ワルシヤワの中央に、あたりを見下ろすかのようにその建物は建っている。第二次世界大戦後、ソ連が兄弟国ポーランドヘ贈ったものだ。名付けて文化大宮殿。スターリンが好んだというモスクワ大学の建物と瓜二つで、高さ二三四米、四四階もあり、郊外から望見できる。
もう十年以上も前、同市に三年滞在したが、夏期休暇の折など、車でローマや南仏などを回る長い旅を終えて帰ってくると、その建物が遠くに姿を現す。いつも決まって午後遅く辿り着いたものだが、その独特のシルエットが夕焼けの空をパックに見えてくると、やっとワルシャワに帰り着いたとほっとしたものだ。
だが、ポーランド人にはきわめて評判の悪い建物だった。こんな小話があった。
「ワルシヤワで一重美しい景色は、どこだか知ってるかい」
「一体、どこなの」
「文化大宮殿の展望台から見た眺めに決まってるさ」
「どうして」
「だって、そこからなら文化大宮殿が見えないだろう」
日本では伺い知れなかったが、現地に住んでみると、ポーランド人のソ連への憎しみは想像以上だった。日常的に肉が不足するのも、石炭が足りないのも、みんな東の森の熊が持っていったせいにする。国境を接する国同士の歴史的な軋轢に加えて、第二次大戦の戦後処理で、自ら望んだ訳でもないのに、東欧陣営に取り込まれ、ソ連の衛星国の一つとして、共産主義政権を押し付けられたことへの反感が、一般市民の胸底深く煮えたぎっていて、事あるごとに吹き出すのだ。
しかも、それをあからさまに言えないので、小話などに託さざるをえない。心理は屈折し、感情は鬱積する。真剣に考えると気が狂わざるをえないい状況だとある知識人は私に語ったものだ。
だから、一昨年来のソ連・東欧圏の激動は、他人事に思えない。ソ連のペレストロイカの追い風を巧みに利用し、東欧圏で逸早く共産党独裁に終止符を打ち、非共産党政権を樹立したのはポーランドだった。だが、前途はなお多難だ。
私がポーランドを離れた一九七八年の一ドルの公定レートが約三〇ズォーテイ(現地通貨の単位)、それが現在一万一千ズォーティーと言う。十年ちょつとの間に実に三百五十倍近いインフレに見舞われただ。経済は破綻同然、せっかく誕生した非共産党政権も力不足で不安定、国民の苦労はまだまだ続く。
翻ってわが国を見ると経済は順調、政治も相対的に安定している。いまや一人当たりのGNPは世界 一の水準。だが、国民はその実感がないと不平を言っている。
日本は敗戦国、ポーランドは戦勝国。にもかかわらず、戦後処理の運不運でこれほどの差がついた。現在の繁栄が戦後の日本人の血の滲む努力の賜物であるにせよ、戦後処理如何では、その努力も報われず、現在のポーランドや東西に分割されたドイツの非運を甘受せざるをえない可能性もあったのだ。今後日本が現在の恵まれた状況を保持するには、戦後処理の幸運を忘れない謙虚さを持ち、各国と要らざる摩擦を起さない生き方を身に付ける必要があろう。
東欧各地で、今もレーニン像が取り壊されているが、ポーランド人はそれよりも文化大宮殿こそ逸早く取り除きたいのではないかという気がする。それ以上に取り壊し難い存在と見えた共産党一党支配やソ連大帝国が、かくもあっけなく崩壊したのを見るとそれも夢ではないのかもしれない。その時ワルシャワで一番美しい景色はどこになるのだろう。
「目障りがなくなったらワルシャワはどこでも美しいさ」
ワルシャワっ子が胸を張る様が目に浮かぶ。
(時評 1992/2)
熱狂した観客の鳴りやまぬ拍手 に応え、アンコールに、ブラームスとマスネーの小品二曲。これがまた絶妙の演奏で、こ の夜は、これまで感じたことのない充足感を味わわされ、妻ともども、アンネの大ファン にすっかり洗脳されて会場を後にしたことであった。
(注1)今年のアカデミー賞の受賞式にも彼女はプレゼンターとして現れたが少々痩せたように 見えた。
恵みのスキー 940422/ 0427 /0509
北海道から久しぶりに講演のお座敷がかかってきた。もともと講演は嫌いでないので 、札幌に赴任した一年間で二十回もこなし、帰京後、二三度お呼びがかかったときもい そいそと出掛けたのだが、このところ間遠になっていた。先方のよんどころない事情で 、四月四日の月曜日に来て欲しいという。月曜日と聞いて頭のなかに、シメタという思 いが閃いた。四月に入ったばかりのこの時期、北海道でならまだスキーができる。週末 から北海道に入れば、丸二日滑った上で講演会場に顔を出せよう。喜んで参りますと答 えていた。
今シーズンのスキー・ライフは年の明ける前の十二月初旬から滑り出し、滑り出しが 順調だったせいか、誠に充実していた。明けて一月末のサホロ、二月末のテイネハイラ ンドとカムイリンクス、三月中旬の天元台。これだけでもここ数年の実績をはるかに上 回っているのに、最後にもう一丁おまけと言わんばかりに今回の話が飛び込んできたの だ。
早速、札幌時代のスキーの師匠であるYさんに連絡すると、都合がつくのでご一緒し ましょうとの返事。「ニセコあたりではどうでしょうか」と言っていたら、その翌日に は、ニセコの宿の手配から札幌のホテルの割引券の手配まで完了しましたという電話が 返ってきた。なんという手回しの良さだ。二月に北海道へ行ったときもその手回しの良 さにさんざ甘えてきたばかりだった。いや、そもそもスキーにこれほど入れ込むように なったのも、親切で面倒見のいいYさんあってのことだ。札幌に単身赴任した五年前、 毎回の送り迎えから手取り足取りの実地指導まで骨身を惜しまず、全くの初心者だった 私を中級程度の腕前に引き上げてくれた恩人なのである。私のみならず、家族も全員お 世話になった。
二月に北海道へ行った時、そのYさんから、今の勤め先を三月末で定年退職するので 暇になる。何時でも、声をかけて下さいと言われていた。その言葉に甘えて電話したの だが、同行した妻ともども退職後初めてお世話にあずかる栄に浴することになった。
今シーズンのスキー・シーンで忘れられないのは、米沢は天元台のインターハイ・コ ースを滑り降りたことだ。平均斜度三八度、最大斜度四三度で全国に名が轟いていると 言う。しかも、今は立ち入り禁止になっていて、ゲレンデは整備されていない。そんな ところを普段だったら、滑ろうなどという気を起こすはずはないのである。ところが男 女一九人からなる天元台スキーツアーの首謀者で、十二月の軽井沢行きのときにも誘っ てくれたMさんが、大丈夫ですよ、と熱心に勧めるのである。私より十も年長のMさん は前日も若手の二人の男女を誘って、滑り降りていた。そのコースを降り切ると我々が 泊まった宿の前にでる。だから、最終日の最後の一滑りをそのコースに当てようという のである。いつの間にか、同行した娘が、Mさんの甘い誘いに陥落していた。それでも 私は、行かないと言い張っていたのだが、最後の最後に、娘さんを見捨てるつもりです かとまで言われ、止むなく前日の三人組を含む男四人女二人の仲間の最後尾に連なるこ とになってしまった。
立入り禁止のロープを潜ったときから、難行苦行が始まった。かりかりのアイスバー ンの上に昨日来の新雪が被っている。傾斜が急過ぎてアイスバーンが露出したところも ある。整備されていないので凹凸が激しい。裂け目もある。昨日の経験者も今日がはる かに滑り難いという。来るんじゃなかったと思ったもののもう遅い。前に進まない限り 、後ろに戻るわけには行かないのだ。なにしろ、四三度である。黙って立止まっている ことさえ難しい。下手をするとずるずる滑りだす。上に登ろうにも、登れたものではな い。覚悟を決め、スピードがつきすぎぬように、くるりと回って次の回りやすいところ を探し、またくるりの要領で行くしかない。フォールラインに沿って滑降するときはそ れこそ真っ逆様に落ちる感じだ。相当怖い。だから、転ぶ。転ぶと急だからどこまでも 転げ落ちる。スキー板が吹っ飛ぶ。高いところに残った板を取りに行くのも難しい。急 斜面でビンディングを付けるとなると一層難しい。全員が多かれ少なかれ何度か転んだ 。娘など林の中に飛び込むわ、二mもある窪地にすっぽり落ち込むわで、二度も身動き 出来なくなった。残念ながら私の実力では、救援に向かえない。若い二人の男性のお願 いするよりなかった。
