ポーランドの日々

ワルシャワ、黄金の秋(1998/1)(F6)by Kiichiro Abe
 

 久しぶりにポーランドの絵を書きました。そこで、ポーランド時代のことが懐かしくなってきて、あちこちに書き溜めていたポーランドに関するエッセイやメモなどを取りまとめてみる気になりました。考えてみると、1975年から1978年まで3年間滞在した共産主義時代のポーランドから帰国して、今年でちょうど丸20年になるのです。帰国20周年を記念しての『ポーランドの日々』の登場です。ご愛読ください。1989/3/29記

目次

1.エッセイ

2.メモ



 
 

1 ポーランドの日々(エッセイ)


 

目次

I ポーランドでの生活


ポーランドでの生活

1 家探し

 

(1)

 ワルシャワでは家は前任者のTから引継ぐことになっていた。
 ワルシャワでは、家探しは大変だと言う話を、同市に住んだことのある人たちから何度となく聞かされていただけに、これだけはしないですむと安心しきってポーランドに赴いたのだ。ところが、結局、家探しをするはめになった。

 ワルシャワに着いたのが、二月二八日。まだ日本の厳冬以上に寒い時期だった。ホテルに泊まったものの、子供連れのこともあるうことだし、一日も早く、ホテルを引き払いたかった。甲速にでも引継ぐ予定の家を見せて貰えるものかと思っていた。ところが不機嫌な様子の前任者は、なにかと口実を設けて、一向に案内してくれない。 
 不磯嫌の原困は分かっていた。わたしが前任者Tの家具と車の引継ぎを断わったからだ。

 ワルシャワヘの赴任が分かったのは半年前のことだ。それ以来幾度か手紙をやりとりして引継ぎの打合せをした。わたしが家を引継ぎたいと申し入れたのにたいし、Tは家と一緒に車と家具とを引きとつてくれといってきた。家具と車それぞれ百五十万円で合わせて三百万円。当時のわたしの年収を上回る金額をドルキヤヅシュの一回払いで払ってくれというのだ。わたしにとっては大きな買物である。原則として引継ぐことに異存はないが、どんな家臭があり、いつ頃どんな価格で入手したものか教えて欲しいと何度も手紙を書いた。ところが、なしのつぶてだった。

 そこでポーランドの勤務から帰国したばかりの人のところへ相談に行った。家具など百五十万円も出さなくても買える。それに家具はいろいろと趣味もあることだし、車にしても自分の好きな車種を選んだほうがいい。ベンツだって向うで頼める。ワルシャワで結構走っている。家具や車はとかくいざこざの種になりやすいから、家だけ引継ぐことにした方が賢明だよ、という忠告を受けた。わたしは早速家だけ引継がせて欲しい旨の季紙を書いた。その返事は思ったより早く来た。実に冷やがな皮肉たっぷりのものだった。

 そのとき以来の不機嫌が尾を引いているらしい。空港にも出迎えても貰えなかった。事務引継ぎの約東の時間もすっぽかされ、長いこと空しくしく待たされるような目にも合わされた。

 引継ぎ予定の一週間も残り少なくなり、Tがワルシャワを発つ前日になってやっと見せて貰えることになった。

 指定された時刻に妻を同行していくと待っていたのはT夫人だけだった。

 T夫人とは旧知の間だった。彼女とは同じ職場で働いたことがあった。Tも含めて同じ職場のテニス・クラブの仲間でもあった。しかしTと結婚する少し前から彼女とは会っていない。久し振りの会うとみけんに大きな傷跡があった。十二年前に知り合ったときはもちろんそんな傷などなかった。職場でも評判の美人だった。背もすらりと高くテニスも上手で若い男性に結構人気があった。すぐにでも結婚するかと思っていたが、婚期は遅れた。幹都付きの秘書をしていたが、彼女と暫く同室した別の秘書が、彼女とだけは同室したくないと泣いて訴えたという噂がたった。事実彼女より先輩格のその秘書はその後、別室へ移った。わたしも頭にカチンと来るようなことを言われたたことが幾度かあつた。

