掛けたわれわれ一行四人は、英国ではシュルーズベ リという地方都市での調査を終えてロンドンに舞い戻り、そこでも予定の調査を精力的 にこなした。所期の調査を終えると、商社の人がホテルに出迎えてくれる七時まで少々 時間があったので、めいめい勝手にショッピングをすることにした。
ホテルのすぐ近く のショッピング街で有名なオックスフォード通り界隈をぶらついていると、以前に買い 物したことのあるリバティという店があった。十二月に入ったばかりの時期で、ちょう どセールの最中だった。そこで、息子への土産用と自分用のセーターを物色したが、品 揃えが豊富なせいもあり目移りして、閉店の時間になったがどれにするか決め兼ねてい た。と、店員が、今夜はいったん店を閉めたあと、三十分後に、お得意さん向けの特別 セールをやるのだが、また、来るかと聞く。是非来たいと答えると、なんと仰々しく招 待状を発行して呉れた。
時間潰しに近くのファイロファックスの専門店で簡単な買い 物をし、通りのクリスマス用のイルミネーションは、不景気のせいか、数年前に来たと きより地味だななどと思いつつ引き返すと、店の入口には、着飾った紳士淑女が詰め掛 けていた。わたしもその流れについていき、受付で招待状を示すと、女性がシャンパン グラスを手渡してくれた。件のセーター売り場に行くと、先程の売値から更に十%引き で売るという。
広大な店内に上得意らしい人々が溢れ、シャンパングラスを片手に悠々 と品定めをしている。イギリスにはこういうシステムがあったのかと感心し、もうけも のをした思いで、ざっくりした手触りの手編みのセーターを二枚買い込み、ホテルに引 き返した。
その夜は、商社の人に夕食を御馳走になった後、日本式のバーに連れて行ってもらっ た。ホステスが座席の傍らについてサービスしてくれるやつだ。
通されたのは一番奥の 席だった。日本人のママが現れてどこの国の女性がお好みですか、と一人一人から注文 をとる。様々な国の女性を揃えているらしい。私はこんな時には、ポーランド人を頼む ことにしている。と言うのも、もう十五年近くも前になるが、三年間同国に滞在したこ とがあるからだ。何となく同郷の人に会うような親しみがある。久し振りに、片言のポ ーランド語を話してみたいし、ひょっとすると最近の同国の様子を聞けるかもしれない 。機会があったら、三年間苦楽を味わった地をもう一度踏んで見たいと思っているが、 まだ果たせないでいる。幾分かは、その埋め合わせにもなるだろう。それにポーランド は美人国だから、あまり当たり外れがないうえ、この手の場所にはポーランド女性は決 まって一人や二人はいるのである。ニューヨークでもパリでも前回のロンドンでもそう だった。彼女たちは、庶民的で気位が高過ぎることがない。地方から出てきた娘の感覚 で付き合える。
現れたのは、大柄で目の大きい女性だった。飛び抜けた美人ではないが、十人前とい ってよいだろう。やや、好戦的な面構えなので、もうすこし、しとやかさがあれば申し 分ないと思ったが、欲を言い出したらきりがない。
「ドブリビエチュール」
わたしが言葉を掛けると、彼女は一寸戸惑い、次の瞬間ぱっと顔を輝かせて、 「ドブリビエチュール」 と笑顔で応じてきた。私が「今晩は」とポーランド語で言ったのが通じたのだ。彼女に してみれば、思いがけず、ロンドンで、初対面の日本人からいきなり母国語で話し掛け られたので一瞬戸惑い、やっぱりポーランド語に間違いないと分かって、笑顔がこぼれ たのだろう。
その一言で、すっかり打ち解けて、会話は順調に滑り出した。ポーランド 語が同郷の方言と同じく潤滑剤の役割を果たしたのだ。期待違わず、話好きの女性だっ た。ポーランドの女性で寡黙な人に、お目に掛かったことはまずない。 ワルシャワに七五年から三年間滞在したことがあるので、ポーランド語をほんの少し だが覚えていると自己紹介すると、彼女の方は、つい二月前カトヴィッチェの近郊から 英語の勉強に渡英してきたという。英語が出来ると就職が楽でいい給料が貰えるのだそ うだ。
彼女の話によると、ポーランドでは経済が依然破綻状況で生活は厳しいらし い。東欧革命の先陣を切り、非共産党政権を東欧圏の中でいち早くうち立てたものの、 経済改革は功を奏せず、最近では、共産党の復調さえ見られるという。品質の悪い褐炭 を焚き過ぎたせいで空気汚染が酷く、住んでいた町の近くでは死産騒ぎさえ起こってい るという。わたしも、ポーランド滞在中、産炭地域の中心地のカトヴィッチェを二度訪 れたことがあるが、当時も空気はかなり汚れていた印象がある。その後の経済の疲弊で 、防止策を講じずあのまま放置せざるを得なかったとすれば、想像を上回る汚染があっ ても不思議でない。
