1989年時評社が創立30周年を記念して『時評賞』を設け、原稿を募集した。それに応募して入賞した論文です。
一年前、このホームページを開設したときから、掲載を予告しながら、原稿が散逸していて、遅れてしまいました。ほぼ10前の論考ですが、新鮮さは失っていないと思います。ご愛読をお願いします。
なお、応募も受賞も、秋光 翔名義で行ったため、阿部 毅一郎の本名で発表するのは、今回が初めてです。末尾に、<受賞の言葉>と選評者の選評を附記しました。
開戦後も相変わらず、強気論が幅を利かし、無謀と見えるほど強気な戦術が多用され、多くの無残な敗北を喫したのみならず、多数の貴重な人命を無益にも失うことになった。その最終的帰結が、国土のほとんどを焦土に変えた挙げ旬の無条件隆伏である。
日本軍では、強気論が幅を利かせていた。
「このガ(ガダルカナル)島の有力な敗因の一つが参謀の作戦過誤にあったことは否めない事実だが、大本営の作戦室においてさえも「敵ヲ知ラズ」に強硬論を吐く参謀が勇者と見なされ、「敵ヲ知リ己モ知ル」慎重論者は怯者であるというような印象を持たれ、結局はこの強硬論者に引きずられて猪突猛進し、自ら墓穴を掘る結果になったのであった」(三根生久大「陸軍参謀」三八六頁〕。
「何事においても積極果敢が評価された当時の気風の中で、わけても陸軍軍刀組の威勢のいい着手参謀が卓を叩いて攻撃案を主張するとなれ ぱ、指令部の首脳もこれに傾かざるを得なかっただろう」(同一五七頁)。
人事もにうした強気の人・積極論者に甘く、弱気と目される人・慎重論著に厳しく、その意味では組織的に強気論者を支えていた。
「陸軍の信賞必罰は少なくとも公正ではなく積極論者には大目、慎重論者には手さびしかった」(同一九頁)。
「狂信的なまでの積極主義による無謀な攻撃に対し、冷静な判断を特って意見具申した指揮官たちが、本来は大本営が負うべき責任を課せられて、戦場から追われていったのだった」(同三八七頁)。
「陸軍の人事行政はすぺてに積極的でありさえすれぱそれがたとえ専断専恣、軍紀を紊す行為であったとしてもその罪科を深く追及されるようなことはなかった。そしてそういう人事行政は、当然の結果として、下剋上、幕僚の専断を恣しいままにする風潮を助長していったのだった」(同一五三頁〕。
しかも、希望的判断が幅を利かし、学間軽視の風潮がはびこり、知的に情報を収集するよりも、強気からする憶測がかっ歩していた。
「日本軍の勇敢さは世界無比といっても過言ではない」と自賛し、民主主義国人であるアメリカ人は腰抜けで腹痛であり、日本軍が攻撃を仕掛ければ直ぐにでも降参するというようなことをまともに信じていた軍人も多かった。相手国の戦カを過小評価し、物量を軽視し、いざとなれば、神風が吹くとの神国意識や、精神力の偏重・過大視があった。
こうした事情は、日本海軍でも似たり寄ったりだつた。
現在の日本の外交も、いわば戦前のこの強気論に根差すものとそれほど変わりないように思える。例えば、オレンジや牛肉などの農作物自由化をめぐる外交交渉にしても、最後の最後まで「絶対反対」を唱え、外圧に屈してやむなく自由化に踏み切る体裁をとった。ここでも強気論(強硬論)が幅を利かせていたといって良い。
六〇年代から七〇年代の初めにかけて、ドルはすでにかつての実力を失っており、米国は、日本に対して当時過小評価されていた円の切り上げを求めていた。しかし、日本は安い円のうま味が忘れられず、かたくなに拒否し続けた。
このため、ニクソン大統領の輸入課懲金、ブレトン・ウッズ体制の固定相場制の崩壊という事態に至った。またこのため、日米間に深刻な衝突が起こったが、これも日本側の事態の変化に柔軟に対応する能力を欠いた「強硬論」が招いたものである。しかし、日本側はその本質を理解せず、いまもってニクソン・ショックと呼んでいる(ロパート・エンジェルの所説参照のこと)。
最近の日米構造協議においても、日本側は一向に歩み寄りの姿勢を示さず、交渉の最後の最後まで強硬な態度を取り続けるように思われる。そしてそれこそ最後の土壇場に相手の言い分を多少飲んだかたちでの譲歩案を示し、相手側の反応を打診しながら、その強硬度に応じて譲歩を繰り返す形(=いわゆる「叩かれて譲歩」スタイル)での決着を目指しているように見える。
このように、今なおこうした強気論や強硬論が前面に押し出て、要らざる国際摩擦を助長し、わが国の孤立化を押し進めているように思える。交渉当事者の強気論も結構だが、21年間も増え続けている米園の対日赤字を目の当たりにして、そこになんらかの構造的要因の存在を嗅ぎ取り、ソ連より日本を脅威と見る米国民が増加している現実を忘れてはなるまい。
日本封じ込め論や、日本異質論の生じる一因はこうした強気論に根差した自己主張を繰り返す日本との間では論理的な話が通じ難いことに超因しているのではないのか。
ただ、このような強気論のぶつかり合いは、外交に求めずとも、我々の日常生活のなかに不断に見られることである。漁業補償などの各種の補償交渉や与野党間の論戦、各省間の縄張り争い、企業間の過当競争、過剰投資、集中豪雨的輸出や投資などがそれである。
つまり、組織と組織(の利害〕が、ぶつかり合うとき、日常的にみられることであり、どうも日本の組織に宿命的な属性のように見える。いささか現実離れした強気論や理想論が成立しやすい体質を日本社会は持っていて、これが生のまま国際社会に登場して、異質性を際立たせているように思える。
以下この小論では、日本の組織においては、どうしてこの様な強気論が幅を利かせ、そのコントロールか難しいのか、また、それが、日本の対外関係にどのような影響を与え、なぜ、日本の国際化を難しくしているのかについて考察してみよう。
もともと無力な幼児時代は、欲しいものを手にいれるためには、母親に気に入られ、母親の機嫌をうかがう必要がある。子供が子供としての独自なことを達成するためには、大人を動かさざるを得ない。子供はそのため、いろいろと工夫を凝らすものだ。
こうした性向が、学校の集団教育の中で磨きを掛けられる。幼稚園以来、大学まで、一貫して、生徒は先生や、周りを気にし、気を合わせ、気に入ることをやるように仕付けられる。画一的、一律的教育で、同質性の高い、気を合わせることに長けた金太郎飴的な生徒が造り上げられる。
高校の内申書にしても、目頃から先生の気に入ってもらっていなければ、なにを書かれるか分かったものではない。進路を誤りたくなけれは先生に合わせるよりない。大学の試験にしても、出題した教授の気に入る答案でなければ優は貰えない。教授の学説を批判したり、けちを付けたり、他の教授の学説がよりすぐれているといってはならない。優等生とは、気に入る答案を書ける「優取る生」でもある。優が多くなければいい企業に就職し、出世できないのである。こうした事情は、陸軍大学校とはとんど変わらない。
最も気にするように仕付けられるのが、自分の属する組織の他の構成員の存在、構成員の「気」である。学校でいえば、先生、クラスメート、クラブ仲間、同窓生である。このように気の対象は、身の回りの実在する人、具体的なモノ・損得などに向けられる。
日本人の尊ぶ徳の多くが、忠誠心、孝行、報恩、義理人情など、この「気にする」性向を尊ぷものである。恩を受けたら恩を授けてくれた人・組織に直接返すというのが日本人の人間関係の基本であるため、人間関係の輪はそこで閉じてしまう。最も良く組織や上司や仲間を気にし、気に入られるようにし、気を合わせうる人が徳のある人なのだ。人に忠実なのであって、法律、ルールに忠実なのではない。
