当初は、「今月の一冊」と銘打って、書評ともども毎月お勧めの本を一冊掲載するつもりでしたが、ちょっと方針を変更して、とりあえず、私のリアルタイムの読書状況をご紹介することにしました。
私自身の備忘録も兼ねた肩の凝らない部屋ですので、気軽に立ち寄って、おしゃべりをして行って下さい。
フランソワーズ・サガン『愛と同じくらい孤独』新潮社 1976/8/5 1977/5/20 第18刷
*桐野夏生『OUTアウト』講談社 1997/7/15第1刷 1997/10/15 第4刷
犬養道子『アウトサイダーからの手紙』中央公論社1983/9/20第1刷
大前研一『遊び心』学習研究社1988/3/15第1刷1988/3/23第2刷
フィリップ・ソレルス『遊び人の肖像』岩崎力訳 朝日新聞社 1990/12/20第1刷1991/8/20第2刷
アンネ・フランク『アンネの日記』完全版 深松真理子訳 文芸春秋 1994/4/15 第1刷 1994/4/20 第2刷
黒岩徹『イギリス式人生』岩波書店1997/4/21 1997/5/28 第3刷
M・オンダーチェ『イギリス人の患者』土屋政雄訳 新潮社 1996/5/30 第1刷1997/5/30第4刷
*出口保夫・林望『イギリスはかしこい』PHP研究所 1997/11/20第1刷1997/12/9第2刷
筒井康隆『幾たびもDIARY』 中央公論社 1991/9/20第1刷
*フレデリック・フォーサイス『イコン』上下 角川書店 1996/11/25
中村広治郎『イスラム教入門』岩波書店1998/1/20 第1刷
志水辰夫『いまひとたびの』新潮社 1994/8/20 第1刷1995/7/20第13刷
児玉光雄『頭脳(イメージ)テニスの奇跡』祥伝社1988/11/20第1刷1992/4/1第4刷
立花隆『インターネットはグローバル・ブレイン』講談社1997/12/24 第1刷
ヘンリー・H・ハート『ヴェネツィアの冒険家ーマルコ・ポーロ伝』幸田礼雅 1994/11/30 第1刷
宮地伸一『歌言葉雑記』短歌新聞社 1992/11/24 1993/2/26 第3刷
守誠「英会話・やっぱり・単語」 講談社 1996/5/15 1996/10/31 第7
イーディス・シットウェル『英国畸人伝』 松島正一、橋本槇矩訳 青土社 1991/3/30 第1刷1991/4/22第2刷
倉田保雄『エープリル・フール物語』文芸春秋 1993/3/20 第1刷
副島隆彦『英文法の謎を解く』築摩書房 1996/8/20 1997/4/10 13刷
『易教』高田真治・後藤基巳訳 岩波書店 1969/6/16第1刷
1992/6/5 第30刷
山本博文『江戸お留守居役の日記』読売新聞社1991/7/17第1刷1992/8/20第16刷
フランチェスコ・アルベローニ『エロティズム』泉典子訳1991/10/7 第1刷 1996/8/10 第17刷
レイモンド・E・フィースト『王国を継ぐ者』岩原明子訳 191/8/31 第1刷
*直塚玲子「欧米人が沈黙するとき」 大修館 1980/11/1 1992/6/10 16刷
杉浦日向子『お江戸風流さんぽ道』世界文化社1998/8/1 第1刷
*テリー伊藤『大蔵官僚の復讐 お笑い大蔵省極秘情報2』飛鳥新社1998/7/8第1刷
藤本義一・利根川裕他『男学入門』フォー・ユー1988/12/20第1刷1990/1/20第2刷
林望『音の晩餐』徳間書房1993/5/31第1刷1993/8/5第2刷
*篠田節子『女たちのジハード』集英 社 1997/1/30第 1刷 1997/7/31 第3刷
俵万智『かぜのてのひら』河出書房新社1991/4/17第1刷1997/4/25第16刷
高瀬保『ガット二九年の現場から』中央公論社 1997/4/25
*1997/10/19J・F・ガーゾーン『カラ』新潮社1995/5/20第1刷
椎名健編『からだと心の健康百科』講談社 1998/2/20 第1刷
『完訳グリム童話集 1』金田鬼一 岩波書店 1979/7/16改版第1刷 1994/10/5第31刷
干刈あがた『黄色い髪』朝日新聞社 1987/12/20 第1刷
柳田邦男『犠牲』文芸春秋社 1995/7/30第1刷1997/4/5 第22刷
*山田健『今日からちょっとワイン通』草思社 1997/12/5 第1刷
D・フォッシー『霧のなかのゴリラ』(羽田節子・山下恵子訳)早川書房1986
堀内昭義『金融システムの未来』岩波書店1998/2/20第1刷
高杉良『金融腐食列島』上、下角川書店 1997/12/25 第1刷
マレイ・ゲルマン『クォークとジャガー』野本陽代訳 草思社97/8/29第1刷 97/9/10第2刷
小林信彦「現代<死語>ノート」 岩波書店 1997/1/20
藤本ひとみ『コキュ伯爵夫人の艶事』新潮社1995/2/25 第1刷
紀田順一郎編『古書』 作品社 1992/2/25 第1刷
野田知佑『小ブネ漕ぎしこの川』小学館 1992/6/20 第1刷
劉勇『コリとれーる』法研 1996/3/12 第1刷1996/4/15第2刷
井村君江『コーンウォール 妖精とア−サー王伝説の国』東京書籍1997/11/7第1刷
内田義雄『作品としての社会科学』岩波書店1992/2/14 第1刷
猿岩石『猿岩石日記1、2』日本テレビ1:1996/10/10 第1刷1996/11/24第11刷 2:1996/11/23第1刷
*榊東行『三本の矢』 上、下 早川書房 上1998/4/30第1刷下1998/4/30第1刷1998/5/25第5刷
池宮彰一郎『四十七人の刺客』新潮社1992/9/15第1刷1994/9/15第16刷
マーガレット・アトウッド『侍女の物語』斎藤英治訳
新潮社1990/3/25第1刷
飯沢耕太郎『写真美術館へようこそ』講談社 1996/2/20 第1刷
レイ・ブラッドベリ『十月の旅人』伊藤典夫訳大和書房1974/11/10 1976/9/30第4刷
トマス・ピンション『重力の虹T』 越川芳明・植野達郎・佐伯泰樹・幡山秀明訳 国書刊行会 1993/3/25 第1刷 1993/8/30 第3刷
高橋治『春夏秋冬 ひと歌こころ』新潮社1993/10/20第1刷
タイモン.スクリーチ『春画』高山宏訳 講談社1998/4/10 第1刷1998/6/26第3刷
ウォルター・ワンゲリン『小説「聖書」』仲村明子訳 徳間書店1998/5/31第1刷
高井有一『昭和の歌 私の昭和』講談社 1996/6/28 第1刷
*妹尾河童「少年H」(上)講談社 1997/1/17 第6刷 1997/3/10 (下)1997/1997/1/17 第8刷 1997/3/25
*永 六輔「職人」岩波書店1996/10/21 1996/12/4第4刷
藤本芳男『知られざるコロンビア』サイマル出版会1988/8/第1刷
ダンテ『神曲』平川祐弘訳 河出書房新社 1992/3/30 第1刷 1995/3/30 第5刷
マイケル・ギルモア「心臓を貫かれて」 村上春樹訳 文芸春秋 1996/10/15 1996/11/15 第4刷
古館伊知郎『新説F1講座』勁文社1991/11/10 第1刷
鶴見俊輔『神話的時間』熊本子どもの本の研究会
1995/9/30第1刷
ヘイゼン・ソーン『水彩・風景画の技法百科』愛甲健児訳、グラフィック社 1997/3/27第1刷
関川夏央『砂のように眠る』新潮社 1993/7/25 第1刷
マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』嶋田洋一訳 ソニーマガジンズ 1997/11/20第1刷
永田雄三・羽田正『成熟のイスラーム社会(世界の歴史15)』中央公論 1998/1/25第1刷
『聖書』新改訳 日本聖書刊行会 1970/9/1第1刷
1996/4/1第二版12刷
柳澤桂子『生命の奇跡−DNAから私へ』PHP研究所 1997/7/4 第1刷
集英社『世界文学全集30リルケ・マルテの手記、カフカ{審判/変身)』集英社1974/5/25第1刷
最相葉月『絶対音感』小学館 1998/3/10 第1刷 1998/4/10 第3刷
山田風太郎『戦中派虫けら日記』未知谷1994/8/15第1刷
さくらももこ『そういうふうにできている』新潮社 1995/9/15 1996/8/5 第15刷
*ロバート・ニュートン・ペック『続・豚の死なない日』
金原瑞人訳 白水社 1996/10/20 第1刷
トップに戻る
索引へ戻る
作品名検索へ
著者名索引へ
角川書店編「第三版俳句歳時記 冬の部」 角川書店 1996/10/25
*フランチェスコ・アルベローニ『他人をほめる人、けなす人』大久保昭男訳
草思社 1997/10/6第1刷1997/11/18第10刷
佐野真一『旅する巨人』文芸春秋 1996/11/30 1997/5/30 第4刷
マイクル・クライトン『ターミナル・マン』浅倉久志訳 1993/4/30第1刷 1994/6/30第6刷
*マーガレット・アトウッド『ダンシング・ガールズ』岸本佐和子訳 白水社 1989/11/25 第1刷
佐賀純一『ちじらんかんぷん』図書出版社 1992/4/30第1刷
沙藤一樹『Dーブリッジ・テープ』 角川書店 1997/6/30 第1刷
*浅田次郎『鉄道員』集英社 1997/4/30 第1刷 1997/1020 第14刷
原田宗典『東京困惑日記』角川書店1991/8/31
田辺聖子『道頓堀の雨に別れて以来なり』上、下中央公論社 1998/3/7第1刷
レイ・ブラッドベリ「とうに夜半を過ぎて」 小笠原豊樹訳 集英社1978/6/25
ロベール・ドロール『動物の歴史』桃木暁子訳みすず書房 1998/4/17第1刷
鈴木光太郎『動物は世界をどう見るか』新曜社 1995/11/25 第1刷 1996/3/1 第2刷
船橋洋一『同盟漂流』岩波書店 1997/11/18第1刷 1997/11/26第3刷
*スティーブン・コヴィー『7つの習慣』キング・ベアー出版 1996/12/25第1刷 1997/9/5第30刷
柴田元幸『生半可な学者』白水社 1992/6/25 第1刷 1992/11/5 第3刷
*呉清源『二十一世紀の打ち方』日本放送出版協会 1997/6/25 第1刷
ブルーノ・タウト『ニッポン』森とし郎訳 講談社1991/12/10第1刷1994/1/20第6刷
網野嘉善彦『日本社会の歴史』上、中、下 岩波書店 上1997/4/21第1刷、1997/9/1第4刷、
谷川健一『日本の地名』岩波書店1997/4/21 1997/5/28 第4刷
*ラレル・ヴァン・ウォルフレン「人間を幸福にしない日本というシステム」 篠原勝訳 毎日新聞社 1994/11/30 1994/12/20第2刷
エリザベス・M・トーマス『猫たちの隠された生活』草思社 1996/3/27 第1刷
矢部辰男『ネズミに襲われる都市』中央公論社1998/6/25第1刷
*半藤一利『ノモンハンの夏』文芸春秋 1998/4/20第1刷1998/5/25第5刷
*ピーター・ラヴゼイ『バースへの帰還』山本やよい訳
早川書房1996/7/10第1刷
*高橋三雄『パソコンソフト実践活用術』岩波書店1997/12/22第1刷
*アンナ・マグダレーナ・バッハ『バッハの思い出』山下肇訳 講談社 1997/9/10第1刷
山内昌之『「反」読書法』講談社 1997/5/20 第1刷 1997/6/11 第2刷
団鬼六『美少年』新潮社1997/5/20第1刷1997/6/10第2刷
ヘルマン・ヘッセ(V.ミヒェルス編)『人は成熟するにつれて若くなる』岡田朝雄訳 草思社1995/4/5第1刷 1996/12/10第18刷
*飯島裕一『疲労とつきあう』岩波書店 1996/8/21 第1刷 1996/9/12 第2刷
ビル・ブライソン『ビル・ブライソンのイギリス見て歩き』古川修訳 中央公論社 1998/5/20第1刷
永沢光雄『風俗の人たち』築摩書房 1997/9/25 第1刷1998/10/20第2刷
ルイス・キャロル『不思議の国のアリス・オリジナル』書籍情報社
林道義「父性の復権」 中央公論社 1996/5/25 1996/12/20 8刷
R・D・ウィングフィールド『フロスト日和』芹沢恵訳 東京創元社1997/10/17 第1刷
川本皓嗣・小林康夫『文学の方法』東京大学出版会1996/4/25第1刷
宮部みゆき『平成お徒歩日記』新潮社 1998/6/30 第1刷
*『平成サラリーマン川柳傑作選第6集』
講談社1996/12/6第1刷
ウリ・ロートフス『ヘルマン・ヘッセの素顔』鈴木久仁子/相沢和子訳 エディションq 1997/11/28第1刷
武田龍夫編「北欧が見えてくる」 サイマル出版会 1997/1
*ビル・ピート「ぼくが絵本作家になったわけ ビル・ピート自伝」・ゆあさ ふみえ訳 あすなろ書房1993/2/25
手塚治虫『ぼくのマンガ人生』岩浪書店 1997/5/20 第1刷
*浅田次郎『鉄道員』集英社 1997/4/30 第1刷 1997/1020 第14刷
ベンヤミン『ボードレール』野村修編訳 岩波書店 1994/3/16第1刷1997/4/20第2刷
ローレンス・サンダース『ホワイトハウスの悪魔』早川書房1991/5/31第1刷
浜下武志『香港ーアジアのネットワーク都市』ちくま新書 1996/9/20 第1刷
地球の歩き方編集室『地球の歩き方ー香港』ダイヤモンド・ビッグ社1997/4/25改訂新版第1刷
*出久根達郎『本のお口よごしですが』講談社1991/7/22第1刷1992/7/25第2刷
久世光彦『マイ・ラスト・ソング』文芸春秋社 1995/4/10 第1刷
フェイ・ウェルドン『魔女と呼ばれて』集英社1990/4/10 1990/12/15 第3刷
サルマン・レシュディ『真夜中の子供たち』 上、下 寺門泰彦訳 早川書房 1989/1/31第1刷
品川嘉也作「右脳理論によるスーパー記憶術」 ごま書房 1983/7/5 1987/4/20 第8刷
*日高敏隆・坂田明『ミジンコの都合』晶文社 1990/9/30第1刷1991/2/10第2刷
*中野不二男『メモの技術ーパソコンで知的生産』新潮社1997/8/20第1刷1997/9/20第3刷
ミヒャエル・エンデ『モモ』大島かおり訳 岩波書店 1976/9/24 第1刷 1989/5/15 第40刷
養老孟司『唯脳論』青土社 1989/9/25 第1刷 1996/5/11 第26刷
佐野眞一『予告された震災の記録』朝日新聞社1995/4/10第1刷
加納喜光『読めそうで読めない漢字2000』講談社1994/4/20第1刷1995/4/3第12刷
ベルナ−ル・ピボォ−他編『理想の図書館』安達正勝他訳 Papyrus 1990/7/6 第1刷
*宮部みゆき『理由』朝日新聞社1998/6/1 第1刷1998/7/30第8刷
ジョン・ケアリー『歴史の目撃者』仙名紀、猿谷要訳 朝日新聞社 1997/2/5 第1刷
ヘルマン・ヘッセ『わが心の故郷アルプス南麓の村』岡田朝雄訳 草思社1997/12/25第1刷
*まついなつき『笑う出産』情報センター出版局 1994/3/10 第1刷 1996/6/11 第41刷