為替レートの話になって、最近の現地通貨のレートを知っているかと尋ねるので、一 ドル一万千ズオーティと答えると「その通りよ。よく知っているわね」と驚く。私がポ ーランドを離れた当時、公定レートが一ドル三三ズオーティで、闇ではその三倍から五 倍した。それが今や三五〇倍になっているのだ。一四年経たとは言え、この数字はポー ランド経済の低迷振りを如実に示している。平均給料も、七八年当時を下回っているら しい。いいことと言えば、戦後小学校の必須科目とされてきたロシア語が外されたこと ぐらいだという。
ポーランドの窮状を語る彼女の口調が熱を帯びてきた。大きな目 をますます大きくして、真剣に国を憂え将来を案じている。つくづくポーランド人は、 愛国者だと思う。それまでバーであったどの女性も、みんなそうだった。それに、若い けれどしっかりしていて話が面白い。言葉は不自由でも、日本のホステスとより、よほ ど内容のある話ができる。
楽しい一夜だった。久し振りに懐かしいポーランドの 香りをかいだ。なんとか、近いうちに、再訪してみたいという思いが嵩じた。
ところで、ポーランドの為替レートは私が帰国した後も下がり続け、七か月後の現在 では一ドルが、一万四千ズオーティにもなっている。彼女はもうポーランドへ帰国し、 そして首尾よく、いい就職口にありつけただろうか。何故か、今もって気になるのである。
(時評1992年9月号)
ロンドンに二泊したわれわれ廃棄物再資源化調査団一行四人は、次の目的地ブラッセ ルに向かった。二週間にわたる今回の旅行も、もう残り少なく、ブラッセルに一泊した 後はハンブルグに二泊するだけである。
四日前に越えたばかりのドーバー海峡を再度越える。時差が変わることこれで五度、 その度に時計の針を合わせ直さなければならない。小型のジェット機での一時間少々の 飛行なのだが、それでも国際線ともなると食事が出る。ワインの小瓶も付く。夕食時間 にやや差しかかっているし、お腹は相当空いている。ブラッセルで食べたほうが美味い に決まっているが、せっかくのサービスを無にするのも惜しい。結局頂戴してしまった 。だから、ブラッセルの都心にあるホテルに着いたときもそれほど空腹感がなかった。 そこは、誰も同じと見えて、その夜は各自、自由行動ということになった。
そこでわたしは、音楽会でも覗こうかと、ロビーに置いてある今週の催し物の案内書 をめくると、八時開演のピアノリサイタルが見つかった。レセプションで確かめると、 会場は歩いても十分そこらの距離だという。それなら時間に余裕がある。都心部の略図 の上にマークを付けてもらい、十二月初旬の寒気の中をコートの襟をたてて歩いて行っ た。
なかなか立派な大通りで、人通りも多い。目指す会場はそこからすこし入ったところ にあった。さして大きくない建物だった。日本の文化会館的な施設で、各種の催し物に 使われているらしい。入口を入るとロビーがあり、行き当たりのところで、普段着の受 付の女性が、切符を売っていた。ホールは室内楽向きの大きさで、三百席ほどあったろ うか。開演時間になると普段着の人が、三々五々と集まって来、いつの間にか、七分程 度の入りになった。華やかさはないが、普段着の姿勢で静かに音楽を楽しむ雰囲気が漂 っている。
演奏者は、やや痩せ型でもの静かな感じの若い男性だった。曲目は、第一部がシュー マン、メンデルスゾーン、ドビッシーの小品、第二部がベートーベンのソナタ「熱情」 。その物腰通りの、しみじみとしみ込んで来るような美しい音色に、しばし時のたつの を忘れた。
休憩時間には、ロビーでワインやビール、コーヒー、紅茶、ソフトドリンク等を売っ ている。グラスやコップを片手に老若男女皆楽しげに大きな声で話し合っている。わた しはフルーツジュースを飲みながら、各種の催し物のポスターを見て回る。旅人の常で 、現地の人々の日常生活の中にそっと滑り込み、ほんの一時、時間と空間を共有する。 誰もが、音楽に高揚した表情でしゃべったり、食べたり飲んだりに忙しい。わたしがい てもいなくても、この風景に何の変わりもないだろう。わたしは見知らぬ旅人に過ぎぬ 。生身の人間の間にいながら、映画のシーンを観客席から見ているようなもどかしさを 感じる。