 そんな性格が彼女の婚期を遅らせた原因かも知れない。ところが、わたしより三年上のTと綾婚した。Tがポーランドヘ赴任する少し前のことだ。わたしにはまったく意外だった。その旨わたしの友人の一人に語すと、こんな噂を教えてくれた。Tは彼女を同乗させていた車で事故を起こし、彼女の顔にいく針も縫うほどの傷を負わせた。その責任をとって結婚したというのだった。

 久しぶりに会った彼女のみけんには大きな傷跡があった。それが、かつての美貌を損ねていた。それよりもその大きな目がなんとなく空ろだった。笑顔を浮かべても、なにか満たされない感じが漂った。それを必死にとりつくろっているような痛々しさがあつて、それがかつての美しさにみけんの傷跡以上のかげりを落としていた。

 家はレンガづくりの三階だてだった。二軒の家が背中でくっつきあった作りになっていた。

 玄関を入ると部屋の入口にうす汚れた半端な繊毯があった。窓には寸足らずの裾のほつれた力−テンがところどころにぷら下がっていた。寝室のベッドの上には、長いことアイロンのあたったこともないような布にくるまれた枕が二つ転がっていた。食堂では、テーブルのまわりを不揃いの椅子が取囲んでいた。壁には三〇センチ四方の鏡が十数枚もはめこまれていて、そこで食事をとる人の姿を残らず映しだす仕掛けになっていた。キツチンの食器棚には、和食器のセツトが並んでいたが、どうみても安っぼいデザインで、おまけにあちこちかけていた。流し台は真っ黒だつた。三階は屋根裏部屋で、そこにはござが敷いてあった。Tが座禅を組み、得意の空手の練習をしていたらしい。

ひととおり見せて貰って、家主を紹介して欲しいというと、丁夫人は私には分らないという。家主は今海外に赴任しているのでその件は直接丁に話してくれ。でも、この家を引継ぐ気なら今見せた家貝を一緒に引継いで欲しいというのだった。家具は手紙で引継がない旨伝えてある筈だし、今見せてもらつた家具と言ってもわたしたちにはピンとこなかった。T夫人の説明では部屋の入口に置かれた例の半端な繊毯、カーテン、食堂の椅子、和食器、食堂の壁の鏡等がすぺてその対象になるのだった。どう見ても使いようがなく、捨てていくよりしょうのないがらくただった。

 ワルシャワでは家を探すのが、大変だという話を繰り返し聞かされていた。だからT夫人の意向に従うよりないと思った。そこで値段を閲いた。ひとつひとつ申
し渡される値段を足していくと三千ドル近くになった。

 当時の円ドルレートで百万円近い大金だった。これなら日本でも立派な家貝が一セット買えるだろう。食器は日本でかった時の価格の七掛け、食堂の壁の鏡だけでも一万数千ズオーチ。これを公定レートの一ドル約十九ズオーチで割りり戻すと600ドルにもなった。でも、闇レートがあるのは公然の秘密だつた。旅行者にも一ドル約三十ズオーチのレートが適用されており、公定レートは家賃を公団へ収めるときにしか適用されない代物だつた。丁夫人は鏡をはめこんだ費用を証明するために領収書を見せてくれた。日付は、わたしの赴任が決った後のものだった。

 T夫人は、闇レート等知らぬと言いはった。交渉するならTとしてくれとけんもほろろだった。我々は退敵した。

 職場に戻り、同僚に確がめるとみんな一様にあきれた表情をした。Tが職場の仲間とは別ルートでもっと有利な闇レートで換えていたのはだれひとり知らぬ者はない周知の事実だった。知らぬは亭主ばかりなりの類いだったらしい。そのレートぐ換算すると600ドルの鏡がたちまち100ドルちょっとになるのだった。