こにには人を越えた存在である絶対者や、神、原理、思想、文化、公けのもの、世界、人類が入り込む余地が少ない。その意味で、日本人の公徳心や宗教心、国際性は弱い。気にしないということは完全無規に繋がるが、日本人は自分の組織の人以外はほとんど気にしない。このため、視野はせいぜい職場や家族・自分程度に限定されやすく、一般社会、ましてや国際社会にまで及ぶことは少ない。
組織にはそれぞれ独自の気風があり、成員はその気風に溶け込まなければならない。気を合わせることを前提とした仕事をするだけではなく、気を良く合わせる必要上から、仕事を離れても付き合う。こうして機能集団の成員でありながらお互いが、しばしば家族的と称されるような仲間意識を持つに至る。
気かぴったり合えば合うほど、組織全体の一体感が強まり強い組織になる。一枚岩、全員一致、一丸、一糸乱れぬという形容詞は全員の気が完全に一致した状況を意味し、組織として最高の実力を発揮するだけでなく、対外的には鉄の団結を誇る。それゆえ日本では、こうした状況になることがことのほか尊重される。一枚岩を尊ぶ組織の中では、事実上組織に対する批判的な発言は封じられているに等しい。ある社長は、自分の会社では批判的な者は要らないと明言する。
その意味で、誰しも組織に人ったら、まず周りの人と気を合わせることを学ばなければならない。周りに気を合わせるとは、同質化することと同義である。でなければ、異質性を持つとして、組織から浮き上がり排除される。日本の組織が異質性を排除するところから、排他性、閉鎖性が生まれる。これが、国際化の障壁になる。
ただ、気を合わせることには、多くの日本人は習熟している。先にみたように、生まれたとき以来家庭や学校で十分仕付けられ、社会人になるわけだから、職場の気風によく溶け込み周りの人の気に合わせるのは、お手の物だ。上司、社長、同僚の気に入るような言動をとる。
しかも、組織という目に見えぬものに気に人ってもらい出世するためには、大いに組織の歓心を買う言動を行う必要がある。これが、強気論・積極論の温床になるのである。後で見る「もっと」思考とあいまって、強硬論にまで発展する。
気迫があり、気合いが良く、気合い負けしないことも重要で、後先のことをあれこれ考え過ぎて、じくじくしていては気合いに負けてしきう。何事も気にしすぎると気に病むということにされかねない。気の病が忌み嫌われるのも、日本の組織が気を尺度として成立しているからにほかならない。
日本の社会でしばしば粗野で強気の意見が、知性に裏付けられた合理的判断・論理的思考を押し退けるのは、強気の人が心ずしも知性の人であるとは限らないからだ。むしろ「気」力と知力は天の二物の類に近い。強気の人の判断が必ずしも合理性を持つとは限らなくても、日本の組織の中では通りやすい。これは、日本の組織は知力よりも「気」力が優先する社会であり、知力は二次的なものと見なされるからで、知性に裏付けられた合理的判断は多くの場合弱気にみられる。
「分別のある意見というものは大概臆病と間違えられて評判が悪い」(阿川弘之「井上成美」四六六頁〕。センスも分別もない糞度胸や肝っ玉だけの人物がはぴこりやすい風土もここに根差している。サラリーマン社会でも、「一に体力、二に気力、三、四がなくて、五に知力」といわれる。
むしろ知や理と気とは水と油のように、相入れない面を持っているがゆえに知的なもの、理に適ったものに対しては、感情的に反発する。つまりなんとなく「気に食わない」のだ。
そこで組織にとっていいと思われることを、次々と発見する競争が成員の中で生じる。いわば強気の張り合いである。前向きの肯定的発言のオンパレードとなる。みんな組織にとってよかれと思っての発言である。反対しにくい。こうしてエスカレートしていくうちに現実からかなり遊離した強硬論・積極論になってしまう。しかし、一度コンセンサスができてしまうと、それに敢えて異を唱えることはますます難しくなる。
強硬論は組織(=共同体〕にとっては理想論でもある。組織の利益の最も強い願望であり、許される最大値あるいは極大値である。いわば天井に張り付いている。しかし現実から遊離した夢想論でもあり、現実との間には絶えざる緊張関係が生じ、しばしば現実からの厳しいしっぺ返しを受ける。農産物自由化絶対反対が貫き通せず、太平洋戦争で日本(軍)が惨めな敗北を喫したように。
しかし、たとえ現実に敗北したところで、強気論者には、組織の利益のためという大義名分があるうえ、組織全体が強気論にコミットしているので、人事面で不利益を被ることは少ない。むしろ陸軍同様、陽の当たる道を歩むことが多い。
要するに、組織が同質の人の集まりで、コンセンサス、全員参加・全員一致を旨とし、異質性を持つと排斥されるメカニズムで成り立っているところに、こうした強硬論の成立する土壌がある。しかも組織が共同体であり、その利益になることをすぺてに優先させる意識・文化があることがそれを補完している。
こうして、日本の組織では一度流れが出来てしまうとその流れを変えるのは至難のことになる。そのため、事態の変化に柔軟に対応することが難しくなる。
しかも、すこしでも後ろに引く可能性のあることを、たとえ仮定の問題であるからと断わってにせよ、持ち出すことですら難しい。
例えば、負けた場合にどうするかということを口に出すだけで、「負け」を呼び込みかねないと考える言霊の国では、そんな(弱気な〕考えを持っているとして異質性を持たされ、排除される。周りも、組織の歓心を買うことに汲々としているのであるから、袋叩きに合わせる。
この様にまず、日本では、仮定に墓づく議論は出来ない。その結果、絶えず皆の口にあった、耳に快い、気の合わせやすい、精一杯背伸ぴしたところに結論は落ち着きやすい。そしてこのいわば希望的判断に基づいた結論に成員が拘束される。こうして長期的展望や対外的配慮に基づく戦略的な方向転換も難しくなり、既定の路線をひたすら走り続けざるを得なくなる。たとえ前方に壁があることが分かっていても。
弱気論ないしは慎重論といわれる議論をする人の方も、基本的には、組織の他の成員と気を合わせ、気に入ってもらいたいという意識のもとで発言することに変わりはない。それゆえ、気に入って貰えなけれぱあえて固執することなく譲ってしまう。自説に固執すれば組織から浮き上がってしまい、村八分にされる。それは組織の中で死に等しい。
日本では「もっと」は常に容認されている。しゃれではないが、日本人は「もっと」をモットーにしているようにさえ見える。もっと儲けよう、稼ごう。もっと豊かになろう。もっと頑張ろう。常に前向き拡大・成長(MORE)志向だ。それが、やる気があるとして評価される。「LESS」思想の人は少ない。それで誰しも、もっと主義に合わせざるを得ない。モーレツ社員はもっと主義の権化だが周りの人もモーレツ社員にあわせる。
こうして日本国中やる気のある人だらけになる。世界一豊かになった実感がない。ということが堂々と言えるということは、だれしも「もっと」豊かになって当然だと考えていることを示している。こうして、誰もがもっと豊かになることを是とし、なれるはずだともっと頑張るのだ。
常に「もっと」が求められる社会では、とにかく万策尽きるまで頑張らざるを得ない。後ろへは一歩も引かない。引けない。引けば頑張り方が悪いとして非難の的になり、仲間外れにされる。落ちこぼれてしまう(という強迫観念に捕らえられる社会でもある)。これが「一円入札」の背景でもある。負けてはならず、姑息であっても万策を講ずるのだ。
