日々の愉しみ          

目次
  • 文化大宮殿の落日
  • 津軽の春
  • アンネ=ゾフィー・ムター
  • 応援歌
  • シンザン・フェスティバル
  • 巨人の掌
  • 水の上からの眺め
  • ふるさと異変
  • 迷いのパソコン
  • 大雪の一日
  • スキーとワインと小話しと
  • ホイットニーとグラミー賞
  • 恵みのスキー
  • 手塚治虫の時代
  • 驚異のハブ
  • CLUB MED サホロ
  • 「カルミナ・ブラーナ」    
  • 私の星取表
  • わが家の庭でBW  
  • 玄妙なるゴルフ
  • 国境の今昔 
  • バージェス化石動物
  • 「エッセイ」目次へ
  • 総目次へ

  • 文化大宮殿の落日

     ワルシヤワの中央に、あたりを見下ろすかのようにその建物は建っている。第二次世界大戦後、ソ連が兄弟国ポーランドヘ贈ったものだ。名付けて文化大宮殿。スターリンが好んだというモスクワ大学の建物と瓜二つで、高さ二三四米、四四階もあり、郊外から望見できる。

     もう十年以上も前、同市に三年滞在したが、夏期休暇の折など、車でローマや南仏などを回る長い旅を終えて帰ってくると、その建物が遠くに姿を現す。いつも決まって午後遅く辿り着いたものだが、その独特のシルエットが夕焼けの空をパックに見えてくると、やっとワルシャワに帰り着いたとほっとしたものだ。

     だが、ポーランド人にはきわめて評判の悪い建物だった。こんな小話があった。

    「ワルシヤワで一重美しい景色は、どこだか知ってるかい」
    「一体、どこなの」
    「文化大宮殿の展望台から見た眺めに決まってるさ」
    「どうして」
    「だって、そこからなら文化大宮殿が見えないだろう」

     日本では伺い知れなかったが、現地に住んでみると、ポーランド人のソ連への憎しみは想像以上だった。日常的に肉が不足するのも、石炭が足りないのも、みんな東の森の熊が持っていったせいにする。国境を接する国同士の歴史的な軋轢に加えて、第二次大戦の戦後処理で、自ら望んだ訳でもないのに、東欧陣営に取り込まれ、ソ連の衛星国の一つとして、共産主義政権を押し付けられたことへの反感が、一般市民の胸底深く煮えたぎっていて、事あるごとに吹き出すのだ。

     しかも、それをあからさまに言えないので、小話などに託さざるをえない。心理は屈折し、感情は鬱積する。真剣に考えると気が狂わざるをえないい状況だとある知識人は私に語ったものだ。

     だから、一昨年来のソ連・東欧圏の激動は、他人事に思えない。ソ連のペレストロイカの追い風を巧みに利用し、東欧圏で逸早く共産党独裁に終止符を打ち、非共産党政権を樹立したのはポーランドだった。だが、前途はなお多難だ。

     私がポーランドを離れた一九七八年の一ドルの公定レートが約三〇ズォーテイ(現地通貨の単位)、それが現在一万一千ズォーティーと言う。十年ちょつとの間に実に三百五十倍近いインフレに見舞われただ。経済は破綻同然、せっかく誕生した非共産党政権も力不足で不安定、国民の苦労はまだまだ続く。

     翻ってわが国を見ると経済は順調、政治も相対的に安定している。いまや一人当たりのGNPは世界 一の水準。だが、国民はその実感がないと不平を言っている。

     日本は敗戦国、ポーランドは戦勝国。にもかかわらず、戦後処理の運不運でこれほどの差がついた。現在の繁栄が戦後の日本人の血の滲む努力の賜物であるにせよ、戦後処理如何では、その努力も報われず、現在のポーランドや東西に分割されたドイツの非運を甘受せざるをえない可能性もあったのだ。今後日本が現在の恵まれた状況を保持するには、戦後処理の幸運を忘れない謙虚さを持ち、各国と要らざる摩擦を起さない生き方を身に付ける必要があろう。

     東欧各地で、今もレーニン像が取り壊されているが、ポーランド人はそれよりも文化大宮殿こそ逸早く取り除きたいのではないかという気がする。それ以上に取り壊し難い存在と見えた共産党一党支配やソ連大帝国が、かくもあっけなく崩壊したのを見るとそれも夢ではないのかもしれない。その時ワルシャワで一番美しい景色はどこになるのだろう。

    「目障りがなくなったらワルシャワはどこでも美しいさ」

     ワルシャワっ子が胸を張る様が目に浮かぶ。

    (時評 1992/2)

    日々の愉しみ;目次へ
    MENU(総目次)へ
     


    津軽の春
    阿部 毅一郎
    今年の春はずいぶん桜を楽しんだ。べつにわざわざ花見に出掛けたわけでもなかったが、偶然そういうことにな ったのである。
    週末を過ごしたテニスコートやゴルフ場がたまたま桜前線に沿うところに あったのと、開花時期に気温が下がって花が長持ちしたのとが相まって、目白、国分寺、 江戸崎と三週連続満開の桜の下でプレーを楽しめた上に、プレー後のパーティーで、花見 の宴の趣を味わえたのだ。
    桜というと思い出すのが、弘前城の桜である。これも、二年前の四月末、八甲田山に春 スキーに出掛けた折りに偶然見る機会を得たのだ。
    山とスキーをこよなく愛する人達の同 好会の恒例行事に誘われ、妻ともども参加した。往きの車中で弘前城の桜がちょうど見頃との話を聞き 、かねてから噂に聞く実力を確かめたくなって、同会の幹事を勤めているA君と妻の三人 で見に行くことにした。青森駅から宿のある八甲田山中の猿倉温泉までは、結構距離もあ るので、駅レンタカーを予約しておいたのだが、それが役にたった。
    いや、じつに見事な桜だった。城に着く前から、立派な桜並木に迎えられる。城内はい まや盛りと咲き誇る桜に覆い尽くされていた。種類も多く、白、薄緑、ピンクと色も様々 なら、大小、老若、しだれと形状も様々。ちょうど桜祭りの最中で市が立っており、ろくろ首のお姉さんの見せ物小屋も あれば民謡ののど自慢の会場もある。どこも待ちわびた春を楽しむ人々で溢れている。櫓 の展望台から一望すれば、桜桜の大海原が続き、その向こうに岩木山が鈍く光っている。 想像以上の美しさに、思わぬ拾い物をした思いであった。
    猿倉温泉へは、十和田湖を経 由して行くことにした。車窓に十和田湖の青く澄んだ湖面や、残雪を残す奥入瀬の渓流を 楽しみながら、山道のうえ、政府高官のA君を乗せていることでもあり、事故を起こして はと慎重運転に徹していた。ただ、その速度では、夕食の定刻に、間に合いそうになかった。
    そのときA君がくたびれたろ うから、運転を代わるよ、と言った。その言葉には、辞退しにくい響きがあったので、代 わって貰うことにした。 代わった途端、車は全く別の乗り物に変わった。
    日頃温厚篤実 、大人の落ち着きを見せるA君からは想像もできない運転振りであった。急アクセルと急 ブレーキとを交互に踏み込み、曲がりくねった坂の多い狭い山道を飛ばしに飛ばし、先行 する車を見つけるや、牙をむいた虎が獲物に襲いかかる様に、情け容赦なく追い越すので ある。後ろの席の妻は気分でも悪くなったのか今にも死にそうな顔をしている。
    もちろん、ぴったり夕食時間に間に合って、幹事役のA君は、いつもの如く、温和その もののにこにこ顔で、司会の大任を果たしたことであった。
    翌年の年賀状に、いつぞやは 粗暴な運転で失礼しました。これにこりずに今年もどうぞご一緒にと認めてあった。
    宴会の席上、八甲田山の雪質について探りをいれると、この時期かなりざらめ状になっ ており、転んだりすると、無様な擦り傷ができるという。それが妻の恐怖心を煽り立てる ことになった。初心者のことゆえ、まず転ばぬわけにはいかない。顔中、擦り傷だらけに なった惨状を想像したのであろう、スキーには行かないと言いだした。
    妻を放り出して、自分だけスキ ーというわけにもいかない。幸い、レンタカーがあることだから、明日は、一度も行った ことのない津軽半島でも一回りしてこようということになった。
    翌日は美しく晴れ上がった。宿から青森市へ下りる道は、まだ雪の回廊と言うにふさわ しく、両側は五bから七bもある雪の壁である。この道は、例年、三月の末か四月の初め に、深い雪のなかから掘り起こされ利用に供されるらしい。沿道の木々もまだ枯木同然で ある。麓に下りるにつれ、芽が吹き、葉が出、花が咲き、春らしい装いになっていく。
    青森市を抜けると、もう津軽半島である。古い家並みの中を細い道路が縫うように走り 、右手には青く輝く海が見えてくる。桜、紅梅、れんぎょうなど色とりどりの花々が咲き 乱れ、小鳥も力強く囀っている。
    津軽という言葉からは、なんとなく、吹雪の吹きすさぶ 冬景色を想像しがちだった。津軽三味線の激しさの中に哀調を滲ませた調べや、「津軽海 峡冬景色」の歌詞などに影響されてのことだろう。
    だが、今、眼前にあるのは、北国のパ ステル調のけぶるような春景色である。 ワルシャワや札幌に住んだことがあるので北国の春はことのほか気に入っている。待ちに待った春が来ると、一斉に 芽が吹き花々が咲き初める。津軽半島にまさしくその春が来たところなのだ。あたり一面 に、光が溢れ、生気が漲り、山肌は、冬の茶系統のくすんだ色と、萌えだし始めた木の芽 の萌葱色とが混ざり合い、実に微妙な色合いを見せている。
    「北のはずれ」と歌に歌わ れた龍飛崎から、津軽海峡や、遠くにかすむ北海道を一望し、その後、ケーブルカーで海 底下へ下りて青函トンネル記念館も見物した。
    日本海側のやや色の薄い海に戯れる海鳥を 追い、十三湖を巡り、津軽富士を四方から眺めながら、まる一日かけて津軽半島を一巡し、たっぷりとおいしい空気を吸 い、津軽の春を堪能した。
    スキーのはずが、こんな仕儀にあいなったが、むしろ、幸運に 巡り逢えた思いであった。
    翌日、東京への帰路、八甲田山雪中行軍遭難記念像に立ち寄ったところ、付近に、雪解 けの冷水に育まれた蕗の薹がいっぱいあった。それを摘んで、わが家に持ち帰り、味噌和 えにして食べた。そのせいで、ほろ苦い蕗の薹を口にすると、津軽の春が懐かしく思い出 されるのである。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ

    アンネ=ゾフィー・ムター
    931004 05 JIHYOU12
    阿部毅一郎
    アンネ=ゾフィー・ムターの名前を最初に耳にしたのは、いつだったろうか。
    弱冠十三 歳でデビューし、名指揮者故カラヤンに認められ、十四歳で、ベートーベンのバイオリン 協奏曲の独奏者として、ベルリン・フィルと共演したときの鮮烈な印象を、昨日のことの ように覚えているが、指折り数えてみるともう十六年もの歳月が流れているのだ。
    若い時の天才は、往々にして伸び悩み、成人するとただの人になって忘れられてしまいやすいものだが、彼女の 場合は、それは、杞憂だった。着実に、演奏家としての実力を高め、世界の一流の演奏家 として、これまで常に第一線で活躍を続けてきた。
    ところが残念なことに、彼女の生の演 奏を聴く機会にこれまで恵まれなかった。その機会が今年、九月十日やっと巡ってきたの である。実物の彼女は、一体どんな女性だろうか。弱冠十三歳でデビューした時の、あの 愛くるしい天才少女は、どんな演奏家に成熟しているのだろうか。当日は、期待に胸を弾ませながら 、東京芸術劇場へ赴いた。
    この新設の劇場へ行くのは今度が初めてである。池袋駅の東武デパートのすぐ近くだ。 ちょうどそのデパートの美術館が、ルノワールの美術展を催しており、友人から招待状を 貰っていたので、すこし早めにオフィスを出て、そのほうも駆け足ながら覗いてみた。
    ルノワールのあの温かい色彩、筆使いは大好きである。この画家は、ヌードを自然の中 に配して描くのが好みなのだが、空気と、周りの緑とヌードの肌色とを溶け合わすような タッチ、色合い、夢を見るような瞳の人物、あの腹部の豊満な女性像は、観る人の心に安らぎを 与えずにはおかない。ルーブルやシカゴ、メトロポリタン美術館などに並べられている大 作に比べれば、小品が多く、その点では物足りなさは残ったものの、心にほのぼのとした 温もりを感じながら、すでに夕闇たちこめる中を、東京芸術劇場へと足を運んだ。
    とこ ろが、この劇場は、まるで現代建築の実験場さながらで、ロビーは広大な吹き抜けになっ ており、会場の大ホールへ向けて、五階の高さを一気に登るエスカレーターが、その空間 を斜めによぎっている。老人も子供も、このエスカレーターで登っていくのである。わたしのように、日頃、 テニスで足腰を鍛えていても、ふらつきはしないかと緊張を強いられ、一生懸命に手すり につかまったのである。誰か一人でも気分が悪くなって、転んだりしたらどうなるのだろ う。雪崩を打って、五階下まで転げ落ちなければならないのだろうか。
    会場に入ると、も う一台これもかなり長いエスカレーターに乗らねばならない。ほのぼのとした温もりが冷 えきり、心は寒々とした、要らざる緊張感で、いっぱいになった。これが、音楽を聴きに くる人への、アクセスとしてふさわしいと言えるだろうか。一足先に会場に行っていた妻も、わたしと全く同じ疑念 を持ったという。
    だが、そんな気持ちもアンネが舞台に登場した途端、あっというまに吹き飛んでしまっ た。
    肩紐のない胸元まで大きく開いた黒いしゅすのドレスに細身の体を包んだ彼女が、ス ポットライトの中に立つと、美しい細面の顔と、金髪と白い肩が金色に浮かび上がる。観 客の拍手に、にっこりと笑って応える。華がある。拍手が鳴りやむと、まるで、弦の音合 わせでもするかのような手軽さで、さっと演奏を始める。
    プログラムは、四曲ともバイオ リンとピアノのためのソナタ。セバスチャン・クーリエのクロックワーク、ブラームスの第一番「雨の歌」、モ ーツアルトのホ短調K.三〇四、最後がプロコフィエフの第二番。
    席は前から六列目、中央からやや右寄りだったので、彼女の表情、演奏振りがよく見え る。演奏が始まった途端、大変な集中力を物語るかのように、広い額の中央に五センチ幅 の横皺が浮き出、眉間に蟹の甲羅のような皺が寄る。ジャンヌ・モローの顔だ。額から盛 り上がるふさふさした髪を、ドレスと同じ黒色のヘアー・バンドで束ね、肩に垂らしてい る。演奏しながら、体を、左右に動かす。ドレスの裾から、ハイヒールが覗いているが、右にバランスを移すと、左の針金のよ うに細いヒールに、体重がかかる。
    何という精妙な弓さばきなのだろう。いや、一種なげやりとも思えるほど無造作に弓を 走らせ、ストラディヴァリウスに全てを委ねるかのようだ。書の名人が、あるときは太く 、ある時は細く、自在に筆を運び、墨のかすれにさえ、妙味を感じさせるように、バイオ リンそのものの持てるものを、そのまま引き出している。音の襞のすみずみまでが、顕微 鏡下の花粉や蝶の鱗粉のようにくっきり浮かび上がる。音の中に静寂を聴くことができる 。バイオリンの音が、一瞬尺八の音に聞こえ、感に堪えず思わず漏らすため息に聞こえる。
    ピアノのラン バート・オーキスとのコンビも絶妙だった。丸い銀縁の眼鏡をかけ、前頭部が禿げ上がっ た丸顔小太りピアニストは、絶えず、下唇の突き出た口を動かし、頬を膨らませ頭を左右 に降り、細い横目でアンネをうかがい、両手で、心を込めてピアノをマッサージするよう にして、音を紡ぐ。その水晶のように透き通った音色は、アンネ独特の柔らかで曲想を映 す多彩なバイオリンの音色と溶け合い、しかも、引き立たせる。
    演奏が終わるとアンネの表情は一変する。眉間の皺は消え、アイドルのような愛くるしさと三十になったばかりの女の色気 を発散する。上目遣いで会場の四方に微笑みを振りまく。

    熱狂した観客の鳴りやまぬ拍手 に応え、アンコールに、ブラームスとマスネーの小品二曲。これがまた絶妙の演奏で、こ の夜は、これまで感じたことのない充足感を味わわされ、妻ともども、アンネの大ファン にすっかり洗脳されて会場を後にしたことであった。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ

    応援歌
    プロ・サッカー・Jリーグの発足や、ワールド・サッカーのアジア地区予選の開催も手 伝って、サッカーがブームの観を呈している。野球はいささか押され気味だが、プロ野球 はセパ両リーグとも九月に入りにわかに首位戦線が混迷の度合いを深めたうえ、巨人の大 物ルーキー松井が四打数四安打の猛打を披露するなどでやや失地を回復している。高校野 球の人気は依然高い。
    その中でいささか割りを食っているのが、大学野球だろう。三十年 前と比べものにならないくらいマイナーな存在になった。往時は、「東京六大学野球」にしても、テレ ビやラジオでよく実況放送されたものだが、最近では、優勝に絡むものか早慶戦が取り上 げられる程度。秋のリーグ戦の開幕も近いが、今年の人気はどうだろうか。
    私の在学当 時、わが母校である東大は、もうすこし強く、神宮球場に足を運ぶと、たまには勝利の味 を噛み締めながら応援歌を歌うことできた。「ただ一つ」「足音を高めよ」など声を張り 上げて歌った思い出があるが、ただこれらは、応援歌というよりむしろ学生歌で、他校の 応援歌と比べて、残念ながら、今一つ盛り上がりに欠け、知名度も低かった。さすがに伝統を誇る 六大学だけあって、他校には素晴らしい校歌や応援歌があって、「都の西北」「若き血」 「明治大学校歌」など、私も、母校の歌以上によく知っている。
    一昨年の四月のことだ。二百勝まであと一勝のところで七十連敗という足踏みを続けて いた母校が立教大学を相手にやっと待望の勝利をあげた。ひょっとすると連勝して、勝点 さえ挙げるかもしれない。そう思い、実に久しぶりに神宮球場に行ってみるきっかけにし た。妻も、私に劣らずあることを確かめたい気持ちを持っていたのでもちろん同行した。
    神宮に足を運ぶのは新婚ホ ヤホヤで一緒に行って以来だから、実に二五年振りだった。その時は、妻に私の作詞した 母校の応援歌を紹介するのが目的だった。大学二年生のとき応募し入選したのだが、応援 団長に「これぞ待望久しい応援歌」と気に入って貰え、入選直後から九回の攻撃の前に歌 われることになっていたのである。
    はたして、あの歌は、いまも、健在だろうか。それが 確かめたくて出掛けたのだが、全く心もとなかった。
    風の噂では、健在のようでもあった。息子が入学して、学生手帳を貰って来たので見て いたら、応援歌の作詞者はあなたと同姓同名だった。あれは、あなたですか。広島で、学生歌や 応援歌専門のカラオケ・バーに行ったら、作詞者があなたと同名の応援歌があったけど、 あれはあなたの作ですかなどと、ほんの数回だが、聞かれたことがあった。随分前になる が、たまたま東大戦が、ラジオ放送されたことがあったので、耳を澄ませて聞いたが、そ れらしい歌が聞こえたようでもあり聞こえないようでもあり、健在だという確証を得るに は到らなかった。
    なんとなく裸の現実を目の前に突きつけられるのを回避する心理も手伝 って、延ばし延ばしにしているうちに、四半世紀が経ってしまったのである。
    久し振りの神宮球場は、見違えるほど立派になっていた。プロ野球セ・リーグの覇者ヤ クルトの本拠地でもあるし、それは当然のことだろう。むかしは、いかにも大学野球の本 拠地らしく、広告ひとつなく、外野は芝生でのんびりした球場だった。
    昨日の勝利のせい か一塁側に陣取った東大応援席の客数はいつもより多く、熱も入っているようだ。私はネ ット裏の一塁側寄りに席をとり、持参した八ミリビデオカメラで、応援団の様子をいつで も撮れるようにスタンバイした。 はたして、二五年前同様、九インニングになったらあの歌が、今も歌われるのだろうか。妻は、せっかく期待 して来たわたしが、すでに葬り去られているのを知っても、がっかりしたりしないように 、あらかじめ心構えをしておくように仄めかしていた。
    東大には、昨日勝った勢いがあった。逆に立大の方が、記録的な二百勝目を献上したと あってコチコチになっていた。一回裏いきなり東大にツーアウト三塁のチャンスが訪れた 。応援団が立ち上がった。なんとミニスカートのチアガールもいて、アクロバットもどき の演技を披露している。時代は変わった。応援団長の白い手袋が打ち振られた。 と、聞こえてきた。あの懐かしいメロディーが、歌詞が・・・
    「闘魂は、いまぞ極まる 逞しく力競いて 掲げなん勝利の旗を 淡青のこの空の下 おおわが東大 栄えある学府 おーおわが東大 栄えある学府」
    二五年振りに聞く、「闘魂は」であった。
    九回の定位置から、一回に昇格したのかもし れない。そう思っていると、引き続く二回裏ノーアウト二塁のチャンスにも、次の四回裏 の先取点を挙げた攻撃の時にも、いや、その日の都合五回のチャンスにことごとく、「闘 魂は」が鳴り響いた。まぎれもなく、第一応援歌の地位に昇格していたのである。
    試合は 、五回に同点に追いついた立教が、八、九回に一点ずつ入れて、三−一でリードのまま、 九回裏。追い縋る東大はツーアウト二三塁、ワンヒット同点のチャンスを迎え、総立ちの 応援団が、「闘魂は」を絶叫するなか、バッターが三振してゲーム・セット。残念ながら 連勝はならず、勝負には敗れたのだが、私はと言えば、勝鬨を挙げたい気分だった。
    昭和三五年、大学二年生、丁度二十の歳に生み出したものが、私の知らないところで生 き続け、三十年後、こんなに立派に成長して姿を現したのだ。この秋も、神宮に応援に行 こう。東大野球部は相変わらず低迷し、連続勝点なしのワースト記録を更新中なのが気掛かりだが、「闘 魂は」は、これからも、私の人生の応援歌になってくれることだろう。
    (注)この原稿を編集部に送って一週間後、東大は、開幕戦で法大から実に四十年振りの 勝点を挙げ、同時に連続勝点なしのワースト記録にも、八年で終止符を打った。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ

    シンザン・フェスティバル  
    930804−5  JIHYOU−OCT.
    阿 部毅一郎
    シンザン・・・ 競馬ファンならずとも、記憶の底にこの名馬の名を留めている人は多 いことだろう。東京オリンピックが開催されたころ大活躍したのだから、もう三十年も昔 になる。天皇賞、日本ダービーなどのいわゆる重賞をことごとく制した日本初の五冠馬、 生涯記録が十九戦十五勝、優勝を逃した残りの四戦もすべて二位だったのだから、凄い。 現在の競馬ブームにつながる日本競馬界の基礎を作った功労馬と言っていい。
    ところで、今時なんでシンザンを持ち出すのだと言われそうだが、このシンザンが今もって健在で、 生まれた北海道の牧場で余生を送っているのである。しかも、生地浦河町では、その名を 冠したフェスティバルが七月末の週末に毎年開催されており、競馬ファンでもないわたし が、ひょんなきっかけで、このところ毎夏、会いに行っているのである。
    たった一年間だったが北海道に赴任し、すっかりファンになって帰ってきた。すこしで も役にたつことをやりたいと思っていたら、同志が三人見つかった。そこで「北海道にこ だわる会」なるものをつくり、手始めに北海道の名産であるサラブレッドのPRのお手伝いをしようと、「名馬サミッ ト」のアイデアを纏めた。
    ところが、その年の八月末に、浦河町に、馬と関連のある三十 を越す市町村が集まり、第一回ホースサミットを開催するというのだ。そこで、先ずそれ を覗いてみようと、オブザーバー格で参加したのである。
    そのホースサミットを主宰したのが浦河町長で、シンザンを生んだ谷川牧場の主でもあ る。席上面識ができ、同町で毎年開催しているシンザン・フェスティバルへの参加を勧め られ、翌年試しに見に行った。町長は、気持ちのおおらかな好人物で、大歓迎して下さる ものだから、その後月一回開くこだわる会の定例会の七月分はこのフェスティバルにかこつけ 北海道で開くことにし、三年目の今年も総勢十人を越すメンバーで出掛けたのだ。
    北海道入りした初日は、あいにくの雨だったがゴルフを楽しみ、その夜は札幌のススキ ノで例会を開いた。地元勢も加わり総勢二十人の大宴会になった。私は会長を仰せつかっ ているので、例によって「ホッ・カ・イ・ド・ウ」を折り込んだ趣味の折り句で
    「北海道 に 勝手にこだわり 意気投合 同志こぞって うま酒酌まん」
    と乾杯の音頭を取った。 翌日は、開催中の赤レンガ音楽祭に「こだわる会」が純粋の民間有志として初めて協賛の花飾りを寄付した というので、知事との面会の場が設けられ、仲間ともども列席した。知事からは奥尻島の 地震津波罹災者の救援に日夜心を砕いているとのご挨拶を頂いた。我々のほうも、用意し ていた義援金を知事に直接手渡し、心からのお見舞いを申し上げた。
    札幌からは、マ イクロバスで浦河町に向かった。日高地方は、サラブレッドの日本一の産地である。海岸 線沿いに車で走ると、右手に大海原、左手に緑豊かな牧場が連なるおよそ日本離れした景 色を楽しめる。ただ、せっかくの景色も、昨日来の強い雨で、色褪せて見えた。風も強く、海岸には大きな白波がう ち寄せている。
    しかし、夕刻、フェスティバルの会場に着いた途端、バスのなかで「おれ の執念で晴らせてみせるぞ」とわめいたのが効いたのか、雨が上がり、晴れ男の到来だと 歓迎された。
    会場は、広い牧草地で、大きな舞台が作られ、その前にテント張りの観客席が設けてあ る。それを取り囲む形で、北海道ならではのジンギスカン、トウモロコシ、カボチャ団子 、ポテト餅、イカそうめん、シシャモなどの売店が並び、縁日に欠かせない綿菓子やお面 、金魚釣り、射撃の店もある。悪天候と異常低温のせいか昨年より人の出は悪いようだ。
    前夜祭のメインイ ベントは、馬上結婚式。新郎は馬に跨がり、新婦は馬車に揺られて二組のカップルが登場 する。我々は、生ビールを飲み、ラム肉のジンギスカンや子持ちシシャモ、イカの刺し身 などを頬張りながらの品定めだ。今年の新婦はそろって別嬪だった。
    翌朝、会場への途 中、谷川牧場に立ち寄り、例年のようにシンザンを慰問した。鼻筋を撫ぜ背中を叩き、長 生きするようと話し掛ける。今年は、後ろ脚の衰えが目立つようになった。昨年ももう一 年持てばと言われたものだ。しかし、同行した若い女性が取り囲んだところ、明らかな反応を体の一部で示し、その立 派さと、人間で言えば百三十才にも相当する年齢とを重ね合わせ、男性陣は大いに驚き慌 て、自らを痛く省みたことであった。
    会場の舞台で、重賞受賞馬牧場主の表彰式の後、 苫小牧在住の版画家、本間先生に頼んで書いてもらったシンザンの十号大の油絵を、「こ だわる会」から浦河町に贈呈した。町長をはじめとする地元の皆様へのお礼とシンザンの 長寿を祝ってのことだ。皆さんから、大変喜んでいただき、新築したばかりの町営のホー スクラブに飾って貰えることになった。
    午後には静内町へ行き、投宿したホテルの社長にクルーザーに乗せて貰い、沖 合で釣りに興じた。昨日とうって変わり、海面は鏡のようで風もなく釣り日和。ご一緒し た浦河町長ともども、夕暮れまで慣れぬ釣り竿と格闘した。私は一匹だけだが四十キロ余り のあいなめを仕留めた。
    その日の夕餐には、皆で釣り上げた二十本あまりの鮮魚が、ホテ ルのコックの見事な腕で、活け作りとなり、吸い物となり、甘酢餡掛けの唐揚げとなって 並んだ。
    最終日は、これまでの天候が嘘のように晴れ上がった。そこでレンタカーで、 昨年例会を開いた支笏湖畔の伊藤温泉へ行き露天風呂に浸かった。
    最後に残った中年男四人、足元から広がる青い湖面を眺 めながら、岩場で甲羅を干し、ビールを飲み、また浸かる。この数日なんと盛り沢山の贅 沢を味わった事だろう。ここ三年余の「こだわる会」活動の結晶かも知れぬ。
    日は輝き、 山の緑は濃く、風は肌に快い。ゆったりと至福の時が流れていく。 私の夏休みは、シン ザン・フェスティバルを皮切りにするのがすっかり定着したようだ。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ

    巨人の掌
    阿部毅一郎 940201-02
    数年前、マイルス・デイビスが亡くなったとき、一般紙さえも、ジャズ界の巨人逝くと いう大見出し付きの記事でその死を悼んだ。私と言えば、それで初めて彼の名前を記憶に 止めた程度だから、ジャズについて何を言おうと半可通の戯言に過ぎない。
    巨人と言われ るからには、素晴らしい演奏を残しているに違いないと、テレビやFM放送の追悼番組に耳 を傾けてみるとこれが実にいい。彼が吹くトランペットの響きといい、曲のフィーリング といい、私の好みに合う。いつか、いいアルバムが欲しいなと思っていたら、昨年暮れに立寄ったレコード店で、彼が コロンビア・レコード時代(一九五五年から八五年)に吹き込んだ中から名演奏ばかり三 二曲を厳選したCD四枚組のアルバムを見つけた。早速買い込んだのだが、ほんのさわりを 聞いたまま、暮れの忙しさに紛れそれっきりになっていた。
    一口にジャズといっても間 口が広く、また、ジャズファンには熱狂的な人が多いことゆえ、マイルスも知らないくせ してと叱られそうだが、一応ジャズ好きを自認している。ジャズに興味を持つようになっ たのは、学生時代に映画「五つの銅貨」や「ベニー・グッドマン物語」「グレン・ミラー物語」などを見てからだろう。ジ ャズ創成期の巨人ルイ・アームストロングの個性豊かな演奏振りにも引かれた。彼は「五 つの銅貨」でも好演していた。
    そう言えば、学生時代には社交ダンスを楽しんだが、楽団 の多くはジャズバンドだったし、演奏スタイルは、まだ素朴なディキシーランド風かスウ ィング風だった。 モダン・ジャズへの入門は、フランス映画「死刑台のエレベーター」で果たしたように 思う。あのサスペンス溢れる秀作の背後に流れる物憂いジャズの調べに、すっかり魅了さ れてしまった。新たな扉が目の前で開かれる思いがした。
    それがきっかけで、モダン・ジャズ・カルテットのアル バムも手に入れた。ニューヨークでは、ブルー・ノートに生演奏を聞きに行ったし、ジャ ズがジャズになった街といわれるシカゴでも、生演奏をちゃんと聞いてきた。出張中ニュ ーオーリンズに寄り道したのも、ジャズのためだ。
    街中の至る所からジャズのリズムが溢 れ出ているフレンチ・クォーターに宿をとり、ジャズ発祥の地と言われるプリザベーショ ン・ホールへ出掛け、小学校の教室のような狭い木造の部屋で、木のベンチに腰掛け、年 老いたジャズメンの演奏を楽しみ、地元のCDも買って帰ってきた。
    CDはデューク・エリントンやビリー・ホリディな どいわゆるジャズ・ジャイアントのヒット曲集を中心にしたのが三十数枚ある。映画は、 モダン・ジャズの創始者でアルトサックスの名手チャーリー・パーカーの薄幸の生涯を描 いた「バード」も見た。河口湖畔のジャズ・フェスティバルには二日続けて行き、気に入 った演奏家のLDやCDを求めもした。
    私の好きな演奏家に、チック・コリアやキース・ジ ャレットがいる。チックはピアノやキーボードの名手で、FM放送をエア・チェックしたテ ープやCDを何枚か持っている。キースは、二十世紀のモーツアルトと言われる才人で、作曲も良くし、ピアノだけでなく 、ソプラノサックスやフルート、パーカッション、ギター、サキソフォンもこなすが、音 楽の知識のすべてをピアノ・プレイに注ぎ込んでいると言われている。ジャズだけでなく 、現代音楽もバッハやモーツアルトも弾く。現代の作曲家アルヴォ・ペルトの「フラトレ ス」を世界的ヴァイオリンニストのギドン・クレーメルと共演もしている。
    彼のCDは少し ばかり集めている。最新のジャズ・アルバムに「バイバイ・ブラックバード」がある。こ れは昨年夏エディンバラへ行ったとき買い求め、他のアルバムともども繰り返し聞いている。
    今年になって、マイルス・ デイビスのCDを暇にまかせて聞いてみた。聞くほどに確かに巨人と言われるだけのことは あると納得するようになった。決して騒々しくなくあくまで静かな叙情をたたえながら、 しみじみと響きわたるトランペット。その胸を打つリリシズムがたまらない。聞いている うち、ふと「死刑台のエレーベーター」の旋律が演奏されていることに気付いた。確かめ ると、三二曲のうち二曲があの映画のBGMだった。しかも、作曲者がマイルスその人だ った。
    その上、キース・トリオのアルバムのタイトル曲「バイバイ・ブラックバード」もマイルスのCDにも入っている。照ら し合わせてみると、五曲もダブっている。おやと思い、キースのCDのジャケットを引っ張 り出して裏を見ると、そこにはなんとキース・トリオのマイルスへの「決してあなたのこ とは忘れない」とのやや長い献辞が記されていたのだ。
    冒頭に「バイバイ・ブラックバー ド」を置き、中程に「For Miles」、最後に「ブラックバード・バイバイ」と二 曲キース・トリオのオリジナル曲を配したのをみれば、マイルスをブラックバードになぞ らえ、サヨナラと呼びかけているのは明らかだし、ジャケットのトランペットを持った男の後ろ姿がマイルスその人であるこ とも見えてくる。このアルバムはキースのマイルスへのオマージュだったのだ。
    調べて みると、マイルスは多くの門下生を輩出したが、キースもチックもその優等生であり、一 九七〇年にはこの三人にハービー・ハンコックを加えて共演しているのである。 私は、 マイルスの「死刑台のエレベーター」に導かれてモダン・ジャズのファンになり、チック ・コリアやキース・ジャレットを巡って、いまマイルスに戻って来たのである。嗜好に一 貫性があったと言えば聞こえはいいが、何のことはない、孫悟空がお釈迦様の掌の上で踊らされていたように、私は、巨人マ イルスの掌の上で踊らされていたのだ。
    「巨人」と言われる存在の意味するところのもの を、つくづく思い知らされた思いであった。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ

    水の上からの眺め
    931031 阿部毅一郎
    京浜地域に橋の新名所が二つできた。ベイ・ブリッジとレインボー・ブリッジである。
    どちらも美しい形状の吊り橋で、それ自体が見物であるだけでなく、橋の上からの眺めが また素晴らしい。昼間の景色もさることながら夜景がことのほかいい。橋の上から、世界 有数の大都会の夥しいビルの灯、色どり鮮やかなネオンサインが見渡せる。それだけでも 一見の価値があるが、橋の下に水路があって、それがあかりを反射し、波に揺らめかしているのが、なんともいえぬ情緒を生み 、一段と見栄えのする景観にしているように思える。
    ところで、せいぜい引き立て役程 度にしか認識していなかった水路だったが、つい最近、たまたま、その辺りをクルージン グし、水の上からの視点ともいうべき、これまで、全く視野に入らなかった世界、生活が 、つい身近にあることに気づかされたのである。
    十月半ば、遊び仲間で、安房勝山の海沿いの保養所に行くことにしていた。ところが、 仲間の知り合いのNさんの好意で、海路、クルーザーで行けることになった。
    当日は生憎 の雨模様だったが、男九人女性二人の遊び好きが、指定の多摩川マリーナに集合した。
    多摩川の河口近くに、こんな船の発着場があることからして、まったく知らなかった。 桟橋には、大小様々のクルーザーやボートが係留されていた。乗船するのは、全長四二フィ ート、一五トンのファースト・レディー号である。白いスマートな船体で、乗る前から、われ われの興奮をかき立てずにはおかなかった。
    船内には、ベッド・ルームが三つもあり、テ ーブルやソファのある居間も結構広い。上甲板にも、一四人も座れるソファーがある。ニ ュージーランド製で、価格は、一億円を越す。GE製の四〇〇馬力のディーゼル・エンジンが二基、最新の自動操縦設 備も備えており、操舵は、上甲板でも、室内でも出来る。
    十時五〇分出航。暫くは多摩川を下る。橋の上から見下ろすことはあっても、船の上か ら見るのは初めてである。全てが物珍しい。川岸には、こんなにもと驚くほど、多くの船 が係留されている。屋形船もあれば、大型クルーザーもヨットも小型ボートもある。水上 の生活を楽しんでいる人が、いかに多いかが伺える。川岸に立地した大きな工場は水門を 備えているが、これは、製品や資機材の搬出入に使われるらしい。
    鴨や鵜が、近くを泳い でいるし、葦の茂みで羽を休めているのもいる。至る所で、釣り人が糸を垂れている。 左手に、羽田空港が見えて来た。海の中まで長い誘導灯が設置されているのを、飛行機 の中から見たことが何度もあるが、それがいま、左手に見え、ジャンボ・ジェットが明る い灯をつけて、舞い降りて来る。右手には、石油精製等のプラント群が密集している。
    河口を出るとクルーザーのスピードが上がった。大小の様々の形をした船が、所狭しと 走っている。大型タンカーやLNG船があちこちに停泊している。
    外洋に出るとスピード は一段と上がった。波はほとんどないが、船は激しく揺れ出した。船体の前半分が海面から浮き上がり、それ が、海面に落ちる時の衝撃だろう。ドン、ドンと大きな音がする。室内では立っておれぬ 。缶ビールを飲むのも難しい。ベッドに横になると一フィートも体が浮く。
    十一時五十分 、ドドーンと、これまでで最大の音響とともに、船のスピードががくっと落ちた。時速三 四ノットになったところで、安全装置が働き、エンジンの片方が停まったのだ。自ら操舵 していたNさんが、上甲板から下りて来、船室の床板をめくりあげ、再始動させようと色 々試みるがウンとも言わない。結局片肺運転で、進むことになった。
    左手に鋸山が見える。たなびく雲の合間から 、幾重にも連なった嶺々が、黒くシルエット状に浮かび上がっている。漁船団や釣客船が 、釣り糸を垂れているが、どれも船尾に緑色の小帆を張り、風の方向に向きを揃えている 。波すれすれに鴎やあじさしが旋回する。 馴染みの千葉の町並みであっても、海路アプ ローチすると、なにか新鮮で、全く違った土地に来た気がする。
    夕食は一同揃って、取立 の海産物のバーベキューに舌鼓を打った。船旅の興奮も手伝って話も大いに弾んだ。Nさ んも、船の操縦に纏わる楽しい話をいろいろ披露してくれた。そのNさん、昼食で寄った富浦港では、早速、エンジンを 直し、夜間係留した勝山港には、夜更けに潮位をチェックに行くなど、大変な働きぶりで あった。
    翌日は曇り空で、霧もかかり視界は良くなかったが、雨はあがったので、上甲板に出て 、操舵の手ほどきを受けた。気温が低く、風が強く、持参したヤッケが役にたった。ジャ イロ・スコープの指示された方位に進路を合わせるのだが、潮流、風、波に影響され、な かなか容易でない。しかし、次第に要領が分かってくる。車の運転と同じでできるだけ遠 方を見ながら操舵するのが、こつのようだ。
    出航して横浜港に入るまでほぼ二時間半、方々に設置されている定置網 や漁船団を避けるために方向を急激に変える必要のある場合を除いて、舵を取らせて貰っ た。そそり立つベイ・ブリッジを潜るときも、そこから大きく左に舵を切り、タイ料理を 食べに「タイクーン」に向かったときも任せてもらった。
    接岸は、二つのエンジンのアク セルを器用に操れる、Nさんにお願いするよりなかったが。 東京湾を航行するのも、自ら操舵するのも、海側からレストランに入るのも、高速道路 下の運河にある軽油スタンドに接岸して長いホースで注油するのも、入り組んだ運河を走 るのも、全て初体験だったが、思いがけず、橋の上からでは窺い知れぬ世界を知る機会を得 て、実に楽しい二日間だった。
    新しい視点が一つ増えた。Nさんに、四級の操舵の免許を 是非取るように勧められたが、さて、どうしたものか。少々食指が動かぬわけでもない。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ

    ふるさと異変
    阿部 毅一郎
    この六月、九州の片田舎にある故郷に帰り、高校卒業三五周年記念の同窓会に出席した 。
    東京にも同窓生はかなりいるので、東京での同窓会では常連の一人なのだが、故郷で開 催される同窓会に出るのは高校卒業後、今回が初めてだった。三十周年記念の時には、北 海道に赴任した直後で、九州は遠すぎた。卒後三三年の時にも、昭和三三年の卒業にあやかり同窓会を「さとみ会」と命名した ぐらいだから、記念の同窓会をやろうということになった。わたしも今度だけは何があっても参加することに し、幹事からの講演をするようにとの要請にもそれまでの罪滅ぼしの意味も込め、快く応 じた。
    ところがである。
    その同窓会が、およそ信じがたい事態の発生で中止のやむなきに 至ったのである。 わたしの故郷が島原市であると言うだけで、中止になった事情は、すぐにでも察してい ただけよう。
    二百年の沈黙を破って噴火を開始した雲仙岳が、日増しにその勢いを増し、 島原市や深江町に甚大な被害をもたらすようになり、心理的にも同窓会を開く余裕を奪っ たのだ。わたしのほうは、雲仙噴火後しばらくして、母が入院したので、見舞いに帰省することが多くなり 、雲仙岳の変容の推移を、かなりの頻度で観察できるようになった。
    二年半前の十一月、緑豊かな山頂付近からちょろちょろと白煙を上げ、そのうち元に収 まると思えたものが、次第に大量の溶岩を吹き出し始め、山頂付近にかさぶたの様な不気 味な溶岩ドームを形作った。それが崩落を繰り返し、次第に山頂周辺から次第に赤茶けた 土色に染め変えて行った。火砕流という聞きなれない言葉がニュースに登場するようにな ったと思う間もなく、まだその怖さを知らない地元の消防隊や報道陣四十数名の人命を奪う。加えて、大規模な土石流が 頻発する。水無川の流域の家屋田畑一切合切を流し去り、後には引きちぎれた家屋の残骸 や人の背丈より高い大石の群れを残す。その都度、国道や鉄道線路も土石の下に埋め、島 原半島の南北の動脈を絶つ。
    雲仙岳は休みなく噴煙を上げるようになり、火山灰をまき散らし、その前にある緑の眉 山も、麓の町も畑も、薄汚く覆う。まさかと思っていた悪夢が次々に眼前に現出するのだ 。家を失い、田畑を失い、営みの術を失った人々は、仮設の住宅でのいつ終わるとも知れ ない長い避難生活を余儀なくされる。
    噴火から二年たっても雲仙の噴火活動は一向に収まりそうになかった。収まるのを待って いたのではいつ同窓会を開けるか分からない。災難とは言えそれなりに落ち着いて来たし 、キリのいい三五年になった。現地の人の激励会も兼ねて開こうという声が高まり、この 六月に、三五周年記念同窓会を開く運びになったのである。
    相変わらずお元気な十人の恩師を含めて、全国から、八〇人近くの人が集まった。東京 では、その十日前に故郷での同窓会に参加できない人達に呼びかけ、「関東さとみ会」を 開いたところ、三一人集まった。そのうちのわたしを含む五人が三一人の言伝てを携え、島原に赴いた。
    わたしにと っては、三五年振りの人が大部分だった。一八才の時に別れたきりになっていたのに会う とどことなく当時の面影が残っていて、話しているうちに、色々と思い出して来る。懐か しさが込み上げる。魅力的に歳をとった人も多い。いまや自分の息子や娘が一八才以上に なっているというのに、一八才当時の思い出をベースに五〇を越えた男女が話に花を咲か せるのだ。ほとんど違和感がないのが不思議なくらいだ。
    三五年前の田舎の男女学生は、 極めて保守的で、殆ど口を聞き合うことなどなかった。それが五〇を越えた男女の気楽さで
    「あの頃、密かにあなたに惚 れていた」
    「わたしも憧れていたの」
    と冗談口に託して出し遅れた密かな思いを伝え、二 次会ではカラオケに合わせて、ダンスもするのだ。確かに時代は変わった。
    その当日にもひどい降灰があった。車のフロントガラスをたちまち白く覆ってしまう。 屋根も木も草も野菜も灰まみれにし、風が吹くと砂塵となって舞い上がる。まるで砂漠の 町のようだ。梅雨時期で火砕流と土石流も猛威を振るっており、前々日の大雨でその矛先 は、母に先立たれ後に残された父とすぐ下の弟一家とが住んでいる実家の四キロ上方にまで迫っていた。もはや、市の中心部分も 、絶対安全とは言えなくなった。同窓生の中にも、実家が土石流に流された人、いつ流さ れてもおかしくないところに家屋があり、「くよくよしてもしょぅんなか」と悟りを開陳 する人もいた。
    皆それぞれそんな心配を持っていたが、午後一時半に始まった同窓会は明 るく楽しく賑やかに、深夜まで続いた。
    この火山活動は、一体何時まで続くのだろう。大きな造山活動にぶち当たったのではな いか心配である。二百年前のときは地震による眉山の大崩落で幕を閉じた。崩落した土石 が有明海を埋め、津波を引き起こし、先ず肥後側を襲い島原側に取って返し、合計一万五千人の本邦火山災 害史上最大の犠牲者を出した。これが「島原大変、肥後迷惑」である。
    ふるさとの皆様 に心からのお見舞いを申し上げるとともに、せめて今回の収束が、せいぜい今程度の「異 変」に止まり、「大変」までに至らないことをひたすら祈るのみである。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ

    迷いのパソコン
    阿部 毅一郎
    十一月下旬のこの時期になると、毎年年賀状の宛て名書きが気になるのだが、今年は気 になるどころではない。頭を抱えている。
    というのも、せっかくパソコン(PC)に打ち 込んでおいた住所録が、ある日忽然と消えてしまったからである。手持ちのJ−3100 というPCのハードディスク(HD)が壊れたのだ。機械である以上、壊れる危険性は常 にあるのだから、フロッピーディスク(FD)にコピーしておけば何でもなかったのだ。それを怠ったために、住所 録をはじめとして、データ類が悉く消失したのである。いつまでも、無事で長持ちしてく れると思い込んでいけないのは、親とHDであるらしい。
    これまでもこの種の悔しい思いを何度かした。住所録ではこれが二度目である。最初の 時は、それこそHDをFDにコピーしようとして、自分の誤操作で、消してしまったのだ 。PCが妙な動きを始めたので、しまったと思い、必死になって止めようと試みたが、後の祭り、長年の 努力の成果がきれいさっぱり消滅してしまった。
    それ以来、FDにコピーするのが何とな く不安になり、これが今回のミスにも繋がった。ワープロでも、コードを蹴飛ばして電源 を落とし、完成した直後の原稿を消した苦い経験がある。その翌日が締切日だったので、 徹夜で泣き泣き書き直した。
    J−3100は、五年前に手に入れた。CRTは白黒表示で、ポータブルとは言いなが ら七キロもあり、デスクトップとして使っていた。ところで、壊れたHDを修理に出そうと したら、五万円もするという。容量は、二〇MB(メガバイト )に過ぎないから、三四〇MBで十万円 を切っている現状に比べ相当割高だ。それに、ソフトを覚え込ませるPC本体のメモリ容 量が六四〇KB(キロバイト) しかない。ワープロ・ソフトの「一太郎」をバージョン3から 4にアップしたら、スピードが落ちて使い物にならなくなった。軽自動車に大型車用のク ーラーを付けたようなものなのだ。
    米国から低価格を売り物に殴り込んできたPCは、C PUがインテル社の486で本体のメモリは四MBが標準だし、一二〇MBのHDを内蔵 して、二〇万円そこらかしない。しかも、CRTはカラーだ。それならいっそのこと、最近の性能のいいのに買 い換えたほうがマシじゃないかと、修理は保留している。
    いや、実を言うとHDが壊れる前から、性能のいいPCを買おうと本や情報誌を読み、 専門店にも出掛けいろいろと研究しているのである。PCで、絵を書き、コンピュータ・ グラフイックを作り、音楽を演奏し作曲し、本を出版し、PC通信をしたりするのが長年 の夢なのだ。それには、どうもMACが、しかもCD−ROM付きのがいいらしいと当た りをつけていた。
    MACは創業者の成功伝説で有名なアップル社の製品で、現在の主流の 機種ではないが、グラフイックやオーディオ分野では他の追随を許さない。ところが、主 流側からMACに対抗するソフトが売り出されたのだ。マイクロソフト社のウインドウズ である。いまや世界の標準機となったIBM PC AT互換機で走るこのソフトの出現 で、アップル社の業績がにわかに落ち、会長が退陣に追い込まれたほどである。
    それなら、さっさと標準機を買えばいいではないかと言われそうだが、グラフイックに 関しては、これまでMAC陣営が蓄積したソフトの層の厚さに比べれば、まだウインドウ ズ側は敵ではない。しかも、両系列のソフトが走るマシンも遠からず発売されるとの情報もある。この分野 は多くの企業が凌ぎを削っているので文字通り日進月歩、次々に高性能で低価格のものが 出てくる。だから、目移りもしてなかなかふん切りがつかないのだ。
    PCとのつきあいは、シャープ社製のポケコン(ポケットコンピュータ)時代からだか ら結構長い。その後富士通のFM−7を買い、自分でプログラムも組んだ。使った言語は BASICである。ポケコンの予備知識があったので、取っつきやすかったが、自分のや りたいと思う作業を分析し、コンピュータ言語に焼きなおす、いわゆるSE(システム・エンジニアリング)の難しさはた っぷり味わわされた。
    プログラムはうまくできたはずなのに、全く動かない。PCのほう がおかしいのではないかと疑いながら、CRTとにらめっこをする。すぐ二時間、三時間 たってしまい、就寝時刻が午前二時、三時なったのも二度や三度ではない。原因はピリオ ッドの代わりに、コンマを打ったと言うような些細なミスだったりするのだが、相手は機 械のこと、それでもピクリとも動かぬ。それだけに苦労が実り、狙い通りに動き出すとや たら嬉しい。そこらに、一種の中毒性の魅力がある。
    作ったプログラムと言えば、リーダースダイジェスト誌に掲載された英単語の選択問題を、ラン ダム関数を使い色彩や形状や大きさがランダムに変化するタイトル画面とバッハの曲の導 入部付きの、正解に至る回数で得点差があり、十問解くと、総得点とともにEXCELL ENT等の評価の出る程度のものに過ぎない。
    プログラムも文章と同じで、アイデアと構 成が勝負だ。「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」のように簡にして要を得たもの が最上である。いくらでももたもたした文章が書けるように、どれほど重苦しいプログラ ムでも書ける。それでもPCは動くが、過積のダンプ同様スピードは出ない。
    現在、PCはネオダマの方向へ進んでいるらしい。ネがネットワーク化、オがオープン システム化、ダがダウンサイジング化、マがマルチメディア化である(岩波新書「パソコ ン・ソフト入門」参照)。こうした新潮流にも照らして、MACがいいかウインドウズが いいか、私はまだ迷っている。これでは、年賀状に間に合わないことだけは確かである。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ

    大雪の一日
     朝、目を覚ますとあたりは沈み込むような静けさに包まれている。
     時計の針は八時を少 し回っていた。急いで起きだして行き、窓を開けてそとを見ると、案の定、雪である。 いつ頃から降りだしたのか知らないが、わが家の小さな庭もすっかり雪化粧して、木の 枝には、もう十センチ近くも積もっている。まだしきりに降っており、止む気配はない。
     建国記念日を頭にしての三連休の中日、昨日は良く晴れて暖かく、午後一杯テニスコート で過ごしたのに、一夜明けるとこの雪だ。家人から、テニスウエアが私の休日のユニホームと言われているが、さすがに 今日は用はない。久しぶりに普通の服を着る。
     八時半から衛星放送で、囲碁・将棋ウィークリーが始まるので、居間の定位置に腰を据 える。ソファの一番右端でそこだけが凹んでいる。テレビを見るときもCDを聞くときも 本を読むときも、いつも私がそこに座るからだ。番組の司会役の白江七段には、さる碁会 で指導を受けている。その白江先生が、将棋のほうの司会役の清水女流王将を相手に、今 朝は雪で放送局まで来るのが大変でしたねと生放送にふさわしい話題で口火を切る。いつ もながら巧みな導入である。清水さんも若いにもかかわらず決して負けていない。巧く相槌を打つ。口 も達者なら、棋力も女流三強に数えられる人で、マスクもいいし、天が二物三物を与えた 口である。
     その日の囲碁の実戦解説は、女流名人戦第二局である。これまた、私が指導を 受けている小川誠子五段が、三連覇中の杉内女流名人に挑戦しているのだから、見逃すわ けにいかない。両者が闘志をぶつけ合った大熱戦だったが、小川五段が制し、これでタイ 。タイトル戦の帰趨は最終局にもち越された。ほっと胸をなで下ろす。
     最後に白江先生、これから福井に出掛けなければならない。大丈夫でしょうかねと番組を締めくくったが、字幕情報 によれば本州中央部の交通はほとんど麻痺状態のようだ。
     庭にちょうど一年前野鳥の餌台を二台設けたところ、冬から初春にかけて小鳥が沢山来 るようになった。昨日もかなりやって来たのだが、今日はこの雪だ。一体来るだろうかと 心配しているとこれがちゃんと来るのである。常連組の四十雀、目白、ヒヨが顔を見せた 。 野鳥も、味にはなかなかうるさい。文鳥、十姉妹などが好むというむき餌を買ってき て与えてみたものの、野鳥どもはほとんど見向きもしない(後日、鳩の好物と判明した) 。
     四十雀用にひまわりの種をやったのだが食べはするが売れ行きがいま一つぱっとしない。ピ ーナツに戻してみるとこれがたちまち売れ切れになるほど評判がいい。現金なもので金網 の筒の上のほうに入れたピーナツだけをついばみ、下のひまわりの種は相手にしない。妻 から、 
    「もうそろそろピーナツは売れ切れそうだから、殻をむいておいて」
    と頼まれてい る。殻むきは私の分担なのだ。この一年で、小鳥の嗜好にもかなり詳しくなった。
     ソファのすぐ右手の小さな台の上に、常時三十冊ばかりの書物を置いている。高田馬場 駅前のアスレチック・センターで毎月初めに古書感謝市がある。早稲田の古書店連合が十万冊もの古本を並べ るのだ。私は常連で、毎月一二回出掛け平均して三十冊ほど仕入れてくる。私が仕入れて くるといつのまにやら妻が前月分を書斎に移す寸法になっている。だから二月分が同居で きるのはほんの数日に過ぎない。その意味で言わば生きのよい古本を、暇さえあれば、そ れこそ手当たり次第に読むのである。全冊を一月で読み終えるわけにはいかないから、読 みさしのまま書斎送りになる本も数知れない。前月分を引き続き読みたいときは、書斎か ら取り戻して来る。この日手に当たったのは、サロイヤンの「人間喜劇」、橋本治の「恋の花詞集」、田辺聖子編の 「わがひそかなる楽しみ」などである。
     雪はこやみなく降っている。餌台にもますます雪が積もってきて、輪切りのリンゴも、 金網の筒も見えなくなってきた。しかし、目白の番いが来て、小さな赤屋根の下で、半分 覗いているリンゴを食べている。写真を撮っておこうと、久しぶりにズームレンズのつい た一眼レフを取り出す。目白は一刻もじっとしていないのでなかなかシャッターチャンス が掴めない。四十雀は、積もった雪の上に乗って、雪の塔の間から僅かに見える金網の筒 の中のピーナツを盛んにつついている。つつく度に後ろを振り返る。誠に用心深い。
     本を読んでいて、ふと目を上げると、白一色の雪景色のなか、燃えるように赤い小鳥が 一羽、ツツジの枝にとまっている。初めて見る鳥である。頭部は黒っぽい。次の瞬間、も ういなくなった。なんだか幻でも見たような感じだ。早速「都市鳥ウオッチング」の写真 に照らしてみると、どうもジョウビタキらしい。しばらくして、もう一度だけ現れ、こん どもほんのすこし居ただけでアッという間に消えてしまった。
     この連休、当初ゴルフのつもりだったのだが、すこし風邪気味だったのと、大雪との天気予報を耳にしたのとで、早々と断念 したのが幸いした。終日、一歩も外に出ず、本を読んで過ごすのも悪くない。お蔭で雪も 楽しめたし、ジョウビタキを拝むこともできた。
     後日、札幌に住んでいるワルシャワ時代からの友人に、迂闊にも、東京は二五年振りの 大雪で大変だったと話したら、たかが二十三センチ程度の雪で驚いているのと、笑われて しまった。
     わたしも、ワルシャワにいた時代、送られてくる日本の新聞の「厳寒、首都を 襲う。零下三度、水道管破裂多数、終日交通麻痺」などという大見出しを見て、連日零下 十度以下で正常に動いているワルシャワと引き比べ、笑ったことがあった。どんな経験知も、東京の雪 ほども長持ちしないものらしい。翌日から雪は急速に融け始めた。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ

    スキーとワインと小話と
     毎シーズン初滑りは年を越してからと相場が決まっていた。ところが今シーズンは、早 々と十二月上旬に済ましてしまった。まことに順調な滑りだしと言わねばならない。
    ニューヨークに本拠を持つ研修専門機関が日本支社を開設するレセプションのパーティ で、高名な経営学者のドラッカー博士がスピーチをした。現在の日本の「不況」は、実は 不況ではなく構造的な転換期であり、その意味でこの停滞は長引くと言うのだ。
     通訳をしたのが同時通訳の第一 人者Mさんだった。そのMさんに、ほんの少しだが面識があったので、なかなか見事な通 訳でしたねと話しかけたら、たまたまスキーの話になり、十二月上旬に仲間と一緒に一泊 二日の予定で軽井沢にスキーに行くがご一緒にどうですかと誘われた。願ってもない誘い だったので、妻の都合を確めた上で、翌日早速参加の返事をした。
     当日は、前夜が激し い風雨だったので心配していたが、嘘のように晴れ上がった。それでも、もうこの歳にな ればあわてたりしない。ゆっくりと十時に出発した。
     車はスキー用に買ったRVのパジェロである。途中で昼食を取っ たりしながらのんびり走ったが、上信越高速道路ができたお蔭で軽井沢は近くなった。一 時半にはもうゲレンデに立っていた。 泊まったのは、軽井沢プリンスホテルの東館。部 屋は、窓のすぐ前にゲレンデが見えなかなか眺めがいい。スペースもたっぷりある。二日 分のリフト券に二食付きで、一人二万円しないのだから、来年もまた来たくなった。チェ ックアウトも五時まで延ばして貰えた。
     ゲレンデは、この時期、ほぼ三百b程度のが二 本だけ。軽井沢は雪の少ないところだから、全て人工雪である。何も知らずに左側のリフトに乗ったら、狭くて急でコブ だらけのゲレンデが待ち構えていた。ほぼ一年振りで一bも滑らぬ鼻から、いきなりコブ コブではたまったものではない。私でさえそう思うのだから、妻は余計深刻な顔をしてい る。まさかスキーを脱いで歩いて降りるわけにも行くまい。しょうがないと私が先に滑り 始めた。
     ストック捌きも鮮やかに、とはとてもいかなかったが、なんとか転ばずに滑り降 りることが出来た。妻はと振り返ると、慎重にまだゲレンデの様子を伺っている。  右手のゲレンデは、良く整地されておりなだらかで滑りやすい。妻もなんとか無事に右手のゲレンデにや ってきた。何本か滑ってリフトの行列に並んでいたら、赤ヘルメットにニッカポッカのい でたちの人が滑り降りて来た。それがMさんだった。「Mさん」 
    と話しかけると、その周 りの人達が、一緒に来た仲間だった。医者のYさん、銀行員のOさん、東欧圏の大使のR さん、それに女性のAさんとBさん。Aさんとは旧知である。IBM主催のアスペン・セ ミナーに参加したとき、その事務局をしてくれた女性である。スキーで右肩を脱臼し、二 シーズン振りでおっかなびっくりという話だったが、どうしてどうして、どこでも勇敢に滑り降りていく根性は見 上げたものだ。
     Bさんは、ちょうどその頃、ウルグアイ・ラウンドの米の自由化を巡る熾 烈な駆け引きの最終局面で、政府高官の夫を人身御供に捕られての参加だった。少々遅れ てやってきた妻を皆さんに紹介し、一緒になり別れ別れになり、とにかく各人熱心にすべ った。二人乗りのリフトに一緒に乗り合わせた時に色々と伺うと、Yさんはもと国体のス キーの選手だったという。うまいはずだ。Mさんがスキーで捩じった、膝の半月板の手術 も執刀したらしい。Mさんによると、その手術の模様はビデオに克明に収まっていて、まことに美的なものらしい。と にかく侍医付きで滑っているようなものだからこれ以上安心はないと言う。
     還暦過ぎて元 気なOさんはもと商社員。私の知人のCさんの一年先輩で、結婚式の司会をした仲だとい う。世間は狭い。Rさんは、二年前までは母国の大学で電気工学を教えていた。早大の理 工学部出の理学博士で、日本語はぺらぺら。こうして大使になって日本に来られたのも、 一連の東欧自由化のお蔭と言う。まだ四十代、スキーが大好きで、がっしりした体には精 力が溢れている。 日も落ち、結局大使と私とが一番最後まで残り、折から降りだした雪が、ナイターの照明に照らしださ れて幻想的に舞い落ちてくる中で、飽きもせずひたすら滑りまくった。
     七時十五分から、大使の部屋でワイン・パーティというので出掛けると、なんとハンガ リーの名産トカイ・ワインがずらりと並んでいる。ポーランドに滞在したとき、このワイ ンには随分と親しんだ。日本に帰ってからも西武百貨店で見つけ、懐かしくなって、買っ て帰り賞味したほどだ。
     大使の講釈によるとトカイ・ワインには二一もの種類があるとい う。ほどよく冷えたワインを、これまた大使持参のワイン・グラスで飲むのである。白も 赤も実に美味い。
     八時からは夕食というので、大型のバン二台に分乗して西館へ向かう。 もう道路は凍結していて車が盛んにお尻を振る。食堂は、まるで貸切りのように空いてい る。丸テーブルを囲んで、中華料理をつついた。なかなかいける味だ。Mさんの仲間は、 息の合った駄洒落仲間で、ひっきりなしに駄洒落が飛び交う。話好きで気の利いた小話が 次々に出てくる。これではカラオケの入り込む余地は無い。たっぷり時間をかけて食べ、 さて、もう一度大使の部屋に戻って、ワイン・パーティの総仕上げに取りかかる。
     今度は貴腐ワインが並ぶ。これがワインかというほど甘味とコクがある。外では、人工雪の装置が唸りを 上げている。室内ではいつまでも笑声が絶えず、豊かに夜が更けていく。
     翌日も快晴の 空のもと、皆でわいわいとスキーを楽しみ、昼休みもたっぷりとって最後のワインも空に し、日没ぎりぎりまで滑りまくって、軽井沢を後にしたことであった。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ

    ホイットニーとグラミー賞        940303 
     
     雛祭りの当日、朝刊を開いたら、「グラミー賞、ホイットニーが三賞」という見出し が目に飛び込んできた。米音楽界最高の栄誉である第三六回グラミー賞の発表・授賞式 が三月一日夜、ニューヨークのラジオ・シティー・ホールで開催され、最優秀レコード 、アルバム、女性歌手の主要三賞を、映画「ボディガード」の主題歌を歌ったホイット ニー・ヒューストンが獲得したというのである。彼女はこの映画の中で、役者としてケ ビン・コスナーと共演し、主題歌の「オールウエイズ・ラブ・ユー」を収めたアルバム は二千五百万枚を売る記録的なヒットとなった。今回の受賞も当然と言えば当然だった 。このアルバム、映画を見て気に入った息子が早速買い込んできたので、わが家の居間 でも長いことヒット・チャートの上位を占め、私も随分とご相伴に与かり、曲の良さや 彼女のすばらしい歌唱力、無限とも思える声量と魅力的な声をたっぷり堪能させてもら った。
     この記事で、ちょうど六年前の三月二日の夜のことが私の脳裏に鮮やかに蘇った。 その夜、私はニューヨークにいて、ブロードウェーのインペリアル劇場でミュージカ ル「レ・ミゼラブル」を見た。原作の長大なストーリーを小気味のいい舞台まわしで巧 みに要約して見せ、随所に心に響くメロディーを配し、子役をはじめ芸達者な役者を揃 え、外国人の私すら飽きさせない。十分楽しんだ。見終わって、劇場の出口に向かうと 、一人の男がレコードジャケットを振りかざし、嬉しそうに何事か大声で叫んでいる。 よく聞くと「レ・ミゼラブル」のレコードがミュージカル部門のグラミー賞をとった、 その知らせが今入ったところだと叫んでいるのだ。入口正面の壁には、レコードのジャ ケットが一面に飾りつけてあった。今夜グラミー賞の授賞式が行われたらしい。その夜 に受賞の栄に浴した劇を見たというのも何という幸運な巡り合わせだろう。出口に向か う他の観客も思いは同じと見え、顔をほころばせ、件の男性に口々におめでとうと声を かけている。
     劇場を出ると、目の前に馬に乗った交通整理の警官がいた。馬も大きい。警官も大き い。見上げるような高さだ。ブロードウェーのこの界隈、なんとなくお祭り気分に溢れ ている。グラミー賞のせいだろうか。劇場から私の泊まったヒルトン・ホテルまでさし て遠くない。歩くと大変な人出で、ホテルへ近づくにつれ、混雑は増す一方だ。次第に 、身動きも出来なくなって来た。警官が大勢出ている。その中を、小型バスほどもある リムジンが縫うようにして走り、ホテルの正面入口に次々と着ける。こんなに多くの、 また、これほど大型のリムジンを見るのも初めてだ。中からは、ドレスアップした人が 下りてくる。 周りの人に確かめると、ラジオ・シティー・ホールでのグラミー賞の授賞式が終わり 、受賞パーティがこのホテルで開かれるので、受賞者をはじめ関係者が移動していると いう。リムジンから降りて来るのは、アメリカを代表する歌手やその関係者なのだ。シ ティー・ホールからは歩ける距離なので、正装したそれらしい人で歩いて来る人も結構 いる。ファンがその回りに殺到する。警官が両手を広げて制している。 ホテルには一般の人はなかなか近づけない。
     私はこの際、受賞パーティ会場のホテル にたまたま泊まり合わせた幸運を最大限に利用するにしくはないと思い、悠然と入口へ 近づいて行った。制止しようとする警官に、宿泊カードをみせるとどうぞと通してくれ る。 と私のすぐ側にホイットニー・ヒューストンがいるではないか。わたしは夢中でカメ ラを構え何回もフラッシュをたいた。今も手元にそのときの写真が数枚残っている。ア メリカの歌手の中で、顔を知っている人はそんなに多くない。たまたま彼女のカセット テープを持っていたおかげで見間違いだけはしない。
     東京虎の門に讃岐の金比羅神宮の分社がある。月に一度だったか小規模ながら縁日が かかる。当時私のオフィスはその近くだったので昼休みに冷やかしに行った。なかに音 楽カセットを安売りする出店があり、毎月何本か買っていた。店の主は少々やくざっぽ い夫婦ものだったが仲良くなり、勧められたなかにホイットニーのアルバムがあった。 聞いてみると悪くない。いや、なかなかいい。同様に勧められたシンディー・ローパー らとともに、彼女の顔も覚え、ちょっとアンテナを延ばしてみると、そのアルバムに収 まっている「素敵なサムバディ」がヒット中で、グラミー賞の有力候補ということもわ かった。 ホテル前の混雑の中では、彼女が受賞したかどうか確かめようもなかったが、回りの ファンが盛んに声援を送っているところを見ると、受賞したに違いない。声援に対して 彼女は、大きな口をあけ、真っ白の歯を見せながら、嬉しそうに応えている。大柄で、 はち切れそうなボリューム、輝くような褐色の肌をしていて、精力が横溢している。後 日確かめると、彼女は、その年も最優秀ポップボーカル賞を授賞したのだが、いま、私 の目の前にいるのは、青いドレスで着飾った、笑顔を絶やさない、なかなか魅力的な女 性である。(注1)
     ホテルの入口では、俳優で、司会役を勤めたビリー・クリスタルが、例の精悍さとひ ょうきんさを合わせ持つ特徴のある顔で、次々に着くゲストを迎えている。その晩は、 夜が更けるまで、ホテル中にパーティのざわめきと音楽と興奮が溢れ、私にもその熱が 伝わったせいか、なかなか寝つけなかった。  土産のなかに、その年グラミー賞の最優秀アルバム賞に輝いたU2のアルバムを忍び こませもした。ちょっとした巡り合わせが旅に(人生に)思いがけない彩りを添えてく れる。