それでも余裕を失わず、途中で全員転んで壁に必死にへばりついている有様を記念撮 影までしながら、なんとか無事に全長一・五キロの難コースからの生還を果たした。そ の時なんとも言えない満足感と連帯感とが湧いてきて、互いに固く手を握り合ったこと だ。
ニセコでは、初日は東山で二日目はヒラフで滑った。北海道とはいえもう四月、雪は ざらめ状で、二月のサホロや三月の天元台の軽い雪に比べれば泥のように重い。ゲレン デは荒れ気味で、距離もたっぷりあり傾斜も相当きつい。油断すると左右のスキー板が 別々の方向に行ってしまう。曲がろうとするとコブに邪魔される。私でもかなり難儀し たのだから、妻にとっては、今シーズン、ボーゲンの域からパラレルへ一歩前進したと は言え、見た目以上に辛いコースだったろう。でも、ファイト満々果敢にチャレンジし 、音を上げないのは見上げたものだ。私同様スキーにすっかり取りつかれた様子だ。指 導員の資格をもつYさんは、いつも変わらぬ安定したスタイルでどこでもすいすい滑り 降りる。雪がざらめだろうが、コブがあろうが全く関係ない。二日とも風があり、ゴン ドラやリフトが止まったりしたが、今シーズンの最後の機会との思いもあって、終日ひ たすら滑り続けた。
翌日の札幌での講演会だが、思いがけず二日も余計に滑らせて貰ったお礼心が手伝い 、講演には一段と熱が入った。もっとも、今シーズンちょっと腕を上げた(と思う)ス キーに比べれば、久し振りの講演とあって、口はスキーほどには良く滑らなかったけれ ど。
手塚治虫が逝って、早くも五年になる。享年六〇歳。日本人の平均年齢に比べても、 早すぎる死であった。長生きして、もっともっと活躍して欲しかったと思う人は、おそ らく数知れまいが、私もその中に名を連ねるものだ。他の誰に対するよりも手塚治虫へ の思いは強い。
私は、昭和二一年の就学だから、戦前の教育を全く受けなかった純粋戦後教育のはし りの世代であるが、手塚治虫のマンガとともに育った世代ということもできる。当時『 少年』という雑誌に手塚の『鉄腕アトム』が連載されていたが、毎月待ち焦がれて読ん だものだ。劇画では『少年王者』の山川惣治や『平原児』の小松崎茂などが活躍してお り、私は、専用のスケッチブックに、鉄腕アトムやデカ鼻のお茶の水博士、少年王者や 平原児などの似顔絵を飽きもせず書いては、将来のマンガ家、劇画作家を夢見ていた。
手塚のマンガには、他のマンガにない格段と滑らかなタッチ、巧みなストーリー展開 、豊かなユーモアとロマン性など際立ったものがあるのを、子供心にも感じていた。ま さか、当時私と十ちょっとしか歳の違わない医学生が、毎月の連載を通じて、これまで にない斬新なコマ割、新鮮な映画的手法を駆使しつつ、ストーリー性の高い新しいマン ガを創造しており、その現場に立ち会っていようとは思いもしなかった。十六歳でデビ ューし、一作ごとに内容や手法の実験を繰り返し、すでに二十代半ばで独自の作風を作 り上げ、マンガの歴史そのものを書き換えたのだ。そうとも知らず、名をなした大家に 違いないと漠然と思い込んでいて、後年年齢を知り驚いた。手塚はその後も死ぬ日まで 立ち止まることなく次々に名作を生み出す。『ブラック・ジャック』『火の鳥』などか ら、未完に終わった『ネオ・ファウスト』などまで手塚の腕は衰えることなく、断えず 未開の分野を開拓する。その足跡は全集三百巻と、全集からこぼれた百巻にあまる作品 の中に結実している。
手塚に触発され、マンガを自らの創造力を託するに足るジャンルと思い定め、多くの 才能ある人々がマンガ界に身を投じた。確かに、絵を書く才能があれば、小説のように 煩雑な「地の文」を書かずにダイヤローグだけでストーリーを展開できる。一昔前の文 学青年や映画志望者がマンガ家を志すようになった。その結果、層の厚い人材を背景と してすぐれたマンガが次々と生み出され、多くの読者を掴み一大市場を形成するに至っ た。
現在、その市場を席巻しているのがマンガ週刊誌である。六百万部も売れる少年ジャ ンプをはじめとして、子供向けから青少年少女向けビジネスマン向けと様々な雑誌が市 販されている。一般紙にも週刊誌にもマンガ欄が必ずある。われわれの世代を言わば波 頭として、若い人はどっぷりマンガの大海に浸かっている。私の息子や娘も毎週週間マ ンガ雑誌を購読している。『読書の快楽』(正続とも)など読書案内書も、ちゃんと少 女マンガの欄を設け、れっきとした評論家にコメントを委ねている。関川夏生の『知識 的大衆諸君、これもマンガだ』のように、マンガを憎む人向けと称するマンガ案内すら 出ている。
かつては、マンガが一方的に映画から手法を借用していたが、今では逆に様々な分野 がマンガ的手法を取り入れている。吉本ばななの小説はマンガ的と言われる。『ちびま るこちゃん』の作者のエッセイは字で書いたマンガだ。マンガからの劇化(映画・テレ ビ・演劇)も多い。役者はマンガティックな演技を求められる。マンガが生み出した様 々の手法についても読者側の理解が進み、作者側がより高度のものを試みうる環境も整 っている。
日本のマンガの優れたメディア性は、国際的にも評価され、東南アジアは 言うに及ばず、フランス、スペインまで進出している。原語(日本語)のまま、フラン スやスペインの若者に読まれる時代なのだ。手塚に先導された日本のマンガは、今や、 一大ジャンルを形成するに至った。その意味で「手塚治虫の時代」がまだ続いていると 言えよう。
このように、日本はマンガ先進国と言ってよいが、マンガというだけで軽んずる風潮 がまだある。私は幸いにして、断えず手塚マンガに接しながら育ったお蔭で、マンガに 対する違和感が全くない。要するにあらゆる文学、芸術と同様、良質か悪質か、作者の 志が高いか低いか、面白いか面白くないか、心を打つか打たないかの差があるだけで、 マンガそのものが、いい、悪いの対象になるものではない。だから、『サザエさん』『 いじわるバアさん』『コボちゃん』から白土三平の『カムイ伝』『忍者武芸帳』などま で愛読したし、今も毎月欠かさず覗く古本市でもマンガを射程に入れており、たまだが 買って帰る。
最近手にした『『坊ちゃん』の時代』は、マンガに一家言を持つ関川夏生の文、谷口 ジローの絵だけに、なかなかよく出来ておりじっくり読むに耐える。大友克洋の『童夢 』や『AKIRA』もマンガでなければ表しえないものを描きだしており、凄いと思わ された。つげ義春の独自の世界も、他のメディアで表すことは不可能だろう。ナレーシ ョンを排し絵だけで全てを伝える手法にそれぞれ工夫が凝らされており、唸らせられる ものがある。 メディアのビジュアル化、マルチ化は今後ますます進むだろうから、マ ンガの前途は開けており、より多彩な発展を遂げる可能性を秘めている。ただ、息子が 読んでいる週刊誌を覗いてみても読むに耐えるものは少なく、食欲をそそられない。読 者を見くびり、げすの根性に媚びたような粗製乱造が続けば、ブームもバブルと化しマ ンガ離れを招来しよう。このままでは、市民権を得た日本のマンガと言えども、今後何 度となく行き詰まりかねないが、その度に手塚の残した“宝の山”が再発見されること になるだろう。なにしろ、手塚はモーツアルト同様、時代を先取りした百年に一人の人 だったに違いないのだから。
(注1)日本はアニメの水準も高いが、忘れられないのは、「銀河鉄道九九九」「げげげの鬼 太郎」「魔女の宅急便」などである。ただ、ディズニー・プロも相変わらず健闘してい て、「魔女と野獣」など、日本ものでは及びもつかないことを、ちゃんとやってのける 。
旅先で読んだ新聞に奄美大島で捕まった巨大ハブの写真が載っていた。なんと二メー トル十九センチもあり、重さが三キロもある。ハブがこれほど大きくなるとは知らなか った。山道でこんなのに睨まれたら、私などすくみ上がって一歩も動けなくなって仕舞 うだろう。くわばらくわばら、と思った途端、ちょうど将棋の名人位を取ったばかりで 、その頃ジャーナリズムにさかんに登場していた羽生善治五冠王の顔が浮かんできた。