だれもが強気一本槍で人間業とは思えないほど頑張る。もっと主義の社会、強気志向の社会では、人々は弱音を吐きにくい。その弱音は本音のことが多いが、つねに強気を装い、精一杯頑張らざるを得ない。空威張りをしたり、空強がり虚勢を張るのも、常に強気を装わざるを得ず、弱音を吐きたくても吐けない社会の生み出す社会的奇形である。これが国際的には傲慢・慢心・自己過信との批判を浴びる。
この「もっと」思考(志向・嗜好)と日本人の得意とする損得勘定(得か損か)とが結び付くと、極めて経済観念の優先した社会が出来上がる。
「儲かりまっか」が、日常の挨拶となり、常にもっと儲けようという意識でだれもが頑張る。儲けられるときは儲けられるだけ儲ける。たとえどんなに業積が良くても、休み返上で働き、残業も辞さない。不況になれぱなったで、競争に負けないようにこれまた一生態命にもっともっとと頑張る。
もっと儲けること自体が、自己目的化し、それでなにを実現するかには気が回らなくなる。組織の中では、LESSの発言がしにくいので、自発的にLESSの方向へ舵を取り直すことはしないし、できない。つまり自ら譲歩する視点がなく、なんでも頑張るのだ。
こうして外部からの圧力で歯止めが掛からないかぎり組織は「もっと」の方向へ動き続ける。外圧に叩かれるか現実の壁にぶち当たって初めてLESSの方向へ転換する。
戦後、日本経済が、極めて短時日のうちに、世界有数の経済大国になり得たのも、こうした強気論に依存した面があることは否めない。しかし、一方で経済界の過当競争体質や国際経済摩擦などもこの強気論に起因している。
ところで、この強気論がいき過きれば、国内においては、所管官庁が各種の規制や行政指導などによって調整する。過剰投資の抑制策や各種の規制が今もって撤廃できないのも各組織の強気論が背後にある。一部業界においては、自らの談合によって、順番制による利害の調整を図る。
ところが、国際社会においては、こうした調整を担当する所管官庁や、談合方式がない。しかも、本来、国論を統一して外交に当たるべき、総理・外務省や政治の調整力が弱いので、利害関係のある、各省や、各業界の精一杯膨らんだ強気論がそのまま外交の場に出ていく。行政部門は政治的監視からかなり自由であるばかりか、当の政党も族議員に分裂して、それを応援する。戦前と同じく強気論をコントロールするメカニズムがなく、野放しになっている。そこで起こるのが「叩かれて譲歩」スタイルの交渉である。
精一杯膨らんだ強気論とは、いわば、現在の水準を一歩も後に引かない構えのものである。現在の水準とは、すでに獲得した、利益、利得いわゆる既得権のレベルである。そこより一歩も後ろに下がらないようにすることが、組織の成員の一致した利益となるとの認識のもと、対外的には、一枚岩の強い抵抗を試みる。「絶対反対」はその表明である。理屈で負けても気力でもっともっとと頑張り、叩かれるまで譲歩しない。
組織の全員がLESS(=撤退)もやむを得ないという認識に達するまで最後の最後まで頑張る。交渉当事者も頑張らざるを得ない。交渉のぎりぎりのデッド・ライン(もうこれ以上頑張れない。頑張るのは無理だというライン)は一体どこか、その判断が重要であってその見極めが悪いと交渉は旨くいかない。全員の納得を得られず決裂する。もっと頑張れたはず、ということになる。そこでいつも最後まで強硬路線を崩さない。崩すわけにはいかない。理屈でははく、最後まで頑張ったということで納得させるより無いのだから。
このように、外圧に「たたかれて譲歩」し、受け身の立場を脱却できないのは、日本の組織の構造的宿命である。対外交渉に臨むにあたって、相手側の期待を上回る譲歩案を冒頭から提示するような〔つまり自らの既得権を放棄するといったような〕ことはできない。
日本側が譲歩案を示すにしても、全員が一致するラインでの案であるため、ほとんど実質的な価値のある内容にはならない。また、組織としての一体性(一枚岩〕が常に求められるので、戦略的に対外交渉を進めにくい。交渉において譲歩しうる各種の案をあらかじめ了解を得ておくことなど全員一致のコンセンサス社会ではおよそ不可能だ。たとえどれほど旨く相手側の出方を想定したにせよ、用意できる想定を上回る弾力的な対応が必要になるのが交渉ごとの常である。その度に、いちいち組織全員のコンセンサスを得る必要があるようでは交渉は出来ない。弱気(LESS)と見られることを交渉当事者が戦略的に持ち出すこともできない。すぐに裏切り者と見なされかねない。こうして戦略性の高い交渉はおよそ不可能となる。イエスかノーの単純な交渉にならざるを得ない。相手側の提案を飲むか飲まないか。認めるか認めないか。留保して出直すか。
そのため、相手側の要求に応じて(むしろ要求の強さ=叩く強さに応じて)譲歩する方式しか取り得ない。つまり、相手の叩く強さに応じてズルズルと譲歩していく。だから、無原則の譲歩と言われることになる。相手が、本気だ。本物の要求だ。とわかって初めてまともに取り組む。これでは交渉の事前に目標設定するなどおよそ不可能だ。
こうして、日本は、守りには強いが、自ら積極的に提案したり、前向きに国標的なルールを提案する意思と能力に欠けている、政治的洞察や政治的決断を必要とする重大な問題には優柔不断な対応しか出来ない、との批判を浴びせ掛けられることになる。しかし日本の組織のように、組織の成員の利益・既得権を最優先させ、コンセンサス方式の一枚岩で、交渉当事者に当理者能力を与えない(=権限を委ねない〕やり方では、それは構造的な宿命となる。また、たとえ交渉者は権限を一任されるにせよ、交渉者も組織の期待を下回るレベルでの妥協は出来ないのでこれまた頑張らさるを得ない。
国内の組織の中で、他国の利益や国際的なルールを尊重すべしと主張できる人は極めて小数であり、しかもその基盤は極めて脆い。強気論者や「もっと」思考の人が圧倒的多数を占める組織の中では、異質性を帯び、浮き上がり、組織から排除されてしまう危険性を抱えている。したがって、世論の形成には結びつかない。圧倒的多数は、日本国ないしは組織・業界の利益を主張し、頑として譲らない。その方が、国民の受けも良い。
国際世論を向こうに回して、頑張る図式は、戦前からお馴染みである。戦前は頑張り過ぎた自己主張が崇って、完全に孤立化し、自暴自棄に近い形で開戦に踏み切り、無惨な敗北を喫した。この歴史的教訓が現在生かされているだろうか。
「彼ら(日本人)は、恐らく世界一しつこい自己主張看でありながら、自分(個人)の場合の述べ方自体は、その方法においてもスタイルにおいても世界最低である。西洋人の心理への無知や、漠然たる一般化の使いすぎ、それに英語の誤った使用のために、彼らの善意に基づく努力さえ失敗した。」(終戦直後に書かれたJapan's Crime and Punishmentから、ロビン・ギル前掲書、二八七頁。ギルはおおむね妥当とコメントしている〕。
自分の属する組織のために(=忠誠心〕もっと(=「もっと」思考)得になるように(=経済優先主義、モノ優先思想〕なりふりかまわず頑張り、組織の成員が経済的にもっと豊かになるようにする。こういう行動を通じて、自分や家族がもっと経済的に豊かになるとともに、もっと高い肩書き・ポストを手にいれる(=肩書き、出世主義〕。それ以外のことは「気にし」ない。これが人生の成功だという価値観が広く行き渡った。しかし、こうした価値観はかならずしも精神的な充足感をもたらすに十分ではないし、ましてや、社会正義の実現や、国際的な貢献・寄与にまで結び付く価値観ではないので、国際社会では高く評価されない。