    (注1)今年のアカデミー賞の受賞式にも彼女はプレゼンターとして現れたが少々痩せたように 見えた。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ


       恵みのスキー               940422/ 0427 /0509

     北海道から久しぶりに講演のお座敷がかかってきた。もともと講演は嫌いでないので 、札幌に赴任した一年間で二十回もこなし、帰京後、二三度お呼びがかかったときもい そいそと出掛けたのだが、このところ間遠になっていた。先方のよんどころない事情で 、四月四日の月曜日に来て欲しいという。月曜日と聞いて頭のなかに、シメタという思 いが閃いた。四月に入ったばかりのこの時期、北海道でならまだスキーができる。週末 から北海道に入れば、丸二日滑った上で講演会場に顔を出せよう。喜んで参りますと答 えていた。

     今シーズンのスキー・ライフは年の明ける前の十二月初旬から滑り出し、滑り出しが 順調だったせいか、誠に充実していた。明けて一月末のサホロ、二月末のテイネハイラ ンドとカムイリンクス、三月中旬の天元台。これだけでもここ数年の実績をはるかに上 回っているのに、最後にもう一丁おまけと言わんばかりに今回の話が飛び込んできたの だ。

     早速、札幌時代のスキーの師匠であるYさんに連絡すると、都合がつくのでご一緒し ましょうとの返事。「ニセコあたりではどうでしょうか」と言っていたら、その翌日に は、ニセコの宿の手配から札幌のホテルの割引券の手配まで完了しましたという電話が 返ってきた。なんという手回しの良さだ。二月に北海道へ行ったときもその手回しの良 さにさんざ甘えてきたばかりだった。いや、そもそもスキーにこれほど入れ込むように なったのも、親切で面倒見のいいYさんあってのことだ。札幌に単身赴任した五年前、 毎回の送り迎えから手取り足取りの実地指導まで骨身を惜しまず、全くの初心者だった 私を中級程度の腕前に引き上げてくれた恩人なのである。私のみならず、家族も全員お 世話になった。

     二月に北海道へ行った時、そのYさんから、今の勤め先を三月末で定年退職するので 暇になる。何時でも、声をかけて下さいと言われていた。その言葉に甘えて電話したの だが、同行した妻ともども退職後初めてお世話にあずかる栄に浴することになった。

     今シーズンのスキー・シーンで忘れられないのは、米沢は天元台のインターハイ・コ ースを滑り降りたことだ。平均斜度三八度、最大斜度四三度で全国に名が轟いていると 言う。しかも、今は立ち入り禁止になっていて、ゲレンデは整備されていない。そんな ところを普段だったら、滑ろうなどという気を起こすはずはないのである。ところが男 女一九人からなる天元台スキーツアーの首謀者で、十二月の軽井沢行きのときにも誘っ てくれたMさんが、大丈夫ですよ、と熱心に勧めるのである。私より十も年長のMさん は前日も若手の二人の男女を誘って、滑り降りていた。そのコースを降り切ると我々が 泊まった宿の前にでる。だから、最終日の最後の一滑りをそのコースに当てようという のである。いつの間にか、同行した娘が、Mさんの甘い誘いに陥落していた。それでも 私は、行かないと言い張っていたのだが、最後の最後に、娘さんを見捨てるつもりです かとまで言われ、止むなく前日の三人組を含む男四人女二人の仲間の最後尾に連なるこ とになってしまった。

     立入り禁止のロープを潜ったときから、難行苦行が始まった。かりかりのアイスバー ンの上に昨日来の新雪が被っている。傾斜が急過ぎてアイスバーンが露出したところも ある。整備されていないので凹凸が激しい。裂け目もある。昨日の経験者も今日がはる かに滑り難いという。来るんじゃなかったと思ったもののもう遅い。前に進まない限り 、後ろに戻るわけには行かないのだ。なにしろ、四三度である。黙って立止まっている ことさえ難しい。下手をするとずるずる滑りだす。上に登ろうにも、登れたものではな い。覚悟を決め、スピードがつきすぎぬように、くるりと回って次の回りやすいところ を探し、またくるりの要領で行くしかない。フォールラインに沿って滑降するときはそ れこそ真っ逆様に落ちる感じだ。相当怖い。だから、転ぶ。転ぶと急だからどこまでも 転げ落ちる。スキー板が吹っ飛ぶ。高いところに残った板を取りに行くのも難しい。急 斜面でビンディングを付けるとなると一層難しい。全員が多かれ少なかれ何度か転んだ 。娘など林の中に飛び込むわ、二mもある窪地にすっぽり落ち込むわで、二度も身動き 出来なくなった。残念ながら私の実力では、救援に向かえない。若い二人の男性のお願 いするよりなかった。

     それでも余裕を失わず、途中で全員転んで壁に必死にへばりついている有様を記念撮 影までしながら、なんとか無事に全長一・五キロの難コースからの生還を果たした。そ の時なんとも言えない満足感と連帯感とが湧いてきて、互いに固く手を握り合ったこと だ。

     ニセコでは、初日は東山で二日目はヒラフで滑った。北海道とはいえもう四月、雪は ざらめ状で、二月のサホロや三月の天元台の軽い雪に比べれば泥のように重い。ゲレン デは荒れ気味で、距離もたっぷりあり傾斜も相当きつい。油断すると左右のスキー板が 別々の方向に行ってしまう。曲がろうとするとコブに邪魔される。私でもかなり難儀し たのだから、妻にとっては、今シーズン、ボーゲンの域からパラレルへ一歩前進したと は言え、見た目以上に辛いコースだったろう。でも、ファイト満々果敢にチャレンジし 、音を上げないのは見上げたものだ。私同様スキーにすっかり取りつかれた様子だ。指 導員の資格をもつYさんは、いつも変わらぬ安定したスタイルでどこでもすいすい滑り 降りる。雪がざらめだろうが、コブがあろうが全く関係ない。二日とも風があり、ゴン ドラやリフトが止まったりしたが、今シーズンの最後の機会との思いもあって、終日ひ たすら滑り続けた。

     翌日の札幌での講演会だが、思いがけず二日も余計に滑らせて貰ったお礼心が手伝い 、講演には一段と熱が入った。もっとも、今シーズンちょっと腕を上げた(と思う)ス キーに比べれば、久し振りの講演とあって、口はスキーほどには良く滑らなかったけれ ど。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ


       手塚治虫の時代               940526・31

     手塚治虫が逝って、早くも五年になる。享年六〇歳。日本人の平均年齢に比べても、 早すぎる死であった。長生きして、もっともっと活躍して欲しかったと思う人は、おそ らく数知れまいが、私もその中に名を連ねるものだ。他の誰に対するよりも手塚治虫へ の思いは強い。

     私は、昭和二一年の就学だから、戦前の教育を全く受けなかった純粋戦後教育のはし りの世代であるが、手塚治虫のマンガとともに育った世代ということもできる。当時『 少年』という雑誌に手塚の『鉄腕アトム』が連載されていたが、毎月待ち焦がれて読ん だものだ。劇画では『少年王者』の山川惣治や『平原児』の小松崎茂などが活躍してお り、私は、専用のスケッチブックに、鉄腕アトムやデカ鼻のお茶の水博士、少年王者や 平原児などの似顔絵を飽きもせず書いては、将来のマンガ家、劇画作家を夢見ていた。

     手塚のマンガには、他のマンガにない格段と滑らかなタッチ、巧みなストーリー展開 、豊かなユーモアとロマン性など際立ったものがあるのを、子供心にも感じていた。ま さか、当時私と十ちょっとしか歳の違わない医学生が、毎月の連載を通じて、これまで にない斬新なコマ割、新鮮な映画的手法を駆使しつつ、ストーリー性の高い新しいマン ガを創造しており、その現場に立ち会っていようとは思いもしなかった。十六歳でデビ ューし、一作ごとに内容や手法の実験を繰り返し、すでに二十代半ばで独自の作風を作 り上げ、マンガの歴史そのものを書き換えたのだ。そうとも知らず、名をなした大家に 違いないと漠然と思い込んでいて、後年年齢を知り驚いた。手塚はその後も死ぬ日まで 立ち止まることなく次々に名作を生み出す。『ブラック・ジャック』『火の鳥』などか ら、未完に終わった『ネオ・ファウスト』などまで手塚の腕は衰えることなく、断えず 未開の分野を開拓する。その足跡は全集三百巻と、全集からこぼれた百巻にあまる作品 の中に結実している。

     手塚に触発され、マンガを自らの創造力を託するに足るジャンルと思い定め、多くの 才能ある人々がマンガ界に身を投じた。確かに、絵を書く才能があれば、小説のように 煩雑な「地の文」を書かずにダイヤローグだけでストーリーを展開できる。一昔前の文 学青年や映画志望者がマンガ家を志すようになった。その結果、層の厚い人材を背景と してすぐれたマンガが次々と生み出され、多くの読者を掴み一大市場を形成するに至っ た。

     現在、その市場を席巻しているのがマンガ週刊誌である。六百万部も売れる少年ジャ ンプをはじめとして、子供向けから青少年少女向けビジネスマン向けと様々な雑誌が市 販されている。一般紙にも週刊誌にもマンガ欄が必ずある。われわれの世代を言わば波 頭として、若い人はどっぷりマンガの大海に浸かっている。私の息子や娘も毎週週間マ ンガ雑誌を購読している。『読書の快楽』(正続とも)など読書案内書も、ちゃんと少 女マンガの欄を設け、れっきとした評論家にコメントを委ねている。関川夏生の『知識 的大衆諸君、これもマンガだ』のように、マンガを憎む人向けと称するマンガ案内すら 出ている。

     かつては、マンガが一方的に映画から手法を借用していたが、今では逆に様々な分野 がマンガ的手法を取り入れている。吉本ばななの小説はマンガ的と言われる。『ちびま るこちゃん』の作者のエッセイは字で書いたマンガだ。マンガからの劇化(映画・テレ ビ・演劇)も多い。役者はマンガティックな演技を求められる。マンガが生み出した様 々の手法についても読者側の理解が進み、作者側がより高度のものを試みうる環境も整 っている。

     日本のマンガの優れたメディア性は、国際的にも評価され、東南アジアは 言うに及ばず、フランス、スペインまで進出している。原語(日本語)のまま、フラン スやスペインの若者に読まれる時代なのだ。手塚に先導された日本のマンガは、今や、 一大ジャンルを形成するに至った。その意味で「手塚治虫の時代」がまだ続いていると 言えよう。

     このように、日本はマンガ先進国と言ってよいが、マンガというだけで軽んずる風潮 がまだある。私は幸いにして、断えず手塚マンガに接しながら育ったお蔭で、マンガに 対する違和感が全くない。要するにあらゆる文学、芸術と同様、良質か悪質か、作者の 志が高いか低いか、面白いか面白くないか、心を打つか打たないかの差があるだけで、 マンガそのものが、いい、悪いの対象になるものではない。だから、『サザエさん』『 いじわるバアさん』『コボちゃん』から白土三平の『カムイ伝』『忍者武芸帳』などま で愛読したし、今も毎月欠かさず覗く古本市でもマンガを射程に入れており、たまだが 買って帰る。

     最近手にした『『坊ちゃん』の時代』は、マンガに一家言を持つ関川夏生の文、谷口 ジローの絵だけに、なかなかよく出来ておりじっくり読むに耐える。大友克洋の『童夢 』や『AKIRA』もマンガでなければ表しえないものを描きだしており、凄いと思わ された。つげ義春の独自の世界も、他のメディアで表すことは不可能だろう。ナレーシ ョンを排し絵だけで全てを伝える手法にそれぞれ工夫が凝らされており、唸らせられる ものがある。 メディアのビジュアル化、マルチ化は今後ますます進むだろうから、マ ンガの前途は開けており、より多彩な発展を遂げる可能性を秘めている。ただ、息子が 読んでいる週刊誌を覗いてみても読むに耐えるものは少なく、食欲をそそられない。読 者を見くびり、げすの根性に媚びたような粗製乱造が続けば、ブームもバブルと化しマ ンガ離れを招来しよう。このままでは、市民権を得た日本のマンガと言えども、今後何 度となく行き詰まりかねないが、その度に手塚の残した“宝の山”が再発見されること になるだろう。なにしろ、手塚はモーツアルト同様、時代を先取りした百年に一人の人 だったに違いないのだから。

     (注1)日本はアニメの水準も高いが、忘れられないのは、「銀河鉄道九九九」「げげげの鬼 太郎」「魔女の宅急便」などである。ただ、ディズニー・プロも相変わらず健闘してい て、「魔女と野獣」など、日本ものでは及びもつかないことを、ちゃんとやってのける 。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ 

                               


       驚異のハブ                940627/0630

     旅先で読んだ新聞に奄美大島で捕まった巨大ハブの写真が載っていた。なんと二メー トル十九センチもあり、重さが三キロもある。ハブがこれほど大きくなるとは知らなか った。山道でこんなのに睨まれたら、私などすくみ上がって一歩も動けなくなって仕舞 うだろう。くわばらくわばら、と思った途端、ちょうど将棋の名人位を取ったばかりで 、その頃ジャーナリズムにさかんに登場していた羽生善治五冠王の顔が浮かんできた。

     そんな連想が働いたのも、羽生名人のハブニラミは将棋界ではとみに有名で、皆から 恐れられていたことを知っていたからである。将棋界の記録をことごとく書き直す勢い を示している新名人だが、「恐るべき子供」と言われた時代から、対局の最中に上目遣 いにジロリと対戦相手の顔を睨む。睨まれた相手は、蛇(ハブ)に睨まれた蛙同様、手 も足も出なくなり、あっさりひねられてしまうと言うのである。

     いまさら天下の名人をハブと比べるのは失礼だが、新名人は、いまや将棋界では今回 捕まった史上二位の巨大ハブ以上の存在である。七つしかないタイトルのうち五つまで も独占し、しかも今回の名人位奪取は、名人戦リーグ初参加でいきなり挑戦権を獲得し 、初挑戦での戦果である。名人位を奪われた米長九段は、昨年七度目の挑戦でやっと名 人位を手にし、四九歳、最高令の初就位として騒がれた人である。羽生名人は、米長九 段と親子ほど歳の違う二三歳、プロ棋士になって九年で棋界の最高峰に一気に上り詰め た。名人位を獲得するまで五百三戦して四百七勝、勝率は八割を越しているのだ!しか も、今回の挑戦手合では定跡にチャレンジしてみたいと、一局一局手を変え品を変えた 戦法を用い四対二のスコアで快勝した。定跡にこだわらない戦法をこんな大舞台で使う 勝負度胸といい、チャレンジ精神といい、人間としてのスケールの大きさには敬服する よりない。

     いきなり羽生名人の紹介みたいなことを書き綴ったのも、かねてから将棋界に並々な らぬ関心を持ち(タイトルの帰趨から林葉直子の失踪まで)、とりわけこの恐るべき羽 生五冠王に注目し、戦前からおそらく名人位を奪うに違いないと予測していたからであ る。

     勝負事では私はが大好きで今もかなり打っているが、将棋は実戦から遠ざかって久 しい。弟が二人おり、小中高時代には兄弟揃って専ら将棋を指していたのである。とこ ろが碁を覚えるに至って三人とも碁打ちに転じてしまった。勝負が激しい将棋に比べる とじっくり打てる碁の方が性に合っている。といって将棋が嫌いになったわけではない 。囲碁はハンディのつけようでかなり腕が違った相手とも対戦できるが、将棋ではハン ディをこまめに付け難くく、手合い違いの試合になりやすい。手合い違いとおぼしき相 手に文字通り手も足も出ないように押さえ込まれると頭に来る。これも碁に転じた理由 の一つである。

     碁では、直ぐ下の弟は私と互先だが九州の田舎で七段格で打っている 。一番下の弟が我々に三子の手合いだ。だから、兄弟が顔を合わせると早速碁盤を引っ 張りだす。しかし、みんな将棋への関心を失ったわけではないので、「羽生は若かくせ 強かねぇ」といった話も通ずる。囲碁将棋と纏めて扱われるゲームだから、碁に関心が あると自ずと将棋の情報にも詳しくなる。新聞の観戦記でも将棋は碁と並んでおり、つ いでに読んでしまう。NHKテレビの日曜の対局番組でもペアになっている。碁は毎週 録画もして欠かさず見るが、将棋も序盤はさておき終盤の息を呑む寄せ合いになるとテ レビの前に釘付けになる。衛星放送でも「碁・将棋ウイークリー」とペアになっていて 、どちらか一方の棋界情報を袖にするわけにはいかない。衛星放送では丸々二日名人戦 の生中継もするが、終局後の大盤解説は見落とさない。今回は三−〇から三−二まで米 長が盛り返したが、最終局は「タイトルを決めた将棋が一番よく指せました」と羽生が 語ったような名局だった。いつものことながら、羽生の寄せはまことに芸術的で溜め息 を誘う。まさしく名人芸と言うに値する。

     パソコン時代になり、タイトルは全てメカ に強い若い人が独占してしまった。その日のうちに棋譜を電子メールで取り寄せ研究す るのだ。羽生の研究書『羽生の頭脳』はプロも愛読しているらしい。「将棋そのものを 変えていく男」とまで言われる新名人のことだ。少々手の内を見せても頓着せず、将棋 の可能性を更に大きく拓きそうな予感がする。