 その夜遅くホテルから電話でTと運絡がとれた。わたしは弱い立場にあった。六歳の娘と四歳の息子と妻と一緒にホテル住まいをしているのだ。なんとかその家を引き継ぎたかった。法外に吹掛けられていることは分かっていたが、この際できるだけ相手のいう線に歩みより、妥協するよりないと思っていた。しかし、まったくいいなりになるのも釈然としなかつた。電話口でわたしは少し負けて貰えないかと頼んだ。

「もし、条件が呑めないようなら、他に幾らでも借りたい人はいるんだよ」
Tはいった。でも、ひよっとして、丁夫人が闇レートの存在を知らないこともありうる。それに三千ドルも吹掛けたことをTが知らない可能牲も皆無ではあるまい。
「でも、ちょっと高すぎると思うのですが、すこしなんとかならないかと…」
「僕には話しあってる暇はないよ。もう明日にはワルシャワを発たなければならないんだ。条件を呑むか呑まないかだ」
「できるだけ、ご希望に沿うようにしますけれど、もうすこしなんとか…」
「君もくどいね。それじゃ、この話はなかったことにしよう」
「ち、ちょっと待って下さい」
「ガチャン」
背後から心配そうに覗きこんでいた妻にも聞こえるような犬きな音をたてて電話はきれた。

 翌日、わたしたち夫婦はワルシャワ空港に日本へ帰るT夫妻を見送りにいった。
丁夫人は二人の女の子の手を引いていた。上の子もまだ三つにもなっていないようだ。どちらも両手がまともに下に下りないぽどのつんつるてんの白いオーバーコ−トを着ていた。コートの下からお尻が丸出しだった。丁夫人もそれに似合いの服装をしていた。丁夫妻は最後に並んで見送りの客に手を振った。Tは笑顕を作つたが、眼鏡の奥の目は冷たく光っていた。丁夫人もそれに合せるように引きつるような笑顔を作った。

 なかなかお似合いのカッブルであることにわたしは初めて気付いた。
 

(2)

 くよくよしている暇はなかった。

 早速家探しを始めることにした。さて、不動産屋に飛込んだものか。新聞の広告を見たものか。

 ところが、ワルシャワには不動産屋もなければ新聞広告もないのだった。いや、新聞広告がない訳ではないのだが、やり方が日本とはまつたくあべこべだつた。家を探すほうが、これこれしかじかの家を探している旨の広告を出すのだ。すると家主の方から手紙で連絡が来る。その家を見にいって、気にいったら契約を結ぶというのだ。

 職場のポーランド人スタツフでこの道のペテランのチビックのアドバイスを受けて広告の原案造りを姶めた。どの地区がいいとか、こちらの肩書きは高めにしたほうがいいとか、家の大きさはこれくらいがいいとか、いろいろと広告を出すにしてもこつというものがあるらしい。とにかく早めに原案を纏め上げ、新聞に掲載してもらうことにした。

 ところが、新聞に掲載するにも当局の許可がいった。許可が下りてもすぐ新聞に出る訳でもなかった。一週間もしてやっと新聞の片隅に小さな広告が出た。自分の名前がローマ字で入っているからこれが自分の広告かと分る程度。果して返事はすぐ来るのだろうか。なんどもなんども出し直す必要があるのではなかろうか。チビツクを始めポーランド人のスタッフは大丈夫すぐにでも返事が来ますよと落ち着いているが、これに一家四人の運命が掛かつているかと思うとなんとも心細い。

 家探しをしながら泊っているホテルはワルシャワ随一のフォルムホテルである。インターコンチネンタル系列のホテルでスウェーデンの建築会社が建てた最新式のホテルである。でもいくら最新式でワルシャワ随一のホテルでもホテル住いはすぐに飽きがくる。大人でもそうだ。まして子供にとっては窮屈このうえないところだ。毎日かわりぱえのしない食事。もうホテルのレストランには行きたくないといいだす。日本からスーツケースにつめて持って行つたカップ一ラーメンがまったくの貴重品になった。ホテルのサービス嬢にお湯を貰い、時には一杯を四人でわけあって食べた。しかし、これもすぐそこをついてきた。幸い、ホテルの裏手に食料品店を見付けたので、チキンのローストを丸ごと買ってきた。ナイフで切り分け、皆で食べた。これは結構好評だった。