日本は戦後、経済の高度成長によって、経済的には豊かな社会を作り上げることには成功したものの、人々の幸福感の拠り所になる積極的な価値観を作り出すことに成功したとはいいがたい。これが豊かさー多分に精神的なものに依存するーの実感がないと人々がいうところの実態だ。
もともと宗教的な意識の薄いところで、戦後経済的復興がなによりも優先されたがため、経済価値優先(発展・利益追求優先〕、モノ優先の思想が圧倒釣な位置を占めた。このため、人生で成功するには、取り引きでも、サービスでも、そして究極的には、外国との関係でも、損得第一で、自らの属する組織のためになら、冷酷でなりふり構わず、ルール無視、不法行為すれすれの行為すら、敢えてやらなけれぱならないという考え方が罷り通ることとなり、社会正義や国際的相互依存・互恵の観念が極めて希薄な社会が出来上がってしまった。
他の組織や究極的には外国に対する思いやり、互恵・協調の精神、異質なものとの共存の思想が欠けているのは、偶然の結果ではない。
戦後の復興期、激しい競争を続けていた時代に、組織の成員は他の組織の人々のことに配慮することが許されなかった。思いやりを掛ければ、自らの組織の発展を阻害するものとして、異質性を持っものとされ、排除され、除け者にされた。他の組織や社会、ましてや、外国のことまで思いやることは、商売の邪魔だった。国内での激しい競争に勝ち抜き、さらに国際競争力を身につけ、経済大国になる過程で、日本人の心の中から他の組織や外国に対する思いやりという観念が消えてしまった。
自由(例えば自由貿易)の恩恵に浴しながら、一方で自由に安易にたがをはめる政策(各種の規制を見よ)の下では、自由という価値観すら定着したとはいいがたい。自由という価値観の真の信奉者として、その一層の確立を目指して、国際社会の中でイニシアチブを取る意思や意欲はどこからも出てこない。
なるほど、国内では経済的には平等な社会を確立したが、この平等を国外にまで均霑しようという意欲は生まれていない。むしろ日本の既得権を養護し、少しでも得をし、世界の序列の中で一段でも高い位置に上りたいという意欲のほうが先立っている。
民主主義についても、最近のリクルート事件などが示すように、まだまだ自慢できる水準にまでは到達していない。日本の民主主義の性格についても外国から疑問が出ているのである。日本が一層の自由化を図るためには、なお一層の民主化が不可欠であるが、その認識も希薄である。
こうして、国際世論をリードする理念・価値観を持っていないがゆえに、国際的なルール造りの際になかなかイニシアチブを取れないのである。日本をどういう社会につくり上げるかについての明確な理念が欠如しているため、世界世論に訴える力が乏しいのである。世界の中でリ−ダーシップを発揮するには、普遍的な価値を掲げ、それを実現してみせないかぎり、難しいだろう。他の国は、文化のより遅れた国によるリーダーシップと受け止め、忌避しかねない側面があるからだ。
いずれにせよ、日本は今後世界第二の経済大国として、国際杜会において多くの役割・責任を分担していかなければならない。その日本の国際社会に向けての自己主張が、「その方法においてもスタイルにおいても世界最低である」のみならず、既得権の保持に汲々とするような自国中心的で、世界の発展への貢献を考慮しないものであれば、自由主義世界の発展にとって大きな阻害要因となることは明らかである。
この際、戦前の日本や日本軍が犯した過誤を歴史的教訓として、前述したような日本の構造的な体質の改善に取り組まなければ、日本の前途は決して楽観を許さないように思える。(1989年記)
<受賞のことば>第一回時評賞を受賞でき光栄です。「気」がキーコンセプトだとする日本文化論・組織論を展開しているが、それが評価されたようで、大変嬉しい。
候補三編のうち入賞作は、見事な文章力に導かれる豊かな説得力の点で断然他を抜き、極めて上質の論文となっている。天谷直弘氏をほうふつとさせるテキパキした切り口で、組織の日本的特殊性を取り出して見せる腕前は鮮やかという他なく、いちいち思い当たって余すところがない。
日本の対応に業を煮やす米欧で、日本異質論や日本封じ込め論などという危険な兆候が出てきた。私どもは従来ともすればプラス要因と考えてきた組織の日本的特殊性を、これからはマイナス要困として反省する謙虚さと、それを超克する勇気を持たねぱならない。そのことを入賞作は、たたみかけるような筆致で迫って痛快だ。
佳作の二編はそれぞれ壮大なテーマに挑戦している。いずれ劣らぬ力作だが、テーマの重量を支えるだけの下部構造を構築でさなかった。問題をしぽって思考を深める工夫が必要であろう、余裕を残して結んだ入賞作にくらべて、この点、訴求力が弱くなった。
秋光 翔氏
貿易摩擦から日本特殊論まで、日本経済が巨大化する中で国際社会における日本の立場に問題が広がっている。これについて、筆者は日本社会にかつて戦時中の日本軍がそうであったように独特の「強気論」が幅をきかせており、それが国際摩擦を引きおこす根源だ、とユニークな議論を展開している。
その強気の背景として、日本人はその属する組織の構成員の存在や「気」を気にすることがあるという。組織に気に入られよう、組撤の人たちと気を合わせようと努力し、組織には常に「プラス・イメージ」を抱く、と筆者は述べる。
これが日本人の拡大思想、つまり「MORE」はあっても「LESS」がない発想につながる。しかも、強気のぶつかり合いを調整する内部機能がなく「外圧」に頼るしかない、との指摘は説得的だ。
ただ、この日本的習へきは「強気」というより、外の世界を知らない、「井の中のカワズ」、非国際性とみた方がよいのではないか。
秋光氏の論文は、日本人の「現実離れした強気論や理想論」が、「現実釣な損得勘定」と結びつくことによって、異質な日本人論を巻き起こし、日米経済摩擦に典型的にみられるような現象を生んでいるという。強気になる日本人の弱さの背景が豊富な日本人の現実的な社会生活の中から抽出されていて説得力をもっています。手馴れた経済文明論とみますが、経済合理性を超えたところに見える解決の方途まで及んでもらえば、更に厚味のあるものになったと思われます。
(1998/4/14掲載)
10年一昔というが、その10年も前の話である。
仕事の関係で家族ともども三年間ポーランドヘ赴任することになった。六歳の娘と四歳の息子を連れて、物の不足しがちな社会主義国への赴任だというので、日用品の調達をも含め、私ども夫婦が準備に忙殺されていたちょうどその頃、城山三郎の『毎日が日曜日』という小説が評判になっていた。
海外から帰国した商社員が主人公だったこともあり、私も早速読んでみたのだが、冒頭に、京都支社へ赴任する主人公を、風邪を引いたわけでもない娘が、白い大きなマスクをして東京駅へ見送りに来る、非常に印象的なシーンがあった。長い海外生活から帰ったその娘は日本語がうまく話せない。そこで、それを隠すためわざわざマスクをし、主人公を見送りにきた会社の人達と言葉を交さないですまそうというのであった。