そんな連想が働いたのも、羽生名人のハブニラミは将棋界ではとみに有名で、皆から 恐れられていたことを知っていたからである。将棋界の記録をことごとく書き直す勢い を示している新名人だが、「恐るべき子供」と言われた時代から、対局の最中に上目遣 いにジロリと対戦相手の顔を睨む。睨まれた相手は、蛇(ハブ)に睨まれた蛙同様、手 も足も出なくなり、あっさりひねられてしまうと言うのである。
いまさら天下の名人をハブと比べるのは失礼だが、新名人は、いまや将棋界では今回 捕まった史上二位の巨大ハブ以上の存在である。七つしかないタイトルのうち五つまで も独占し、しかも今回の名人位奪取は、名人戦リーグ初参加でいきなり挑戦権を獲得し 、初挑戦での戦果である。名人位を奪われた米長九段は、昨年七度目の挑戦でやっと名 人位を手にし、四九歳、最高令の初就位として騒がれた人である。羽生名人は、米長九 段と親子ほど歳の違う二三歳、プロ棋士になって九年で棋界の最高峰に一気に上り詰め た。名人位を獲得するまで五百三戦して四百七勝、勝率は八割を越しているのだ!しか も、今回の挑戦手合では定跡にチャレンジしてみたいと、一局一局手を変え品を変えた 戦法を用い四対二のスコアで快勝した。定跡にこだわらない戦法をこんな大舞台で使う 勝負度胸といい、チャレンジ精神といい、人間としてのスケールの大きさには敬服する よりない。
いきなり羽生名人の紹介みたいなことを書き綴ったのも、かねてから将棋界に並々な らぬ関心を持ち(タイトルの帰趨から林葉直子の失踪まで)、とりわけこの恐るべき羽 生五冠王に注目し、戦前からおそらく名人位を奪うに違いないと予測していたからであ る。
勝負事では私は碁が大好きで今もかなり打っているが、将棋は実戦から遠ざかって久 しい。弟が二人おり、小中高時代には兄弟揃って専ら将棋を指していたのである。とこ ろが碁を覚えるに至って三人とも碁打ちに転じてしまった。勝負が激しい将棋に比べる とじっくり打てる碁の方が性に合っている。といって将棋が嫌いになったわけではない 。囲碁はハンディのつけようでかなり腕が違った相手とも対戦できるが、将棋ではハン ディをこまめに付け難くく、手合い違いの試合になりやすい。手合い違いとおぼしき相 手に文字通り手も足も出ないように押さえ込まれると頭に来る。これも碁に転じた理由 の一つである。
碁では、直ぐ下の弟は私と互先だが九州の田舎で七段格で打っている 。一番下の弟が我々に三子の手合いだ。だから、兄弟が顔を合わせると早速碁盤を引っ 張りだす。しかし、みんな将棋への関心を失ったわけではないので、「羽生は若かくせ 強かねぇ」といった話も通ずる。囲碁将棋と纏めて扱われるゲームだから、碁に関心が あると自ずと将棋の情報にも詳しくなる。新聞の観戦記でも将棋は碁と並んでおり、つ いでに読んでしまう。NHKテレビの日曜の対局番組でもペアになっている。碁は毎週 録画もして欠かさず見るが、将棋も序盤はさておき終盤の息を呑む寄せ合いになるとテ レビの前に釘付けになる。衛星放送でも「碁・将棋ウイークリー」とペアになっていて 、どちらか一方の棋界情報を袖にするわけにはいかない。衛星放送では丸々二日名人戦 の生中継もするが、終局後の大盤解説は見落とさない。今回は三−〇から三−二まで米 長が盛り返したが、最終局は「タイトルを決めた将棋が一番よく指せました」と羽生が 語ったような名局だった。いつものことながら、羽生の寄せはまことに芸術的で溜め息 を誘う。まさしく名人芸と言うに値する。
パソコン時代になり、タイトルは全てメカ に強い若い人が独占してしまった。その日のうちに棋譜を電子メールで取り寄せ研究す るのだ。羽生の研究書『羽生の頭脳』はプロも愛読しているらしい。「将棋そのものを 変えていく男」とまで言われる新名人のことだ。少々手の内を見せても頓着せず、将棋 の可能性を更に大きく拓きそうな予感がする。
現役の棋士でかつ腕も立つライターとして囲碁界の中山典之六段に匹敵するのが河口 俊彦六段である。彼の『一局の将棋一回の人生』『将棋界奇々快々』は棋界の内情をう がち棋士の心理を抉ってなかなか読ませる。将棋界には、囲碁界に比べても、想像を絶 する天才異才がひしめき、奇人変人もゾロゾロいるらしい。大山・升田の対立時代ほど 対抗意識は激しくなくても勝負師達の世界である。誰もが一国一城の主で、お互いに何 するものぞとの気概を持って激しく火花を散らし合う。純粋に思考のゲームに見える将 棋がその実極めて人間臭い営みであるところがうかがえて傍目にも面白い。
伝統を誇る名人戦では、長期安定政権を樹立したのは木村・大山・中原ぐらいで、そ れ以外は短命に終わっている。名人位を九分九厘手中に収めながら震えて逆転負けを喫 し、そのまま二度と舞台に登れず消えていった人もいる。名人位にはそれだけの重みが ある。中原永世名人を継ぐのは谷川王将かと思われていたのだが、もう一世代若返って 羽生になりそうな雲行きだ。しかしその羽生とて今冬、名人位に並ぶ竜王戦では、同世 代の佐藤康光七段の挑戦に苦杯を喫したように、一挙に羽生時代を築き得るか予断を許 さない。現在進行中の棋聖戦では、谷川王将が羽生棋聖に再挑戦している。驚異の羽生 から脅威の羽生になるか。外野席から胸をわくわくさせながら眺める材料に事欠かぬ。 実に楽しみだ。
(注1)私の将棋の実力は、学生時代将棋部で活躍した人に大駒落とし程度だ。職場に将棋好 きがいたときは、かなり対局した。職場の将棋大会にも出たこともある。その頃は原田 の将棋入門を買って勉強しもした。やぐらや振り飛車の定跡も覚えたのだが、碁と両立 させるのは難しい。ポーランドに滞在した時代にはチェスを指したが、これには将棋の 手筋が大いに役に立った。今でも詰め将棋は、旅先の暇つぶしに挑戦したりする。
(注2)贔屓の棋士と言えば、一八歳で名人リーグに入り天才と持て囃された加藤一二三九段が ゴルフのニクラウス同様、私と同年同月の生まれとあって、密かに声援を送って来たの だが、一期だけ名人位についたもののその後はおおきなタイトルととは無縁でニクラウ スに引き比べると、今一つパッとしない。それにもかかわらず、すんなり初挑戦で手中 に収める羽生名人(の人間性)は、やはり、ただものではない。 若い人ではこの羽生名人や、長崎県出身ということで昨年の全日本トーナメントを制した深浦四段 、らに注目している。
(注3)いまはもっぱらテレビの対局や新聞の将棋欄を読むことに楽しみを見いだしている。原田八段の入門書を持っているとふれたが、彼はネーミングの才があり、中原自然流、 米長さわやか流などと巧みに名付ける。大番解説も面白い。 二上会長とも座談会でご一緒し、その門下生の羽生名人の話をしたこともある。 隠れた名文として最近紹介された倉島竹二郎の将棋欄はまだ田舎にいたころ毎日新聞で 楽しんだものだ。
CLUB MED(地中海クラブ)は一九五〇年にフランスで生まれ、いまや三四ケ 国に一一八のバカンス村を擁する世界最大のバカンスクラブだが、日本にはここしかな い。
初日、帯広空港からバスで約一時間半揺られて、到着したのが午後三時。いつも のことながら、バカンス村に着くと村長さんを先頭にGO(Gentle Organizer)の歓迎隊 が待ち受けていて大歓迎してくれる。この鳴り物入りの歓迎を受けるとバカンス気分が 一気に盛り上がるのである。GOは、日本人と外国人が半々、男女も半々で総勢九〇人 、殆どが若い人だ。約五ケ月のシーズンの間、バカンス村に泊り込み、GM(お客のこ と)にスキーを教え、ショーを演じ、ホテルを運営し、料理を作り、一緒に食事をし、 一緒に遊ぶなど一人何役もこなす。シーズンが終わると他のバカンス村に移っていく。 賃金は安いらしいが、いろんな国を見たり、変わった経験をしてみたい若者には都合が いい。
到着後、早速滑ろうと大急ぎで支度する。妻は、初心者用のTバーに行くというので 、娘と二人で、二人乗りの第六リフトへ向かった。天候が悪く、四時過ぎには、ナイタ ー設備も灯ったが、雪の凹凸がよく見えない。初日の足慣らしでもあるし、無理は禁物 と十本ほど滑って引き返した。ところが、とっくに上がっていると思っていた妻がまだ 帰っていない。さんざ心配していると、五時過ぎ、顔を上気させた妻が「ああ、面白か った」と言いながら帰ってきた。妻も今やすっかりスキーが病み付きになってしまった ようだ。