柳澤桂子『われわれはなぜ死ぬのか』草思社1997/6/5第1刷
*浅田次郎『鉄道員』集英社 1997/4/30 第1刷 1997/1020 第14刷
*マーガレット・アトウッド『ダンシング・ガールズ』岸本佐和子訳 白水社 1989/11/25 第1刷
網野嘉善彦『日本社会の歴史』上、中、下 岩波書店 上1997/4/21第1刷、1997/9/1第4刷、
フランチェスコ・アルベローニ『エロティズム』泉典子訳1991/10/7 第1刷 1996/8/10 第17刷
*フランチェスコ・アルベローニ『他人をほめる人、けなす人』大久保昭男訳 草思社 1997/10/6第1刷1997/11/18第10刷
*飯島裕一『疲労とつきあう』岩波書店 1996/8/21 第1刷 1996/9/12 第2刷
飯沢耕太郎『写真美術館へようこそ』講談社 1996/2/20 第1刷
*出口保夫・林望『イギリスはかしこい』PHP研究所 1997/11/20第1刷1997/12/9第2刷
*テリー伊藤『大蔵官僚の復讐 お笑い大蔵省極秘情報2』飛鳥新社1998/7/8第1刷
今北純一『勝負する英語』新潮社 1996/8/30
犬養道子『アウトサイダーからの手紙』中央公論社1983/9/20第1刷
井村君江『コーンウォール 妖精とア−サー王伝説の国』東京書籍1997/11/7第1刷
コリン・ウイルソン『わが青春・わが読書』柴田元幸監訳 学研 1997/12/1第1刷
R・D・ウィングフィールド『フロスト日和』芹沢恵訳 東京創元社1997/10/17 第1刷
*ラレル・ヴァン・ウォルフレン「人間を幸福にしない日本というシステム」 篠原勝訳 毎日新聞社 1994/11/30 1994/12/20第2刷
フェイ・ウェルドン『魔女と呼ばれて』集英社1990/4/10 1990/12/15 第3刷
内田義雄『作品としての社会科学』岩波書店1992/2/14 第1刷
*永 六輔「職人」岩波書店1996/10/21 1996/12/4第4刷
1997/7/20ミヒャエル・エンデ『モモ』大島かおり訳 岩波書店 1976/9/24 第1刷 1989/5/15 第40刷
M・オンダーチェ『イギリス人の患者』土屋政雄訳 新潮社 1996/5/30 第1刷1997/5/30第4刷
角川書店編「第三版俳句歳時記 冬の部」 角川書店 1996/10/25
加納喜光『読めそうで読めない漢字2000』講談社1994/4/20第1刷1995/4/3第12刷
川本皓嗣・小林康夫『文学の方法』東京大学出版会1996/4/25第1刷
ルイス・キャロル『不思議の国のアリス・オリジナル』書籍情報社
*桐野夏生『OUTアウト』講談社 1997/7/15第1刷 1997/10/15 第4刷
マイケル・ギルモア「心臓を貫かれて」 村上春樹訳 文芸春秋 1996/10/15 1996/11/15 第4刷
久世光彦『マイ・ラスト・ソング』文芸春秋社 1995/4/10 第1刷
久世光彦『悪い夢』角川春樹事務所1995/10/10第1刷
マイクル・クライトン『ターミナル・マン』浅倉久志訳
1993/4/30第1刷 1994/6/30第6刷
倉田保雄『エープリル・フール物語』文芸春秋 1993/3/20 第1刷
黒岩徹『イギリス式人生』岩波書店1997/4/21 1997/5/28 第3刷
ジョン・ケアリー『歴史の目撃者』仙名紀、猿谷要訳 朝日新聞社 1997/2/5 第1刷
マレイ・ゲルマン『クォークとジャガー』野本陽代訳 草思社97/8/29第1刷 97/9/10第2刷
*呉清源『二十一世紀の打ち方』日本放送出版協会 1997/6/25 第1刷
児玉光雄『頭脳(イメージ)テニスの奇跡』祥伝社1988/11/20第1刷1992/4/1第4刷
小林信彦「現代<死語>ノート」 岩波書店 1997/1/20
小森陽一/高橋哲哉編『ナショナル・ヒストリーを超えて』東京大学出版会1998/5/27 第1刷
*スティーブン・コヴィー『7つの習慣』キング・ベアー出版 1996/12/25第1刷 1997/9/5第30刷
*ニール・サイモン『書いては書き直し』酒井洋子訳 早川書房 1997/12/15第1刷
佐賀純一『ちじらんかんぷん』図書出版社 1992/4/30第1刷
*榊東行『三本の矢』 上、下 早川書房 上1998/4/30第1刷下1998/4/30第1刷1998/5/25第5刷
*日高敏隆・坂田明『ミジンコの都合』晶文社 1990/9/30第1刷1991/2/10第2刷
フランソワーズ・サガン『愛と同じくらい孤独』新潮社 1976/8/5 1977/5/20 第18刷
さくらももこ『そういうふうにできている』新潮社 1995/9/15 1996/8/5 第15刷
沙藤一樹『Dーブリッジ・テープ』 角川書店 1997/6/30 第1刷
佐野真一『旅する巨人』文芸春秋 1996/11/30 1997/5/30 第4刷
佐野眞一『予告された震災の記録』朝日新聞社1995/4/10第1刷
猿岩石『猿岩石日記1、2』日本テレビ1:1996/10/10 第1刷1996/11/24第11刷 2:1996/11/23第1刷
ローレンス・サンダース『ホワイトハウスの悪魔』早川書房1991/5/31第1刷
椎名健編『からだと心の健康百科』講談社 1998/2/20 第1刷
志水辰夫『いまひとたびの』新潮社 1994/8/20 第1刷1995/7/20第13刷
*篠田節子『女たちのジハード』集英 社 1997/1/30第 1刷 1997/7/31 第3刷
柴田元幸『生半可な学者』白水社 1992/6/25 第1刷 1992/11/5 第3刷
品川嘉也作「右脳理論によるスーパー記憶術」 ごま書房 1983/7/5 1987/4/20 第8刷
イーディス・シットウェル『英国畸人伝』 松島正一、橋本槇矩訳 青土社 1991/3/30 第1刷1991/4/22第2刷
*島村洋子『ポルノ』中央公論社 1995/8/7 第1刷
杉浦日向子『お江戸風流さんぽ道』世界文化社1998/8/1 第1刷
タイモン.スクリーチ『春画』高山宏訳 講談社1998/4/10 第1刷1998/6/26第3刷
鈴木光太郎『動物は世界をどう見るか』新曜社 1995/11/25 第1刷 1996/3/1 第2刷
マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』嶋田洋一訳
ソニーマガジンズ 1997/11/20第1刷
*妹尾河童「少年H」(上)講談社 1997/1/17 第6刷 1997/3/10 (下)1997/1997/1/17 第8刷 1997/3/25
関川夏央『砂のように眠る』新潮社 1993/7/25 第1刷
副島隆彦『英文法の謎を解く』築摩書房 1996/8/20 1997/4/10 13刷
フィリップ・ソレルス『遊び人の肖像』岩崎力訳 朝日新聞社 1990/12/20第1刷1991/8/20第2刷
ヘイゼン・ソーン『水彩・風景画の技法百科』愛甲健児訳、グラフィック社 1997/3/27第1刷
高井有一『昭和の歌 私の昭和』講談社 1996/6/28 第1刷
高杉良『金融腐食列島』上、下角川書店 1997/12/25 第1刷
高瀬保『ガット二九年の現場から』中央公論社 1997/4/25
小森陽一/高橋哲哉編『ナショナル・ヒストリーを超えて』東京大学出版会1998/5/27 第1刷
*高橋三雄『パソコンソフト実践活用術』岩波書店1997/12/22第1刷
武田龍夫編「北欧が見えてくる」 サイマル出版会 1997/1
立花隆『インターネットはグローバル・ブレイン』講談社1997/12/24 第1刷
田辺聖子『道頓堀の雨に別れて以来なり』上、下中央公論社 1998/3/7第1刷
谷川健一『日本の地名』岩波書店1997/4/21 1997/5/28 第4刷
団鬼六『美少年』新潮社1997/5/20第1刷1997/6/10第2刷
地球の歩き方編集室『地球の歩き方ー香港』ダイヤモンド・ビッグ社1997/4/25改訂新版第1刷
筒井康隆『幾たびもDIARY』 中央公論社 1991/9/20第1刷
鶴見俊輔『神話的時間』熊本子どもの本の研究会
1995/9/30第1刷
*出久根達郎『本のお口よごしですが』講談社1991/7/22第1刷1992/7/25第2刷
手塚治虫『ぼくのマンガ人生』岩浪書店 1997/5/20 第1刷
エリザベス・M・トーマス『猫たちの隠された生活』草思社 1996/3/27 第1刷
ロベール・ドロール『動物の歴史』桃木暁子訳みすず書房 1998/4/17第1刷
*直塚玲子「欧米人が沈黙するとき」 大修館 1980/11/1 1992/6/10 16刷
永沢光雄『風俗の人たち』築摩書房 1997/9/25 第1刷1998/10/20第2刷
永田雄三・羽田正『成熟のイスラーム社会(世界の歴史15)』中央公論 1998/1/25第1刷
中野不二男『メモの技術ーパソコンで知的生産』新潮社1997/8/20第1刷1997/9/20第3刷
中村広治郎『イスラム教入門』岩波書店1998/1/20 第1刷
野田知佑『小ブネ漕ぎしこの川』小学館 1992/6/20 第1刷
浜下武志『香港ーアジアのネットワーク都市』ちくま新書 1996/9/20 第1刷
*出口保夫・林望『イギリスはかしこい』PHP研究所 1997/11/20第1刷1997/12/9第2刷
*アンナ・マグダレーナ・バッハ『バッハの思い出』山下肇訳 講談社 1997/9/10第1刷
林望『音の晩餐』徳間書房1993/5/31第1刷1993/8/5第2刷
林道義「父性の復権」 中央公論社 1996/5/25 1996/12/20 8刷
*半藤一利『ノモンハンの夏』文芸春秋 1998/4/20第1刷1998/5/25第5刷
*ビル・ピート「ぼくが絵本作家になったわけ ビル・ピート自伝」・ゆあさ ふみえ訳 あすなろ書房1993/2/25
*日高敏隆・坂田明『ミジンコの都合』晶文社 1990/9/30第1刷1991/2/10第2刷
ベルナ−ル・ピボォ−他編『理想の図書館』安達正勝他訳 Papyrus
1990/7/6 第1刷
レイモンド・E・フィースト『王国を継ぐ者』岩原明子訳 191/8/31 第1刷
*フレデリック・フォーサイス『イコン』上下 角川書店 1996/11/25
D・フォッシー『霧のなかのゴリラ』(羽田節子・山下恵子訳)早川書房1986
藤本ひとみ『コキュ伯爵夫人の艶事』新潮社1995/2/25
第1刷
船橋洋一『同盟漂流』岩波書店 1997/11/18第1刷 1997/11/26第3刷
ビル・ブライソン『ビル・ブライソンのイギリス見て歩き』古川修訳 中央公論社 1998/5/20第1刷
レイ・ブラッドベリ『十月の旅人』伊藤典夫訳 大和書房1974/11/10
第1刷 1976/9/30第4刷
レイ・ブラッドベリ『とうに夜半を過ぎて』 小笠原豊樹訳 集英社1978/6/25
アンネ・フランク『アンネの日記』完全版 深松真理子訳 文芸春秋 1994/4/15 第1刷 1994/4/20 第2刷
*ロバート・ニュートン・ペック『続・豚の死なない日』 金原瑞人訳 白水社 1996/10/20 第1刷
ヘルマン・ヘッセ(V.ミヒェルス編)『人は成熟するにつれて若くなる』岡田朝雄訳 草思社1995/4/5第1刷 1996/12/10第18刷
ヘルマン・ヘッセ『わが心の故郷アルプス南麓の村』岡田朝雄訳 草思社1997/12/25第1刷
ベンヤミン『ボードレール』野村修編訳 岩波書店 1994/3/16第1刷1997/4/20第2刷
堀内昭義『金融システムの未来』岩波書店1998/2/20第1刷
*まついなつき『笑う出産』情報センター出版局 1994/3/10 第1刷 1996/6/11 第41刷
宮部みゆき『平成お徒歩日記』新潮社 1998/6/30 第1刷
*宮部みゆき『理由』朝日新聞社1998/6/1 第1刷1998/7/30第8刷
宮地伸一『歌言葉雑記』短歌新聞社 1992/11/24 1993/2/26 第3刷フラン
守誠「英会話・やっぱり・単語」 講談社 1996/5/15 1996/10/31 第7刷
*山田健『今日からちょっとワイン通』草思社 1997/12/5 第1刷
山田風太郎『戦中派虫けら日記』未知谷1994/8/15第1刷
柳澤桂子『生命の奇跡−DNAから私へ』PHP研究所 1997/7/4 第1刷
柳澤桂子『われわれはなぜ死ぬのか』草思社1997/6/5第1刷
山内昌之『「反」読書法』講談社 1997/5/20 第1刷 1997/6/11 第2刷
養老孟司『唯脳論』青土社 1989/9/25 第1刷 1996/5/11 第26刷
*ピーター・ラヴゼイ『バースへの帰還』山本やよい訳 早川書房1996/7/10第1刷
劉勇『コリとれーる』法研 1996/3/12 第1刷1996/4/15第2刷
サルマン・レシュディ『真夜中の子供たち』 上、下 寺門泰彦訳 早川書房 1989/1/31第1刷
ウリ・ロートフス『ヘルマン・ヘッセの素顔』鈴木久仁子/相沢和子訳 エディションq 1997/11/28第1刷
ウォルター・ワンゲリン『小説「聖書」』仲村明子訳 徳間書店1998/5/31第1刷
アンナ・マグダレーナ・バッハ『バッハの思い出』山下肇訳 講談社 1997/9/10第1刷
(1998/7/13)
宮部みゆき『理由』 朝日新聞社 1998/6/1 第1刷 1998/7/30 第8刷
フランチェスコ・アルベローニ『他人をほめる人、けなす人』大久保昭男訳 草思社1997/10/6第1刷 1997/11/18 第10刷
永六輔『商人』岩波書店1998/4/20第1刷
榊東行『三本の矢』 上、下 早川書房 上1998/4/30第1刷下1998/4/30第1刷1998/5/25第5刷
出久根達郎『本のお口よごしですが』講談社1991/7/22第1刷1992/7/25第2刷
ニール・サイモン『書いては書き直し』酒井洋子訳 早川書房 1997/12/15第1刷
山田健『今日からちょっとワイン通』 草思社 1997/12/5 第1刷
高橋三雄『パソコンソフト実践活用術』岩波書店1997/12/22第1刷
ピーター・ラヴゼイ『バースへの帰還』山本やよい訳 早川書房1996/7/10第1刷
出口保夫・林望『イギリスはかしこい』PHP研究所 1997/11/20第1刷1997/12/9第2刷
桐野夏生『OUTアウト』講談社 1997/7/15第1刷 1997/10/15 第4刷
『平成サラリーマン川柳傑作選第6集』
講談社1996/12/6第1刷
浅田次郎『鉄道員』集英社 1997/4/30 第1刷 1997/1020 第14刷
中野不二男『メモの技術ーパソコンで知的生産』新潮社1997/8/20第1刷1997/9/20第3刷
J・F・ガーゾーン『カラ』新潮社1995/5/20第1刷
スティーブン・コヴィー『7つの習慣』キング・ベアー出版 1996/12/25第1刷 1997/9/5第30刷
日高敏隆・坂田明『ミジンコの都合』晶文社
1990/9/30第1刷1991/2/10第2刷