リサイタルは淡々と始まり淡々と終わった。熱狂があったわけでもない。だが、音楽 はいつ聴いても、不思議と心が安らぐ。しっとりとした情感を胸に、表通りに出た。
会場を出た直ぐのところにSM用の責め道具の数々を展示した店があり、やや、意表 をつかれる。大通りの本屋で、観光絵葉書を数枚買う。こんなことをしながら、ゆっく りともと来た道を引き返しすうちに、早めの夕食だったせいか、少々腹が空いた感じが してきたので、ちょっと空腹をおぎなうのに適当な店はないかと探すと、ホテルの近く にギリシャ料理のレストランが見つかった。結構大きな構えで、中も綺麗だった。営業 時間は十二時から十五時までと十八時から・・までとなっている。お客がいれば明日の 朝までも辞さぬつもりなのだろう。
テーブルには薄小豆色のクロスの上に更に白いクロ スを掛け、赤いローソクに灯が灯してある。床は煉瓦、壁は白い漆喰で、バンジョーに 似た楽器や、絵皿や鳥の剥製やら、いろんなものが飾りつけてある。客は静かに食事を している。
ギリシャ料理を最初に食べたのはニューヨークだった。何か珍しい料理を食べたいと 所望して現地に駐在している知人に連れていって貰ったのだ。前菜の種類が多く、これ はバイキング方式で、海産物がおいしかったとの記憶がある。六本木にあるギリシャ料 理店には時々家族と出掛ける。ギリシャ旅行に行き、すっかりファンになって帰ってき た娘が見つけてきた店だ。そこでは、ギリシャの若者が肩を組み、早いテンポの曲に合 わせて足を上げて踊り、客がその足元に素焼きの皿を投げるのが名物になっている。で も、この「アテネ」というレストランにはその手のショーはないようだ。
フランス語で 書かれたメニューから、午後十時三十分に食べるに相応しい料理を選んで注文した。と 言うものの、セット・メニューのうち、値段の安いほうのを注文したに過ぎない。三百 二十フランだから千三百円程度、これなら、分量に圧倒されることもないだろうし、余 しても惜しくない。
料理は結構盛り沢山だった。スライスしたパンを入れた小駕籠の他に三皿出てきた。 赤黒いオリーブと青いトウガラシのピクルスの皿。揚げたじゃがいもと大型のコメの形 をした黄白色のパスタ、それにスパイスのきいた赤トウガラシ、グリーンピース、人参 、マッシュルームなどを突き合わせた皿。一番大きな皿には、ピンク色に揚げた海老一 匹、イカのフリッター、上にスパイスをかけた長方形の白いチーズ(ヤギチーズか独特 の臭みがあり、塩味である)、煮た赤ビートを潰したもの、ヨーグルトにチーズと野菜 を刻み込んだもの、ごはんと魚肉とスパイスの詰め物、刻んだ生のキャベツと人参とレ タス、なにか得体の知れぬピンク色のもので味は少々塩辛いもの(娘によるとタラモサ ラダというものらしく、タラコ、マッシュポテトをオリーブ油で合わせたものか)等々 、所狭しと盛りつけてあった。
赤、緑、白と色彩が豊かで、赤だけでも、海老、人参、 赤ビート、オリーブ、赤トウガラシとあって微妙に色合いが違う。
ビールもギリシャ産を頼み、グラス片手に、折角だからと、料理をいちいちスケッチ しながら賞味したので、食事には、たっぷり時間がかかった。すっかり満腹して、深夜 の街に出ると寒気が一段と厳しくなってきており、温まった体を冷やさないようにと、 あわててホテルに駆け込んだことであった。
(時評1992年10月号)
海外旅行の楽しみの一つに、美術館や博物館めぐりがある。限られた日程を割いて行 くのだから、いつも駆け足にならざるを得ないが、それでも、決まってなにがしかの満 足感を味わえる。
昨年米国を訪れた際にも、シカゴでは美術館、自然博物館、鯨の水族 館、ワシントンでは、スミソニアン博物館群のなかの、航空宇宙博物館、現代美術館な どに足を運んだが、やはり、例外でなかった。
満足感を味わえるというのも、博物館側に、誰にも楽しく、分かりやすく見せようと いうことにかけての執念が感じられるからである。見る人とコミュニケートするために 、一方ならぬ工夫を凝らしていることが、伝わって来るからである。どこへ行っても、 その膨大、周密、周到なコレクションや展示物に、まず、圧倒された。