その後、プールで一泳ぎし、露天のカナディアンバスやジャクジーを楽しみ、七時か らの夕食を待ち兼ねるようにしてレストランへ向かう。サホロのいいところは、何とい っても食事が美味いことだ。朝昼夕、三度とも、ビュッフェ形式でオードブルからデザ ートまで、バラエティ豊かな料理を自由に選べる上に、夕食は趣向を凝らした日替わり のフルコースも楽しめる。昼夕は紅白のワインも飲み放題。デザートもストロベリーや 、ケーキビュッフェなど日替わりで出てくるので、飽きることがない。いつも、ほんの 少しずつのつもりで食べるのだが、それでも普段の二倍は食べてしまう。太らないで帰 ってくるのが大変なのだ。八人がけの丸テーブルに係のGOが案内してくれ、GMだけ でなく、GOも同席して話が弾む。香港のニューイヤーと重なったせいで香港からのG Mが多い。
八時四五分から、シアターでGOショー。時々観客も動員して、小気味のよいテンポ でミュージカルあり、踊りあり、コミックありの楽しいショーが展開される。演ずるの は全員GOだが、みんな驚くほど芸達者だ。お尻の線を強調したタイツ姿で「ニューヨ ーク・ニューヨーク」のライザ・ミネリを演じたのは、本職はコック。実に上手く振り 真似をする。一〇時一五分からは、ロビーでちょっとエロチックな寸劇主体のフランス ・キャバレー。日によっては、ダンス・ショーやゲームのコンテストなどが催される。
バーやディスコはいつもオープンだし、スカッシュ、ピンポン、ビリヤード、テニス 、シルクペインティングなども楽しめる。サホロの夜は何時までも更けない。
二日目以降は、名々スキースクールに入って滑った。八クラスのきめの細かいクラス わけがされているので、自分の技量に合ったクラスを選べる。一グループは多くて十人 程度。私は娘共々、2A(パラレルターンの出来る人のクラス)に、妻は1A(ボーゲ ンで連続回転が出来るレベル)に入った。われわれのグループの先生は日本人で幸弘、 金沢の出身だった。グループは、多いときで十人、少ないときで五人だったが、東京、 大阪や広島、名古屋から、それに台湾、香港からとまちまちだった。台湾の王さんとは 、三日同じグループだったのですっかり親しくなり、別れるとき再会を約した。
天候のほうは強い低気圧が来ていて、風が強いうえに、北海道らしくない、たっぷり 水気を含んだ雪が小止み無く降り、スキーウエアがびしょびしょに濡れる始末。ゴーグ ルにもすぐ張りつくので視界が悪い。しかし、生徒はやる気満々、先生の指示に従って 喜々として滑る。三日目も横殴りの強い風が吹くのは相変わらずだが、雪は少し乾いて きた。レッスンは午前は九時一五分から正午まで、午後は一時一五分から四時まで。先 生の後をついて滑ったり、一人ずつ滑って先生の講評を受けたりを飽きもせず繰り返す のである。
四日目、やっと天気が回復し、風も止み、絶好のコンディションになった。山頂から の視野も開けて、やっと十勝平野の広大な全貌が姿を現した。十時からスラロームのレ ースが行われ、3A、3B、2Aクラスから、五七人が参加した。私のグループは八人 全員参加したが、私一人が入賞し、ブロンズメダルを貰い(二十位)、皆から祝福を受 けた。
このCLUB MEDは、さすが、バカンス先進国フランスのクラブだけあって、ソ フトが優れていて、ここに滞在している間、全く退屈することがない。押しつけがまし いところは一切なく、様々な楽しみのコースを自由選択させて全員に満足感を与える手 法には感心させられる。「おやすみ」という言葉を、家族とその日一日に対する満足感 とともに言い合える日はそれほど多くないのだが、間違いなくサホロにいる間だけは何 時も満足して「おやすみ」と言えるのである。でも、もう明日は、テレビも新聞もない 別世界から、現実世界に戻らなければならない。
「おやすみ、わたしの短いバカンス」
ところで、こんな重みのある星取表と同列に語るわけにはいかないが、私は私なりに 、ささやかな星取表をつくり(しかも、三つも)、日頃、一喜一憂しながら書き込んで いる。どれも趣味に属することなので、白星だろうが黒星だろうが、生活が浮いたり沈 んだりする心配はいささかもないが、長年続けていると、生活に張りをもたらす点では なかなか捨てたものではなくなって来るのである。
まず、テニスの星取表。テニスは、小学五年のときに初めてラケットを握って以来の 趣味だから、私の趣味の中では、トップランクを占める。今も、休みの日、暇さえあれ ばテニスコートでボールを追いかけている。前の職場のテニス・クラブでも、三十年来 のメンバーである。そのクラブは年間、十二回ほどの対外試合を催すが、出来るだけ、 都合をつけて参加することにしている。参加すれば、二試合から多いときで六試合こな して帰ってくる。一セットマッチだから、それほど負担ではない。その成績を全部、こ の星取表に白黒の星で書き込むのである。これがなかなか楽しい。パートナーや試合相 手の名前も記入するので、顔馴染みとの対戦成績もわかる。試合後の懇親会での挨拶の 材料にもなる。シーズンが終わると、年間成績を集計する。昨年は久しぶりに、全試合 出場を果たし、皆勤賞をいただいたうえ、四二戦三〇勝、試合数、白星数とも、生涯最 多を記録できた。
次に、碁の星取表。碁も私の趣味のなかでは、テニスに並んでランクが高い。覚えた のは中学生のときだから、歴史も古い。このところ、月に一回ないし二回、プロのお稽 古碁の会に出るくらいしか打たないので、回数はそれほど多くないが、碁の週刊紙を欠 かさず読み、NHKや十二チャンネルの囲碁番組はビデオにとって必ず見るのだから碁 好きという点では人後に落ちない。
星取表を見ると、一昨年が七二試合で四四勝二八敗、まあまあの成績だったが、去年 は七一試合で三二勝三九敗と負け越した。ただ、プロに二子で勝った金星が三つあるの で、これを自らを慰める材料にしている。一番多く打ったのはすぐ下の弟で三六回。母 の法事などもあり、田舎に四度ほど帰ったが、そのたびに寸暇を惜しんで打ったのであ る。しかも、オール互戦で、一八勝一八敗の全くの五分の星。これも、いま星取表を数 えてみて初めて分かったのだが、これほど、つば競り合うのも珍しい。こんなことが分 かるのも、星取表をつけるメリットのひとつだろう。
家内もこのところ碁に興味を覚え、初心者向けの囲碁教室に通っているので、早く強 くなって対戦できるようになって貰いたいものと思っている。そうなれば、対局数は飛 躍的に増えようし、星取表を見せ合い、勝ち星を競い合うこともできるようになるだろ う。
最後が、読書の星取表。読書も小さな時からの趣味だったが、昔と比べると、読書の 仕方が様変わりしてしまった。まず、本の買い方が大幅に変わった。昔は、読書量に応 じて本を買っていたが、今では、読書欲に応じて買うようになった。つまり、読めるか 読めないかに関係なく、読みたいと思ったら買ってしまうのである。その結果、読めな い本や読みさしの本が、やたらと増えることになった。読書の方法も大幅に変わって、 一冊一冊読了してから次の一冊に取り組むといったやり方から、とにかく手当たり次第 に数冊から数十冊を平行的に読むようになった。そこで、買った本のうち、どの本をど の程度読んだかを管理するために、読書の星取表を思いついたのである。
本を買うと、まず、ブックリストに書名、著者名、購入日などを記入し、その右端に 白星を書き込む。それを読んだ量に応じて、円グラフを作る要領で時計の針の進む方向 へ黒く塗りつぶして行くのだ。全冊読みおわると黒星になる仕掛けである。だから、こ の星取表の場合、力士がいみ嫌う黒星が多いほど、逆に喜ばしいのである。平行読みを しているため、ばたばたと短時日のうちに黒星を稼ぐようなことも起こりがちで、一月 当たりの黒星数には、一から十までのひらきがある。黒星を取りやすいのは、推理小説 とか、碁やゴルフなど趣味に関する類の本である。現代人の必読書とか古典的名著など といううたい文句や書評に釣られて買った大冊などは黒星になるのは稀で、うまくいっ て午後六時で、ひどいときは、前書き分に相応する縦線一本が正午の針の位置で、止ま ったままになることがある。いや、全くの手つかずで、白星のまま放置される本も結構 多い。なにせ、昨年は、いそいそと本屋や古本市に足を運び、ぴったり三〇〇冊も購入 したのに、黒星を獲得したのが六六冊、二割二分の低い勝率に過ぎなかったのだから。