この冒頭のシーンに、私はいささか衝撃を受けた。海外に何年いたにせよ、あるいは海外で生まれたにせよ、れっきとした日本人の両親に育てられた子が、日本語を話せなくなるものだろうか。幼い二人の子供を連れてこれから海外へ赴任しようとする私にとって、それは大きな不安の種になった。
一応三年間の予定の海外勤務だったが、子供たちにとっては、言語能力を身につける一番大切な時期に当たっていた。もし、子供たちに、母国語である日本語の能力を充分身につけさせることが出来なければ、悔いは終生残るだろう。
日本人にとって、日本語の大切さは改めて言うまでもない。日本人は、日本語によって日本人になる。日本の文化も、日本人の思考方式も、日本人の感性も、すべて日本語の中に凝縮されている。日本語を話せない日本人というのは、一種の矛盾した概念だ。日本語を身につける時期に、中途半端な日本語しか身につかなければ、それこそ日本人でも外国人でもない中途半端な人間になりかねない。海外へ赴任するからには、一日も早く赴任先の言葉を覚えさせ、現地の生活へ適応させることももちろん大切だが、さりとて日本語のわからないどっちつかずの日本人にはしたくない。私はそんな思いいと一抹の不安を抱きながらワルシャワヘ赴いた。
その頃ワルシャワには日本人学校はなく、同市の日本人子女は、アメリカンスクールへ通学していた。そこで就学年令に達したばかりの娘は早速同スクールヘ入れ、下の息子は、たまたま自宅のすぐ前にあったポーランドの幼稚園へ入れた。英語のエの字も知らなかった娘も、ポーランド語を聞いたこともなかった息子も、すぐに友達ができ、一週間もたたぬうちに片言の英語やポーランド語を話しはじめ、三月もすると、日常生活では全く不自由しないようになった。この点、かねて子供の語学習得能力には驚嘆すべきものがあるとは聞いていたものの、それを目のあたりにして驚きを禁じえなかった。
子供たちの英語やポーランド語を話す能力が、放っておいてもぐんぐん向上していくのに引替え、日本語の能力の方はなかなか身につかなかった。自宅では日本語しか使わないように仕向け、就寝時には家内が日本語の童話を読んで聞かせたりしたのだが、一日のうち、日本語を使う時間が一番少ないのだからその効果には限界があった。話すほうはともかく、読み書きがどうしてもお留守になりがちで、特に漢字の習得が最大の難物だった。
日本でなら、学校の教科書が全て日本語であるうえ、家庭にはテレビあり新聞あり、本屋には日本語の本が溢れ、街を歩けば看板あり掲示板ありで、いわば無限の教材がそこらに転がっている。
ところがワルシャワでは身の周りに日本語は皆無に近いうえ、持参した日本語の教材やテストを使ったり、日本から学習雑誌を取寄せたり、いろいろ工夫してみても、日本語を覚えなければすぐ困るという環境ではないものだから、なかなか身ににつかない。漢字を覚えたところでそれを実際に役立たせる機会がひとつもないので、自ら努力してて覚えようとする意欲が湧いてこないようなのだ。
遅ればせながら、親が各家庭で個別に我が子に教えていたのではらちがあかないということに気付き、共通の悩みを持つワルシャワの日本人会の人達と話しあって、日本語の補習校を開設することにした。土曜日の午前中アメリカンスクールの一室を借り、先生にはワルシャワ大学等への日本人留学生をお願いし、母親が交代で助手役を務めた。アメリカンスクールでの正規の授業の他に、週一回とはいえ日本語の勉強をするのは子供たちにとっても大きな負担だったが。
それでも集団教育の良さで競争心も芽生え、それなりの効果が上がったように思う。私の子供たちも帰国まで良く頑張ってくれた。
ところで、ポーランド滞在中、子供に母国語をきちんと習得させることがいかに重要であるかを強く感じさせるような幾つかの経験をした。
わたしたち一家はワルシャワにいるあいだ、前後二人の人の良い中・老年のお手伝いさんを雇った。彼女たちは、ごく普通のポーランド女性だったが、我家に来ても、決して英語や日本語を覚えようとはせず、ポーランド語一本槍で押し通した。わたしたちが英語や日本語で話しかけても、ポーランド語で応え、分らないと言おうものなら、一段と声を張上げてポーランド語をまくしたてるのだ。そこで結局わたしたちの方が根負けしてポーランド語を使うはめになってしまったのである。
考えてみると、私を含めて日本人は、外国人と会うとおしなべて相手の使い易い言語を優先させようとする。最初から日本語で押し通そうとするような気構えの人は滅多にいない。
ところが、我家のお手伝いさんときたら、日本人の心構えと正反対の心構えを持っているようなのだ。
ある冬、休暇を利用してパリヘ家族連れで遊びに行ったときにも、面白い体験をした。
たまたま泊ったホテルの経営者がポーランド移民の子孫で、私たちがポーランドから来たということでいろいろ親切にしてくれた。そこに五つになる色白の可愛い孫娘がいた。同行した私の息子が同じ年で子供同志仲よく遊び始めたのだが、気づいてみると、何とポーランド語でスムーズに意思を適じあっているのである。日本人の三世、四世は日本語を話せないことが多いというのに、パリのシャンゼリゼ通りの近くで五歳のポーランド娘は、流暢なポーランド語を話すのだ。
この二つの経験が私に「日本人の日本語に対する態度とポーランド人のポーランド語に対する態度がどうしてこれほど違うのか」という疑問を抱かせた。
いろいろ考えたあげく、日本語とポーランド語が全く対極に立つ歴史的経験をもっているためではないかと思いあたった。日本人にとって母語が日本語であることは、いわば自明のことだ。それは空気のようなもので、生まれたときから無意識のうらに呼吸している。歴史を遡ってもそうだった。
ところが、ポーランド人にとって、ポーランド語は必ずしも空気のように生まれたときから無意識のうちに自由に呼吸できるものではなかった。
ポーランドの歴史をひもとくと、ポーランド語自体が血であがなわれて生延びてきた言語であることに気付く。異民族によって幾度か国土が分割され、一九世紀を通して地図の上から抹殺されていたポーランドでは、その間、様々の形でポーランド語の使用が禁圧されていた。そうした中で、ポーランド人は秘締結社を作りいくたびも血を流しながら、ポーランド語を子孫へ伝えてきた。そのとき弾圧に屈してポーランド語を放擲していたら、おそらくポーランドという国は、第一次世界大戦後、それまでの百二十年に及ぶ亡国の後に復活するという奇跡を成就することはなかったに違いない。
それにたいし日本人および日本語は、きわめて長い間地勢的に安全を保たれてきたために、この様な苛酷な試練を全く経験していない。日本人および日本語はこれまで熾烈な異文化との接触を経験したことのない世界史上、類い希なる存在なのだ。このため、総体としての日本語ないし日本文化の中には、異文化の狭間で、自己の存立を主張し守っていくという自動的なメカニズムが必ずしも充分に組込まれないことになった。このことが、日本人が日本語を自覚的に習得し、守ろうとする姿勢に欠けること、つまり、海外にほんの数年出かけただけでがちまち子供に日本語を失わせ、移民しても子孫に日本語を伝えようとしないことにつながっているのであろう。
また、我家で働いたたポーランド人のお手伝いに、我々がいわば言語の使用権を巡って敗れたことや、国際社会において日本という国や日本人が常に受身で行動することにもつながっているのであろう。私にはそう思えた。