 行動半経が広まるにつれて、種類の違ったソーセージやハム、チーズ、キャペツの塩漬け、林檎、パン、ケーキが食卓に並ぶようになった。品数は豊富にはなつて行ったが、自分で料理する訳ではなく、できあいの食品だけなので、やはり満たされない思いは残った。ホテルの近くに繰りだして、キャフェテりアや、レストランにはいったりもした。

 こんな有様に同情して同僚の奥さんが昼飯におにぎりやいなりずしを届けてくれたり、夜自宅に招いて、日本食を御馳走してもくれた。

 家が見付からないからといって、子供を学校に行かせない訳には行かなかつた。上の娘は六月生まれで、日本でならちょうどその年の4月から入学ということなのだが、目本人子弟が行くアメリカン・スクールは九月始まりなので、もう就学年齢に達していた。幸い空きもあったので早速入学手続きを取り、ホテルから通わせることにした。

 ホテルでさんざ退屈していたせいもあってか、まったく英語がわからないにもかかわらず、最初の日から意気ようようと出掛け、
「ああ、面白かった」
と行って帰って来、翌日からも喜んで通った。下の息子もアメリカン。スクールの付属の幼稚園に入れたが、これまた喜々として通った。ただ、この幼稚園は午前だけなので行ったと思うと帰ってくるのが欠点だった。

 わたしには毎日の勤務があったが、手持ち無沙汰の妻は、日本から持つていったラジカセで、布施明の『シクラメンの香り』の入ったカセットを繰り返し聞いていた。
この曲を聞くと、このホテル住まいのことを今でも思い出す。

 車の手配をしようとしていた矢先、掘出し物のニユースが飛込んできた。カンポジア大使館の書記官が緊急に帰国の必要が生じ、一年も乗つていないプジヨーを格安で売りに出しているというのだ。クメール王国崩壊の悲劇がここにも及んでいた。見に行くとそれこそ新車同然の車で、二千二百ドルという。即決で買うことにした。

 こうしてワルシャワに着いて二週闇もしないうちに車のオーナーにもなり、生活の設営は順調に進みはじめた。が、肝心の家の方の歩みは緩慢だつた。

 広告を出し一週間もたった頃、やっと家主からの返事が舞込みはじめた。極端に高いものや狭すぎるものは除いて、あちこち見てまわった。

 ワルシヤワの高級住宅地といわれるモコトフ地区に限ると指定したにもかからず、ビスワ河の対岸にあるプラガ地区からも応募があった。そこも見に行ったが、平家で左右まったく対称に作られた家を二軒繋げた家屋だつた。こんな家に住むと頭がこんがらがりそうだつた。

 モコトフ地区から来たものの中には家賃千ドルと言うのもあったが、これはそれこそ大ダンスパーティが開けそうな大きなホールのある家で、ホールから二階へは硝子張りの吹抜けの中を螺旋階段で緩かに昇って行くのだった。ポーランドにもこんな大邸宅があるのかと驚かされた。でも千ドルではわたしの住宅手当をはるかにオーバーしており諦めざるを得なかった。

 暫く家主からの応募がとぎれた。もう一度広告を出したものかと気を採む日が続いた。

 プジョーは買ったものの、わたしの運転の腕といえぱ、大学一年の時に運転免評を取って以来、赴任が決まるまではまったくのぺーパードライバーだった。赴任研修の間に暇をみつけて自動車教習所に通ったものの市中を運転して回る所まで行かないうちに赴任になったのだつた。そこで職場の運転手に頼んで速成の研修を受けた。職場の裏手の車の余り通らない道を選び、全周数キロのこのコースを、暇さえあれば繰り返し繰り返し走るのである。この特訓が効をそうして一週間もたたぬうちに、ホテルから職場に車で出掛けられるようになり、お呼ぼれのパーティにも自分の車でいけるようになった。