今年も、この三つの星取表に、ひとつでも多くの白星なり黒星なりを書き込まんもの と一喜一憂しているうちに、たちまち千秋楽、大晦日を迎えてしまいそうな気がする。
この曲との出会いは、まったく偶然だった。
三年間赴任したワルシャワで、LPレコードのコレクションに精を出していた頃のこ とだから、もう十五年も前になる。日本のレコード一枚分で十枚以上も買えたものだか ら、足しげくレコード店に通い、めぼしいものが見つかると、何の躊躇もなく買い込ん だ。音楽好きにとっては、後にも先にもあれほど幸せな時代はなかった。
ある日、例によって、レコード店に立ち寄り、あれこれ物色していると、ジャケット にアフリカ的な紋様をデザインしたレコードが目に止まった。当時作曲家のオルフとい う名前も、「カルミナ・ブラーナ」という曲名も、まったく知らなかったのだから、興 味を引かれたのは、そのデザイン以外の何ものでもなかった。何となく、アフリカ的な ものへの憧れがあり、その音楽に接してみたいと思い、買うことにしたのである。
帰宅後、これもお決まりのコースで、その日買ったレコードを一枚一枚試聴する。こ の名前さえうろ覚えのレコードの番になったとき、アフリカ的なメロディーを半ば期待 しつつ、針を置いた。曲が鳴り響き出した瞬間、私は頭にガーンと一撃食らった。
「一体これは何だ?!」
私は叫ばずにはおれなかった。これまで聴いたどんな音楽とも違っていた。たちまち、 管弦楽とコーラスの織りなす世界に、ぐいぐいと引きずりこまれていった。火花を散ら すような激しさで、体内に宿る最も原始的な生命力そのものに直に働きかけてくるリズ ムとメロディーにすっかり圧倒されてしまった。
聴き終わっても、しばらく呆然としていた。体内にはなんとも言いがたいエネルギー が湧き上がり、生命力が充溢し、すかっとした感覚が残った。
早速、曲の来歴を調べてみると、作曲家のオルフは、一八八五年生まれで、二十世紀 のドイツを代表する作曲家の一人であり、世俗カンタータと名付けたこの曲が彼の代表 作であることが分かった。中世の流浪僧や吟遊詩人の書いた同名の歌集から二四の詩を 選び付曲したもので、その歌集は、言語も、ラテン語、独仏語、俗語、卑語と様々なら 、内容も酒、女から恋の歌、神話まで種々雑多である。
帰国後も、元気が失せてくると、この元気の出るレコードを聴いた。NHKテレビで の演奏の録画もした。一九八二年には、オルフの死去を新聞記事で知り、哀悼の意を表 した。 今年の六月、サントリーホールにダン・タイソンのピアノ・リサイタルを聴き に行った際、貰ったチラシの中に、同ホールの開場六周年記念コンサートに、この曲を 演奏するとあった。直ちに切符を手配したことは言うまでもない。
その十月十二日、私は期待に胸を膨らませて、妻ともどもサントリーホールに赴いた 。S席は一万八千円もするというので、今回はC席にしたが、これが逆にこの曲を聴く に極めて向いた席だった。このホールはアリーナ型ワインヤード形式と言われて、ステ ージを四方から取り囲む様式になっているが、我々の席は、ステージの右側で上から見 下ろす位置にあった。N響をやや左斜め後ろから、東京少年少女合唱団を真横から、ス テージの後ろの席に陣どった東京芸術大学合唱団は丁度同じ高さの右手から、まるで楽 屋裏を覗き込むような親しさで見ることができた。管楽器が大活躍する曲だが、いつも は弦楽器奏者の後ろに隠れて見られない、管楽器奏者の細かな仕草まで掌の上にあるよ うに見られるのだ。消音マフラーを付けたりリードを湿らせたり、自分のパートが終わ って、楽器の形状に合ったスタンドに置く様子や、楽譜の五線まで見える。指揮者の表 情もよく分かる。合唱団との距離も一番近い人とは五メートルも離れていないから、一 人一人の細かな表情も見える。難なのは、ソプラノやテナーのソリストの表情がいまい ち見にくいことぐらい。
指揮者は、髭の大男のグスタフ・クーン、総暗譜でこの大曲を指揮するのだから驚き である。冒頭の「運命の女神、世界の女帝よ」から、もう全観客が、完全にこの曲の虜 になった。静かに席に座って耳を傾ける曲ではない。曲に引きずられて、身を乗り出し 、リズムに合わせて身体を揺すり、自ら天に昇り地に這い、喜びと悲しみとを表に現し て聴かざるを得ない希有の音楽なのだ。荒々しさと優しさと、高潔と卑猥と、歓喜と悲 哀と、明と暗とを織りなし、四季の巡りに合わせて人生の流転を感得させながら第三部 に至り、「ああ、美しい人よ」と歓喜の頂点に達した瞬間、曲は一転荘重な冒頭の曲に 戻る。その同じ調べを、聴衆は、実に様々な人生経験を積んだ上で聴く気持ちで聴くこ とになる。人生の、一筋縄ではない深みと奥行きとが、曲の奥行きの深さと豊かさとに 見事に融け合う。
演奏が終わると、熱狂した観衆の、ブラボーと叫ぶ声と拍手とがいつまでも止まなか った。オーケストラも二つの合唱団も、シルヴィア・グリーンバーグをはじめとする三 人の独唱者も指揮者も、全部素晴らしかった。私はといえば、もう感激して、涙が溢れ そうになって弱りはて、無我夢中で手をたたいているのだった。初めて聴いたという妻 も、すっかりこの曲の虜になってしまっていた。
定番になっている、帰りの飲茶の店での夕食の間中、二人の口を突いて出てくるのは 、この曲への賛嘆であり、演奏への感嘆の言葉ばかりだった。
阿部毅一郎
一月中旬の休日の朝のことだ。
「ほら、見て、四十雀が柿の木の枝に刺したリンゴをつついているでしょう」 妻が興奮気味に言う。居間のガラス戸越しに庭を見ると、なるほど、黒いベレー帽を被 ったようないでたちの四十雀が周りを警戒しながら盛んについばんでいる。しばらくす ると交替でヒヨドリもやって来た。試しに、庭木にリンゴを刺すことにしてみたら、い ろんな鳥が食べに来るというのだ。
かねてから、庭に餌台を置きたいと思っていた。狭い庭だけど、時折、目白や四十雀 やヒヨなどがやって来る。来れば息を殺して見るくらい野鳥は大好きなのだ。だから、 新聞広告で日本野鳥の会が販売している英国製の洒落た餌台を見つけ、できたらこれに しようと狙いは定めていたのだが、一台七五〇〇円もする上に、設置しても毎朝早く家 を出るサラリーマンの身で、一人で世話するとなると大変である。それで、言い出しか ねていたのだが、妻がリンゴを庭木に刺すほど鳥に関心があるのなら、願ったりかなっ たりだ。提案すると、二つ返事で設置しょうということになった。新聞広告を捜したら 、好都合にもその日の新聞に載っているではないか。しかも、電話注文も可という。善 は急げとばかり、受話器を持ち上げると、妻は一台ではなく、二台欲しい、庭の右と左 に一台ずつ置きたいというのだ。もちろん異論はない。野鳥の会に電話すると、二週間 後に届くという。
北海道への四泊五日のスキー旅行から帰ってみると、餌台が届いていた。翌日、会社 から帰ると、妻がもうちゃんと設置していた。沙羅を挟んで、右手のは柿と楓の間、左 手のは梅とツツジと馬酔木に囲まれた箇所、ガラス戸から二メートルと離れていない。こんな に近くて大丈夫かと心配すると今日も早速いろんな鳥が来たという。餌台は、プラスチ ック製で、パンくずや穀類を入れる赤い屋根付きの窪みと、露天の水飲み場、ナッツ類 を入れる小さな赤屋根付きの網状の筒との組み合わせになっている。果物を置くスペー スもある。
餌台を設置して以来、目白、四十雀、ヒヨなどの野鳥が毎日びっくりするほど大勢来 るようになった。鳥の情報網も捨てたものではない。だから、会社帰りの第一声は、決 まって「今日も沢山来た?珍しい鳥は来なかった?」ということになった。出勤前にも 餌台を見て、たまに、四十雀の番が来ていたりすると、それだけで終日、心が和む気が する。