ロバート・ニュートン・ペック『続・豚の死なない日』
金原瑞人訳 白水社 1996/10/20 第1刷
篠田節子『女たちのジハード』集英 社 1997/1/30第 1刷 1997/7/31 第3刷
呉清源『二十一世紀の打ち方』日本放送出版協会 1997/6/25 第1刷
飯島裕一『疲労とつきあう』岩波書店 1996/8/21 第1刷 1996/9/12 第2刷
まついなつき『笑う出産』情報センター出版局 1994/3/10 第1刷 1996/6/11 第41刷
フレデリック・フォーサイス『イコン』上下 角川書店 1996/11/25
塩谷育代・田中誠一『知的ゴルフのすすめ』丸善1995/10/20 1996/7/20第4刷
永 六輔「職人」岩波書店1996/10/21 1996/12/4第4刷
ラレル・ヴァン・ウォルフレン「人間を幸福にしない日本というシステム」 篠原勝訳 毎日新聞社 1994/11/30 1994/12/20第2刷
直塚玲子「欧米人が沈黙するとき」 大修館 1980/11/1 1992/6/10 16刷
妹尾河童「少年H」(上)講談社 1997/1/17 第6刷 1997/3/10 (下)1997/1997/1/17 第8刷 1997/3/25
ビル・ビート「ぼくが絵本作家になったわけ ビル・ピート自伝」ゆあさ ふみえ訳 あすなろ書房1993/2/25
マーガレット・アトウッド『ダンシング・ガールズ』岸本佐和子訳 白水社 1989/11/25
1939年生まれのカナダの女流作家アトウッドの短編小説集。収録されて6つの短編のどれもが、冒頭から読者をたちまち、物語の世界に引きずりこまずにおかない。それだけ、語り口が巧みなのだ。
ごくありふれた日常を目配りの利いた正確な描写力で、ディテールまで淡々と語る魅力に付いていくと、いつしか、主人公たちの、繊細で感受性豊かな独特の感じ方や考え方の世界、それゆえにありふれた日常ではあり得ない世界、に誘い込まれている。冒頭の、カナダの女性とベトナムからの留学生との奇妙な交流を描く「火星から来た男」と、表題作で末尾に置かれた、アラブからの留学生を同宿の女性の目を通して描く「ダンシング・ガールズ」は、カナダ社会におけるアジアやアラブという遠い異国から来た小数者の置かれた、一種惨めな境涯を淡々と描く点で共通している。事実を淡々と物語るだけで、いいとも悪いとも言うわけでもない。しかし、そくそくとして迫って来るものがあるのだ。
このように、この短編集に描かれているのは、言わば社会的弱者だ。エリートコースを脂ぎって邁進する人物より、ある意味ではそこらにいるような人物、悩みや劣等感を人一倍抱え込んだ人物である。そうした人たちの感情の起伏が手に取るように描かれているので、すんなりと感情移入ができる。なによりも、登場人物一人一人が、的確に捉えられており、しかもひとつひとつの物語の世界について作者の用意周到の知識量が感じられるだけに、小説世界に安心して没頭できる。全くの破綻を見せず、6つの異なった世界を描き、魅力的な主人公を造型した作者の力量には感心した。人生や人間を実によく知っているなと思わされた。
緑陰で、ゆっくりと静かに読むにふさわしい一編。
(1998/7/29)
テリー伊藤『大蔵官僚の復讐 お笑い大蔵省極秘情報2』飛鳥新社1998/7/8第1刷
第1巻の方は読んでいないが、この2巻目、なかなかよく出来ていて、面白く、一気に読み終えた。
大蔵省の現役のキャリア、ノンキャリ、それぞれ二人ずつのインタビューを取りまとめたものであるが、匿名でニュース源を絶対に公表しないという条件で、彼等の本音を余すところなく引き出すのに成功している。次官、財務官、局長はじめ、話題にのぼる官僚も、すべて実名で登場する。
キャリア組、ノンキャリア組、それぞれの生態・体質が、言葉の端々ににじみ出ていて、笑わされる。今回のような、大不祥事があっても、なお権力の美酒に酔いしれ、驕り昂り反省もせず、自らに都合のいい論理で、まくしたて、自己弁護をし、一方で国民を愚弄し、自らの論理的矛盾や、限界に気付かず、気付こうともしないいい加減さが、透けて見える。
もちろん、ここに登場する4人が、大蔵「官僚」のすべてを代表するものではないし、もっと立派な人がいるのだろうが(いてもらわないと困るが)、ここに語られた限りにおいては、大蔵省・大蔵官僚についての一応整合性のある世界が描き出されているように思われ、そのあまりにもお粗末な実態に、暗然たる思いにさせられる。日本という国の政治・行政の、張り子の虎的底の浅さが、あからさまに暴露されており、この難局を招いたのも、いままた手を拱ねいているよりないのも、これじゃ仕方がないということがよくわかる。
4人の語る世界が、日常からあまりに遊離した世界なので、思わず笑わされるのだが、笑ってばかりいられない。本当に国の前途が思いやられてくる。
読書録目次へ
こんな女性がいるだろうか。10年ひたすらに、待つ女。アルベローニの『エロティズム』を読んでも、男女のエロスは大いに異なっており、女性は、きわめて現実的だという。一度跡絶えた恋愛感情を10年も維持できるようには、とうてい思えない。
相手の男は、妻がありながら、10年前の約束を守って航空券を送り付け、10年振りのバリ島での再会を誘う。こんな男性もあまりいそうにない。この二人の一週間のバリ島での滞在が描かれる。
この小説から、どことなく、うそっぽく、しらじらしい印象を受けるのは、この二人の人間像にリアリティがないからだろう。一応、簡潔で踊ることのない文体で書かれているけれど、あまり買えない。
この本を本屋で見つけたとき、まったくためらいもなく、すぐ購入した。というのも、バッハ自身に関心があったこともさることながら、この本の訳者が畏敬する山下肇先生だったからだ。先生は、大学時代の担任で、卒業後も、おつきあいいただいているが、性は温厚ながら情熱的な行動家で、現在もお元気で活躍しておられる。また、ドイツ文学者、文筆家としても著名であるが、書かれる文章には品があり、けれん味がなく、情がこもっており、何を読んでも、当たり外れがない。
この本を読んでみて、さすが期待を裏切らない訳であった。いや、この本は先生が30歳のときの訳で、「毎日出版文化賞」の音楽部門で、第一位に推挙され、いわば先生の出世作(訳)となり、その後のドイツ語訳者としての地保を築く機縁となったもので、以来ロングセラーを続けるとともに、NHKや民放で朗読紹介され、音楽関係の必読の教養書として取り上げられるなど、名訳の誉高いものであったことを知るにつけ、不明を恥じるばかりだ。一読、心が洗われるような気がしたのも無理はない。もともとはダビッド社から1950年に出版されたものを、今回講談社の学術文庫に収められることになり、この種の本にしては珍しく版を重ねているという。これは、先生から直接伺ったことである。
嬉しそうな先生の口振りをいまでも覚えている。
著者となっているアンナ・マグダレーナ・バッハは、バッハの後妻である。訳者もあとがきで著者について「当初から一抹の疑念を拭いさりきれないでいた」が「この疑念の追及詮索は専門研究者の手に委ねる」として、真実の著者については言及せず、「戦後のバッハ研究が進むにつれて、この疑念の真偽の問題もしだいに明らかにされて、本書がマグダレーナの真筆ではないという見解が有力視されるようになっているが、だからといって、本書の声価はすこしも失われていない」としている。
1988年にフランスで出版されたベルナーレ・ピヴォー他編『理想の図書館』(世界の名著を49のジャンル毎に、49冊ずつあつめたもの)(パピルス 1990/7/6第1刷)では、音楽のジャンルの名著として、エステル・メイネルという真実の著者名で取り上げている。その中で20世紀に書かれた小説であると紹介されているが、真実味あふれる上質な品格高い本書は、著者がバッハの後妻であろうとなかろうと、その価値がいささかたりとも減ずるものではないことは、訳者の言う通りである。
これは、夫婦愛、家族愛の物語であり、信仰篤い、創造的人間の姿を、日常生活のレベルで見事にとらえた読みごたえるのある小説でもある。作曲家として、オルガニストとして、また、音楽の理論家、教育者として、溢れるような才能の持主ながら、必ずしもそれに相応しい職を得ることが出来ず、また、常に良き上司にめぐまれるわけにもいかず、そうした人間関係の葛藤や軋轢に悩まされる一方で、少年合唱隊の指導などの煩瑣な日常的な仕事に貴重な時間を奪われながらも、倦まず弛まず、盲しいて死の床にあってさえ、創作の意欲を失わなかった、バッハの姿を、夫を愛し、敬い、13人もの子を成し、献身的に尽くす、妻の鏡とも言うべきマグダレーナの視点から鮮やかに描き切っている。
生涯を通じて、自分の家族と彼を知り彼の音楽を理解してくれる小数の友人をしか必要とせず、名声とか賞賛を求めず、まったく時間を無駄にすることなく、65才の生涯のうちに、信じられないほど多くの優れた作品群を残した「音楽の父」バッハが、この本を読むことによって、その厳格そうな容貌にもかかわらず、きわめて身近な親しみやすい人と感じられるようになった。
同年の同郷の生まれである作曲家ヘンデルとの対比が面白い。ヘンデルを、敬っていたバッハは、ヘンデルに会おうと努めるが、必ずしもヘンデルの側からの好意が得られず、ついにその願いは叶わなかった。「けれどヘンデルは世間を求める人でした。自分の身のまわりに限りない大浪を打たせて、たくさんたくさんお金をこしらえる人でした。それに対してゼバスティアンの方は、大げさなことはいっさい嫌いで、世俗を逃れ、自分の家庭で、家族の者たちの懐の中で、静かに黙々と仕事に打ち込んだ生活でした。」(p.77)
バッハの死後、めったに聴かれることもなくなった「彼の音楽は、(いまもてはやされている)息子たちのものとはぜんぜん違います。わたくしの感じますところでは、それは人をまったく別の世界に連れて行ってくれるのです。明るく朗らかに澄んで、この世のものとも思われない高い世界、そこではもはやこの地上の煩らいはすべて力を失ってしまうのです。彼の心の中には、平和と美の核心がひそんでいました。」(p.134)
いま、キース・ジャレットの演奏するバッハの『ゴルドベルク変奏曲』を聞きながらこの読書録を認めているが、まさしくその通りと思う。バッハが音楽に占める大きさは、戦後益々認識されるようになってきたが、今後とも増大することはあっても、減ることはないだろう。近年に至っても、ギドン・クレメールやキース・ジャレット、ペーター・シュライヤーをはじめ、多くの世界の名手が、精力的にバッハに挑んでおり、わたしのようなファンには嬉しいことである。
半藤一利『ノモンハンの夏』文芸春秋 1998/4/20第1刷1998/5/25第5刷
「論文の部屋」に集録している拙論『強硬論と日本の自己主張』を、書いたきっかけは、この本にも登場する辻政信や服部卓四郎を頂点とする陸軍内部での、いわゆるエリート参謀の、己も敵も知らぬ、強気一辺倒の強硬路線が、国をいかに誤った方向へ引っぱっていったかを、太平洋戦争に関する様々な戦史を読み、考えさせられたからであった。
この本も、わたしのそういう方面の関心に応えてくれる戦史として興味を持ち、読んでみたのだが、その期待を裏切らない、出来映えになっていると思う。
ノモンハン事件と称される戦闘における先の両名の、傍若無人ぶりが、能う限りの文献に照らし合わされて、事細かに検証されており、これらのエリート参謀の引き起こした無謀、独善、泥縄的な戦いの陰で、いかに多くの将兵が、過酷無残な戦いを強いられ、戦場の露と消えて行かなければならなかったかを、怒りのこもった筆致で、著者はみごとに描き切っている。戦後国家の選良となった辻政信に議員会館の一室で対面したとき、この世に存在することはないとずっと考えていた「絶対悪」を眼前に見るの思いをしたという筆者が、その日以来、「ノモンハン事件」をいつの日にかまとめてみようと思いたったという。
統帥権を無視して戦端を開いた上、敵をあなどり、自らを過信して、さして意味の無い国境線の維持にこだわり、泥縄的で逐次投入の弊に陥っている関東軍の作戦参謀に対し、スターリンとジューコフ将軍のコンビは、この戦闘の重要性を認識し、万難を排して、砂漠の涯のノモンハンに、近代戦を戦い得る兵力と装備を結集し、日本軍に襲いかかるのだ。結果は、ひとたまりもない。
事件後、責任を明らかにする人事異動が迅速に行われるが、幕僚に対する処断はきわめて甘く、「積極的な軍人が過失を犯した場合には、人事当局は大目にみるのを常とする。処罰してもその多くは申訳程度ですませた。いっぽう、自重論者は卑怯者扱いされることが多く、その人が過失を犯せばきびしく責任を追及される場合が少なくなかった。」(p.340)
「こうした信賞必罰ならざる悪しき慣例が、最前線で勇敢に戦った指揮官たちに適用され」「かれらは戦死または自決し、あるいは自決を強いられてほとんどが逝った。」(p.341)「そのために、この戦争における統帥の非合理さと拙劣さ、作戦計画の粗雑や誤断、指揮の独断など現場からの批判は、すべて曖昧なものとなった。」(同)「のみならず戦い終わったのちの、誤解や上長の悪感情が、悪戦苦闘した部隊長を殺した。」(同)損耗率76パーセントという「ノモンハン事件」から、こうして、日本陸軍は、ほとんど何も学ばないまま終結し、太平洋戦争で同じあやまちを繰り返すことになるのである。
この本の末尾は次ぎの言葉でしめくくられる。
「ノモンハン敗戦の責任者である服部・辻のコンビが、(いったんは責任を問われて左遷されたが、いくばくもなく三宅坂上(陸軍参謀本部作戦課)に華々しく復帰し、)対米開戦を推進し、戦争を指導した全過程をみるとき、個人はつまるところ歴史の流れに浮き沈みする無力な存在にすぎない、という説が、なぜか疑わしく思えてならない。そして人は何も歴史から学ばないことを思い知らされる。」と。
『三本の矢』とこの本を合わせて読むと、「昔陸軍、今大蔵」といわれるほどの絶対的な権力を握った組織内の、いわゆるエリート幹部の思い上がりと独善と不勉強が、国の行くべき方向を誤らせ、国民に故なき苦しみを強いるという構図が、今も昔とかわらず厳然と存在し、日本が何も歴史から学ばないことを思い知らされ、慄然たる思いがするのである。
読書録目次へ
宮部みゆきのデビュー作『魔法のささやき』を読んだときから、彼女の並々ならぬ才能を感じていた。少年の心理描写一つにしても、みずみずしく、その息遣いが分るように書き込まれていて、妻にも一読を勧めたのだが、すぐ、テレビ劇化され、それだけを見た家内はこれは何だという感想を持ったようだ。テレビ劇のほうは明らかな失敗作で、彼女には気の毒な出来だった。
とは言いながら、その後の活躍振りは目を見張るものがあって、現代ものだけでなく、時代物まで手を延ばし、ことごとく成功している。そのうちに読もうとと思い、これも現代の問題であるクレジットカード業界を題材にした『火車』も買ってあるが、そのままになっている。
最近、この小説が評判になっており、ある書評を読んで食欲をそそられたので、『火車』より先に、読んでみた。期待を裏切らない出来と言えるだろう。570頁を超える長篇をかなり短時日で読み終えた。