     現役の棋士でかつ腕も立つライターとして囲碁界の中山典之六段に匹敵するのが河口 俊彦六段である。彼の『一局の将棋一回の人生』『将棋界奇々快々』は棋界の内情をう がち棋士の心理を抉ってなかなか読ませる。将棋界には、囲碁界に比べても、想像を絶 する天才異才がひしめき、奇人変人もゾロゾロいるらしい。大山・升田の対立時代ほど 対抗意識は激しくなくても勝負師達の世界である。誰もが一国一城の主で、お互いに何 するものぞとの気概を持って激しく火花を散らし合う。純粋に思考のゲームに見える将 棋がその実極めて人間臭い営みであるところがうかがえて傍目にも面白い。

     伝統を誇る名人戦では、長期安定政権を樹立したのは木村・大山・中原ぐらいで、そ れ以外は短命に終わっている。名人位を九分九厘手中に収めながら震えて逆転負けを喫 し、そのまま二度と舞台に登れず消えていった人もいる。名人位にはそれだけの重みが ある。中原永世名人を継ぐのは谷川王将かと思われていたのだが、もう一世代若返って 羽生になりそうな雲行きだ。しかしその羽生とて今冬、名人位に並ぶ竜王戦では、同世 代の佐藤康光七段の挑戦に苦杯を喫したように、一挙に羽生時代を築き得るか予断を許 さない。現在進行中の棋聖戦では、谷川王将が羽生棋聖に再挑戦している。驚異の羽生 から脅威の羽生になるか。外野席から胸をわくわくさせながら眺める材料に事欠かぬ。 実に楽しみだ。

     (注1)私の将棋の実力は、学生時代将棋部で活躍した人に大駒落とし程度だ。職場に将棋好 きがいたときは、かなり対局した。職場の将棋大会にも出たこともある。その頃は原田 の将棋入門を買って勉強しもした。やぐらや振り飛車の定跡も覚えたのだが、碁と両立 させるのは難しい。ポーランドに滞在した時代にはチェスを指したが、これには将棋の 手筋が大いに役に立った。今でも詰め将棋は、旅先の暇つぶしに挑戦したりする。

    (注2)贔屓の棋士と言えば、一八歳で名人リーグに入り天才と持て囃された加藤一二三九段が ゴルフのニクラウス同様、私と同年同月の生まれとあって、密かに声援を送って来たの だが、一期だけ名人位についたもののその後はおおきなタイトルととは無縁でニクラウ スに引き比べると、今一つパッとしない。それにもかかわらず、すんなり初挑戦で手中 に収める羽生名人(の人間性)は、やはり、ただものではない。   若い人ではこの羽生名人や、長崎県出身ということで昨年の全日本トーナメントを制した深浦四段 、らに注目している。  

    (注3)いまはもっぱらテレビの対局や新聞の将棋欄を読むことに楽しみを見いだしている。原田八段の入門書を持っているとふれたが、彼はネーミングの才があり、中原自然流、 米長さわやか流などと巧みに名付ける。大番解説も面白い。 二上会長とも座談会でご一緒し、その門下生の羽生名人の話をしたこともある。 隠れた名文として最近紹介された倉島竹二郎の将棋欄はまだ田舎にいたころ毎日新聞で 楽しんだものだ。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ


          CLUB MED サホロ          

    今年の冬も北海道へ来てしまった。この文は、CLUB MED サホロのホテルの 一室で書いている。主目的は言うまでもなく、スキーだ。もっとも、来てしまったと言 いながら、その実、こういう風にしたくて、札幌に赴任したたったひとシーズンをフル 活用し、スキーの研鑽に励んだのだ。東京に帰ってこの冬で四シーズン目になるが、毎 冬、一度ないし二度は北海道で滑っている。しかもここサホロはわが家全員のお気に入 りになったせいもあり、毎年欠かしたことがない。今年は、妻娘と三人連れでやって来 た。

     CLUB MED(地中海クラブ)は一九五〇年にフランスで生まれ、いまや三四ケ 国に一一八のバカンス村を擁する世界最大のバカンスクラブだが、日本にはここしかな い。

     初日、帯広空港からバスで約一時間半揺られて、到着したのが午後三時。いつも のことながら、バカンス村に着くと村長さんを先頭にGO(Gentle Organizer)の歓迎隊 が待ち受けていて大歓迎してくれる。この鳴り物入りの歓迎を受けるとバカンス気分が 一気に盛り上がるのである。GOは、日本人と外国人が半々、男女も半々で総勢九〇人 、殆どが若い人だ。約五ケ月のシーズンの間、バカンス村に泊り込み、GM(お客のこ と)にスキーを教え、ショーを演じ、ホテルを運営し、料理を作り、一緒に食事をし、 一緒に遊ぶなど一人何役もこなす。シーズンが終わると他のバカンス村に移っていく。 賃金は安いらしいが、いろんな国を見たり、変わった経験をしてみたい若者には都合が いい。

     到着後、早速滑ろうと大急ぎで支度する。妻は、初心者用のTバーに行くというので 、娘と二人で、二人乗りの第六リフトへ向かった。天候が悪く、四時過ぎには、ナイタ ー設備も灯ったが、雪の凹凸がよく見えない。初日の足慣らしでもあるし、無理は禁物 と十本ほど滑って引き返した。ところが、とっくに上がっていると思っていた妻がまだ 帰っていない。さんざ心配していると、五時過ぎ、顔を上気させた妻が「ああ、面白か った」と言いながら帰ってきた。妻も今やすっかりスキーが病み付きになってしまった ようだ。

     その後、プールで一泳ぎし、露天のカナディアンバスやジャクジーを楽しみ、七時か らの夕食を待ち兼ねるようにしてレストランへ向かう。サホロのいいところは、何とい っても食事が美味いことだ。朝昼夕、三度とも、ビュッフェ形式でオードブルからデザ ートまで、バラエティ豊かな料理を自由に選べる上に、夕食は趣向を凝らした日替わり のフルコースも楽しめる。昼夕は紅白のワインも飲み放題。デザートもストロベリーや 、ケーキビュッフェなど日替わりで出てくるので、飽きることがない。いつも、ほんの 少しずつのつもりで食べるのだが、それでも普段の二倍は食べてしまう。太らないで帰 ってくるのが大変なのだ。八人がけの丸テーブルに係のGOが案内してくれ、GMだけ でなく、GOも同席して話が弾む。香港のニューイヤーと重なったせいで香港からのG Mが多い。

     八時四五分から、シアターでGOショー。時々観客も動員して、小気味のよいテンポ でミュージカルあり、踊りあり、コミックありの楽しいショーが展開される。演ずるの は全員GOだが、みんな驚くほど芸達者だ。お尻の線を強調したタイツ姿で「ニューヨ ーク・ニューヨーク」のライザ・ミネリを演じたのは、本職はコック。実に上手く振り 真似をする。一〇時一五分からは、ロビーでちょっとエロチックな寸劇主体のフランス ・キャバレー。日によっては、ダンス・ショーやゲームのコンテストなどが催される。

     バーやディスコはいつもオープンだし、スカッシュ、ピンポン、ビリヤード、テニス 、シルクペインティングなども楽しめる。サホロの夜は何時までも更けない。

     二日目以降は、名々スキースクールに入って滑った。八クラスのきめの細かいクラス わけがされているので、自分の技量に合ったクラスを選べる。一グループは多くて十人 程度。私は娘共々、2A(パラレルターンの出来る人のクラス)に、妻は1A(ボーゲ ンで連続回転が出来るレベル)に入った。われわれのグループの先生は日本人で幸弘、 金沢の出身だった。グループは、多いときで十人、少ないときで五人だったが、東京、 大阪や広島、名古屋から、それに台湾、香港からとまちまちだった。台湾の王さんとは 、三日同じグループだったのですっかり親しくなり、別れるとき再会を約した。

     天候のほうは強い低気圧が来ていて、風が強いうえに、北海道らしくない、たっぷり 水気を含んだ雪が小止み無く降り、スキーウエアがびしょびしょに濡れる始末。ゴーグ ルにもすぐ張りつくので視界が悪い。しかし、生徒はやる気満々、先生の指示に従って 喜々として滑る。三日目も横殴りの強い風が吹くのは相変わらずだが、雪は少し乾いて きた。レッスンは午前は九時一五分から正午まで、午後は一時一五分から四時まで。先 生の後をついて滑ったり、一人ずつ滑って先生の講評を受けたりを飽きもせず繰り返す のである。

     四日目、やっと天気が回復し、風も止み、絶好のコンディションになった。山頂から の視野も開けて、やっと十勝平野の広大な全貌が姿を現した。十時からスラロームのレ ースが行われ、3A、3B、2Aクラスから、五七人が参加した。私のグループは八人 全員参加したが、私一人が入賞し、ブロンズメダルを貰い(二十位)、皆から祝福を受 けた。

     このCLUB MEDは、さすが、バカンス先進国フランスのクラブだけあって、ソ フトが優れていて、ここに滞在している間、全く退屈することがない。押しつけがまし いところは一切なく、様々な楽しみのコースを自由選択させて全員に満足感を与える手 法には感心させられる。「おやすみ」という言葉を、家族とその日一日に対する満足感 とともに言い合える日はそれほど多くないのだが、間違いなくサホロにいる間だけは何 時も満足して「おやすみ」と言えるのである。でも、もう明日は、テレビも新聞もない 別世界から、現実世界に戻らなければならない。

    「おやすみ、わたしの短いバカンス」

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ


     

    私の星取表                      

    阿部 毅一郎
     若貴の出現でブームの観を呈していた大相撲人気は、この春場所、実績でこれまでや や貴ノ花に先行されていた若花田が幕内最高優勝をはたし、一段と盛り上がったようだ 。若花田の十五日間の星取表をみると、武蔵丸に破れた中日の黒星を挟んで両側に七つ ずつ綺麗に白星が並んでいる。見事なものだ。力士は、場所中は毎日、白星に一喜、黒 星に一憂し、場所が終われば終わったで、様々な感慨を胸に星取表を見、来場所への精 進を期すのであろう。星取表には、文字通り力士の全生活が掛かっている。

     ところで、こんな重みのある星取表と同列に語るわけにはいかないが、私は私なりに 、ささやかな星取表をつくり(しかも、三つも)、日頃、一喜一憂しながら書き込んで いる。どれも趣味に属することなので、白星だろうが黒星だろうが、生活が浮いたり沈 んだりする心配はいささかもないが、長年続けていると、生活に張りをもたらす点では なかなか捨てたものではなくなって来るのである。

     まず、テニスの星取表。テニスは、小学五年のときに初めてラケットを握って以来の 趣味だから、私の趣味の中では、トップランクを占める。今も、休みの日、暇さえあれ ばテニスコートでボールを追いかけている。前の職場のテニス・クラブでも、三十年来 のメンバーである。そのクラブは年間、十二回ほどの対外試合を催すが、出来るだけ、 都合をつけて参加することにしている。参加すれば、二試合から多いときで六試合こな して帰ってくる。一セットマッチだから、それほど負担ではない。その成績を全部、こ の星取表に白黒の星で書き込むのである。これがなかなか楽しい。パートナーや試合相 手の名前も記入するので、顔馴染みとの対戦成績もわかる。試合後の懇親会での挨拶の 材料にもなる。シーズンが終わると、年間成績を集計する。昨年は久しぶりに、全試合 出場を果たし、皆勤賞をいただいたうえ、四二戦三〇勝、試合数、白星数とも、生涯最 多を記録できた。

     次に、の星取表。碁も私の趣味のなかでは、テニスに並んでランクが高い。覚えた のは中学生のときだから、歴史も古い。このところ、月に一回ないし二回、プロのお稽 古碁の会に出るくらいしか打たないので、回数はそれほど多くないが、碁の週刊紙を欠 かさず読み、NHKや十二チャンネルの囲碁番組はビデオにとって必ず見るのだから碁 好きという点では人後に落ちない。

     星取表を見ると、一昨年が七二試合で四四勝二八敗、まあまあの成績だったが、去年 は七一試合で三二勝三九敗と負け越した。ただ、プロに二子で勝った金星が三つあるの で、これを自らを慰める材料にしている。一番多く打ったのはすぐ下の弟で三六回。母 の法事などもあり、田舎に四度ほど帰ったが、そのたびに寸暇を惜しんで打ったのであ る。しかも、オール互戦で、一八勝一八敗の全くの五分の星。これも、いま星取表を数 えてみて初めて分かったのだが、これほど、つば競り合うのも珍しい。こんなことが分 かるのも、星取表をつけるメリットのひとつだろう。

     家内もこのところ碁に興味を覚え、初心者向けの囲碁教室に通っているので、早く強 くなって対戦できるようになって貰いたいものと思っている。そうなれば、対局数は飛 躍的に増えようし、星取表を見せ合い、勝ち星を競い合うこともできるようになるだろ う。

     最後が、読書の星取表。読書も小さな時からの趣味だったが、昔と比べると、読書の 仕方が様変わりしてしまった。まず、本の買い方が大幅に変わった。昔は、読書量に応 じて本を買っていたが、今では、読書欲に応じて買うようになった。つまり、読めるか 読めないかに関係なく、読みたいと思ったら買ってしまうのである。その結果、読めな い本や読みさしの本が、やたらと増えることになった。読書の方法も大幅に変わって、 一冊一冊読了してから次の一冊に取り組むといったやり方から、とにかく手当たり次第 に数冊から数十冊を平行的に読むようになった。そこで、買った本のうち、どの本をど の程度読んだかを管理するために、読書の星取表を思いついたのである。

     本を買うと、まず、ブックリストに書名、著者名、購入日などを記入し、その右端に 白星を書き込む。それを読んだ量に応じて、円グラフを作る要領で時計の針の進む方向 へ黒く塗りつぶして行くのだ。全冊読みおわると黒星になる仕掛けである。だから、こ の星取表の場合、力士がいみ嫌う黒星が多いほど、逆に喜ばしいのである。平行読みを しているため、ばたばたと短時日のうちに黒星を稼ぐようなことも起こりがちで、一月 当たりの黒星数には、一から十までのひらきがある。黒星を取りやすいのは、推理小説 とか、碁やゴルフなど趣味に関する類の本である。現代人の必読書とか古典的名著など といううたい文句や書評に釣られて買った大冊などは黒星になるのは稀で、うまくいっ て午後六時で、ひどいときは、前書き分に相応する縦線一本が正午の針の位置で、止ま ったままになることがある。いや、全くの手つかずで、白星のまま放置される本も結構 多い。なにせ、昨年は、いそいそと本屋や古本市に足を運び、ぴったり三〇〇冊も購入 したのに、黒星を獲得したのが六六冊、二割二分の低い勝率に過ぎなかったのだから。

     今年も、この三つの星取表に、ひとつでも多くの白星なり黒星なりを書き込まんもの と一喜一憂しているうちに、たちまち千秋楽、大晦日を迎えてしまいそうな気がする。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ
     


                 「カルミナ・ブラーナ」    

    ジヒョウ9301-921104K.A.                             阿部 毅一郎
     
     

     この曲との出会いは、まったく偶然だった。

     三年間赴任したワルシャワで、LPレコードのコレクションに精を出していた頃のこ とだから、もう十五年も前になる。日本のレコード一枚分で十枚以上も買えたものだか ら、足しげくレコード店に通い、めぼしいものが見つかると、何の躊躇もなく買い込ん だ。音楽好きにとっては、後にも先にもあれほど幸せな時代はなかった。

     ある日、例によって、レコード店に立ち寄り、あれこれ物色していると、ジャケット にアフリカ的な紋様をデザインしたレコードが目に止まった。当時作曲家のオルフとい う名前も、「カルミナ・ブラーナ」という曲名も、まったく知らなかったのだから、興 味を引かれたのは、そのデザイン以外の何ものでもなかった。何となく、アフリカ的な ものへの憧れがあり、その音楽に接してみたいと思い、買うことにしたのである。

     帰宅後、これもお決まりのコースで、その日買ったレコードを一枚一枚試聴する。こ の名前さえうろ覚えのレコードの番になったとき、アフリカ的なメロディーを半ば期待 しつつ、針を置いた。曲が鳴り響き出した瞬間、私は頭にガーンと一撃食らった。

    「一体これは何だ?!」

    私は叫ばずにはおれなかった。これまで聴いたどんな音楽とも違っていた。たちまち、 管弦楽とコーラスの織りなす世界に、ぐいぐいと引きずりこまれていった。火花を散ら すような激しさで、体内に宿る最も原始的な生命力そのものに直に働きかけてくるリズ ムとメロディーにすっかり圧倒されてしまった。

     聴き終わっても、しばらく呆然としていた。体内にはなんとも言いがたいエネルギー が湧き上がり、生命力が充溢し、すかっとした感覚が残った。

     早速、曲の来歴を調べてみると、作曲家のオルフは、一八八五年生まれで、二十世紀 のドイツを代表する作曲家の一人であり、世俗カンタータと名付けたこの曲が彼の代表 作であることが分かった。中世の流浪僧や吟遊詩人の書いた同名の歌集から二四の詩を 選び付曲したもので、その歌集は、言語も、ラテン語、独仏語、俗語、卑語と様々なら 、内容も酒、女から恋の歌、神話まで種々雑多である。

     帰国後も、元気が失せてくると、この元気の出るレコードを聴いた。NHKテレビで の演奏の録画もした。一九八二年には、オルフの死去を新聞記事で知り、哀悼の意を表 した。 今年の六月、サントリーホールにダン・タイソンのピアノ・リサイタルを聴き に行った際、貰ったチラシの中に、同ホールの開場六周年記念コンサートに、この曲を 演奏するとあった。直ちに切符を手配したことは言うまでもない。