四十雀は、雀よりほんのすこし小さいが、頭に黒いベレー帽を被り、頬や胸は白く、 羽は白黒の縞の模様で背中のところは薄く黄緑がかっている。動作は活発、ナッツ類が 好物で、網の目の間から盛んにつついて食べる。目白は、更に一回り小さく、背は黄色 を帯びた緑、動作は敏捷で、盛んに首を回して周りを警戒する。眼の周りが白いので、 眼のクリクリした腕白坊主が活発に動く様を彷彿させる。みかんなどの果物が大好物だ 。
庭に来る鳥の中で一番威張っているのがヒヨだ。雀の二倍はあり、背中は青黒く、胸 腹部は灰色を帯びた青色で、頭の毛が逆立っており、鳴き声も動作も猛々しい。双眼鏡 で見ると一番見映えがする。餌台に他の小鳥がいるとビューンと威嚇するように飛んで きて、追い払う。時には、庭の奥の栃や樫の茂みの中に番で潜んでいて、他の小鳥がや って来るたびに、飛び出してきて追い払う悪さもする。雑食性と見え穀類やパンや果物 など何でも良く食べる。ふかしたさつまいもをあげると、嘴を黄色く染めてうまそうに ついばむ。
ある日帰ると、今日あまり見かけない鳥が来たと妻や子供たちが言う。話をきくとど うも鶯らしい。都会育ちの妻子に比べれば、田舎育ちで小さい頃から馴染んでいた分、 野鳥についての知識は上回っている。次の休日に、その鳥がやって来てやはり鶯である ことを確認した。鶯は、ほぼ雀と同じ大きさで、地味なオリーブ色、動作はおっとりし ており、ふっくらした体の線をしていて、椿やツツジなどの木の陰を好む。囀れば鶯と すぐ判るのだが、二月のこの時期、ほとんど鳴かない。四十雀とは仲良く一緒に餌台に 乗る。
もともと野鳥は大好きで、軽井沢に行く途中にある、小根山野鳥の森に往きも帰りも 立ち寄り、バードウオッチング(BW)を楽しんだりする。そこの資料館で、野鳥の標 本を見、ビデオで、都会におけるBWの手ほどきも受けた。七千円もする「世界の鳥」 や、ローレンツ博士のコクマルカラスの本(「ソロモンの指環」)、「鳥たちをめぐる 冒険」、「野に舞う翼」、「日本の野鳥」(野山編、水辺編)、「都市鳥ウオッチング 」、BW入門書など色々と買い込み、写真や文章を通して親しんで来た。しかし、実物 を日常的に身近に見る楽しみに勝るものはない。BWの人気が最近とみに高まっている のも頷ける。
わが家の庭は、猫の通り道でもある。白、ブチ、三毛、黒、黒白、様々な猫が、悠々 と通り抜ける。いつもは、都会人同様仮面を被ったように無表情な都会猫だが、餌台に 小鳥を見つけると、悪戯小僧さながらの生き生きした表情で、柿の幹にガリガリと爪を たて、威嚇する。小鳥も心得ていて、なんだという顔をしているが、しばらくするとパ ッと姿をくらます。猫は、自分の威光を確認した水戸黄門よろしく、ご満足の体で歩み 去るのだ。
休みの日など、野鳥を見ているといつまでも飽きない。新宿の高層ビルも 見える都心にこんなに沢山の野鳥がいるかと思うほど次々とやってくる。本当に用心深 く、あっちの枝、こっちの枝と飛び回り、狙いの餌台に少しずつ近づいてくる。私はそ んな野鳥の努力を無にしたくないので、息を潜め、カーテンの陰から見ることにしてい る。家族はモ少し大胆だが。ただ、鳥の来る時間帯は決まっていて、来なくなったら一 羽も来ない時もある。
わが家の前の屋敷には大きな日本庭園があり、野鳥が沢山来て いたが、七年前にマンションになってしまった。こんなことは日常茶飯事だろうから、 鳥の住処は、それほど増えているとも思えないが、都市の構造に順応して鳥が次々に帰 ってきていると言う。その証左を見た思いがする。植えて十年になるわが家の庭木の茂 みも少しは役に立っているのだろうか。野鳥に餌を与えるのは、冬の間だけで十分と言 われているが、大都市でも同じなのだろうか。せっかく、餌台を頼りに訪ねて来るのな ら、大切にしてやりたいものだ。
いまや、どの鳥が何が好物で、いつ頃やって来るかなどについては、妻のほうが詳し くなってしまった。その妻が、今までに見たことのない珍しい鳥が来たというのだ。次 の休日にその鳥がやって来て運良くお目にかかれることを、私は今から心待ちにしてい る。
物心ついた頃から、映画フアンだった。戦争直後の何もない時代、いつもひもじい思 いをし、接ぎあてだらけの服をきた子供にとっては、スクリーンの中に展開する世界は 、パラダイスだった。映画を見ること自体が贅沢で、回数は決して多くなかったものの 、いつも胸をワクワクさせながら食い入るように見たものだ。だから、「ニューシネマ パラダイス」の映画にのめり込む主人公の坊やの姿に、自分の子供時代とが二重写しに なった。
小学校時代には、先生に引率されて見に行ったものだ。「ターザン」、ウオルト・デ ィズニーの「白雪姫」、「シンデレラ」や自然記録映画、文部省特選の「路傍の石」、 「鐘の鳴る丘」「あすなろ物語」や「鞍馬天狗」などを覚えている。「アーアーアー」 と雄叫びを挙げながら助けに向かうターザンや、馬に跨がって杉作少年の救いに駆けつ ける鞍馬天狗に、友達と競って、拍手をしたものだ。「砂漠は生きている」中で、シャ ボテンの花の咲くシーンを見た時の感動がいまも残っている。
三益愛子主演の母親ものや小津安次郎の映画は母に連れられて、家族そろって見に行 った。立錐の余地もない観客席で、立ち見していた次姉がいきなり転倒した。驚いたこ とには、まだすやすや眠っていた。
当時の大スター中村錦之助や東千代之助が活躍する 「笛吹き童子」のシリーズなどは、熱中して聴いたNHKのラジオ・ドラマの映画化だ ったので見たかったけれど連れていって貰えず、友達の話をうらやましげに聴いたもの だ。小学校の校庭には巡回映画が時々やってきた。フィルムは途中で良く切れたし、蚊 もいたけれど少しも苦にならなかった。
食物にも、着るものにも不自由しがちの私の幼い頭には輝けるアメリカ、輝けるハリ ウッドが焼きついた。アメリカは美男美女の溢れる豊かな国、夢の国、憧れの国に映っ た。日本映画が白黒なのにアメリカ映画がカラーだったことも、その思いを高じさせた 。
九州から上京後の学生時代、就職したての頃も、娯楽の主流はまだ映画で、他に対抗 できる娯楽がなかったという意味で、わたしの世代は純粋な映画世代ということができ るだろう。暇があると真先に映画を思い浮かべ、昼食は、コッペパン一つで我慢しても 、渋谷や新宿の二本立て三本立ての名画座に通ったものだ。社会派から文芸物、恋愛物 から西部劇まで映画と名が付けば何でもよかった。六十年代に差しかかった頃で、幸運 にもちょうどハリウッド映画の全盛期で、映画史に残る名作が目白押しだった。
だから、高松や札幌での単身赴任時代も、映画は、最も身近な愉しみだったし、慰め だった。高松では、文芸大作からAVもどきまで映画館で見た。ただ、狭い土地柄だっ たのでAVものの時には、相当神経を使わなければならなかった。札幌では映画館へ行 くより、テレビで見たり、映画への関心を、淀川長治ら映画大好き人間が薀蓄を傾けた 鼎談集で大部な「映画千夜一夜」を読むことで紛らした。この三人ではないが、私も気 の合った映画好きと映画について話し始めたらもう止まらない。映画は確かに人を饒舌 にする。
「雨の朝パリに死す」。これは高校時代に見たのだが、「若草物語」などで少女時代 から知っていたエリザベス・テイラーが美しさの頂点にあった頃の映画だ。あの佳人が 、予想もしない運命に翻弄されて、あっけなく死んでしまうことの不条理に涙を流した 。大学時代には、「ローマの休日」や「懐かしのサブリナ」、「昼下がりの情事」のオ ードリーヘップバーンの妖精のような美しさに憧れた。
好きな女優や男優の名前を挙げはじめたらそれだけで紙数がつきてしまうだろう。憧 れの女優は殆ど年上だ。モーリン・オハラ、イングリッド・バーグマン、キム・ノバッ ク。今の若い人には何の記号かと思うに違いないが、MM、BB、CC...(日本女 優の名を明かさないのは、女房対策である)。
男優なら、マーロン・ブランド、ゲーリ ー・クーパー、バート・ランカスター、ヘンリー・フォンダ...監督なら、エリア・ カザン、ジョン・フォード、ジョン・スタージェス、ヒチコック、ビリー・ワイルダー ...