事件は、激しい雨の夜、「ヴァンダ−ル千住北ニューシティ」という豪華なマンションの一室で起こる。「一家」四人が皆殺しになるのである。著者は、伸びやかで気配りの行き届いた文章力と、例によって巧みなストリーテラーぶりを発揮して、読者を一気に物語の中に誘い込む。地の文と、この事件の関係者から事情を聴取するインタビュー形式とを巧みに混ぜ合わせた語り口で、地の文だけで通すやり方に比べ、人物の心理の襞により深く入り込んでいくことに成功している。
作者は、この物語を通して、日本の現代の家庭といううものの虚構性に肉迫する。家庭らしい家庭の構築に、日本という社会は必ずしも成功しているとは言えないのではないか。重たい問いであるが、滞ることのない語り口に乗せられて、スピーディに読み進めるうちに、次第次第に、作者の問いかけに気付かされる。登場人物の一人一人について十分に書き込んであるので、事件の展開に説得力があり、安心して付いていける。
ただ、惜しむらくは、真犯人を、物語展開の必要性から殺してしまううので、真犯人にインタビューできないことだ。そのため、犯罪の真の意図や、犯人像が、どうみてもぼやけてしまい、関係者のインタビューで外堀を埋めてみても、説得力が薄いのだ。それにベランダから転落死するシーンが、今一つ説得力に欠ける。若い女性と争ったぐらいで、大の男が、そんなに簡単に、豪華なマンションのベランダから転落するものだろうか。
先日も新聞で、女流の力量の有る作家が特集されていたが、その四人、篠田節子、桐野夏生、高村薫、宮部みゆきは一通り読んだことになる。いずれ劣らぬ筆力の持ち主である。一層の充実を期待したい。
今週の日経(1998/7/12)のベストセラー欄の6、7位に、宮部みゆきの歴史体験エッセイ『平成お徒歩日記』とこの『理由』が並んでいる。ますます多方面にわたる才女振りを発揮しているようだ。
ところで、第8刷の日付が1998/7/30になっているのは間違いではない。新しく刷ったと思わせたい出版社の都合で日付は勝手に決められるものらしい。
(1998/7/7)
フランチェスコ・アルベローニ『他人をほめる人、けなす人』大久保昭男訳 草思社1997/10/6第1刷 1997/11/18 第10刷
この本には、59人もの人が登場する。「楽観的な人、悲観的な人」「他人を認めない人」「他人を指導する人」「他人をひきたてない人」「高貴な魂をもつ人」「何が善かを知る人」などなど。しかし、「他人をほめる人、けなす人」は、登場しない。ところが、このネーミングが、この本がヒットした理由だという。
このネーミングから、軽いハウツー物を期待しがちだが、決して中身は軽くない。作者のアルベローニは社会学者で、哲学、宗教、文学にも造詣が深く、文章のなかに、以下に掲げるような、人々を縦横に引き出し、説得力に富む論理を展開する。アリストテレス、シェークスピア、ゲーテ、フロイト、アドラー、ユング、ベートーヴェン、ベルディ、モーツアルト、カント、ホメーロス、ウェルギリウス、ダンテ、ニーチェ、ハイデッカー、マックス・シェラー、ルター、ヘーゲル、カルヴァン、ミルトン、エンリーコ・フェルミ、マーシャル・マクルーハン、ドストフェスキー、ロナルド・フィッシャー・・・
イタリアを代表する新聞に連載したエッセイをまとめたもので、ひとつひとつの文章は短く、読みやすい。人生の機微に通じ、博識で洞察力に富む作者の言葉にしばしば、なるほどとうなずきながら、読み終えた。自分自身の性向を知る上でも、周りの人々の言動の真の意味を解し、理解しがたい人々のことを理解する上でも、役に立つ。この本が、ベストセラーになるのなら、読者も捨てたものではない。味読するに値する本だ。
読書録目次へ
今、ベストセラーになっている本だ。大蔵大臣の国会での失言が、平成金融恐慌を引き起こし、その収拾策の主導権を巡って、政界、官界、財界が、お互いに、また、それぞれその内部で、死闘を演ずる様を、ドキュメンタリータッチで描く近未来小説である。
筆者は、中央官庁の課長補佐というが、なかなか筆力があって、読ませる。大蔵省の内実を熟知している(主計局と銀行局の角逐、内部コンピュータ・システムなどなど)ところから見ると、大蔵省の人ではないかと思われる。大蔵省内部では、この小説の主人公である、大蔵省銀行局の課長補佐紀村が、大臣答弁を差し替え、失言を誘い出した犯人を探し出す仕事を割り当てられたように、この本の著者を探し出す任務を割り当てられた人がいるかもしれない。
三本の矢とは、政、官、財が強靱に繋がり合った日本というシステムを指す。毛利元就の三本の矢のたとえのごとく、この三者の鉄の結束が日本を支配し、動かしているというのである。この結び付きの実相をかなりリアルにえぐっている。表舞台では、政官が取り仕切っているように見えて、真の智恵者は、財(この小説では、銀行)にいたというのだ。
各種の政治・経済学説から、複雑系理論の内容まで、ストーリーのなかにうまく折り込んで、勉強させてもらえる仕掛けにもなっている。政策決定プロセス、国会答弁準備のための中央官庁エリートの不毛な勤務情況なども分かって、国民にとっても情報量が豊かである。
永六輔『商人』岩波書店1998/4/20第1刷
『職人』『芸人』に次ぐ、三部作の三冊目、例によって、商人の言葉、心得、家訓、などなど、作者が拾い集めた言葉がずらりと並ぶ。世相を穿つようないい言葉がある。商売する上での先人の智恵がある。皮肉がある。冷めたユーモアがある。
成田市で行われた「門前町サミット」での商店街の商人向けの、著者のスピーチ草稿も入っているが、アメリカからの外圧で、商店街への規制緩和が進められるいるような言いぶりなど、ある種の、いいとこ取りで、主張に整合性がないところは、ご愛敬だが、何よりも、気楽にすいすい読めるところがいい。
出久根達郎『本のお口よごしですが』講談社1991/7/22第1刷1992/7/25第2刷
著者の小太刀の冴えを思わせる歯切れのいい文章がいい。根っからの本好きで、古本屋の店主になった人である。本に関する薀蓄がすごい。その薀蓄が見開き2ページにも満たない小文の中に、惜しげもなく注ぎ込まれている。ほんのお口よごしですが、に掛けた書名は、謙遜そのものだが、中味は、メーンの料理に匹敵する。しかし、胃に重たくはない。本好きには、堪えられない一書。
平行して読んでいる紀田順一郎編『古書』に収録されている「古書綺譚」も読ませる一編。
読書録目次へ
ブロードウェイにかかった作品が再演版も含めて、30本。1960年代以来、その作品が上演されなかった年はほとんどない。そのほとんどがワンシーズン以上、たいてい数年間にわたってロングランされている。この前人未到の実績をあげている(喜)劇作家、ニール・サイモンの自伝である。面白くないはずがない。
いつだったか、古書展示即売会で、彼の戯曲集を手に取りはしたが結局、買わずに帰って来たことがあった。これが唯一、私とサイモンとの出合いだが、こんな私でさえ、その名を漏れ知り、思わず、作品に手を出したほどの劇作家なのだ。どうして、これほどの作品を次々に生み出し、「書けば当たる作家」になり得たのか。
その答がこの本のタイトルになっている(原題は、"Rewrites")。書き上げた作品について、謙虚に周りや演出家の意見を聞き、演出の現場にいつも立ち会い、俳優のやり取りにじっと耳を傾け、気に入らないところを、観客の共感を得られるまで、徹夜もものともせず、徹底的に書き直すのである。第一作にしても22回、第一稿の跡形も残らないまで書き直したという。
しかも、アメリカには、いい作品を生み出す、厳しいがしっかりしたシステムがあるようだ。まず、ニューヨークの近辺のニューホープなどの小さな町で初演し、観客や劇評家の反応を確かめながら、次第にブロードウエイに駆け上っていくのだ。初公演の夜に始まる辛辣な劇評家の批評に一喜一憂を繰り返しながら、作品を練り直し、ロングランに耐えるものに仕上げていくのだ。劇評家の中には、批評するだけでなく、作者の素質を見抜き、建設的な意見も出して、手直しの方向性を示唆してくれたりする人もいる。もちろん、劇作家のオリジナルのアイデアやシナリオライティングが秀逸でなければならないのはいうまでもなく、その点でもニール・サイモンが並々ならぬ才能の持ち主であることは当然だが、ファースト・アイデアや第一稿で自己満足に陥ることなく、観客の共感を得るまで、それこそ自らの作品をずたずたに切り刻み、総入れ替えも辞さず、文字どおり血の出るような書き直しにも耐えうる筆力、胆力がなくては、いい作品は絶対に生まれないのだ。そのことをこの自伝は教えてくれる。
この意味で、戯曲も市場に委ねられていると言えるだろう。客のつかない作品は一夜にして市場から放り出されてしまうのだ。まことに徹底している。
官僚の裁量や規制に頼る日本の資本主義市場の未成熟さが、このところ都銀や大証券会社の倒産を招く事態を引き起こしているが、アメリカでは戯曲の世界でも、自由主義経済原理が貫徹し、消費者=お客の求めるものを提供しない限り、すぐさま葬り去られることに気づかされる。
ニール・サイモンが、それまでのテレビのシナリオ作りなどの仕事をなげうち、自分は戯曲を書きたいと、真剣にタイプに向かうのは30歳のときだが、22回に及ぶ「書き直し」の努力が報いられて、幸運にも第一作からヒットする。その時の裏話から話をはじめて、次々とヒットする作品群を生み出す裏話を巧みな話術で紹介しながら、自分の半生を、家族を、父を、母を、兄を、親族や、演出家、俳優を語る手口が鮮やかで、さすが大ヒットの劇作家と思わされる。それを縦糸とするなら、横糸には、魅力的な愛妻ジョーンとの出会いから、二人の娘を設けた家族との愛の物語がたっぷりと織り込まれていて感動を誘う。そのジョーンを癌で失う46歳で物語は終わるのだが、冒頭から、生き生きしたユ−モアたっぷりの筆運びにたちまち引きずり込まれ、400ページを超す、上下二段組のボリュームも気にならない。
ごく最近の雑誌でも、近作喜劇『プローポーザルス』がブロードウエイで上演されており、近く再演される予定の『サンシャイン・ボーイズ』(これは、この自伝にも登場する)以降の代表作になるだろうと、伝えている。70歳を過ぎても、筆力は、衰えを見せるどころではないらしい。
創作に興味のある人はもちろん、質の高いユーモアに飢えている人に、お勧めの傑作自伝。
山田健『今日からちょっとワイン通』 草思社 1997/12/5 第1刷
同じテーブルに、ちょっとでもワイン通的な人が居ると、その他大勢はついつい口を噤んで、もっともらしい御託宣にうなずき、銘柄の選定もすっかりお任せになってしまう。私はいつもその他大勢組の方で、ワインは好きなのだけれど、傾けるべきうん蓄なるものが,まったくない。
これまでの経験から、白よりは赤、甘口よりは辛口好みで、銘柄はなんでもいいという口だ。銘柄のことはあまり良く分からないのだ。値段は、最近2000円以上のものなら、世界でも最高のレベルのものが飲めるという新聞の記事だったかを妻に伝えたところ、妻はその基準を忠実に守って購入しているようなので、食卓には、今日もそのレベルのワインが並んでいる。Chateau Terrey-Gros-Cailloux Cru Bourgeois 1994 Saint-Julien。2500円という。
ワインは、ポーランド滞在時代にフリータックスで安くてうまいものを、ふんだんに飲める環境にあったので、夫婦そろって好きになった。フランス、ドイツ、ハンガリー...いまでは、わたしより妻がより熱心に愛好しているようなので、ほとんど欠かすことなくワインが食卓に並ぶのである。
ちょっと、読後感想から逸脱してしまったが、この本の著者は、きわめて軽いタッチの文体で、これまで通といわれてきた人の権威を破壊することから、筆を始める。なるほどと感心し、通の前で口を噤まされて来た分、その他大勢組の読者としては大いに溜飲を下げたのだ。
世に聞こえたワイン通と言っても、その蘊蓄には、多分に眉唾ものが、多かったこともわかった。要するに、ワインは、俗説に迷わされず、自分の感性で、偏見にとらわれることなく、おいしいものを選び、楽しく飲めば良いのだ。だけれど、その選ぶ際に、この著者が教えてくれるワインの何たるかを知っていれば、鬼に金棒というものであろう。たしかにこの本を読んで「今日からちょっとワイン通」になったような気がしてきた。これからは、グラスの選定にも気を配り、料理との相性を良く考えて飲むことにしよう。
巻末にワイン用語解説と価格別のワインリストがついているのが便利である。クリュ・グランが特級と言うことは知っていたが、妻が買ってきたワインのCrus Bourgeoisがそれに次ぐクラスで、1940円のワインに「クリュ・ブルジョワ級のシャトーものが、この値段だ?!という驚き」(p.222)という表現がある。妻が買ったのは2500円で、クリュ・ブルジョワ級のシャトーものであるが、この程度なら、驚くに当たらぬ穏当な価格なのだろうか。
一読、目からウロコの本。権威ある通を目指すのではなく、ちょっと通を目指す、ワイン好きにはお勧めの一書。
読書録目次へ
高橋三雄『パソコンソフト実践活用術』岩波書店1997/12/22第1刷
(1998/1/16コメント)「課長島耕作」にあやかって食品会社に勤める「課長大島」さんが、登場。全くのパソコンビギナーである大島課長が、勤め先がパソコン一人一台時代へ突入とあって、パソコンと付き合わざるをえなくなり、ワープロ機能を利用する段階から始めて、海外出張にノートパソコンをデジタルカメラともども持参し、出張報告を、写真映像付きで、毎日現地から、電子メールで送れるようになるまでの成長のプロセスを、シナリオスタイルで描いている。
会社で使い始めたのに合わせて家庭にも一台導入し、家族ともども利用することも含めて、その都度、使いがってのいい、基本的なソフトが紹介されているので、有用である。
ワープロソフトのMicrosoft Wordにしても、普段マニュアルでもあまり紹介されていない、文章添削のプロセスを残しながら添削する機能などまで紹介しているので、そうした面でも役に立つ。
ビギナーのみならず、サラリーマンで、パソコンを仕事、趣味の両面で万遍なく使いこなそうと思う人には、パソコンソフトについてのおおよそのパースペクティブを得られると言う意味で、お薦め。
なによりも、気軽に一気に読めるところが、いい。
ピーター・ラヴゼイ『バースへの帰還』山本やよい訳 早川書房1996/7/10第1刷
(1997/12/29コメント)
ラヴゼイは『偽のデュー警部』で、フアンになって、『マダム・タッソーがお待ちかね』『煙草屋の密室』なども読んだ。これらの作品は歴史推理で、ユーモアたっぷりの語り口で、優雅な時代の香りを漂わせており、大変楽しめた。この『バースへの帰還』は、現代ものでダイヤモンドという元警視の活躍するシリーズの三作目に当たる(らしい)。1,2作は読んでいないので。この主人公、一作目の『最後の刑事』(この本も持っている)で辞表を叩き付けて辞職し、この三作目の冒頭では、アルバイトで細々と食っている始末。そこへ、以前勤めていたバースのエイヴォン・アンド・サマセット署から呼び出しがかかる。かつてダイヤモンドが逮捕した殺人犯が、脱獄し、副所長の娘を誘惑して交渉相手にダイヤモンドを指名しているというのだ。殺人犯が求めたのは、事件の洗い直しだった。