今後、我が国社会のいわゆる「国際化」は様々な面で進もうが、このことは日本文化がこれから異文化との熾烈な接触を始めることを意味する。そのとき、自己主張に長けた異文化の狭間で、日本文化の独白性を保ち、その存立を主張していくためには、少なくとも日本人の一人一人が自覚的に日本語を修得し、それを子孫へ伝える気概を持つようなメカニズムを日本文化の中に組込んでいくことが不可欠だろう。これは決して易しい課題ではない。
しかし、難しいといっで努力もせず、海外へ出ればたちまち日本語や日本文化を放擲し、もっぱらうちにこもって、日本語の美しさや日本文化の独白性を賛美するだけでは、日本人や日本文化は、日本人自身にとってさえ何時までたっても、客観的、かつ、自覚的に把握されることにはなるまい。その結果、外国人からも真に理解されぬまま、国際社会の中では、これまで同様の影の薄い存在に止どまらざるをえないことは目に見えている。
この様な様々のことを思うにつけ、すくなくとも自分の子供にだけは日本語を失わせることはしたくない、という思いにかられ、私はポーランド滞在中、子供たちの日本語教育に心を砕いた。
さて、三年にわたるポーランド滞在を終え、小学四年と二年で帰国した娘と息子は、ほとんど日本語をハンディキャップに感じず、日本復帰を果たした。そのとき私はひとつの大きな任務を果たしたような安堵を覚えた。
しかし、これで万事めでたしめでたしというわけではなかった。子供たちにさらに正確な日本語を身につけさせることも必要だったし、そのためには子供たちが修得してきた英語の力を保ち強化することが一層大切に思えた。しかし、日本で公立の小学校に通いながら英語力を維持することはそれほど容易なことではなかった。
外国生活を通じて学んだことは、外国語を良く知ることが結局日本語を正しく知ることにつながるということだった。事実、子供たちが外国語を学ぶことを通じて、日本語をより正確に使い、微妙なニュアンスの差を的確に表現するすべを身につけた。我々は、なんどか子供たちに、日本語とポーランド語の通訳を頼んだが、そういうとき子供たちが驚くほど注意深く言葉を選んでいることに気付いたのである。
外国語を知ることがとりもなおさず、その国を、その国の文化を理解することになり、それがまた日本文化を相対化して見るる目を養うのだ。その意味でこれからの日木人は外国語のひとつやふたつは分るようにならなければならないと思う。
こうしたことからも、子供たちが、せっかく外国で日常生活に不自由しない程度にまで身につけた英語の力を維持することが必須に思えた。そこで、海外子女教育財団などの主催する英語教室に通わせ、夏にはアメリカスクールのサマ−スクールにも行かせた。正規の授業の外にこうしたところへ通うことは子供たちにとって大きな負担となり、行くのを渋るようなこともあったが、幸いにして子供たちは英語を忘れることなく中学校の英語の教育まで持ちこたえてくれた。
帰国して7年、娘は英語を重視している大学系の高校2年生になり、帰国子女の特別枠で入ってくる10年も英語を話してきた生徒に交じって楽しく英語を学んでいる。息子もこの春同じ高校に合格し、夏にはサンフランシスコに住む叔母夫婦を訪ねると張り切っている。
わが家の居間にはいつも数種類の国語辞典と英語の辞典とが置いてある。分からない単語があったら、すぐ辞書を引くこと。いつも口を酸っぱくしていうのだが、この頃すこしずつその効果が現われつつあるようだ。二人とも、本も比較的良く読むようになったし、上の娘は、英文のエッセイでAを貰って来るときもある。ときたま二人で英語で話している。ここはもうワルシャワではない。家の中で英語を話すことを許しても、もはや日本語を忘れることはあるまい。
子供たちが日本語と英語をしっかり身につけ、世界へ大きくはばたいてくれることを私は願っている。
(月刊時評1986年4月号)
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(1998/4/28掲載)
日本の近代史を振りかえると、成功の中に失敗が胚胎していることがことの他多い。日露戦争の成功に酔いしれたわが国がその後もひたすら富国強兵の道を歩み続け、最後には自己過信と相手国の過小評価から今日振り返って見ると無謀としかいいようのない太平洋戦多へ突入し、多くの国民の生命を奪い、全国土を文字どおりの焼け野原にかえたのはその好例である。また、敗戦の原因のひとつに日露戦争を勝利に導いたとされる艦隊決戦主義の戦術を墨守して、新しい航空兵力による戦術への切り替えが最後まで旨く行かなかったことが挙げられるが、これもその一例である。
この様な失敗は、ひろい意味での教育の失敗のように思えてならない。なぜなら、当時の好戦的な時代風潮の醸成や、政策決定者側の合理性の欠けた判断、夥しい錯誤、誤判断に教育が預かって力がなかったとは到底思えないからだ。その様な国民の資質を決定したものとしての教育の過剰・行き過ぎないしはあるべき教育の欠落・不在はどうして生じたのか。
今日のわが国は、またわが国の教育は、この様な戦前の「失敗」を克服しているのか。もし克服していないならぱ、克服の努力をすることこそがわが国にとって最も緊急の課題ではないのか。ここでは、この様な問題意識から、歴史との対比において今後の教育の在り方を考えてみたい。主として太平洋戦争時代の日本海軍との対比を行うこととしたのは、その様な国の危急存亡の時代にこそ一国の教育の真骨頂が発揮されるものであり、日本海軍は戦前の日本の代表的なシステムたりうると考えるからである。
今日わが国の経済的成功を疑うものはいない。経済は未曽有の繁栄を謳歌しており、国民の生活も安定している。戦後の教育が、経済界へ有用な人材を数多く供給するという形でこの経済的成功を支えたにとは周知の事実である。いまなお、幼稚園児から大学生までいい企業への就職を最終的な目的として激しい競争に明け暮れ、最も有能な人材の多くが一流企業や、経済官庁を目指している。この様な教育による人材の大量供給なくして、戦後の急速な復興や、高度成長は不可能であった。その意味では、戦後の教育もまた「成功」したと評価出来る。
しかし、その成功の中にわが国の今後の失敗の原因が胚胎していないだろうか。私は、その危惧を禁じえない。というのも戦後の日本は文字通り経済第一主義で国の運営を行って来た。これは戦前の軍事第一主義と軌を一にするものだ。そのため、教育すらもがその独自の機能の多くを没却し経済発展のためのいわば僕の地位に貶められて来た。つまり、経済界の要請に応え品質管理のいきとどいた大工場さながらもくもくと良い車を作る大量の働き蜂の供給に専念してきたのだ。
ところで現在この経済第一主義は様々の面で破綻を生じており、その改革が急務であるが、必ずしもそのことは充分認識されておらず、改革の動きは緩慢である。むしろ日本の成功はこの様な経済第一主義への依存にあった、ということが強く認識されており、その結果・ひき続き経済第一主義を貫き、教育を経済の僕の地位に貶め続けることが日本の成功の為に墨守されねばならないという意識が強い。
しかし、教育をその様な位置におき続けるならば、教育が軍の僕となりもっぱら軍国主義のお先棒かつぎをつとめた戦前と同様、新しい事態に対応出来なくなり、国際的な関係を巡る局面で様々な軌礫が生ずるなど、日本のこれ以上の発展を阻害する可能性を否定しえない。