巨大なシカゴの 自然博物館の場合は、博物館の名にふさわしく、地球上の動植物、鉱物の全てをおよそ 化石時代から現存のものまで、系統的にすべて展示しようとの大構想のもとに作られた と思われる。動物類は、生息する環境の模型の中に、剥製をまるで生きているかのよう に展示し、植物類は、一つ一つを実物とみまごうばかりの精巧な模型で展示している。 しかも、分かりやすい説明やイラスト付きで。人類の文化や生活についてはこれまた、 ミクロネシア諸島のカヌーから北極のエスキモーのトナカイの釣針まであますところな く揃えている。
航空宇宙博物館にも、初期のプロペラ機から最新の超音速機・ロケットまですべて実 物ないしは実物大の模型で展示してある。人類を月に運んだサターン・ロケットや月着 陸船からスペース・シャトルまで、およそ見たいと思うもので、無いものは無い。説明 にも工夫を凝らし、文字やイラストや映像を巧みに組み合わせている。子供から大人ま で、一目で理解できるし、見ていて実に楽しい。
日本のこの種の施設に比べて料金が格安なことが、また魅力である。。スミソニアン へ行った日が、感謝祭の日だったせいか、私の入った博物館は全て無料だった。航空宇 宙博物館の中の、プラネタリウムは料金を払ったけれど。料金が格安の上に、週のうち の特定の曜日を無料にしているケースも多い。入場料と言うより、むしろ寄付・献金に 近く、観覧者の好意に応じていくらでも結構です、一応の目安では一人当たり何ドルで すよ、と言う色彩が強いようだ。
シカゴ美術館では、それが一人当たり六ドルと書いて あったので、四人連れの分として二四ドル差し出したところ、窓口の女性は、閉館まで あと一時間しかないのだからと言って、十ドル返してくれた。料金ではないからこそ、 こうした芸当ができるのだ。確かにあの夥しいコレクションを全部見ても六ドルでいい のなら、一時間では、全額取るのは気の毒な気にもなるだろう。
この種の施設は、作るまでは熱心でも、一度作ってしまうと、その後ほとんど金をか けなくなり、時代遅れのものになりやすく、博物館と古色蒼然という形容詞は結びつき やすいのだが、どの施設も、メンテナンスに金をかけており、常に実社会と繋がって呼 吸をしていることを、感じさせられた。航空宇宙博物館の一角で放映されている「航空 機と戦争」というテーマのビデオにしても、第一次大戦時の爆撃機から広島へ原爆を投 下した「エノラ・ゲイ」号はもちろん、湾岸戦争で活躍したパトリオットのピン・ポイ ント爆撃の映像もあった。湾岸戦争が終わったのがその年の二月末のことだから、手際 の良さは称賛ものだろう。
スミソニアンの現代美術館も、新しく入手したコレクション の大々的な展示を特集していた。
どこも、それほど混んでなく、ゆったりとした気分で見れたのも有り難かった。これ だから、小さな子供連れの母親や、先生に引率された小中学生の一団なども安心して来 れるのだ。それに大抵の施設が、写真撮影を禁じていないのは、「開かれた情報」への 前向きな姿勢を示しており、些細な展示物にまで麗々しく「撮影禁止」の立て札を立て たがる日本の同種施設との間に、埋め難い差を感じた。
欧米には、良く知らされた国民(well-informed people) こそ、民主主義の基盤であ るという思想があるが、こうしたハード、ソフトの両面で完備した博物館や美術館を見 るにつけ、それとつながるコミュニケーションへの強い意欲が社会の中を脈々と流れて おり、こうした施設をも支えていることをひしひしと感じたことであった。
(時評1992年12月号)
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われわれが第一歩を記したシカゴでは、空港からホテルまで乗ったタクシーのトランクが開かなくなってしまった。一行四人分のスーツケースを無理やり詰め込んだせいだ。黒人の運転手だったが、トランクの鍵はかなり遠方の自宅に置いてきたという。車内のレバーをいくら引いても、力を合わせてトランクを揺さぶっても埒が明かない。その時、運転手は何を思ったか、後ろの座席を取り除き始めたのである。座席を取り除くからにはそれなりの勝算があるものと思い、われわれは見守っていた。ところが、ほとんど完全に壊す結果になったものの、トランクとの間には頑丈な鉄板の格子があり肝心の荷物には手が届かないことを確認したようなもので、運転手は急にしょんぼりしてしまった。結局最後は交通警察署まで行き、ハンマーでトランクを叩いて取り出すよりなかったのである。