ラヴゼイは、なかなかの才人で、冒頭から読者を自らの世界に引きずり込み、巧妙な語り口で読者を飽きさせない。元ラガーで重量級、強引でやや重たいユーモア感覚のダイヤモンドと、助手役でてきぱきと仕事をこなし、ダイヤモンドのきつい冗談にも上手に受け答えできるジュリー・ハーグリーヴズのコンビが魅力的で、それだけでも成功している。舞台になったバースには、行ったことがあるので、描かれた背景を思い浮かべながら読むことができて、これも興趣を高めるもとになった。
中盤は、やや冗長と思わせるところがあるが、これも、最後の謎解きの場面に至り、必要だったのだと合点が行き、改めて作者の力量に脱帽するといった次第である。1995年の英国推理作家協会賞、シルヴァー・ダガー賞を受賞した作品。
1997/12/10出口保夫・林望『イギリスはかしこい』PHP研究所
1997/11/20第1刷1997/12/9第2刷
(1997/12/29コメント)「私は、イギリスを愛する。しかし、イギリスにかぶれているわけではない。私は、それよりももっとわが祖国日本を愛する。だからこそ、その日本に対して、少しく苦いことも言わなければならないのである。」
「私は、イギリスがブームになればなるほど、その背後にある思想や文化を正しく見て欲しいと念願する。しかし、軽薄なジャーナリズムの指向するところは、必ずしもそうはなっていないのが、悲しむべき現状で、私は地団駄を踏みたい気分にとらわれる。」
ということで、二人の著者が手分けして、イギリスのかしこさを6章45項目にわたって、詳述する。なるほどと思わされることが多い。ただ、全体にやや軽い。この種の企画によくあるお手軽さが、感じられるのだ。もう少しそれこそ、賢く掘り下げて欲しかった。
リンボウ先生によると、この種のものはあまり好みではないということだった。さも、ありない。それに、著者も共著よりは単独の著者の方が、腰が据わり、深く掘り下げが可能のような気がする。「そうですね」が日本人の会話のときの相槌の基本だが、共著だとどうしても、「そうですね」ということになってしまい、意見が二人で書くほど豊かにならず、一人で書くほど独自性=偏見に満たないのだ。
1997/12/9桐野夏生『OUTアウト』講談社 1997/7/15第1刷 1997/10/15 第4刷
(1997/12/9コメント)篠田節子の『女たちのジハード』のときもそうだったが、これも新聞の書評を読んで読みたくなって、探していたのだが、なかなか見つからず、4日、とある店頭で見つけて早速購入し、読み始めると、たちまち引き込まれて、450ページもの大冊を、それこそ一気に読んだ。読まされ
たのだ。
篠田さん同様、この桐野さんも、大変筆力のある人だ。おもな登場人物もあちらが、同じ損保会社に勤めるOL5人(康子、みどり、 紗織、リサ、紀 子)なら、こちらは同じ地域に住み、同じ弁当会社に深夜勤務をする主婦4人(雅子、弥生、ヨシエ、邦子)である。その中の主人公役である康子と雅子が、芯のしっかりした、男社会のなかで持てる才能を生かすことができず、怒りを心の底に潜めた屈折した感情の持ち主であるところも、似ている。女たちの生活振りが、こちらも、息づかいまでわかるように、書き込まれていて、リアル感がある。ある意味でこれも、あることを境にして女たちが、自立し、再生(脱落も含めて)する物語なのだ。一方は、爽やかであるのに対し、こちらは陰惨であるかもしれないが。
主婦の一人が、身を持ち崩した夫を思い余って、発作的に締め殺してしまう。その死体処理に途方に暮れているのを見かねた雅子が手伝いを申し出る。そこで雅子ををリーダー格にして三人の仲間が、雅子の家の風呂場でばらばらにし、細かくビニール袋に分散して、家庭用のごみ捨て場に捨ててしまう。そこから物語が始まるのだが、展開は意表をつき、その展開の仕方にも作者の力量が感じられる。最後は、この事件にまったく関係ないにもかかわらず、巻き込まれ、財産を失うはめに陥った男、佐竹光義が、復讐に登場して、雅子と対決するのだ。雅子に対する佐竹光義。この希有な男女の似たもの同士の対決を描いて、クライマックスまで一気に持っていき、読者を納得させるところが作者の力量だろう。
雅子は作者に似ているのではないかと思う。でなければ、これほどリアルに人物造形できなかったのではないかと思えるほどだ。仲間を指揮して、冷徹に死体をばらばらにしてしまう。攻撃を受ければ、逃げるより、反抗する。たとえ、相手が、冷酷な人殺しであっても。
アウト。アウトロー。戻れない道。誰しも、心の中に、戻れない道への憧れを秘めている。
ハワイ焼け白い部分が好きな彼 三笑亭女好きの彼女
小数になって精鋭だけが欠け 凡夫
「ごはんよ」と呼ばれて行けばタマだった 窓際亭主
ダイエット今食べたのは明日の分 スマート田口
迷わずに来た道どこかそれている はぐれ雲
(1997/11/3コメント)篠田節子の「女たちのジハード」に続いて、今期の直木賞受賞作品を二冊ながら、読んでしまった。どちかもベストセラーにいまだに名を連ねている。
こちらは、短編読み切りの小説が8編。実に泣かせ所を心得た作者の、巧みな筆さばきに操られて、やすやすと泣かされてしまう。
表題作が、やはり、一番出来がいい。この作者は、この世とあの世を、いとも簡単に往復して,一種名指しがたい奇妙な世界を作り出す。表題作でも、そうだが、17年前、生後すぐに亡くなった娘が、定年直前のぽっぽや(鉄道員)の前に現れては消え、消えては現れ、17歳までのおいたちを凝縮して見せるのだ。その翌朝、主人公は雪のホームで始発を待ちながら脳溢血で死ぬのである。
同じような事が「角筈にて」や「うらほんえ」でも起こる。辻褄が合わないところがあっても、なんの説明もない。読者は、半分納得し、半分納得できない状況に放置される。それが、小説の味にもなっている。
主人公の多くは、名もない庶民である。いや、もう少しで堅気の一線を超えかねないが、かろうじて此方側に踏みとどまっているような人物も登場する。
「ラブレター」の主人公は裏ビデオ屋の雇われ店長で、一泊二日の定期的な留置所暮らしから釈放されたその日に、偽装結婚の相手が死亡したので引き取りに行かざるをえないはめになる。まだ、一度も顔を合わせたことのないその相手は、中国から、千葉の千倉にある売春宿に売り飛ばされた若い女性である。その相手が、主人公あてに遺書代わりに「ラブレター」を書いていたというのである。ほとんど有り得ないことだとは、思うものの、当の「ラブレター」を読み始めると、涙が溢れてくるのである。そこが、作者の腕の見せ所なのだ。語り口、構成、人物設定は巧みである。ただ、「悪魔」や「伽羅」はさしてできがいいとは思えなかった。
他の作品も読んでみたいと思わせる力は篠田節子の方が強い。
中野不二男『メモの技術ーパソコンで知的生産』新潮社1997/8/20第1刷1997/9/20第3刷
(1997/10/21コメント)
梅棹忠夫の「知的生産の技術」は、わたしの知的生産活動のバイブルであった。同書が提唱した京大式カードが、長い間、私のメモ整理の原点だった。拙著『文化としての日本的経営』にしても、システム・ダイアリーサイズの京大式カードに取った数百枚のメモが、もとになっている。サラリーマン生活を続けながら、本を出版したり、雑誌に連載したりするなど、知的生産活動を続けてこれたのも、この本に巡り会ったことが一つの要因になっている。
この本の著者にとっても、梅棹と京大式カードが、知的生産の礎になっていたらしい。著者の中野不二男については、以前に『レザー・メス
神の指先』(第21回大宅壮一ノンフィクション賞受賞)というすぐれた科学的ヒューマン・ドキュメンタリーを読んだことがあり、知っていた。『インターフェロン
第五の奇跡』という本も「つん読」の中に待機させている。そういった意味でも、この本には魅力を感じて購入した。パソコンで、京大式カードを行おうというのが、作者のもくろみである。
システムを作り上げるに当たって、著者は、かんたんなシステム、かんたんな操作、かんたんな管理という3Kを、心がけたという。したがって、理科系の人にありがちな、何でもかんでもパソコンで、しかも高度なテクニックを駆使して、やってやろうというところがないから、素人でも十分付いていける。著者が強調するように「かんたんなことこそが、パソコン活用の必須条件なのだ。」(228ページ)
システムの基本的な組み合わせは、パソコン、携帯情報機具、小型ワープロ、システム手帳である。この組み合わせは、常日頃、わたしが利用しているものと同じである。しかも、ここに至る過程で、8インチ・フロッピー時代のワープロを使っていた頃からの苦労話しが出てくるが、わたしも8インチ・フロッピー時代からワープロと付き合ってきたので、同じプロセスで今のシステムに至ったものとしての親近感が持てた。その意味でも、大いに興味をそそられ、一気に読んだ。
システムの利用の仕方で、著者が、携帯情報機具をもっぱら出力専用に、システム手帳を入力専用に使う点が、私と大いに違う点だ。
パソコン上での京大式カードすなわちデータベースの設計には、さすがにドキュメンタリー作家らしい細心の気配りがあり、大いに参考になる。すべてみずからの体験に基づく実践的報告であり、随所に木目細かいヒントが、盛り込まれているので、その面でも、実用性は高い。
パソコンで知的生産をしようという人にはお勧めの一書である。
J・F・ガーゾーン『カラ』沢木耕太郎訳 新潮社1995/5/20第1刷
(1997/1019コメント)生き方を変えた孤独な隼、「カヤ」の物語だ。
ある日、鳩に襲いかかろうと急降下した「カヤ」は、その鳩が、巣で待っているヒナに餌を運んでいることに気付き、生まれて初めて奇妙な悲しみを覚える。罪の意識が芽生え、そのまま襲いかかって、鳩を捕えることを止めてしまう。そして、これまで気付かなかった、空の青さ、さわやかさ、すがすがしさ、周りの自然の美しさに気付く。自分自身の取った奇妙な行動に戸惑い、生きるためには殺さなければと思いながらも、これまで無造作に殺してきたかよわい鳥たちに対して、奇妙な哀れみの感情を抱くようになり、二度と殺すことはすまい、たとえ生きるためではあっても、と決心する。
こうして、飢えを、木苺やトウモロコシなどを食べてしのぐようになり、<<奥の森>>に住む小動物たちを殺すどころか、むしろ敵の襲撃から守る立場をとるようになる。こうして、小動物との間に、心の通った交流が生まれ、最後にはその守護神のような存在になる。冬の食べ物がない季節には小動物たちは、自分たちの乏しい食べ物を、こっそり隼の巣の近くに持ってくるようにさえなる。
もう、「カヤ」は、孤独ではなかった。森羅万象が親密に感じられるようになり、カヤは、真に生きることのわくわくする喜びを知り、生きるということの意味を見つける。ある時、万物をあまねく照らし、万遍なく、恵を降り注ぐ太陽の存在に気付き、深く愛するようになる。ある朝、カヤは、太陽を目がけて飛び立つ。下から見上げる小動物たちには、カラの翼が透きとおり、太陽と見分けがつかなくなり、全身の形が変わり、太陽の光りの中に吸い込まれていくように見えた。
カラは、それっきり、帰って来なかった。カラの巣の近くには、カラが友人たちに食べさせたいと思っていた茸のような不思議な食べ物が、岩から生えており、それを食べた動物たちは、みな喜びに満たされる。
それ以来、朝になると、その不思議な食べ物が彼等を待っており、おかげで、<<奥の森>>の動物たちの生活は、ほかの森の動物の生活とはまったく違ったものになった。
この<<奥の森>>は、私たちのひとりひとりからも、そう遠くないところにある、と作者はいう。
短く単純で、美しい物語だ。少々類型的だが。狩りをしない、隼の設定には、違和感があったが、生き方を変えるとことの重みを持たせるために作者が敢えて選んだのだろう。たしかに、食べることだけにきゅうきゅうとしておれば、自然の美しさも見えないし、真の友人もできないし、真の生活を楽しむゆとりも生まれて来ないだろう。
小島武の挿絵が素敵である。
1997/10/14スティーブン・コヴィー『7つの習慣』キング・ベアー出版 1996/12/25第1刷 1997/9/5第30刷
本書は、二人の友人から勧められて読み始めたのだが、なかなかいい本であった。人間らしい生き方はどうあるべきかを説く本で、非常に有益な、これまで気付かなかった多くのことを教えられた。また、自分のこれまでの生き方を肯定してもらえたような部分もあって大変勇気づけられた。著者の言うように、近くにおいて何度でも読み返し、参考にすべき本と思う。また、家族や同僚と分かち合うべき本でもある。もっと充実した楽しい人生が送れるようになること請け合いだろう。
著者は、人生における成功へには、二つのアプローチがあるという。
「成功は態度で決まる」「笑顔は友達をつくる」「念ずれば道は必ず開かれる」などのうたい文句で表現されるのが、本書の著者がいう個性主義的アプローチである。これは、きわめて対症療法的アプローチであって、本書が推薦する人格主義的アプローチには、敵わない。
「自分の人格に基本的な欠陥、二面性、あるいは不誠実さを持ちながら、テクニックや手法だけで人を動かしたり、仕事をさせたり、士気を高めようとしたりすれば、長期において成功することはできない。(中略)基礎となる人格の良さがあってはじめて、テクニックが生きてくるのだ。」(13ページ)
本書は、表面的な成功(才能などに対する社会的評価)ではなく、真の成功(優れた人格を持つこと)に至るためには、七つの習慣を身につける必要があるといい、身につけるためのノウハウを詳述している。多くの実体験を折り込んでの記述には、説得力がある。
「七つの習慣を身につけることは、永続的な幸福と成功を支える基本的な原則を自分の中に深く内面化させることである。」(15ページ)という。
本書の冒頭で、まったく同じ絵を見せられ、その直前に見せられたイメージによって、その絵が、若い女性にも老婆にも見えるという、ショッキングな実験に立ちあわされる。この実験を通して、「われわれがいかに、経験や条件づけによってつくられたパラダイム、あるいは知覚のレンズを通して、同じ事実について異なる見方をする」(23ページ)ものであるかを思い知らされる。
「テニスやピアノなど、ごまかしが全く効かない分野において成長のレベルは意識しやすい。しかし、人格や精神の成長に関しては、ごまかしが効くことがあるので成長のレベルを簡単に測ることができない。」(37ページ)
七つの習慣を身につけることは、「原則を中心におき、人格に基づいた個人の成長、または有意義な人間関係の育成についてのインサイド・アウトと呼ぶべきアプローチである。インサイド・アウトとは、自分自身の内面(インサイド)を変えることから始めるということであり、自分自身の根本的なパラダイム、人格、動機などを変えることから始めるということである。」(45ページ)