戦後の経済第一主義は〔いい成績、いい学校、いい企業、いい肩書=幸福〕という国民的規模の単純化された価値観を生み出し、教育もこの価値観に順応してその機能を果たしてきた。この様な価値観はおよそ普遍性を欠いており、国民の幸福を保証するものでないことはその結果として必要以上の激しい競争を生みだし、その歪みが、校内暴力や苛めなどの病的な現象を引き起していることで明らかである。
今日、教育改革論議が俄に高まったのは、この様な事態を背景としており、その改善を図ることを意図している。しかし、その多くは教育を経済の僕の地位においたまま、激烈な競争の緩和など現象的な弊害の除去だけを図ろうとするものであり、今日の教育の歪みの多くが、経済第一主義に基因することをはっきりと認識し、この経済第一主義やそれを支える価値観の見直し、あるいは、国として「経済第一主義」や「艦隊決戦主義」に陥りやすい体質を有していることそのものの改善を図ろうとするものではない。今は根本的な改革が必要な時であり、小手先の制度いじりでは、事態の改善は期しがたい。
教育の目的には、二つの側面がある。マクロの面とミクロの面の二つである。
マクロの面とは、国民の資源化とい側面だ。つまり、国際社会のなかで国としての日本国を維持し、経営していくのに必要な人材を生み出す為に、国民にそれに相応しい識量を与え、資源化するという側面だ。教育が公的な面を持たざるをえないのはこのゆえである。ミクロの面とは、国民の個々人の能力を最大限に引きだし、日本という社会の中で一人一人が安定した幸福な人生を送れるような知識やノウハウを与えるという側面だ。
このマクロの面の目的の中に経済的側面が含まれるのはいうまでもないが、断わっておきたいのは、国を経営する、あるいは維持するという際、そこには非常に広範な分野が含まれており、決して経済のみではないということだ。つまり、政治、外交、文化、教育、社会など様々な側面があり、その間のバランスが程よく保たれる必要があるのだ。
それゆえ、教育がこれらの目的をパランスよく達成しうるよう既存の教育システムをたえずチェックし、必要に応じそのプリンシプルや制度の見直しをしていく必要がある。
戦後の教育が、果たした機能には充分評価出来る面があるが、現状のように経済に比重の偏ったプリンシプル、体制でいけば、恐らく、失敗へ繋がろう。日本自体も、自由世界第二の経済大国になった以上、これまでのような経済一辺倒ではやってはいけない。目標へ追いつけ追いこせの時代は終り、自ら道を切りひらいて行かねばならない新しい時代に入っている。そこでは、単なる働き蜂でなく創造性や国際性のある人材が要求される。現在、政治や外交などの面で対応が後手後手に回っているのは、それに相応しい人材の供給が行なわれていないからでもある。
日本の場合、成功の中に失敗が胚胎しやすい体質があるのは一度成功するとその成功した政策、方針が何時までも踏襲されやすいからだ。例えば先にも述べたように、日露戦争の成功を導いたとされる艦隊決戦主義はその後日本海軍の基本戦術となり、およそ四十年後の太平洋戦争を通じても、いわば墨守され、これが新しい航空兵力を主力とする戦術に対応出来ず多くの戦いで敗北を喫する原因となった。
海軍大学校では、繰り返し、伝統酌な戦法のみを叩き込み、新しい戦法の開発、分析は蔑ろにした。また、海軍でも、艦隊決戦主義に疑問を持つような人物は、異質性を持つとして排除され、旧来の戦法をひたすら墨守する人物のみが軍の中枢を占め、新しい戦法の開発や、新しい情報のインプットはおよそ考えられない硬直的なシステムになっていた。
このように日本の組織は多かれ少なかれ、同質性の濃い構成員からなる年功序列型であるため、旧い価値観が温存され、新しい視点や情報、価値観の導入は困難なシステムであり、一度確立した考え方は、簡単に払拭できず、安定した社会が続けば続くほどその固定化・定着化が進みがちなのだ。
このような硬直したシステムのもとでは、「成功」の要因についてのきちんとした分析すらもなかなか出来にくい。例えば日露戦争における日本海軍艦隊の勝利にしても、必ずしも、海軍の艦隊独自の作戦で成功したのではなく、陸軍との緊密な共同作戦によって成功したのだが、時間がたつにつれて共同作戦があったことは忘れさられ、艦隊決戦主義のみが一人歩きを始め、それがいわば宗教的教義のように墨守された。
そのようにひとつの歴史的事案を分断しそこから真に重要な教訓を学びとるという点においても戦前の恐らく最も精強の組織の一つであった日本海軍にも組織的な欠陥があった。このことは真珠湾攻撃で従来の戦艦中心主義から航空兵力中心主義への歴史的な戦術の転換を自ら演じながら、その意義を自覚的に自己の組織の中に取りこむことができず、それ以降はこれまでどおりの戦術の中に退行していき、こけの生えた同じ作戦を綴り返しては連敗に次ぐ連敗を喫する面にも伺われる(これは、手痛い「失敗」から教訓を学ぷことにも失敗したことを示している)。
これに対して、米国の方がこの歴史的敗北を徹底的に分析することによって、航空兵力による戦術の効果をはっきりと学びとり、新しい戦術を生み出し、その後の戦況を自らに有利に展開させたのと極めて対照的だ。
米国には可能だったことがなぜ日本には出来なかったのか。それは、日本には米国のような柔軟で新しい事態に対応しうる多角的な視点がなく、画一化した視点しかなかったからだ。それほどその構成員が同質化してしまっていたのだ。これは、組織の統合の原理が構成員の同質化であるため組織の視点をいわば単眼化する教育を徹底的に施していたことの帰結であった。
海軍大学校では、「戦争がすでに中盤となり日本の旗色が日を追って悪くなっている情勢のなかで、教官の教える内容の多くが戦前の教育をわずかに補修したものであったり、あるいは緒戦における日本の圧勝を土台にしたもので」〔千早正隆『日本海軍の戦略発想』二六頁〕あり、しかも「海軍大学校では教官の意見に同調した答案がよりよく評価されたことは否みがたかった。よりよい成績で同校を卒業したものが、よりよい要職につくことになるのも、当然であったといえる。その結果、同じ思考をするパターンを積み重ねていったのではないだろうか」〔九〇頁〕。「当時の日本海軍の作戦指導者は例外なしに同校の卒業者であったし、同校の教育はそのような画一的な思考をすることに重点をおいていたように思われる」〔八六頁〕。
また、海軍では「自己の集団の考え方に従わない意見には一顧の検討も加えないばかりか、それを異分子として排除」〔八五頁〕したという千早元連合艦隊参謀の言葉がそれを裏付けている。また、この海軍大学校の外では、戦前の文部省が組織的にも内容的にも全国均一の教育を理想にひたすら詰め込み教育に力を入れていたことも忘れてならない。
現在の日本の教育は、この海軍大学校や戦前の教育の弊から完全に脱しているだろうか。それとも画一的な人材の養成に今も明け幕れているのであろうか。一斉主義、一律主義、暗記主体の詰め込み主義、先生から生徒への一方交通的講義中心主義、マークシート方式のペーパーテスト重視主義、同一カリキュラムによる教育、画一化された教科書重視主義、偏差値万能主義、六三三制という単線主義の戦後教育は、どうも、その弊から脱しているとは思えない。
例えば現在でもクラスのなかにはいじめや村八分が横行している。帰国子女が日本語が旨く話せないというだけで、他の生徒がら苛められ、除け者にされる。父親に連れられ八か国の小中学校を転々としたある生徒は本国の日本での差別が一番酷かったと回想している。「クラスではへたな日本語が笑いのタネになった。どの国でも、みんなへたな言葉をじっと聞き、終わると拍手までしてくれたのに」〔毎日新聞〕。