     その十月十二日、私は期待に胸を膨らませて、妻ともどもサントリーホールに赴いた 。S席は一万八千円もするというので、今回はC席にしたが、これが逆にこの曲を聴く に極めて向いた席だった。このホールはアリーナ型ワインヤード形式と言われて、ステ ージを四方から取り囲む様式になっているが、我々の席は、ステージの右側で上から見 下ろす位置にあった。N響をやや左斜め後ろから、東京少年少女合唱団を真横から、ス テージの後ろの席に陣どった東京芸術大学合唱団は丁度同じ高さの右手から、まるで楽 屋裏を覗き込むような親しさで見ることができた。管楽器が大活躍する曲だが、いつも は弦楽器奏者の後ろに隠れて見られない、管楽器奏者の細かな仕草まで掌の上にあるよ うに見られるのだ。消音マフラーを付けたりリードを湿らせたり、自分のパートが終わ って、楽器の形状に合ったスタンドに置く様子や、楽譜の五線まで見える。指揮者の表 情もよく分かる。合唱団との距離も一番近い人とは五メートルも離れていないから、一 人一人の細かな表情も見える。難なのは、ソプラノやテナーのソリストの表情がいまい ち見にくいことぐらい。

     指揮者は、髭の大男のグスタフ・クーン、総暗譜でこの大曲を指揮するのだから驚き である。冒頭の「運命の女神、世界の女帝よ」から、もう全観客が、完全にこの曲の虜 になった。静かに席に座って耳を傾ける曲ではない。曲に引きずられて、身を乗り出し 、リズムに合わせて身体を揺すり、自ら天に昇り地に這い、喜びと悲しみとを表に現し て聴かざるを得ない希有の音楽なのだ。荒々しさと優しさと、高潔と卑猥と、歓喜と悲 哀と、明と暗とを織りなし、四季の巡りに合わせて人生の流転を感得させながら第三部 に至り、「ああ、美しい人よ」と歓喜の頂点に達した瞬間、曲は一転荘重な冒頭の曲に 戻る。その同じ調べを、聴衆は、実に様々な人生経験を積んだ上で聴く気持ちで聴くこ とになる。人生の、一筋縄ではない深みと奥行きとが、曲の奥行きの深さと豊かさとに 見事に融け合う。

     演奏が終わると、熱狂した観衆の、ブラボーと叫ぶ声と拍手とがいつまでも止まなか った。オーケストラも二つの合唱団も、シルヴィア・グリーンバーグをはじめとする三 人の独唱者も指揮者も、全部素晴らしかった。私はといえば、もう感激して、涙が溢れ そうになって弱りはて、無我夢中で手をたたいているのだった。初めて聴いたという妻 も、すっかりこの曲の虜になってしまっていた。

     定番になっている、帰りの飲茶の店での夕食の間中、二人の口を突いて出てくるのは 、この曲への賛嘆であり、演奏への感嘆の言葉ばかりだった。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ


       わが家の庭でBW   

    アベキイチロウ 930219ジヒョウ9305 

                                 阿部毅一郎

     一月中旬の休日の朝のことだ。

    「ほら、見て、四十雀が柿の木の枝に刺したリンゴをつついているでしょう」 妻が興奮気味に言う。居間のガラス戸越しに庭を見ると、なるほど、黒いベレー帽を被 ったようないでたちの四十雀が周りを警戒しながら盛んについばんでいる。しばらくす ると交替でヒヨドリもやって来た。試しに、庭木にリンゴを刺すことにしてみたら、い ろんな鳥が食べに来るというのだ。

     かねてから、庭に餌台を置きたいと思っていた。狭い庭だけど、時折、目白や四十雀 やヒヨなどがやって来る。来れば息を殺して見るくらい野鳥は大好きなのだ。だから、 新聞広告で日本野鳥の会が販売している英国製の洒落た餌台を見つけ、できたらこれに しようと狙いは定めていたのだが、一台七五〇〇円もする上に、設置しても毎朝早く家 を出るサラリーマンの身で、一人で世話するとなると大変である。それで、言い出しか ねていたのだが、妻がリンゴを庭木に刺すほど鳥に関心があるのなら、願ったりかなっ たりだ。提案すると、二つ返事で設置しょうということになった。新聞広告を捜したら 、好都合にもその日の新聞に載っているではないか。しかも、電話注文も可という。善 は急げとばかり、受話器を持ち上げると、妻は一台ではなく、二台欲しい、庭の右と左 に一台ずつ置きたいというのだ。もちろん異論はない。野鳥の会に電話すると、二週間 後に届くという。

     北海道への四泊五日のスキー旅行から帰ってみると、餌台が届いていた。翌日、会社 から帰ると、妻がもうちゃんと設置していた。沙羅を挟んで、右手のは柿と楓の間、左 手のは梅とツツジと馬酔木に囲まれた箇所、ガラス戸から二メートルと離れていない。こんな に近くて大丈夫かと心配すると今日も早速いろんな鳥が来たという。餌台は、プラスチ ック製で、パンくずや穀類を入れる赤い屋根付きの窪みと、露天の水飲み場、ナッツ類 を入れる小さな赤屋根付きの網状の筒との組み合わせになっている。果物を置くスペー スもある。

     餌台を設置して以来、目白、四十雀、ヒヨなどの野鳥が毎日びっくりするほど大勢来 るようになった。鳥の情報網も捨てたものではない。だから、会社帰りの第一声は、決 まって「今日も沢山来た?珍しい鳥は来なかった?」ということになった。出勤前にも 餌台を見て、たまに、四十雀の番が来ていたりすると、それだけで終日、心が和む気が する。

     四十雀は、雀よりほんのすこし小さいが、頭に黒いベレー帽を被り、頬や胸は白く、 羽は白黒の縞の模様で背中のところは薄く黄緑がかっている。動作は活発、ナッツ類が 好物で、網の目の間から盛んにつついて食べる。目白は、更に一回り小さく、背は黄色 を帯びた緑、動作は敏捷で、盛んに首を回して周りを警戒する。眼の周りが白いので、 眼のクリクリした腕白坊主が活発に動く様を彷彿させる。みかんなどの果物が大好物だ 。

     庭に来る鳥の中で一番威張っているのがヒヨだ。雀の二倍はあり、背中は青黒く、胸 腹部は灰色を帯びた青色で、頭の毛が逆立っており、鳴き声も動作も猛々しい。双眼鏡 で見ると一番見映えがする。餌台に他の小鳥がいるとビューンと威嚇するように飛んで きて、追い払う。時には、庭の奥の栃や樫の茂みの中に番で潜んでいて、他の小鳥がや って来るたびに、飛び出してきて追い払う悪さもする。雑食性と見え穀類やパンや果物 など何でも良く食べる。ふかしたさつまいもをあげると、嘴を黄色く染めてうまそうに ついばむ。

    ある日帰ると、今日あまり見かけない鳥が来たと妻や子供たちが言う。話をきくとど うも鶯らしい。都会育ちの妻子に比べれば、田舎育ちで小さい頃から馴染んでいた分、 野鳥についての知識は上回っている。次の休日に、その鳥がやって来てやはり鶯である ことを確認した。鶯は、ほぼ雀と同じ大きさで、地味なオリーブ色、動作はおっとりし ており、ふっくらした体の線をしていて、椿やツツジなどの木の陰を好む。囀れば鶯と すぐ判るのだが、二月のこの時期、ほとんど鳴かない。四十雀とは仲良く一緒に餌台に 乗る。

     もともと野鳥は大好きで、軽井沢に行く途中にある、小根山野鳥の森に往きも帰りも 立ち寄り、バードウオッチング(BW)を楽しんだりする。そこの資料館で、野鳥の標 本を見、ビデオで、都会におけるBWの手ほどきも受けた。七千円もする「世界の鳥」 や、ローレンツ博士のコクマルカラスの本(「ソロモンの指環」)、「鳥たちをめぐる 冒険」、「野に舞う翼」、「日本の野鳥」(野山編、水辺編)、「都市鳥ウオッチング 」、BW入門書など色々と買い込み、写真や文章を通して親しんで来た。しかし、実物 を日常的に身近に見る楽しみに勝るものはない。BWの人気が最近とみに高まっている のも頷ける。

     わが家の庭は、猫の通り道でもある。白、ブチ、三毛、黒、黒白、様々な猫が、悠々 と通り抜ける。いつもは、都会人同様仮面を被ったように無表情な都会猫だが、餌台に 小鳥を見つけると、悪戯小僧さながらの生き生きした表情で、柿の幹にガリガリと爪を たて、威嚇する。小鳥も心得ていて、なんだという顔をしているが、しばらくするとパ ッと姿をくらます。猫は、自分の威光を確認した水戸黄門よろしく、ご満足の体で歩み 去るのだ。

     休みの日など、野鳥を見ているといつまでも飽きない。新宿の高層ビルも 見える都心にこんなに沢山の野鳥がいるかと思うほど次々とやってくる。本当に用心深 く、あっちの枝、こっちの枝と飛び回り、狙いの餌台に少しずつ近づいてくる。私はそ んな野鳥の努力を無にしたくないので、息を潜め、カーテンの陰から見ることにしてい る。家族はモ少し大胆だが。ただ、鳥の来る時間帯は決まっていて、来なくなったら一 羽も来ない時もある。

    わが家の前の屋敷には大きな日本庭園があり、野鳥が沢山来て いたが、七年前にマンションになってしまった。こんなことは日常茶飯事だろうから、 鳥の住処は、それほど増えているとも思えないが、都市の構造に順応して鳥が次々に帰 ってきていると言う。その証左を見た思いがする。植えて十年になるわが家の庭木の茂 みも少しは役に立っているのだろうか。野鳥に餌を与えるのは、冬の間だけで十分と言 われているが、大都市でも同じなのだろうか。せっかく、餌台を頼りに訪ねて来るのな ら、大切にしてやりたいものだ。

    いまや、どの鳥が何が好物で、いつ頃やって来るかなどについては、妻のほうが詳し くなってしまった。その妻が、今までに見たことのない珍しい鳥が来たというのだ。次 の休日にその鳥がやって来て運良くお目にかかれることを、私は今から心待ちにしてい る。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ
     


    単身赴任者の愉しみ(二十六)

    スクリーン遠望    

                         アベキイチロウ 921127ジヒョウ・タンシン                                 阿部毅一郎

     物心ついた頃から、映画フアンだった。戦争直後の何もない時代、いつもひもじい思 いをし、接ぎあてだらけの服をきた子供にとっては、スクリーンの中に展開する世界は 、パラダイスだった。映画を見ること自体が贅沢で、回数は決して多くなかったものの 、いつも胸をワクワクさせながら食い入るように見たものだ。だから、「ニューシネマ パラダイス」の映画にのめり込む主人公の坊やの姿に、自分の子供時代とが二重写しに なった。

     小学校時代には、先生に引率されて見に行ったものだ。「ターザン」、ウオルト・デ ィズニーの「白雪姫」、「シンデレラ」や自然記録映画、文部省特選の「路傍の石」、 「鐘の鳴る丘」「あすなろ物語」や「鞍馬天狗」などを覚えている。「アーアーアー」 と雄叫びを挙げながら助けに向かうターザンや、馬に跨がって杉作少年の救いに駆けつ ける鞍馬天狗に、友達と競って、拍手をしたものだ。「砂漠は生きている」中で、シャ ボテンの花の咲くシーンを見た時の感動がいまも残っている。

     三益愛子主演の母親ものや小津安次郎の映画は母に連れられて、家族そろって見に行 った。立錐の余地もない観客席で、立ち見していた次姉がいきなり転倒した。驚いたこ とには、まだすやすや眠っていた。

    当時の大スター中村錦之助や東千代之助が活躍する 「笛吹き童子」のシリーズなどは、熱中して聴いたNHKのラジオ・ドラマの映画化だ ったので見たかったけれど連れていって貰えず、友達の話をうらやましげに聴いたもの だ。小学校の校庭には巡回映画が時々やってきた。フィルムは途中で良く切れたし、蚊 もいたけれど少しも苦にならなかった。

     食物にも、着るものにも不自由しがちの私の幼い頭には輝けるアメリカ、輝けるハリ ウッドが焼きついた。アメリカは美男美女の溢れる豊かな国、夢の国、憧れの国に映っ た。日本映画が白黒なのにアメリカ映画がカラーだったことも、その思いを高じさせた 。

     九州から上京後の学生時代、就職したての頃も、娯楽の主流はまだ映画で、他に対抗 できる娯楽がなかったという意味で、わたしの世代は純粋な映画世代ということができ るだろう。暇があると真先に映画を思い浮かべ、昼食は、コッペパン一つで我慢しても 、渋谷や新宿の二本立て三本立ての名画座に通ったものだ。社会派から文芸物、恋愛物 から西部劇まで映画と名が付けば何でもよかった。六十年代に差しかかった頃で、幸運 にもちょうどハリウッド映画の全盛期で、映画史に残る名作が目白押しだった。

     だから、高松や札幌での単身赴任時代も、映画は、最も身近な愉しみだったし、慰め だった。高松では、文芸大作からAVもどきまで映画館で見た。ただ、狭い土地柄だっ たのでAVものの時には、相当神経を使わなければならなかった。札幌では映画館へ行 くより、テレビで見たり、映画への関心を、淀川長治ら映画大好き人間が薀蓄を傾けた 鼎談集で大部な「映画千夜一夜」を読むことで紛らした。この三人ではないが、私も気 の合った映画好きと映画について話し始めたらもう止まらない。映画は確かに人を饒舌 にする。

     「雨の朝パリに死す」。これは高校時代に見たのだが、「若草物語」などで少女時代 から知っていたエリザベス・テイラーが美しさの頂点にあった頃の映画だ。あの佳人が 、予想もしない運命に翻弄されて、あっけなく死んでしまうことの不条理に涙を流した 。大学時代には、「ローマの休日」や「懐かしのサブリナ」、「昼下がりの情事」のオ ードリーヘップバーンの妖精のような美しさに憧れた。

     好きな女優や男優の名前を挙げはじめたらそれだけで紙数がつきてしまうだろう。憧 れの女優は殆ど年上だ。モーリン・オハラ、イングリッド・バーグマン、キム・ノバッ ク。今の若い人には何の記号かと思うに違いないが、MM、BB、CC...(日本女 優の名を明かさないのは、女房対策である)。

    男優なら、マーロン・ブランド、ゲーリ ー・クーパー、バート・ランカスター、ヘンリー・フォンダ...監督なら、エリア・ カザン、ジョン・フォード、ジョン・スタージェス、ヒチコック、ビリー・ワイルダー ...

    「映画千夜一夜」の中で、淀川長治が、リリアン・ギッシュなど、ひと昔前の俳優の名 前を懐かしそうに挙げるのだが、私が挙げた名も、今の世代の人には、既に過去の人ば かりだ。今や、自らが恋愛事から遠ざかったせいかファン心理に必要な憧れの要素が薄 れてしまい、新しいファンの対象は増えなくなった。メリル・ストリープやブルック・ シールズやトム・クルーズも「悪くないね」とはいえ、「ファンだ」とは言いにくい のだ。憧れの気持ちが明らかに少なくなった。昔、憧れていた女優のなれの果てを知っ たことも確かにこの事を助長する。人の一生を、その表と裏とを、映画俳優を通して見 てしまったのだ。その意味では、親近感をもって俳優を見るようになった。要するにス ターの神秘性が消滅した一方で、自らも枯れてきたのである。

    テレビの日曜洋画劇場は、私が結婚した年に始まった。新婚当初妻とふたりして仲良 く一緒に見たものだ。昨年、われわれは銀婚式を迎えたが、同劇場の25周年記念と重な った。「さよなら さよなら さよなら」をなんど聞いたことか。

     今や、映画館はたまにしか行かなくなった。テレビ放送か、レンタル・ビデオでお茶 を濁せるという意味では、現役パリパリの映画ファンと言うより、既に昔見た古き名画 を懐かしむオールド・ファンに近い。

     比較的最近映画館で見た映画では、(と言っても随分旧聞に属するが)、「ダンス・ ウィズ・ウルブズ」「アマデウズ」「フィールド・オブ・ドリームズ」などがよかった 。「バック・ツー・ザ・フユチャー」の徹底した遊びの精神も捨てがたい。「たかが映 画じゃないか」と思うけれど、「されど映画だ」と言わざるを得ないこうした作品に出 くわし、心から「参りました」を言わされる愉しみは、なかなか捨てがたい。映画館の 大きなスクリーン一杯に、人間の創造力、イマージネーション、感受性の極致をきっち りと定着して見せつけられると、感動を覚え、やはり、映画は映画館での思いを深くす る。音と色彩と構図の極め付きに酔わされ、その都度、やはり、人間はすごいと思い、 人間への信頼を再確認する。

    水野晴雄の口癖ではないが、「いやー映画って、本当にい いものですねー」。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ


       玄妙なるゴルフ        

                       阿部毅一郎    940726/727 /801     

     ゴルフ・コンペの前日ににわかに仕入れたアドバイスなど、百害あっても一利もな いことは百も承知している。そのくせ、週刊誌などをめくっていてプロゴルファーの一 口アドバイスを見つけたりすると、つい読まずにおれなくなる。「飛距離を出すには左 肘の折りたたみを早く」「左手甲をボールにぶつけるフィーリングでボールを打て」こ んなヒントを読んでしまうと、翌日は、左手ばかりが気になって、そのためだけではな いにせよ、スコアは目茶目茶になり、上位入賞の望みなどたちまち吹き飛んでしまう。