「インサイド・アウトの考え方は、私的成功が公的成功に先立つ。つまり、他人に対して約束をし、それを守る前に、まず自分自身に対する約束をし、その約束を守らなければならないということだ。」(46ページ)
「現代社会のパラダイムとなっている個性主義と、それに伴う強烈な条件づけの結果、インサイド・アウトの考え方はほとんどの人にとって大きなパラダイム転換となる。しかしながら、個人的な経験、また何千という人々と接触してきた経験と、歴史上成功を収めた人々や社会の研究から見て、「七つの習慣」を構成する諸々の原則は、すでに私たちの良心と常識の中に存在している、と私は確信している。それを意識し、育成し、最も深い問題に対処するためには、全く新しい、そしていっそう深い、インサイド・アウトの考えのレベルのパラダイム転換が必要なのである。」(47ページ)
習慣は、知識とスキルとやる気という三つの要素からなっている。(52ページ)七つの習慣は、つながりのない断片的な行動規範ではなく、正しい原則に基づいた順序立った、極めて総合的な、私たちの生活や人間関係の効果性を向上させるアプローチである。この「七つの習慣」を身につけることにより、次第に依存から自立へ、そして自立から相互依存へと成長していく。人間は、最初は依存したかたちで生を請け、次第に自立していく。現代社会のパラダイムでは自立を王座につかせている。しかし、「自立的な考え方だけでは、相互依存的な現実には対応できない。自立していても、相互依存的に考えたり行動するまで成熟しきれていない人は、独立した生産者として好業績を上げることはあっても、チームの良いメンバーやリーダーになることはできない。」(58ページ)
「相互依存を達成している人は、ほかの人と深くかつ有意義な関係を築くことができ、彼らの持つ巨大な能力や可能性といった資源を自由に活用できる。しかしながら、相互依存とは、自立した人しか選べない領域である。依存している人が相互依存へ入ることはどうしてもできない。なぜなら、彼らにはそれだけの人格と自制の力がないからである。」(59ぺーじ)
著者のいう七つの習慣は、以下の通りである。
1.主体性を発揮する
2.目的を持って始める
3.重要事項を優先する
4.Win−Winを考える
5.理解してから理解される
6.相乗効果を発揮する
7.刃を研ぐ
「「七つの習慣」のうち、第一、第二、第三の習慣は、自己克服と自制に関した習慣であり、依存から自立へと成長するためのプロセスである。(59ぺーじ)真の自立を達成するにつれて、効果的な相互依存の土台ができあがる。(中略)チームワーク、協力、コミュニケーションなど、ある意味では個性主義的ともいえる公的成功にかかわる第四、第五、第六の習慣がこの人格の土台の上にきずかれるものである。」(60ページ)「第七の習慣は最新再生の習慣であり、肉体、社会、情緒、知性、精神という人生における四つの基本的な側面において、定期的かつバランスよく改善を図る習慣である。」(61ページ)
本書の第一部の中ほどと、しめくくりに置かれたT・S・エリオットの次の言葉を、肝に銘じよう。
「我々は探究をやめてはならない。そして、我々のすべての探究の最後は、初めにいた場所に戻ることであり、その場所を初めて知ることである」
(1997/9/23コメント)田舎生まれのせいか、生き物が大好きだ。だから、毎週月曜日に放送されるNHKテレビの「生きもの地球紀行」はかかさず見ている。この本は、いつ買ったか忘れたが、ミジンコという名に引かれて買ったものらしい。パソコンのすぐ近くにあったので、昨夜、手にとって「生きもの地球紀行」でアフリカのサイの記録をやっているのを見ながら、読むとはなしに読み始めたのだが、ずるずると読んでしまった。気軽に読めて楽しい本だ。
動物行動学者で理論家の日高(K・ローレンツの『ソロモンの指環』の訳者などとしてかねて知っている)さんと、ジャズマンでミジンコの飼育・研究で他の追随を許さない実践派の坂田さんの対談集だ。二人の生き物への入れ込みようが尋常ならず、思わず引き込まれてしまう。話題は、坂田さんが庭に飼っているミジンコに止まらず、各種の貝・淡水魚から犬・猫に及ぶ。
ミジンコの世界についてはまったく不案内だが、そこにはそこで、尽きせぬ面白い宇宙が展開されているようだ。宇宙も限りなく大きく、また、小さな世界も限りなく小さいと言われるが、ミジンコの脇にはその百分の一程度のワムシがおり、そのまわりにはゾウリムシみたいなものがいる。その周りには、バクテリアがいっぱいいる・・・小指の先にちょっとつけた水溜まりの水を顕微鏡で見るとそういう世界が広がっているのだ。その水を拭ったりしないで元の水溜まりに返してやりたくなるという。ミジンコにはまり込んだ妹尾河童(『H少年』の作者)さんも登場する。
生き物それぞれに、それぞれの都合があって生きており、それを人間側の都合で勝手に解釈したり、思い込んだりして、動物を買いかぶったり、動物の困らせたりすることの愚を説いている。
猫や犬の習性については、昔飼っていたことがあるので、思い当たる点が多いし、さすがと思わされる指摘も多い。
巻末に、本書に登場する生物(坂田さんのイラスト入り)、学術用語、人名について、レベルの高い注が付けられているのはいい。
自然術と銘打たれた三冊シリーズものの一冊。
1997/8/30ロバート・ニュートン・ペック『続・豚の死なない日』 金原瑞人訳 白水社 1996/10/20 第1刷
(97/8/30コメント)正編を読んで、涙を流した。主人公のロバート少年は13歳、かわいがって育てた豚のピンキーを殺さなくてはならなくなったり、豚を殺すのを生業のひとつにしていた父親が、病になり、死期をさとった父親から、母親や、キャリー伯母さんを一人前の男として面倒を見るようにと託されたりしながら、確実に成長していく姿を、その父親が息を引き取る日まで描いたのが正編。
本屋で、この続編を見つけて、さっそく、購入した。意外だったのは、正編がアメリカで出版されたのが、1972年、この続編が出版されたのが、1994年、実に22年もの年月がたっているということだ。本国で150万を超えるロングセラーになっている正編が日本で出版されたのが、1996年の春、この続編が出版されたのが、同じ年の10月。私は、正続続けて出版されたように思ったのだが、それも無理はないだろう。
続編は、父親が死んだ数週間後から始まる。13歳にして家庭の働き頭たらざるを得なくなったロバートが、日々の糧にも事欠くような極貧状況の中で、母親や伯母さんや、周りの人たちの、暖かい思いやりに恵まれつつ、次々と押し寄せる苦難に立ち向かいながら、一歩一歩成長していく過程が、じっくりと描かれていて、前作同様の深い感動を誘う。正続の執筆の間に22年の空白があったとは思えないような、出来上がり振りだ。いや、そのためにこそ、必要な22年だったのかも知れない。
明日の糧にも事欠くような家庭内で交わされる会話にあふれるユーモア、貧しいながら、他人に精一杯与えようとする人々の優しさ、仕事に追われながらも詩や学問への情熱を忘れないロバートの生きざまに心が洗われる。
正続とも、みずみずしい文体で書かれた傑作である。
読書録目次へ
(1997/8/9コメント)つい最近117回直木賞 を取った作品。賞をとったからと言ってすぐ本屋へ駆けつける方ではないが、新聞の広告に載った一般読 者 の読後感を読んで読みたくなった。
8日に買 って、450ページもの大冊を、それこそ一気に読んだ。読まされ た。いわゆるOL といわれる女性5人を主人 公にした一回読み切り形式の雑誌(すば る)連載の小説をまとまたものだが、読 み出 して、等身大という言葉を、すぐ思い浮かべ た。
とある損保会社で働く、康子、みどり、 紗織、リサ、紀 子の日常とそれぞれの自 立への旅立ちの様子が、これまでになく、等 身大に描かれていて、一面では、男世 界 のなかで、悪戦苦闘する物語であるにもかか わらず、それぞれが自らに忠実に自分の道を見いだしていくプロセスに説得力があり、読後感は、爽やかである。
語り 口は、平易で渋滞 するところがなく、不動産の競売の裏事情から、ヘリコプターの操縦の仕方まで、相当苦 心して集めたに違いない情報も、もった いぶらず、さりげなく、物語の流れに乗 って 提供されるので、読者は、立ち止まるこ ともなく、すいすいと読み進められる。
この作者 は、実に良く、 世の中や人間というものを知っている人で あるが、知っているよ、という顔一つしない で、この5人の主人公の物語のなか に、自然ににじみ出させていき、読む人の目を開くとともに、励ましてくれるのだ。一つ一つの物語の展開も決して通俗的ではなく、それぞれに苦心を凝らしてあるので飽きない。 会社勤めの、女性も男性も、読んで決して 損ではないだ ろう。生きること、働くことの厳しさと、 意義とを改めて考えさせてくれる。
『世の中に、「普通のOL」などと いう人種 はいないし、「普通の人生」もない。い くつかの結節点で一つ一つ判断を迫られなが ら、結局、 たったひとつの自分の人生を 選び取る。』
これが、作者の読者へのメッセージだろう。 この小説の末尾 に、地の文からすこしも 浮かび上がらない形で述べられているが、読 者は、すんなりと、相槌を打つている 自 分に気付くことだろう。
(1997/7/27コメント)今日買って帰り、一気に読み終えてしまった。面白い。しかし、碁の本に関しては、これはまずい読み方である。こんな読み方では身につかないのだ。そのときはいつかまた、読み返そうと思う。しかし、なかなか読み返すことをしないのだ。
著者の呉清源は、碁聖という冠が一番ふさわしい人だ。戦後間近い頃の日本碁界にあって、独り高くそびえていた。数々の十番勝負で、ことごとく勝利し、他の追随を許さなかった。その十番勝負の本も読んだことがあり、棋譜を並べたこともあるが、
その足の早いこと、鋭いこと、読みの深いこと、華麗なこと、想像を絶していた。
現在は引退し、80を超える高齢だが、それでも碁の魅力に抗しえず毎日、研究を続けているという。その成果がこのフレッシュな感覚の本に結実したのだ。NHKの
囲碁講座で、小川誠子六段を聞き役にして放映されたものをコアにしてまとめられたものだが、読みやすく仕上がっている。
著者は六合(りくごう)という言葉が好きだという。これは、古代中国の言葉で、天地と四方(東西南北)を指す。碁の一石一石は、すべからくこの六合に適合するのが望ましいというのが著者の基本理念である。ここから、独特の序盤作戦が導き出される。
面白くて一気に読んでしまったのだが、本気で強くなろうと思ったら、今回だけは、度々、この本を引っぱり出して、読み返すべきであると、自分に言い聞かせている。
日本オリジンのkaroshi(過労死)という単語が、国際的に認知され通用しているという。
このことは、仕事のやりすぎから、 疲労困憊し、死に至るという、極めて異常な事態が、 日本で数多く 起こったこと(起こっていること)を物語っている。本書は、現代日本社会にはびこっている
「疲労」の諸々相を 簡潔な筆致で描き出し、その処方箋をつけたものである。こんなにも深く、 様々な人々、階層
、組織に「疲労」 が、忍び込み、実に多様かつ深刻な症状をもたらしているのかと、驚きを禁
じえない。
実は、かく言う私も、過労死の一歩直前まで言った経験があるので他人事ではない。
その時を振り返って見て、疲労や過労死をもたらしやすい日本の組織というものの組織原理に
興味をもつようになり、 それが、拙著 『文化としての日本的経営』を執筆するきっかけになったのである。
同著で展開 した ように、 組織は、組織内の人が気を合わせることを基本原理として成立しており、お互いに気を合わせよ うとする
ことから気のウズが生じる。そのウズに巻き込まれることで、お互いは同質化し、異質異端の者は
排除される。
こうしたプロセスを通じて、 組織内の人々は完全掌握され、その呪縛のなかで人々は動かざるをえなくなる。こうして私の命名した「ウズ社会」が成立する。
この「ウズ社会」の属性が、 決して過労死と 無縁ではないの ではないかという推論をしたのである。つまり、同質性を失わないようにする
ためには、他人と同調して、働き過ぎも厭わず、死ぬまで頑張らざるをえない。そこに過労死が生じる。
同質性を失わないためには、 総会屋への融資にも反対できず、逮捕されることも甘受しなければ
ならないのと、同じ構造である。
したがって、疲労を考えるにも、疲労につきあうにも、日本社会の組織原理を抜きにしては無理なのではないか。
この本にかかれた疲労から死に至るプロセスについては、実体験があるだけに痛いほどよくわかる。
日本の組織原理をよく考え直さないと、疲労の根本的な解決も図ることはできないように思える
。
本書を本屋で見かけた瞬間、なにか懐かしい思いがした。この本の名をどこかで知り、しかも、肯定的な印象を受けたことがあるという思いがするのだ。ためらわず、購入した。
読んで見るとなかなか面白い。「本書を、妊娠してみたいすべての男の人と、おかまの人に捧げます」などと冒頭に書いてある。たしかに、男にとって未知なる妊娠と出産というプロセスを、これほどわかりやすく、手にとるように説き明かしてくれる本はそんなにないように思う。その意味では、妊娠したことのない女性にとってもいい本だろう。作者は「これから妊婦さんになりたいけれどすこし怖いのという、妊婦さん予備軍にも捧げます」とさすが、抜かりはない。出産した経験のある女性だって、この本を読むと「そうよ、そうなのよね」と深く頷くこと請け合いのように思う。本の中頃で、この本の書評を読んだ本の名前を思い出して、当たってみるとちゃんとあった。林望の『リンボウ先生偏屈読書録』にちゃんとこの本の面白さがあますところなく紹介されているのである。そこらの並の出産ハウツーものを読むより、何倍かためになり、しかも、笑いを売り物にした出産ハウツーものとしては類がないだろう。41刷にもなっているのを見ると、世の中には見るべきものを見ている人がちゃんといるといういことに、安心もする。でも、妊婦さんの大変さがよくわかって、しんみり「お母さん、ありがとう」と手をあわせたくもなります。
読書録目次へ
(1997/6/4コメント)久しぶりのフレデリック・フォーサイスだ。絶筆宣言をしたというので、読む気になった。「ジャッカルの日」で颯爽と登場した日から、もう25年になるのだ。「ジャッカルの日」には、驚かされた。抜群のストーリー・テラー性、豊富な情報量に圧倒され、ハラハラドキドキしながら読んだものだ。その後、出版された作品は、待ち構えたようにして読んだ。「オデッサ・ファイル」「戦争の犬たち」「シェパード」「帝王」「第四の核」。どれも期待を裏切らない出来だった。したがって、ほとんどが世界的なベスト・セラーになった。著者はたちまち億万長者になった。その後だったか、日本を舞台にした、安普請の家のような作品があった。それ以来、読まなくなった。そういう意味で久しぶりなのだ。