この例が象徴するように事態が改善されているとはいいがたいが、正しくそのことのなかに、歴史的な事実〔成功にせよ失敗にせよ〕から的確に教訓を学びとり、制度の改善に結ぴ付けることの出来ない日本のシステムとしての限界、旧来の教育によって思考の枠をはめられた同質性の強い人が新しい観点を取りいれて行くことが出来にくいという伝統的な限界を改めて思い知らされる。
この様な反省に立てば、今後の教育改革の方向は自ずと明らかになって来る。すなわち、こうした伝統的な限界をシステムとして克服する方向へと教育改革が向かわなければなるまい。つまり、異質性を排除し、画一的な思考をするような人物=集団志向型の働き蜂を大量生産することから、一人一人独自に考え、客観的に判断しうる人物を養成していく方向へと舵を切りなおすぺきなのだ。それが今日のごとく価値の多様化が進み、国際化が進んだ時代に対応するための必須の条件だ。画一的な思考が、時代の変化に柔軟に対応する姿勢や創造性を育まず、いたずらに陋習に固執し、あげくにはずるずると不幸のどん底へと落ち込ませかねないものであることは、これまで見てきたとおりだ。
繰り返していうが、太平洋戦争という無謀な戦いへ突入したのも、いわぱすベての日本人が同質化・均質化し、その無謀さについて、別の観点がらはっきりと解き明かしそれを押しとどめる何等の力を形成しえなかったという点に求められる。
今日になって振り返ってみると、当時米国の十三分の一のGNPしかなく、国土も狭く資源小国であった日本が世界の強国、米国、英国、中国等を向うに回してよく戦う気になったものだとその合理性の欠けた判断にいわば呆れさせられるのだが、その様な無謀な戦争への突入も国の最も優れた頭脳が熟慮の上に選択したものであることを忘れてはならない。最高の頭脳といえども、教育でうえつけられた思考の枠組みの外にでることが出来なかったのであり、国民の多くもその様な判断を唯々諾々と受入れたのだ。
現在、日本は国内的な繁栄の反面で、経済第一主義、外需依存中心の経済運営、自らの同質性を守ることからくる外国への閉鎖性の当然の帰結として、国際的摩擦の対応に苦慮しているが、これは、決して一過性の単純な問題ではなく、わが国にとって伝統的な難問なのである。
戦前は、何等の長期的見通しもないにもかかわらず、いたずらに強硬路線を積み重ね、国際社会から、次第に孤立し、やむを得ず戦争へ突入していったのだが、今日のわが国の対応振りにはその当時の教訓がそれほど生かされているように見えない。
戦前の艦隊決戦主義は経済第一主義に受け継がれており、陸軍と海軍の国益を度外視した対立は今日も各省間の対立や産業間の対立、利益団体のぱっこというかたちで繰り返されている。
しかし、国の内外のバランスをとりつつそれをトータルに纒めて調整する方法論が遺憾ながらわが国にはない。このため、短期的、対症療法的対応を繰返し、国としての全体的・長期的国益を守りつつ対応することが出来ないでいる。つまり、国内における統合の原理は画一化・同質化=異質性の排除であるため、異質なものを統合していく原理が未だ充分にビルトインされていないにもかかわらず、国際的には異質性の共存という別の原理が採用されているので旨く適応できないのだ。わが国は常に国際関係が深まると失敗を繰り返すのはそのためである。
こうしていつも国際的に通用しない自己流の付き合い方を押しつけようとして失敗する。きちんと付き合おうにもその様な教育をだれ一人受けていないのでそれが出来ないのだし、実のところその様な伝統的文化を持たぬゆえ教育のしょうもないのだ。ここに鶏[文化]が先か卵[教育]が先かの深刻なジレンマがある。
このように見てくると、教育改革とは、教育制度の改革というより、国そのものの改革であり、国民の意識そのものの変革を迫るものであることが明らかになる。いわば、国民の統合の原理自体の見直しなのだ。その意味で、それこそじっくりと腰をすえて取り組むべき「国家百年の計」に他ならない。単なる制度いじりは、百害あって一利なく、それがこれまでどれほど無意味なな労苦を国民にかけてきたかを想起する必要がある。
ところで、これまで見たように、日本人が不得手とするのは、じっくりと腰をすえて分析し、そこから意味のある結論を引出したり、長期酌な戦略・方針を策定していく作業なのだ。多数の異質的な見解が出るとそれを理性的な議論を通して、集約していくということが日本人にはなかなか出来ない。
このことは情報の軽視と無縁ではない。情報を手に入れてもそれを分析し生かすことが出来ないため軽視せざるを得ないのだ。日本海軍で情報がいかに軽視されたがは情報参謀が戦争の半ばまでおかれさえしなかったことが示している。そのため、客観的な情報を土台にしつつ、理性酌な討議・分析を通じて話を煮詰めて行くことなく[むしろそれが出来ないので]、議長一任スタイルでそれこそエイヤッーと決めてしまうか、最後まで対立したまま問題を先に延ばすか、のいずれかになる。国際交渉においてすら今もっていかに出たとこ勝負が多いか驚くべきものがある。これも戦前と少しも変っていない。
前述のように、異質なものを異質性を残したまま組織のなかに取りこみ統合していく、その原理を我々はいっこくも早く自らのものにしていく必要がある。つまり、「単眼」ではない「複眼」の組織造りが可能なように日本社会を変革していく必要がある。これがいわゆる日本社会の「国際化」でもある。そのためにこそ、教育が改革され、その方向で制度が作られなければならない。
世界では、日本のように同一民族、同一言語で、組織の構成員の全ての同質化を通して統合を図るという原理を有している国はむしろ例外的だ。その意味で異質性の統合の原理を学ぶことが出来る国には事欠かない。それこそお得意の調査団を出して、徹底的に調査し、その原理を学ぴ、わが国の教育制度の中に取りいれていくぺきであろう。学校組織を始めとして教育に携る組織そのものがその様な原理で統合されなければならないし、生徒はその様な原理を学ぶに相応しい教育方法で教えられる必要がある。
何のために教育改革をするのかという原理面にわたるつきつめた議論を抜きにした教育改革は無意味であり、制度いじりを急ぐことは今日のすでに悪化した事態をさらに悪化させるだけだろう。
太平洋戦争に突入するにあたって、個々の戦いの戦術だけは磨きあげられていたけど、戦闘と戦争とが混同され、いかなる敵と戦うことになるのかという意味での相手国の実態さえ正確には把握していなかった。それどころか、何のために戦争をし、いかなる形で戦争を終わらせ、負けたときにはどのような形で終結させるか、という長期的な戦略は一切ないままエイヤッーとばかり開戦に踏み切ったのだ。その結果が惨澹たる敗北であったが、これは当然の帰結であった。
今度だけは、いかなる国造り・社会造りを目指すのか、いかなる価値を最も重要視するのか、教育によっていかなる人間を作りだそうとするのかという長期的な戦略抜きに、小手先の制度いじりでお茶を濁すべきではない。いかなる目的で、なにをどのように教えるかというピジョン・哲学〔戦略〕があって始めて、それに相応しい組織・制度〔戦術〕を考えうるのであって、その逆では決してない。
(月刊時評1985/10月号)
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