「映画千夜一夜」の中で、淀川長治が、リリアン・ギッシュなど、ひと昔前の俳優の名 前を懐かしそうに挙げるのだが、私が挙げた名も、今の世代の人には、既に過去の人ば かりだ。今や、自らが恋愛事から遠ざかったせいかファン心理に必要な憧れの要素が薄 れてしまい、新しいファンの対象は増えなくなった。メリル・ストリープやブルック・ シールズやトム・クルーズも「悪くないね」とはいえ、「ファンだ」とは言いにくい のだ。憧れの気持ちが明らかに少なくなった。昔、憧れていた女優のなれの果てを知っ たことも確かにこの事を助長する。人の一生を、その表と裏とを、映画俳優を通して見 てしまったのだ。その意味では、親近感をもって俳優を見るようになった。要するにス ターの神秘性が消滅した一方で、自らも枯れてきたのである。
テレビの日曜洋画劇場は、私が結婚した年に始まった。新婚当初妻とふたりして仲良 く一緒に見たものだ。昨年、われわれは銀婚式を迎えたが、同劇場の25周年記念と重な った。「さよなら さよなら さよなら」をなんど聞いたことか。
今や、映画館はたまにしか行かなくなった。テレビ放送か、レンタル・ビデオでお茶 を濁せるという意味では、現役パリパリの映画ファンと言うより、既に昔見た古き名画 を懐かしむオールド・ファンに近い。
比較的最近映画館で見た映画では、(と言っても随分旧聞に属するが)、「ダンス・ ウィズ・ウルブズ」「アマデウズ」「フィールド・オブ・ドリームズ」などがよかった 。「バック・ツー・ザ・フユチャー」の徹底した遊びの精神も捨てがたい。「たかが映 画じゃないか」と思うけれど、「されど映画だ」と言わざるを得ないこうした作品に出 くわし、心から「参りました」を言わされる愉しみは、なかなか捨てがたい。映画館の 大きなスクリーン一杯に、人間の創造力、イマージネーション、感受性の極致をきっち りと定着して見せつけられると、感動を覚え、やはり、映画は映画館での思いを深くす る。音と色彩と構図の極め付きに酔わされ、その都度、やはり、人間はすごいと思い、 人間への信頼を再確認する。
水野晴雄の口癖ではないが、「いやー映画って、本当にい いものですねー」。
ゴルフ・コンペの前日ににわかに仕入れたアドバイスなど、百害あっても一利もな いことは百も承知している。そのくせ、週刊誌などをめくっていてプロゴルファーの一 口アドバイスを見つけたりすると、つい読まずにおれなくなる。「飛距離を出すには左 肘の折りたたみを早く」「左手甲をボールにぶつけるフィーリングでボールを打て」こ んなヒントを読んでしまうと、翌日は、左手ばかりが気になって、そのためだけではな いにせよ、スコアは目茶目茶になり、上位入賞の望みなどたちまち吹き飛んでしまう。
ゴルフは相変わらず中級の下と言った程度の腕前だが好きである。好きだけど練習場 へは行かない。そのくせ本はあれこれ読む。だから常に頭でっかちなのだ。そのうえ、 にわか仕込みの情報まで背負いこんでコースに出る。これではその重みにひしゃげてス イングがぎくしゃくし、いいスコアが出るわけがない。練習場に行かないのは近くに適 当なのがないせいでもある。わたしはテニスも好きだが、歩いて五分のところにコート があるので、暇さえあれば顔を出す。だから、コートを走り回れなくなったら、少々遠 くてもゴルフ練習場に通い腕を上げようと思っていた。ところが話はそれほど単純では ないらしい。というのは、ゴルフは、なかなか一筋縄で行くものでないことが分かって きたからである。
テニス仲間でしかもゴルフの名手から、ゴルフとテニスの本質は同 じだよ。ゴルフが分からないのは、テニスも分かってない証拠だ、と言われた。その人 よりテニスの腕はすこし上のような気がするが、テニスの本質をつかむにはゴルフの練 習が不可欠と悟らされ、ゴルフスクールに通うことにした。しかし、腕は一向に上がら ない。むしろ落ちた。結局生半可な取組みでは、ゴルフの本質をつかむなど不可能であ ることを思い知らされた。といって、テニスを捨て全身全霊をゴルフに打ち込む気にも なれず、スクール通いは三月しか続かなかった。こうしてテニスの本質もつかみ損なっ たがそれでもテニスは十分楽しいし、いつでも簡便にできる。これ以上高望みしても始 まるまいと割り切ることにした。
ただ、三月とはいえスクールに通いゴルフの難しさだけには開眼したおこぼれだろう か。昨年は一度切りだがハイスコアが出て、久しぶりに生涯ベストスコアも更新し、ゴ ルフの本質を弁えた人には当然遠く及ばないながら、まあ月一ゴルファーとしてなら、 それなりに楽しめるようになった。ところが今年に入ってから、スクール効果も薄らい で来たと見え、平均スコアで昨年を下回る、鳴かず飛ばずの状態に落ち込んでいたのだ 。
それがである。読んではいけないはずの前日、とあるアドバイスをたまたま読んだと ころ、スコアが目茶目茶になるどころか、生涯ベストが二つも縮まってしまったのであ る。 どの誌紙上で読んだのかも、誰が書いたのかも忘れてしまったが、曰く「あなた はこれまでスコアをよくしようとありとあらゆることを試してきたでしょう。しかしこ れまで一度もやったことがないことが一つだけあるはずです。それというのは、全く頑 張ろうとしないことです。それを是非一度試してみてください」というのだ。なるほど 、言われてみればまさしくその通りで、プロの寸言隻語まで頭の片隅に留め、ひたすら 頑張って来たのが我と我が身でなかったか。しょっちゅうダフったりトップしたりする が、その度に、腕が痺れるほど力んでいることに気づく。飛ばそうとして頑張っている なによりの証拠である。なるほど、頑張らないことか。わたしは深く頷いたのであった 。
翌日は、連日の三五度を越す猛暑が収まらず、スタート時刻の八時でも、もう汗が吹 き出すようなカンカン照りの日であった。普段なら、その中でもパットの練習をし、時 間が許せば打球の練習もするところだが、とにかく今日一日は頑張らないことに決めた のである。スタートぎりぎりまで、のんびりコーヒーを楽しみ、第一ホールのロングコ ースへゆっくり向かう。頑張るべからずとお呪いを唱えながらの第一打だったが、一月 ぶりでいきなり本番ということもあって、左の林の中にぶち込んでしまった。それでも あわてず、第二打は林の外に出すのに徹し、まだラフに留まったので、第三打も五番ア イアンで軽く打った。これはいい当たりで、結果は四オン二パットのボギー。
次もボギ ーで迎えた第三ホールは一四一ヤードのショートホール。一緒に回ったハンディ二の人 がいきなりピンそば二=にワンオン。その後から私が例のお呪いを唱えながら打つと、 なんとピンそば六〇センチにピッタリ寄り、ニアピン賞とバーディ賞が一挙に転がり込 んできた。こうして前半は、ダブルボギーもスリーパットもせずに済み、いつにない好 スコアが出たのである。
昼休みには、すっかり汗まみれになったシャツを着替えビールでたっぷり水分を補給 し、専らリラックス。後半は出だしパーで、ドラコン賞のかかった次の十一番ホール、 打つ前に素振りをしたら、いきなり右ふくらはぎが痙攣し、その場にへたりこんだ。同 伴者に脚を延ばして貰いエアサロンパスを噴射して貰って、やっと回復し、今度は右足 を出来るだけ使わないようにして軽く振った。これがまたよく飛んで、結局ドラコン賞 もいただけることになった。
この調子で、後半も前半より一つだけ多いスコアに仕上が ったのだ。 なんという皮肉だろう。一切頑張ろうとせず、片足を庇いながらプレイした結果が、 生涯ベストスコアに上位入賞、おまけにニアピン賞、ドラコン賞付きなのだ。一体これ までの努力や頑張りは何だったのかと言いたいが、これがゴルフの玄妙なところに違い ない。
ところでこのエッセイ、次のコンペに出る前にあわてて認めた。それと言うの も、いかなるお呪いといえどもゴルフに関するかぎり二度続けて通用するはずがなく、 次回はきっと頑張るまいと頑張り過ぎて、元の木阿弥になることが目に見えているから である。
ポーランドに滞在していた三年間、毎夏休み家族ぐるみでヨーロッパ諸国を車で走り 回るのを常とした。一回旅に出ると五千キロ以上も走った。大まかなルートだけは予め 決めておき、宿は予約せずに行き当たりばったりに走るのだが、たまたま飛び込んだ民 宿で大歓待を受けたり、さんざ苦労して探した宿が食堂も兼ねており夜更けに作っても らった食事がひどく美味しかったりして、いまもって時々その時の思い出話に花が咲く のである。
昨年四月、当時小学低学年生だった娘と息子が同時に就職し、親としての 役割をほぼ終えると同時に、資金的にもゆとりが出来た。そこでポーランドから帰って 十五年にもなるのにその後一度も海外へ出たことのない妻を連れ、一緒に海外旅行を楽 しもうと思い立ったのだが、その際思いついたのが、ポーランド時代のようにヨーロッ パを車で走ってみようということであった。ただ、久しぶりのドライビング旅行という ことで、まずは無難なイギリスを選んだ。無難というのは、日本と同じ左側通行だとい うことである。
ヒースロー空港でレンタカーを借り、そのまま西に出て、カースルクームやウェール ズのカナーボン、湖水地域、スコットランドのスカイ島を巡り、最後は国際フェスティ バルが催されているエディンバラで車を乗り捨てたのだが、全行程二千五百キロ、カン トリー・サイドのどこも彼処も庭同様の美しい自然と慎み深い人間性を堪能して帰って きた。
久しぶりの自動車旅行は大成功で、今年も夏休みにはヨーロッパを走ろうと前々から 決めていたのだが、右側通行にチャレンジする気になってみると、逆に目的地を絞りき れず、やっと三週間前になってスペインに落ちついた。ルートはバルセロナを起点にポ ルトガルのリスボンまで二千キロほど走るコースにした。この夏は日本も猛暑だったが 、スペインは普通の夏でも四十度を越え、特にアンダルシア地域は五五度にもなるとい う。そんなところを二千キロも走れたものか心もとなかったが、夏にしか長期休暇は取 れないのだからやってみるよりないと、最後の断を下ろしたのは出発二週間前だった。