まだ、上の三分の二程度までした、読んでいないので、確定的なコメントは差し控えなければならないが、時代は近未来の1999年、しかし、これと1983年以降とを縦横に交錯させつつ、また舞台も主舞台のモスクワから、ワシントン、ナイロビ、南イエメン、マドリード、オーマン、ヤルタなど世界の各地を行きつ戻りつさせながら、巧みにストーリーを展開し、次第に盛り上げて行くあたり、さすがである。情報量も相変わらず豊富だし、一人一人の人物の味付けもうまい。ただ、ヒトラーに借りた人物を主人公にしているが、これがうまく行くのかどうか、この時点ではすこし心配である。
(1997/6/12コメント)このところ読むスピードが鈍っているが、後200ページ足らずのところまで来ている。前編で800ページ近いのだから、息切れもする。上巻の終のところで、やっと主人公が1999年という時点に追い付いて登場する。遡っていた年代や、あちこち飛んだりした舞台も、この主人公を、ヒトラー的野望を抱いた次期ロシア大統領候補と対決させるためのお膳立てだったわけで、いよいよロシアを舞台に両者が対決することになる。大統領制に王政復古をぶつけるというアイデアで、はなしは進んでいるのだが、はたして、こうした荒唐無稽な企てがうまくいくのかどうか。さすがはフォーサイスといえる情報量の多い、巧みな筋建ての本なのだが、最後までうまく走り切れるかどうか、明日中には読み終わるとしよう。
(97/6/13コメント)さて、昨日の約束を守って、読み終わった。正直言って、少々拍子抜けの感が否めない。勝負が、あまりに一方的過ぎるのだ。もう、少し打々発止敵味方入り乱れての戦いが展開されるのでなければつまらない。最後が劇画的で、モンクとグリシン大佐が、モスクワを舞台にしたクーデーターの最中、戦車がうごめきまわり、機銃の打ち合われる中で、引かれたように、一対一でぶつかり合い、西部劇の決闘よろしく打ち合うようなご都合主義は、いただけない。敵側への密告者マクシム司祭すらも、こちら側の回しものであったという「エピローグ」は、瞬間的には、なるほどと作者の深謀遠慮に脱帽させられかけて、待てよと頭を傾げざるを得ない。
2000年が21世紀なのだろうか。358ページに、「午前零時一分、新しい世紀の至来を待っていたように」とあるのは、2000年の元日のはずだが、。。。
読書録目次へ
これは、前から読みかけていたのだが、良い意味のアマチュアリズムこそ書評の命とする著者ならではの、自らが面白いと思う本のみを取り上げての書評であるから、実に面白い。著者は、キップの良さが身上であり、面白い本に対する嗅覚が人一倍優れているので、堤灯持ち的な書評とは、まったくかけ離れた、小気味良い書評を堪能することができる。
読書録目次へ
(1997/5/27コメント)巷に溢れているゴルフの本と一線を画すのは、これが、単なる技の理論書ではなく、体あっての技という観点から、ゴルフのための体力作りについて、至れり尽くせりのアドバイスを満載しているところだ。塩谷さんは、今や日本の女子プロゴルフ界を代表する名選手であり、田中先生(東海大学教授)は、コーチング理論の第一人者で、塩谷さんの師匠でもある。この二人が語り合う形でまとめられており、具体的で実にわかりやすい。この本を読むと塩谷プロがきわめて知的レベルの高い女性であることが、よくわかる。わたしのゴルフが低迷している折りから、この本を傍らに置いて、じっくりと体力作りから始めなければならないようだ。ところで、コーチと選手との関係について、田中先生は、縦の関係ではなく対等の関係にあり、お互いに「人格を認め合」うことが必要(182ページ)と指摘しているが、日本でいわゆるコーチという名を貰っている人にぜひとも実行してもらいたいものだ。こうした認め合った中で、塩谷プロは、10年以上かけて体力作りに励み、トップへ駆け上るとともに、こうした知的な対談の相手になれる人物に成長したのだ。
読書録目次へ
学術語の訳語が標準化されていないため、学際的な研究がしにくい、状況にあるとの指摘(59ページ以下)。伝播は、でんぱと読むのかでんぱんと読むのか、学会によって違うという(64ページ)。また、同音異議語が、きわめて多く、これは日本語の課題でもあるという(64ページ)。「春はあけぼの」の後ろに「いとをかし」が、略されているのか、なにもないのかどうか(143ページ)。確かに「日本語はおもしろい」。
読書録目次へ
(1997/5/20コメント)永 六輔の本は読みやすい。「大往生」「第二の大往生」に続く永 六輔の語録シリーズ第3弾。今回は語録のほかに、対談、インタビュー講演録とバラエティー豊か。語録は、いつものことながら、なるほどと感心させられるものが、多い。良く、こまめに、これだけ集めたものだといつも驚かされる。好奇心旺盛で、精力的に全国を歩き回るエネルギーがなければ、これだけの語録を次々と出版することなど不可能だろう。収録された短い言葉のなかに、ユーモアがあり、職人気質が伺える。著者の職人を愛する心が伝わってくる。
ただ、最後の模擬講演録は、少々散漫だし、尺貫法の話しは、もう何度か、どこかで聞かされた話しである。
読書録目次へ
(1997/4/20コメント)日本というシステムの欠陥を見事についている。例えば、その後の厚生省を巡る薬害事件の進展振りを見れば、この作者の先見性は鮮やかだ。
(1997/5/15コメント)このところ、政府や与党の構造改革論議が盛んで、各種の報告書、行動計画が発表されるが、そのなかで、アカウンタビリティ(説明する責任)という用語が用いられるようになった。この言葉を流行らせたのが、この本の著者である。
この本は、日本の真の権力者である官僚と産業団体・系列企業・銀行の高度に官僚化された経営者の連合体である管理者たち(アドミニストレーターズ、ページ90参照)のアカウンタビリティーの欠落を徹底的に暴く。国民は、こうしたアドミニストレーターズの独裁のもと、巨大な生産マシーンの実現のため、自分の生活の充実は犠牲にして、日夜を分かたずかりたてられるように暮らしている。日本には、こうした、政治体制を批判する市民社会が育っておらず、国民は「シカタガナイ」という昔ながらの思考のもと「有害な惰性」に流されている。知識人、大学、ジャーナリストは、日本では、市民社会を弱める力としてしか機能していない。こうした状況を打破するには、個人の一人一人が、できるだけ、正しい情報を持ち、互いに結びつき、日本の政治化された社会を変革するために行動すること、つまり、市民として振る舞うことを自己の義務と認めることが重要である、と著者はいう。
そのとおりだと思う。著者は、この本を出版することも、市民としての行動と位置付けているが、わたしの、出版活動や評論活動、こうしたHPの開設も、ささやかであるが、わたしなりの、市民としての活動と思っている。アドミニストレーターズ側が、アカウンタビリティなる用語を安易に使い始めている折りから、「説明する責任」の中身を、巧みにすり替えてしまわれないように、注意深く監視しなければならない。
読書録目次へ
(1997/4/25コメント)異文化間のコミュニケーションのうまく行かなかった実例が多く引用されているので、納得が行く。いろいろと思い当たるところが多い。異文化間のコミュニケーションは、たしかに非常に難しい面を抱えている。お互いが、善意に発していても、いやむしろ善意に発していればこそ、背景にある自国文化の文脈を意識しないと、誤解の元になる。「日本的婉曲表現は、欧米的婉曲表現のように『ていねいに、かつはっきりと』ではなく、『ていねいであるためには、ぼかして』なのである」(138頁)といった指摘などは参考になる。
(1997/5/4)168ページ以下に、英語教師を対象としたセミナーの終にアメリカ人講師が、来年のセミナーを改善するための意見を求めた。その際、年長者が、参加者を代表して、「お骨折りに感謝します」と丁重な挨拶を述べたケースが取り上げられている。日本人にとっては、ごく普通の丁重とみえる挨拶が、参加した外国人(英米仏独オーストラリア、レバノンなど)にとって、一字一句、耳障りだったという。これなども、自国の文化の脈絡のなかでごく普通の発言でさえ、相手によっては、反感を買いかねない発言になることを示している。その意味でも異文化間のコミュニケーションを図る意味では、相手側の文化を良く知らなければならないことが、理解できる。
読書録目次へ
(1997/5/2のコメント)河童さんの本は結構読んでいる。河童が覗いたシリーズは、インドに始まって、ヨーロッパ、ニッポン、仕事師12人、トイレまんだらまで、その他に「河童が語る舞台裏おもて」「河童のタクアンかじり歩き」。どれもイラスト入なのだが、その克明さが魅力だった。地の文に自筆をそのままプリントしたところなどを含めてこだわり振りがただものではないのだ。本にも親しんで来たし、紀伊国屋劇場などで、ごくごく近い距離から、本人を見たこともあって、なんとなく河童さんと言いたい親しみを感じていた。
その河童さんが、自らの少年時代を自伝風に描いた「少年H」は、初めての小説だという。上下二巻700ページを越す、長編であるが、その克明さという点では、イラストと変わらない。目次に「おことわり」というのがあって、この本が総ルビに近いほど総ルビにしたのは、ぜひ少年少女に読んで欲しいからだと書いてある。本当にそうだと思う。いま、この時期に昭和5年生まれの河童さんが、この本を書いたのは、大人はともかく、日本がつい半世紀前、中国、アジアの近隣諸国、アメリカ、イギリス、オランダを相手に戦った太平洋戦争を知らず、物不足や、ひもじさと言うものをまったく知らない、少年少女にぜひ読んでもらいたかったからだと思う。
河童さんは私より丁度10歳年上なのだ。あと十年早く生まれていたら、似たり寄ったりの生き方を強いられていただろう。淡々とした筆致で、しかも、暖かみのある筆致で、15年戦争下での、小学生時代から、中学生時代を経て、社会人一年生としてペンキ屋で働き始めた頃までが、描き出され、巻を置くのが惜しくなる。(まだ、下巻に少し入ったところだが)子供の目に見える範囲に限定して描かれてはいるが、ふつうの子供より、視野が広く、世事に通じているので、戦局を始め、時代の移り変わりが過不足なく分かる。
父母と妹の家族もそれぞれ個性的だし、友達のよく書けている。熱心なクリスチャンで、自分のことより、周りの人のことを最初に考える、やや教条主義的な母親の敏子、兄思いで優しい妹の好子。
なかでも父親の盛夫が、素晴しい。理想化されているのではないかと思うほどだ。その時代を見る確かな目と、少年Hに対する父親としての思いやりの深さには、頭が下がる。とはいえ、少年Hの生きることへのひたむきさ、あらゆることへの関心の深さ、絵に対する執着など、おのずと伝わってきて、感心させられる。
記憶力にも脱帽だが、おそらく、克明な絵日記を残していたのだろう。日本という国が、それこそ追い込まれて極限状況になったとき、どのような本性を現わすかを、子供の曇らない目で捉えた、一級の読み物である。
あくまで、己に忠実に生きようと、安易な妥協は避け、さまざまな事態にまともにぶつかる生き様は、感動を呼ぶ。一筋縄ではいかない悪も併せ飲む、したたかさがあって、これが人間としての幅となり、この小説の深みとなって、読む側を飽きさせない。「私」「ぼく』という自伝にありがちな主人公の人称を、「H」という三人称的記号で表わすことにより、記述に客観性と自在性とがもたらされ、読みやすいものにすることに成功している。生き方に、共感を覚えた。
読書録目次へ
(コメント:(97/4/23)外出先で書店に寄ったら、岩波新書の四月分が並んでいて、その中の一冊がこれ。すぐ、買った。俳句の部屋でも紹介したが、わたしが俳句を作りはじめたのは、同じ作者になる「俳句という愉しみ」「俳句という遊び」を読んだのがきっかけだった。そこに描き出された句会の面白さが、NiftyServeの歌句会へ入る動機になった。
この「パラダイス」は「歌合」の愉しみへ、読者を、例によって歌人たちが、歌合の場所に集まってくるところから巧みに導入していく。先日、NHK衛星放送の「俳句王国」でこの作者の顔を見たが、語り口から想像していたよりは醒めた面相の方であった。
これも、いま、八番目の勝負、俵万智と紀野恵の戦いが終わったところまで読んだが、実に面白い。会場の雰囲気が直に伝わってくるようだ。
(97/4/25)作品は、さすがプロの歌人のものと思えるレベルのものが多く、その語彙の豊富さ、使用の巧みさに感心させられるのだが、プロとは言え、プロ野球と同じことで、歌合ともなると、勝とう、打とうと力んでしまい、ホームランを狙った挙句、大振りの三振や内野フライに終わっているのもある。奇を衒い過ぎ、荒唐無稽の言葉が並び、歌意がまったく伝わって来ないのや、言葉の響の良さに溺れて、ただそれだけで終わってしまっているのである。
作者は、座、連衆といった伝統的に俳句、歌を生み出してきた機能が衰えるとともに、それらが果たしてきた、誕生した作品を味わい、評価する機能も徐々に失われてきた。現在の俳句や短歌が危機に陥っているとするなら、それは創作面が危機に陥っているからではなく、むしろこれを味わい、評価する機能が危機に陥っているからだ。句会録や歌会録にこだわるのも、「作る」とともに「読む」ということにもスポットライトを当てたいからだという。これは、俳句、短歌にとどまらず、「きちんと批評し、きちんと評価するという意識があって、はじめて日本的な文芸はまっとうに機能しうると思うからなのだ。」(ページ、189〜190参照)
わたしも、この辺はかねてから考えていたことで、ひとり文芸にとどまらず、日本文化全体について、当てはまるように思う。日本では、評価されず、外国で評価されてはじめて、日本で評価されるようになるケースが、科学的な発明発見から浮世絵、イラスト、陶器のたぐいまで枚挙にいとまがない。森有正は、『西洋なら、いい仕事さえしておけば、無名でも必ず残ります。日本では無視されます』と言う。これほどさように、日本文化の、きちんと批評しきちんと評価する機能は弱い。、無名な人は安心して、いい仕事ができず、生前に焦って売名行為に走らざるを得なくなる。せっかくいい仕事のできるエネルギーを無だに消費せざるをえなくなる。
ちょっと、脱線したが、わたしのメモ代わりの『即興和歌日記』の歌に比べれば、この本に登場する歌は、本職の歌人達が、競争意識も手伝い、一首、一首に、作り、造り、創りの精魂を傾け、手管を尽くしたたものだけに、それだけ歌意を汲み取るのが難しい作品が多いのだが、きちんとした批評と評価の必要性を主張する著者の歌意をくみ取ろうとする意欲は高く、またなるほどと思わせるだけのものがあって、この本を読み応えのあるものにしている。
好きな歌を一首
[家々に釘の芽しずみ神御衣(かむみそ)のごとくひろがる桜花かなーー大滝和子]
最後の歌合参加者を紹介する欄の自選五首はさすがに、いい歌が並ぶ。
読書録目次へ
(コメント:ウオルト・ディズニー・プロダクションの「101わんちゃん大行進」のリメイクものが大ヒットしているようだが、この本の作者がそのオリジナルの映画台本を書き、ストーリーボードを制作し、登場するキャラクターの絵も描いた人なのだ。「ジャングル・ブック」も彼に負っているといってよい。われわれは、知らぬうちに彼の作品にお目にかかり、楽しませてもらっていたというわけだ。