     ゴルフは相変わらず中級の下と言った程度の腕前だが好きである。好きだけど練習場 へは行かない。そのくせ本はあれこれ読む。だから常に頭でっかちなのだ。そのうえ、 にわか仕込みの情報まで背負いこんでコースに出る。これではその重みにひしゃげてス イングがぎくしゃくし、いいスコアが出るわけがない。練習場に行かないのは近くに適 当なのがないせいでもある。わたしはテニスも好きだが、歩いて五分のところにコート があるので、暇さえあれば顔を出す。だから、コートを走り回れなくなったら、少々遠 くてもゴルフ練習場に通い腕を上げようと思っていた。ところが話はそれほど単純では ないらしい。というのは、ゴルフは、なかなか一筋縄で行くものでないことが分かって きたからである。

     テニス仲間でしかもゴルフの名手から、ゴルフとテニスの本質は同 じだよ。ゴルフが分からないのは、テニスも分かってない証拠だ、と言われた。その人 よりテニスの腕はすこし上のような気がするが、テニスの本質をつかむにはゴルフの練 習が不可欠と悟らされ、ゴルフスクールに通うことにした。しかし、腕は一向に上がら ない。むしろ落ちた。結局生半可な取組みでは、ゴルフの本質をつかむなど不可能であ ることを思い知らされた。といって、テニスを捨て全身全霊をゴルフに打ち込む気にも なれず、スクール通いは三月しか続かなかった。こうしてテニスの本質もつかみ損なっ たがそれでもテニスは十分楽しいし、いつでも簡便にできる。これ以上高望みしても始 まるまいと割り切ることにした。

     ただ、三月とはいえスクールに通いゴルフの難しさだけには開眼したおこぼれだろう か。昨年は一度切りだがハイスコアが出て、久しぶりに生涯ベストスコアも更新し、ゴ ルフの本質を弁えた人には当然遠く及ばないながら、まあ月一ゴルファーとしてなら、 それなりに楽しめるようになった。ところが今年に入ってから、スクール効果も薄らい で来たと見え、平均スコアで昨年を下回る、鳴かず飛ばずの状態に落ち込んでいたのだ 。

    それがである。読んではいけないはずの前日、とあるアドバイスをたまたま読んだと ころ、スコアが目茶目茶になるどころか、生涯ベストが二つも縮まってしまったのであ る。 どの誌紙上で読んだのかも、誰が書いたのかも忘れてしまったが、曰く「あなた はこれまでスコアをよくしようとありとあらゆることを試してきたでしょう。しかしこ れまで一度もやったことがないことが一つだけあるはずです。それというのは、全く頑 張ろうとしないことです。それを是非一度試してみてください」というのだ。なるほど 、言われてみればまさしくその通りで、プロの寸言隻語まで頭の片隅に留め、ひたすら 頑張って来たのが我と我が身でなかったか。しょっちゅうダフったりトップしたりする が、その度に、腕が痺れるほど力んでいることに気づく。飛ばそうとして頑張っている なによりの証拠である。なるほど、頑張らないことか。わたしは深く頷いたのであった 。

     翌日は、連日の三五度を越す猛暑が収まらず、スタート時刻の八時でも、もう汗が吹 き出すようなカンカン照りの日であった。普段なら、その中でもパットの練習をし、時 間が許せば打球の練習もするところだが、とにかく今日一日は頑張らないことに決めた のである。スタートぎりぎりまで、のんびりコーヒーを楽しみ、第一ホールのロングコ ースへゆっくり向かう。頑張るべからずとお呪いを唱えながらの第一打だったが、一月 ぶりでいきなり本番ということもあって、左の林の中にぶち込んでしまった。それでも あわてず、第二打は林の外に出すのに徹し、まだラフに留まったので、第三打も五番ア イアンで軽く打った。これはいい当たりで、結果は四オン二パットのボギー。

    次もボギ ーで迎えた第三ホールは一四一ヤードのショートホール。一緒に回ったハンディ二の人 がいきなりピンそば二=にワンオン。その後から私が例のお呪いを唱えながら打つと、 なんとピンそば六〇センチにピッタリ寄り、ニアピン賞とバーディ賞が一挙に転がり込 んできた。こうして前半は、ダブルボギーもスリーパットもせずに済み、いつにない好 スコアが出たのである。

    昼休みには、すっかり汗まみれになったシャツを着替えビールでたっぷり水分を補給 し、専らリラックス。後半は出だしパーで、ドラコン賞のかかった次の十一番ホール、 打つ前に素振りをしたら、いきなり右ふくらはぎが痙攣し、その場にへたりこんだ。同 伴者に脚を延ばして貰いエアサロンパスを噴射して貰って、やっと回復し、今度は右足 を出来るだけ使わないようにして軽く振った。これがまたよく飛んで、結局ドラコン賞 もいただけることになった。

    この調子で、後半も前半より一つだけ多いスコアに仕上が ったのだ。  なんという皮肉だろう。一切頑張ろうとせず、片足を庇いながらプレイした結果が、 生涯ベストスコアに上位入賞、おまけにニアピン賞、ドラコン賞付きなのだ。一体これ までの努力や頑張りは何だったのかと言いたいが、これがゴルフの玄妙なところに違い ない。

     ところでこのエッセイ、次のコンペに出る前にあわてて認めた。それと言うの も、いかなるお呪いといえどもゴルフに関するかぎり二度続けて通用するはずがなく、 次回はきっと頑張るまいと頑張り過ぎて、元の木阿弥になることが目に見えているから である。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ


           国境の今昔              

                              阿部毅一郎

     ポーランドに滞在していた三年間、毎夏休み家族ぐるみでヨーロッパ諸国を車で走り 回るのを常とした。一回旅に出ると五千キロ以上も走った。大まかなルートだけは予め 決めておき、宿は予約せずに行き当たりばったりに走るのだが、たまたま飛び込んだ民 宿で大歓待を受けたり、さんざ苦労して探した宿が食堂も兼ねており夜更けに作っても らった食事がひどく美味しかったりして、いまもって時々その時の思い出話に花が咲く のである。

     昨年四月、当時小学低学年生だった娘と息子が同時に就職し、親としての 役割をほぼ終えると同時に、資金的にもゆとりが出来た。そこでポーランドから帰って 十五年にもなるのにその後一度も海外へ出たことのない妻を連れ、一緒に海外旅行を楽 しもうと思い立ったのだが、その際思いついたのが、ポーランド時代のようにヨーロッ パを車で走ってみようということであった。ただ、久しぶりのドライビング旅行という ことで、まずは無難なイギリスを選んだ。無難というのは、日本と同じ左側通行だとい うことである。

     ヒースロー空港でレンタカーを借り、そのまま西に出て、カースルクームやウェール ズのカナーボン、湖水地域、スコットランドのスカイ島を巡り、最後は国際フェスティ バルが催されているエディンバラで車を乗り捨てたのだが、全行程二千五百キロ、カン トリー・サイドのどこも彼処も庭同様の美しい自然と慎み深い人間性を堪能して帰って きた。

     久しぶりの自動車旅行は大成功で、今年も夏休みにはヨーロッパを走ろうと前々から 決めていたのだが、右側通行にチャレンジする気になってみると、逆に目的地を絞りき れず、やっと三週間前になってスペインに落ちついた。ルートはバルセロナを起点にポ ルトガルのリスボンまで二千キロほど走るコースにした。この夏は日本も猛暑だったが 、スペインは普通の夏でも四十度を越え、特にアンダルシア地域は五五度にもなるとい う。そんなところを二千キロも走れたものか心もとなかったが、夏にしか長期休暇は取 れないのだからやってみるよりないと、最後の断を下ろしたのは出発二週間前だった。

     昨年同様どたばたした準備だったが、二千キロ無事走り終えて帰国してみると、実に 楽しく実りの多い旅だったと今更ながら思え、心の底からじわっと感激がわき上がって くる。極めて多様性に富んだ国を一言では言い尽くせないが、生きることを心の底から 楽しんでいる人々の国とは言えそうである。暑いことは暑かったが、少々のことにはこ だわらない肝っ玉の座った人々や巨大豪華で独創的な建築物の数々に何度圧倒されたこ とだろう。

      久しぶりに国境を越える自動車旅行をしてみて、ちょっと意外な思いも させられた。セビリアからリスボンまでの五百キロが最後の行程だったが道路標識にポ ルトガルの表示が現れだしてから、どんな国境が待ち受けているかと実は期待しながら 走っていた。というのもポーランド時代、国境ではいろいろ得難い経験をしたからであ る。

     当時はまだ冷戦時代の真最中だったので、東欧圏の国境は殊の外厳しかった。チェコ でのこと、使い残した小銭で昼食を取ったうえでハンガリーに出ようと車を走らせてい たがなかなか適当な食堂が見つからない。小さな国なので走っているうちにいつのまに か国境らしいところに出てしまった。しょうがないので、あわててUターンすると道路 脇の林の中から自動小銃を持った兵士がバラバラと走り出てき、小銃を突きつけながら 何事か叫ぶ。止まれと叫んでいるらしい。急ブレーキを掛けると、国境警備隊の兵士が 駆け寄って来て、窓を開けさせ大声で怒鳴る。いきなりUターンしたのを怪しみ、誰何 しているらしい。英語で説明してもまったく通じない。そこで学生時代、第二外国語だ ったドイツ語を必死に思い出し、身振り手振りも総動員で事情を説明して、なんとか無 罪放免になった。

     旅行の往き帰りに、東ドイツ側から西ベルリンに何度か入ったが、見張り台の上から 小銃を構えた国境警備隊の面々が見下ろしている導入道を通り、検閲所では車の下に大 きなミラーを差し込まれ、無理やりトランクも空けさせられた。当時大使館の一等書記 官だったので外交特権を主張したが無視された。とはいえ、東欧圏では外交特権はかな り尊重されていて、夏休みのことゆえ国境には長い車の行列が出来ていたがいつも一番 前に出ることを許され、三十分程度で通過できた。民間の人は大変で、チェコでは国を 横断するのに四時間しかかからないのに、国境の通過に八時間もかかったとぼやかれた ことがある。

     それに引き換え、西側諸国間の国境は実に簡単で、車の窓からパスポートと車の保険 に入って入ることを証するグリーン・カードを見せれば、高速道路の料金所を通る程度 の気軽さで通り抜けることが出来た。でも一応車を止めて、見せる必要はあった。

     さて、ECもEUに昇格したことだ。一体どんな国境が待ち構えているかと興味津々 、スペインとポルトガルの国境を跨ぐ長い橋に乗り入れたのだが、どこまで行っても検 問所らしきものがない。普通の高速道路をそのまま走るのと少しも変わらないのだ。す っかり拍子抜けしてしまい、逆にこれでいいのかと心配になった。本来国境の検問など 無用の長物ではあるが、これもEU結成の効果だろうか。

     ところが、リスボンの空港での出国管理の際、われわれのパスポートを見て、担当官 はどうして入国のスタンプがないのかと首を傾げ、私が説明しても半信半疑、上司に確 かめてやっと納得する始末だった。ここいらが、いかにものんびりしたポルトガルらし い。  さて、こうやって帰国してみると、来年もヨーロッパに出掛け、ベルリンの壁崩壊・ EU結成後のそのほかの国の国境がどうなっているか、実際に車で走ってこの眼で確か めて来なければなるまいという気になってくるのである。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ


           バージェス化石動物          

                                阿部毅一郎

     偶然が二度も重なると、因縁を感じる。

    最初は二年半前のことだ。アテンボローの『 地球の生きものたち』(早川書房)でたまたま食虫類の項を読んだら、その翌日朝日新 聞の一面トップで、九千万年前の食虫類の化石が熊本県下で発見された記事が掲載され た。この種の記事が一般紙の一面トップを飾るのは珍しいので良く覚えている。

    二度目 は今年の六月末、久しぶりに読みさしのスティーブン・グールドの『ワンダフル・ライ フ』(早川書房)を繙き、バージェス化石動物の話を読んだところ、翌日の同紙に、その 化石動物の展覧会が近く開催されるとの特集記事が見開きの両面を全頁潰して掲載され たのだ。

     化石に特別の興味があるわけではないが、生きものが大好きなので、この種の記事は 見逃さない。NHKの生きもの地球紀行は欠かさず見るし、生物関係の本もあれこれ読 む。アテンボローは著名な動物学者で、BBCで制作した著書と同名のテレビ・シリー ズが面白かったので本も買った。

    米ハーバート大学の教授であるグールドは、現代進化 生物学の第一人者で、しかも、極めて腕の立つサイエンス・ライターなので、これまで も『パンダの親指』や『嵐のなかのハリネズミ』等を買いつまみ食いしていた。その延 長線上で、バージェス化石を扱った『ワンダフル・ライフ』に出会ったのだ。著者は、 その発見と解釈にまつわる八十年に及ぶ人間ドラマを背景に、この化石が、われわれの 生命観を修正させた「世界中でもっとも重要な化石」であると結論づけている。

     バージェス化石は、今から約五億三千万年前のカンブリア紀のもので、一九〇九年カ ナダのロッキー山脈で発見されたのだが、最初の発見者が現生の節足動物のグループに 分類したため、そのまま資料箱で眠っていた。約半世紀後、英ケンブリッジ大学のウィ ッティトンら三人の研究者が、これが既存の分類体系のどこにも収まらない奇妙奇天烈 な動物を多数ふくんでいることを明らかにし注目を浴びるようになった。

    ダーウイン流 の進化論は、大きな幹から枝が出て、さらに小さな枝が分かれる逆円錐形状の系統図を 前提として、多様性増大=進化としてきたが、バージェス化石は、むしろ進化は下ぶく れのクリスマス・ツリー型に進むことを示している。カンブリア紀は生物の種類が爆発 的に増えた時代で、この時期に基本的な生物の形=デザインが芝生のように出そろった が、その大部分は偶然に絶滅し、少数の種が幸運にも生き残って現生の生物の先祖にな ったのだ。生物の歴史では、初期における増大と悲運多数死が常態で、ダーウィン流の 進化論が言うような、環境により適応した生物が生き残り着実に多様性が増大するもの ではないらしい。

     バージェス化石に因縁浅からぬものを感じた私は展覧会を見に行った。雨曇りの敬老 の日、多摩センター駅で降りピューロランドの方角に進むと、テント張りの会場があっ た。来ているのは、片親の子供連れが標準タイプで中年の男一人は珍種に属する。「バ ージェスモンスターと巨大昆虫探検館」という看板からして、明らかに子供層を狙って いる。

     まず、化石の現物を展示した部屋があった。黒い頁岩の表面に様々な形をしたしみが ついているが、それが化石動物だった。しみは数ミリから六十センチ大まで様々。角度 を変え目を凝らすとハッキリ見えるのもあるが、何が何だかよく分からないのが多い。 化石の前の壁に復元図が掛けてある。見るからに奇妙奇天烈で、現在の自然界で見られ るものとは大いに違う。しばらく進むと、これらの小動物を数十倍に拡大した立体模型 が展示してある。五つもの目とゾウの鼻のように長いノズルをもつオパビニア、ウロコ のような骨片に覆われた背中から長い突起を伸ばしたワイワクシヤなど、グールドのい う「ガラクタ箱から部品を勝手に取り出してくっつけたような」驚嘆すべき生物ばかり だ。動く仕掛けがしてあるので、カンブリア紀の海底に小人になって紛れ込んだような 印象を受ける。

     会場には、地球が誕生した四五億年前から現在までを一日に見立てた地球時計が展示 してあった。バージェス化石動物が現れたのが午後の九時過ぎ、動物が海から陸に上が ったのが十時頃、最初の爬虫類が現れるのが十時半である。ちなみに食虫類が現れたの が深夜零時三十分前である。この鼠大の原始哺乳類が、現生のあらゆる哺乳類の先祖と 目されており、まだ恐竜が我が物顔でのし歩いていた森林の下生えの間をこそこそと走 り回り昆虫類を食べていたらしい。米国テキサス州で発見された一億年前の化石が最古 で、それに次ぐのが七千万年前頃のもので、間の三千万年分が抜けていた。熊本で発見 されたのは、九千万年前の、その失われた環(ミッシング・リング)を埋める大変貴重 なものなのだ。

     人類が現れるのは深夜零時寸前である。最近の新聞報道によると(これも一面扱い) 、エチオピアで約四百四十万年前の最古の人類の化石が発見され、人類の起源が五十万 年ないし百万年逆上ったと言う。だが、生物時計では四百四十万年で二分足らず、百万 年逆上っても一分と違わない。グールドは、バージェス化石が示すところによれば、生 物の進化は「最適者生存」というより幸運=偶発性に支配されており、最後に意識を持 った生物=人類が必然的に登場するという保証はどこにもなく、バージェスを起点とし て進化の歴史を百万回リプレイさせたところで、人類へ再び進化する可能性はなかった と断じる。

     ところで、他の生物がおしなべて共存共栄の生き方をしているなかで、この新参者だ けが自己本位の生き方をし、今や地球の覇者気取りで貴重な環境を破壊し、四〇億年か けて育まれたエコロジーの体系を乱している。これは、自ら悲運を招き寄せているに等 しい。「貧弱にして風変わりなわが種族が、自分たちは幸運に恵まれただけのはかない 存在である」(同書三五八頁)と認識し、もう少し賢い生き方が出来ないものか。従来 の予定調和的な生命観の見直しを迫る展覧会を見終わって、つくづく考えさせられたも のである。

    日々の愉しみ;目次へ

    MENU(総目次)へ