昨年同様どたばたした準備だったが、二千キロ無事走り終えて帰国してみると、実に 楽しく実りの多い旅だったと今更ながら思え、心の底からじわっと感激がわき上がって くる。極めて多様性に富んだ国を一言では言い尽くせないが、生きることを心の底から 楽しんでいる人々の国とは言えそうである。暑いことは暑かったが、少々のことにはこ だわらない肝っ玉の座った人々や巨大豪華で独創的な建築物の数々に何度圧倒されたこ とだろう。
久しぶりに国境を越える自動車旅行をしてみて、ちょっと意外な思いも させられた。セビリアからリスボンまでの五百キロが最後の行程だったが道路標識にポ ルトガルの表示が現れだしてから、どんな国境が待ち受けているかと実は期待しながら 走っていた。というのもポーランド時代、国境ではいろいろ得難い経験をしたからであ る。
当時はまだ冷戦時代の真最中だったので、東欧圏の国境は殊の外厳しかった。チェコ でのこと、使い残した小銭で昼食を取ったうえでハンガリーに出ようと車を走らせてい たがなかなか適当な食堂が見つからない。小さな国なので走っているうちにいつのまに か国境らしいところに出てしまった。しょうがないので、あわててUターンすると道路 脇の林の中から自動小銃を持った兵士がバラバラと走り出てき、小銃を突きつけながら 何事か叫ぶ。止まれと叫んでいるらしい。急ブレーキを掛けると、国境警備隊の兵士が 駆け寄って来て、窓を開けさせ大声で怒鳴る。いきなりUターンしたのを怪しみ、誰何 しているらしい。英語で説明してもまったく通じない。そこで学生時代、第二外国語だ ったドイツ語を必死に思い出し、身振り手振りも総動員で事情を説明して、なんとか無 罪放免になった。
旅行の往き帰りに、東ドイツ側から西ベルリンに何度か入ったが、見張り台の上から 小銃を構えた国境警備隊の面々が見下ろしている導入道を通り、検閲所では車の下に大 きなミラーを差し込まれ、無理やりトランクも空けさせられた。当時大使館の一等書記 官だったので外交特権を主張したが無視された。とはいえ、東欧圏では外交特権はかな り尊重されていて、夏休みのことゆえ国境には長い車の行列が出来ていたがいつも一番 前に出ることを許され、三十分程度で通過できた。民間の人は大変で、チェコでは国を 横断するのに四時間しかかからないのに、国境の通過に八時間もかかったとぼやかれた ことがある。
それに引き換え、西側諸国間の国境は実に簡単で、車の窓からパスポートと車の保険 に入って入ることを証するグリーン・カードを見せれば、高速道路の料金所を通る程度 の気軽さで通り抜けることが出来た。でも一応車を止めて、見せる必要はあった。
さて、ECもEUに昇格したことだ。一体どんな国境が待ち構えているかと興味津々 、スペインとポルトガルの国境を跨ぐ長い橋に乗り入れたのだが、どこまで行っても検 問所らしきものがない。普通の高速道路をそのまま走るのと少しも変わらないのだ。す っかり拍子抜けしてしまい、逆にこれでいいのかと心配になった。本来国境の検問など 無用の長物ではあるが、これもEU結成の効果だろうか。
ところが、リスボンの空港での出国管理の際、われわれのパスポートを見て、担当官 はどうして入国のスタンプがないのかと首を傾げ、私が説明しても半信半疑、上司に確 かめてやっと納得する始末だった。ここいらが、いかにものんびりしたポルトガルらし い。 さて、こうやって帰国してみると、来年もヨーロッパに出掛け、ベルリンの壁崩壊・ EU結成後のそのほかの国の国境がどうなっているか、実際に車で走ってこの眼で確か めて来なければなるまいという気になってくるのである。
偶然が二度も重なると、因縁を感じる。
最初は二年半前のことだ。アテンボローの『 地球の生きものたち』(早川書房)でたまたま食虫類の項を読んだら、その翌日朝日新 聞の一面トップで、九千万年前の食虫類の化石が熊本県下で発見された記事が掲載され た。この種の記事が一般紙の一面トップを飾るのは珍しいので良く覚えている。
二度目 は今年の六月末、久しぶりに読みさしのスティーブン・グールドの『ワンダフル・ライ フ』(早川書房)を繙き、バージェス化石動物の話を読んだところ、翌日の同紙に、その 化石動物の展覧会が近く開催されるとの特集記事が見開きの両面を全頁潰して掲載され たのだ。
化石に特別の興味があるわけではないが、生きものが大好きなので、この種の記事は 見逃さない。NHKの生きもの地球紀行は欠かさず見るし、生物関係の本もあれこれ読 む。アテンボローは著名な動物学者で、BBCで制作した著書と同名のテレビ・シリー ズが面白かったので本も買った。
米ハーバート大学の教授であるグールドは、現代進化 生物学の第一人者で、しかも、極めて腕の立つサイエンス・ライターなので、これまで も『パンダの親指』や『嵐のなかのハリネズミ』等を買いつまみ食いしていた。その延 長線上で、バージェス化石を扱った『ワンダフル・ライフ』に出会ったのだ。著者は、 その発見と解釈にまつわる八十年に及ぶ人間ドラマを背景に、この化石が、われわれの 生命観を修正させた「世界中でもっとも重要な化石」であると結論づけている。
バージェス化石は、今から約五億三千万年前のカンブリア紀のもので、一九〇九年カ ナダのロッキー山脈で発見されたのだが、最初の発見者が現生の節足動物のグループに 分類したため、そのまま資料箱で眠っていた。約半世紀後、英ケンブリッジ大学のウィ ッティトンら三人の研究者が、これが既存の分類体系のどこにも収まらない奇妙奇天烈 な動物を多数ふくんでいることを明らかにし注目を浴びるようになった。
ダーウイン流 の進化論は、大きな幹から枝が出て、さらに小さな枝が分かれる逆円錐形状の系統図を 前提として、多様性増大=進化としてきたが、バージェス化石は、むしろ進化は下ぶく れのクリスマス・ツリー型に進むことを示している。カンブリア紀は生物の種類が爆発 的に増えた時代で、この時期に基本的な生物の形=デザインが芝生のように出そろった が、その大部分は偶然に絶滅し、少数の種が幸運にも生き残って現生の生物の先祖にな ったのだ。生物の歴史では、初期における増大と悲運多数死が常態で、ダーウィン流の 進化論が言うような、環境により適応した生物が生き残り着実に多様性が増大するもの ではないらしい。
バージェス化石に因縁浅からぬものを感じた私は展覧会を見に行った。雨曇りの敬老 の日、多摩センター駅で降りピューロランドの方角に進むと、テント張りの会場があっ た。来ているのは、片親の子供連れが標準タイプで中年の男一人は珍種に属する。「バ ージェスモンスターと巨大昆虫探検館」という看板からして、明らかに子供層を狙って いる。
まず、化石の現物を展示した部屋があった。黒い頁岩の表面に様々な形をしたしみが ついているが、それが化石動物だった。しみは数ミリから六十センチ大まで様々。角度 を変え目を凝らすとハッキリ見えるのもあるが、何が何だかよく分からないのが多い。 化石の前の壁に復元図が掛けてある。見るからに奇妙奇天烈で、現在の自然界で見られ るものとは大いに違う。しばらく進むと、これらの小動物を数十倍に拡大した立体模型 が展示してある。五つもの目とゾウの鼻のように長いノズルをもつオパビニア、ウロコ のような骨片に覆われた背中から長い突起を伸ばしたワイワクシヤなど、グールドのい う「ガラクタ箱から部品を勝手に取り出してくっつけたような」驚嘆すべき生物ばかり だ。動く仕掛けがしてあるので、カンブリア紀の海底に小人になって紛れ込んだような 印象を受ける。
会場には、地球が誕生した四五億年前から現在までを一日に見立てた地球時計が展示 してあった。バージェス化石動物が現れたのが午後の九時過ぎ、動物が海から陸に上が ったのが十時頃、最初の爬虫類が現れるのが十時半である。ちなみに食虫類が現れたの が深夜零時三十分前である。この鼠大の原始哺乳類が、現生のあらゆる哺乳類の先祖と 目されており、まだ恐竜が我が物顔でのし歩いていた森林の下生えの間をこそこそと走 り回り昆虫類を食べていたらしい。米国テキサス州で発見された一億年前の化石が最古 で、それに次ぐのが七千万年前頃のもので、間の三千万年分が抜けていた。熊本で発見 されたのは、九千万年前の、その失われた環(ミッシング・リング)を埋める大変貴重 なものなのだ。
人類が現れるのは深夜零時寸前である。最近の新聞報道によると(これも一面扱い) 、エチオピアで約四百四十万年前の最古の人類の化石が発見され、人類の起源が五十万 年ないし百万年逆上ったと言う。だが、生物時計では四百四十万年で二分足らず、百万 年逆上っても一分と違わない。グールドは、バージェス化石が示すところによれば、生 物の進化は「最適者生存」というより幸運=偶発性に支配されており、最後に意識を持 った生物=人類が必然的に登場するという保証はどこにもなく、バージェスを起点とし て進化の歴史を百万回リプレイさせたところで、人類へ再び進化する可能性はなかった と断じる。
ところで、他の生物がおしなべて共存共栄の生き方をしているなかで、この新参者だ けが自己本位の生き方をし、今や地球の覇者気取りで貴重な環境を破壊し、四〇億年か けて育まれたエコロジーの体系を乱している。これは、自ら悲運を招き寄せているに等 しい。「貧弱にして風変わりなわが種族が、自分たちは幸運に恵まれただけのはかない 存在である」(同書三五八頁)と認識し、もう少し賢い生き方が出来ないものか。従来 の予定調和的な生命観の見直しを迫る展覧会を見終わって、つくづく考えさせられたも のである。