ウオルト・ディズニーの下で27年間も働き、最初は「白雪姫」の下絵描きから、次第にキャラクターを創造し、ストーリーを組み立てる才能を認められて行き、最後は「101匹わんちゃん大行進」などの作品の総プロジューサーの役割まで果たすようになってゆく様子が、素敵な絵とユーモア溢れる文章で紹介されている。当然、ディズニーが数多く登場し、そのリアルな実像にも触れさせてもらえる。『石にささった剣』に登場する魔術師マーリンは、ディズニーをモデルにした(本人には気付かれることなく)ということだが、がんこで、口やかましくて気まぐれだけど、じょうだん好きな切れ者だったらしい。
作者は、最後は作品の内容で対立し、ディズニーと袂を分かち絵本作家として独立するのだが、彼の才能は高く評価している。
子供のころから絵を書くことがなにより好きで、描きまくっていたといい、最後に絵本作家として成功するまでのいきさつが、ユーモアのある文章で淡々と綴られる。なにより、軽妙なタッチの絵が素敵だ。とにかく、楽しい一冊。
(コメント:在日韓国人という日本でも韓国でも難しい立場を、娘に語りかけるスタイルを借りて巧みに描き出し、日本人側、韓国人側双方にある誤解や思い込みを減らして、もっと双方が率直になったらと言う。分かりやすくていい本だ。確かに、日本と韓国はもっと胸を開き合い、率直に話し合えるようにならなければと思う。)
読書録目次へ
トップに戻る
索引へ戻る
作品名検索へ
著者名索引へ
(1997/8/5コメント)エッセイの部屋の「日々の愉しみ」に『手塚治虫の時代』という一文を掲載しており、そこにも書いたように、昔から手塚治虫のファンだった。これまで読んだのは、まだ、小学生時代で、漫画に関心を持ち、戦時中にもかかわらず、漫画を書くことを勧めてくれたよい先生に恵まれたというようなところまでだが、このあたりは、NHKでテレビドラマ化されたことがあり、見たことがある。手塚が育ったのは裕福な家庭のようで、同じ世代に生まれ、背広職人を父に持つ妹尾河童の『H少年』の家庭とは、ずいぶん差がある。手塚の作品の背景にある、ロマンへの憧れ、正義感なるものが、ここに描かれた家庭、学校、友人、先生を土壌に育まれて行ったことが感じられる。
(1997/7/29コメント)「反」読書法という触れ込みなので、よほど従来路線からかけ離れた先鋭的な読書法かと危ぶみながら読み始めたのだったが、わたしの方法とさして変わらないので安心した。冒頭にある「反」読書法で大切な四点(1)自分が好きな本を読む。まず何よりも他人がどういう本を読んでいるかをまったく気にしない。(2)忙しい人は、細切れの時間をうまく使う。(3)一冊だけでなく、二、三冊を同時併行的に読む。(4)ただし、本の性格によって、通勤時間、自宅、勤務先などで読み分ける、にしても、まあ常識的で、日頃わたしも実行していることだし、併行読みのほうも、わたしなど常時二、三冊どころか、その倍は併行的に読んでいる。
昨日買ったのも、この本を始めとした四冊で、じつは、この四冊を昨夜から併行的に読んでいる。この本が、今98頁(全体230頁)、手塚治虫『ぼくのマンガ人生』が52頁(223頁)、柳澤桂子『生命の奇跡』が81頁(205頁)、飯沢耕太郎『写真美術館へようこそ』が96頁(235頁)まで、読んだところ。どの本も、面白くて、次々に手を出してしまう。おかげで昨夜も少し、遅くなってしまった。睡眠時間を削らないという作者のアドバイスだけは、従えそうにない。
本書には、作者の豊富な読書体験からにじみ出た、偏見は読書の大敵、座右の愛読書を持つ、著者に惚れ込む、等など、実践的なアドバイスが溢れている。文章もうまいし、読まされる。読書日記欄に取り上げられた本の幅の広さ、数の多さ、それをやすやすと読みこなす力量にはさすがと敬服させられる。他人が何を読もうと気にするなとあるが、この本に導かれて、ひもときたくなった本が色々ある。睡眠時間がますます心配になってきた。
(1997/6/16コメント)宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)を何年か前に読んだとき、非常に良い本巡り会えたという印象を持ったことを覚えている。著者の宮本常一という人がどういう人かということについてはほとんどなにも知らないままになっていた。最近、この『旅する巨人』がノンフィクションの賞を受賞して評判になり、あの宮本常一の評伝ということを知って購入した。この本を読んで、貧農の出であり、学歴も自慢するに足るものとてない在野の民族学者であることを初めて知った。その宮本のスポンサーになったのは、日本資本主義の父、渋沢栄一の孫、敬三である。その二人がどのような経緯で結び付いて行くのか、そのあたりまで、読んだところだが、調査がきめ細かく行き届いていて、なかなか読みでのある本になっている。
(1997/6/2コメント)「外国人とのつきあいのなかで、一対一で勝負する場面に置かれたら、ひるむことなく堂々と受けて立つ必要がある。いろいろなバリエーションのある、そういう勝負の場面で、人格表現をするための英語とはどういうものか。これを書く」(あとがき)とのコンセプトで書かれた本である。具体的な場面での、なるほどと納得させられるような表現が紹介されているので、説得力がある。各章の終に英語表現のsnapshotのコーナーがあり、いま第一章を読み終わったところには、"If
you don't take risk,you're boring.""People who don't make mistakes are
cold like ice."という台詞が紹介されている。これは、天才ピアニスト、ウラジミール・ホロヴィッツが生前よく口にした言葉だそうである(46ページ)。
(97/5/30コメント)短編小説集の最初の一遍、「青い瓶」を読んだところだが、この短編のテーマは、うろ覚えだが、「トニオ・クレーゲル」のテーマにつながりそうな気がする。この世には、生きることの意義を見い出そうと、悪戦苦闘する人と、何の疑いも抱かず、生を肯定して生きる人と二種類の人がいるのかもしれない。
(1997/5/27コメント)ゴルフほど記録の完備したスポーツはないのだそうである。540年前に初めてgolfという文字が記録されて以来の夥しい資料をひもとくと、この魔性のスポーツの思いも及ばない側面が次々に露になるものらしい。著者は、労を厭わず、この記録の森のなかに分け入り、われわれの前に、「花咲き乱れる楽園」を描き出してくれたのだ。全60遍の12分の1を、読み終えたところだが、おいしいご馳走が次々に供されると思うと生唾が出てくる。
(1997/5/25コメント)静かな語り口で、人生の機微をえぐり出す。ほのぼのとやさしい。
(1997/5/25コメント)それぞれの分野で活躍する専門家が、自らの「心の書」を、一人3冊ないし4冊取り上げて、400字詰め原稿用紙一枚にまとめたもの。ちょうど一ページ一冊ずつ入っているので、200数冊の書が、簡潔な筆致で紹介されている。じつにさまざまな書が、取り上げられており、しかも、それが、とりあげたひとの人格形成や生き方と深くかかわっているので、興味深く読まされる。
なんと、いま気付いたのだが、この本の発行日がちょうど一年前なのだ。こんな偶然もある。
(1997/5/22コメント)ゴリラの野性研究の先駆者の一人で、初めてゴリラと直接接触して研究することに成功したD・フォッシー女史の『霧のなかのゴリラ』は、やさしく感情生活を持つ生き物としてのゴリラを描き出しており、大変興味深く読んだが、女史が設立したカリソケ研究所で、女史の研究を継ぐような形で研究に当たった山極さんの著書である。ゴリラの持つ文化を人間並みの異文化と捉える出だしから、なかなか面白い。
(コメント:兄を殺人犯に持つ作者が、自らの一家をあらしめている根源的なルーツに迫り、人間というものへアプローチして行く。
(コメント:単語を覚えるにはいろんな方法があるなぁ。
(コメント:日常生活のなかに、突然、闖入してきた「サリン事件」。被害者一人一人の人生、日常生活とのつながりのなかで描き出される事件は、よりリアルで、事件と自分とが無縁でありえないことを実感させられる。冒頭に出てくる、地下鉄千代田線霞ヶ関駅のA11出口は、わたしが前の職場にいたころ、よく使った出口なのだ。
(コメント:辛抱、目論見、息災、按配、堪え性がない、半ちく、依枯地になる、叱言、強情、宗旨変え、きまりが悪い、などなどの、まろやかなニュアンスや、暖かい気配をどこかに感じさせる<いい日本語>が、いま死にかけている。その意味での「ニホンゴキトク」なのだ。日本語を巡る、さすがにいい日本語で書かれたエッセイ集。
(コメント:この作者は、勤務先の女子大で囲碁を正課に取り入れるなどしたことなどで、囲碁新聞紙上では、よくお目にかかったことがある。しかし、専門がユングの心理学などということはあまり意識しなかった。母性と父性とには当然違いがあるべきだと主張して、読ませるものがある。
トップに戻る
索引へ戻る
作品名検索へ
著者名索引へ
読書録目次へ
(コメント:今年の夏には、北欧に行って見たいと思っているので、最近購入したもの。
(コメント:これは、一章を読んだところで、読みかけのままになっているが、DNAにがんじがらめに支配されているかに見える生命が、著者が超システムと呼ぶ、きわめて偶然性の高い制御方法でコントロールされているらしいことがわかって、興味深い。
(コメント:このノートに収録された<死語>の多くががわたしの青春時代と重なり合って懐かしい。昭和31年から51年までの20年間の回顧録にもなっている。
トップに戻る
索引へ戻る
作品名検索へ
著者名索引へ
読書録目次へ
宮部みゆき『平成お徒歩日記』新潮社 1998/6/30 第1刷
杉浦日向子『お江戸風流さんぽ道』世界文化社1998/8/1 第1刷
タイモン.スクリーチ『春画』高山宏訳 講談社1998/4/10 第1刷1998/6/26第3刷
(1998/7/28)
テリー伊藤『大蔵官僚の復讐 お笑い大蔵省極秘情報2』飛鳥新社1998/7/8第1刷
矢部辰男『ネズミに襲われる都市』中央公論社1998/6/25第1刷
野本陽代『宇宙の果てにいどむ』岩波書店1998/7/
21 第1刷
(1998/7/18)
サルマン・レシュディ『真夜中の子供たち』 上、下 寺門泰彦訳 早川書房 1989/1/31第1刷
筒井康隆『幾たびもDIARY』 中央公論社 1991/9/20第1刷
伊東整『小説の方法』筑摩書房 1989/11/25 第1刷
山崎哲『事件ブック』 春秋社1989/10/30 第1刷
目取真俊『水滴』文芸春秋 1997/9/30 第1刷
沙藤一樹『Dーブリッジ・テープ』 角川書店 1997/6/30 第1刷
俵万智『みだれ髪』河出書房新社1998/7/6第1刷
フランチェスコ・アルベローニ『エロティズム』泉典子訳1991/10/7 第1刷 1996/8/10 第17刷
島村洋子『ポルノ』中央公論社 1995/8/7 第1刷
(1998/7/6)
宮部みゆき『理由』朝日新聞社1998/6/1 第1刷1998/7/30第8刷
(1998/6/25)
船橋洋一『同盟漂流』岩波書店 1997/11/18第1刷 1997/11/26第3刷
山田風太郎『戦中派虫けら日記』未知谷1994/8/15第1刷
高井有一『昭和の歌 私の昭和』講談社 1996/6/28 第1刷
永田雄三・羽田正『成熟のイスラーム社会(世界の歴史15)』中央公論 1998/1/25第1刷
フィリップ・ソレルス『遊び人の肖像』岩崎力訳 朝日新聞社 1990/12/20第1刷1991/8/20第2刷
ブルーノ・タウト『ニッポン』森とし郎訳 講談社1991/12/10第1刷1994/1/20第6刷
ルイス・キャロル『不思議の国のアリス・オリジナル』書籍情報社
川本皓嗣・小林康夫『文学の方法』東京大学出版会1996/4/25第1刷
犬養道子『アウトサイダーからの手紙』中央公論社1983/9/20第1刷
吉村昭『昭和歳事記』文芸春秋1993/11/30第1刷
団鬼六『美少年』新潮社1997/5/20第1刷1997/6/10第2刷
ロベール・ドロール『動物の歴史』桃木暁子訳みすず書房 1998/4/17第1刷
井村君江『コーンウォール 妖精とア−サー王伝説の国』東京書籍1997/11/7第1刷
児玉光雄『頭脳(イメージ)テニスの奇跡』祥伝社1988/11/20第1刷1992/4/1第4刷
佐野眞一『予告された震災の記録』朝日新聞社1995/4/10第1刷
加納喜光『読めそうで読めない漢字2000』講談社1994/4/20第1刷1995/4/3第12刷
(1998/6/10)
半藤一利『ノモンハンの夏』文芸春秋 1998/4/20第1刷1998/5/25第5刷
ビル・ブライソン『ビル・ブライソンのイギリス見て歩き』古川修訳 中央公論社 1998/5/20第1刷
ウォルター・ワンゲリン『小説「聖書」』仲村明子訳 徳間書店1998/5/31第1刷
(1998/5/)
田辺聖子『道頓堀の雨に別れて以来なり』上、下中央公論社 1998/3/7第1刷
(1998/5/)
永六輔『商人』岩波書店1998/4/20第1刷
(1998/5/)
榊東行『三本の矢』 上、下 早川書房 上1998/4/30第1刷1998/5/15第3刷 下1998/4/30第1刷1998/5/25第5刷
ジョン・ケアリー『歴史の目撃者』仙名紀、猿谷要訳 朝日新聞社
野田知佑『小ブネ漕ぎしこの川』小学館 1992/6/20 第1刷
倉田保雄『エープリル・フール物語』文芸春秋 1993/3/20 第1刷
レイモンド・E・フィート『王国を継ぐ者』岩原明子訳1991/8/31 第1刷
猿岩石『猿岩石日記 1.、2』日本テレビ 1996/10/10 第1刷1996/11/24第11刷 part2;1996/11/23第1刷
志水辰夫『いまひとたびの』 新潮社1994/8/20 第1刷 1995/7/20 第13刷
劉勇『コリとれーる』 法研 1996/3/12 第1刷1996/4/15第2刷
高杉良『金融腐食列島』上、下角川書店 1997/12/25 第1刷
高橋三雄『パソコンソフト実践活用術』岩波書店1997/12/22第1刷
網野嘉善彦『日本社会の歴史』上、中、下 岩波書店 上1997/4/21第1刷、1997/9/1第4刷、
中1997/7/22 下1997/12/22第1刷
R・D・ウィングフィールド『フロスト日和』芹沢恵訳 東京創元社1997/10/17 第1刷
1997/12/26:
フランチェスコ・アルベローニ『他人をほめる人、けなす人』大久保昭男訳
草思社 1997/10/6第1刷1997/11/18第10刷
トップに戻る
索引へ戻る
作品名検索へ
著者名索引へ
読書録目次へ
トップに戻る
索引へ戻る
作品名検索へ
著者名索引へ
読書録目次へ
1992/6/10 16刷
目次へ
トップに戻る
索引へ戻る
作品名検索へ
著者名索引へ
読書録目次へ