同じシカゴで、シカゴ美術館の前から乗ったタクシーの運転手は、色浅黒く、根っからの話好きと見えて、われわれが日本から来たことを確かめると、途端に、アメリカ人は日本人が嫌いだとしゃべり始めた。早口でまくし立てるので、良く聞き取れなかったが、どうも、アメリカ人は表面には出さないにせよ日本人をひどく嫌うようになっており、景気が一段と落ち込むにつれて、その傾向は日増しに強くなっているといっているらしい。自分はパキスタンから二年前に移民してきたのだが、アメリカは自然や建物は素晴らしいけれど、アメリカ人の心は良くない、パキスタン人のほうが余程心が優しい、とも言う。
イギリスのヒースロー空港で乗ったタクシーの運転手は、堂々たる体躯で貫祿のある中年の男だったが、我々が四日後に同じ空港から帰ることを知ると、帰りにもホテルに迎えに行くので、空港まで是非送らせてくれと、その予約を取ることにひたすら関心を注ぐのだった。これも、イギリスが不景気なこととすこしは関連があるのだろう。
今回の旅行を通じて最も印象深かった運転手は、ハンブルグ空港から市内の大きな湖のほとりにあるホテルまで乗ったタクシーの運転手である。
午前中にブラッセルの郊外の瀟洒なビルのなかにある事務所を尋ねて聞き取り調査を済ませ、おまけにこれまた洒落た社員食堂で昼食の御馳走に預かり、最後の目的地ハンブルグへ向けて離陸したのが三時過ぎだったので、ハンブルグ空港に着いたころには、もう日は落ちていた。同乗のTさんに、昨夜ブラッセルでは、ピアノリサイタルへ出掛けたことや、ハンブルグに以前来た時にもオペラ座に行ったので今回も是非オペラかコンサートに行きたいと思っていることなど話していると、運転手が英語で話しかけてきた。
いままでいろんな日本人を乗せたけれど貴方みたいな音楽好きな人を乗せたのは初めてだというのである。どこまで日本語が分かるのか知らないが、昨夜のリサイタルの曲目などを紹介しているなかで、シューマンとかベートーベンとかメンデルスゾーンの名前を聞き及んでのことだろう。初老の見るからに実直そうな運転手であったが、両親が音楽家だったこともあって、実は、自分も音楽が大好きだ。今もバイオリンを弾く。妻や、娘も息子もピアノやバイオリン等をやるので、時々家族音楽会を開いたりする、というのである。
それがきっかけで、運転手との音楽談義が始まった。好きな作曲家は誰だとか、どの曲目が好きだとか、家族連れでコンサートに良く出掛けるとか、話は弾んだ。話に身が入ってきたせいか、車のスピードは落ちる一方である。ホテルに着くと、わざわざ車から下りて、貴方のような音楽好きな日本人もいることを知って感激しました。と繰り返し、どうぞハンブルグで音楽を楽しんで行って下さい、と何度も私の手を握りしめる。こんなに買いかぶられて面はゆかったが、悪い気はしなかった。
ハンブルグではその晩も含めて二夜続きで音楽会へ行くことになるのだが、それもこのことがあってのことかもしれない。その時のことは、この旅の愉しみシリーズの第一回目分として既に書いたので、目を通して頂ければ幸いである(時評九二年二月号「天才たちのコンチェルト」)。
われわれの車が先に出たのにホテルには十分も遅れて着いたので、先に着いた二人は何事かあったのかとロビーで気をもんでいたと言う。それほど話に花が咲いたのである。
二日後、所期の目的を全て終え、軽めの土産類も全て買い揃えて、ハンブルグ空港から帰国の途についた。最後に飛行機を乗り換えたコペンハーゲン空港で、重めの土産、即ちワイン九本とリキュール二本、それにカルバドスのXOを買い足し、重さに難儀しながらも無事自宅に持ち帰った。ワインのほうが、知的生産向きらしいのだが、家内もワイン党であるため、たちまち売り切れてしまった。わたしは残ったカルバドスをちびりちびりやりながら、この思い出深い旅行のエッセイを綴って来たのである。
このシリーズが、いつも本道を逸れ、ふらふらと脇道にばかり迷い込みがちだったのも、いささか記憶に靄がかかっているのも、この強い酒のせいとお許しいただきたい。いずれにしても、文章の上でも何とか、相変わらずあわただしい東京にたどり着けたようだ。筆者の初めての紀行文の試みに最後までお付き合いいただいた方々には心からお礼を申し上げなければならない。