 最初に呼んでくれたのはオーストラリア大使館の書記官夫妻だった。背の高いカッブルで大陸的を容貌の持ち主だった。大きな屋敷で、居間もゆったりとしていたが、書記官夫人はたった三三〇平方メートルしかないとご不満の様子だった。

 その夜は、いく組かの夫婦が呼ぱれていた。我々夫婦は初めてのこととて様子もわからないまま、他の人のするのに合せて酒を飲み片言の英語で喋り、それなりに楽しい一夜を過ごした。とはいえ、ホテルに残してきた予供たちのことが気掛かりではあった。

 ホテルのサービス係りの女性に頼んでは来たものの、異郷の地のホテルの一室に年端もいかない子供を二人残して来ているのである。出掛ける前にいいきかせては来たものの、
「ママ、行かないで」
と妻の着物の袖に取縋った様子が目に浮かんできてどうも不欄な気になるのだった。

 このオーストラリア人夫妻は快活で、ワルシャワに着いてまもない我々の為にいるいろとアドバイスをしてくれ、困ったことがあったら何時でも電話してくれともいってくれた。まったくの未知の我々をこうして招待してくれ親切の手を差延べてくれる積極性にわたしは感動した。

 ところがこの夫妻には悲劇が特ち受けていたのだ。その年の夏、チェコスロバキアで車の事故を起こし、夫の方は即死、奥さんと三歳になる娘とは半身不随になるほどの重傷をおった。その後チェコスロバキアの道はわたしもなんどか走ることになったのでよく知っているのだが、山地であることもあって道幅が狭いうえに、ポーランドの道の感覚で行くと曲がりきれない程急カーブのところが多いのである。

 オーストラリアからはるぱる息子夫妻に会うために出掛けてきた両親と落ち合うために二人はウイーン目掛けて車を飛ばしていたのだ。坂道を昇りきった所で道路は急に右手にカーブしていた。道路から飛び出さぬよう危うくハンドルをきったものの対向線に入り込み、ばく進してきたトラックをよけきれず、正面衝突してしまったのだ。

 ウイーンで待っていた両親は予定の時刻になっても現れぬ息子一家の身を案じて、ワルシャワのオーストラリア大使館へ連絡を取った。しかし、消息はようとしてわからない。これはおかしいというので、ワルシャワに飛んで来て、チェコスロバキアの大使館にも問い合わせたが、それでも消息は掴めなかった。そこで自ら車をチャーターして息子が走つたと思われる道を辿ったのだ。

 チェコスロバキアの片田舎で大きな事故があったことを耳にし、負傷者が運びこまれたという病院へ駆つけた。そこで、愛する息子の遺体と意識のまだ戻っていない嫁と孫とに再会したというのである。

 フォルムホテルの窓からはワルシャワ市街がよくみえた。第二次世界大戦で九十%も破壊されたというワルシャワであったが、大きなビルがびっしり立並び、しかも高さがきちんと揃えてあるのでなかなか見栄えがした。すぐ眼下にワルシャワ随一の大通りであるマルシャコフスカ通りとジエロゾリムスキー通りとの交叉点があり二九階から見下ろすと赤い市電がまるでオモチャようだった。

 その交叉点を挟んで向い側に文化大宮殿があった。これはソビエト連邦からの贈物で、ワルシャワ市のど真ん中に二百四十メートルもある、ちょうどモスクワ大学を思わせる建物がそそりたっているのだ。ホテルの二九階からも見上げなけれぱならない。

 この建物はワルシャワの市民には景観を乱すとして大いに不評だった。ワルシヤワの中で一番景色のいいのは文化大宮殿の展望台から見た景色だ。なぜむらそこからは文化大宮殿が目にはいらないからという小語を良く聞かされたものだ。

 ホテルの窓からは夜ともなると町の明りがひとつひとつ灯って行くのが見えたが、東京に比ぺるといかにもうす暗く、ネオンの明りなど都心にもかかわらず、ほとんどない有様で、うら寂しい感じはいなめなかった。

 文化大宮殿の回りは広場になっており、近かったので、休日の日など子供運れで出掛けた。

 三月になっていたが、まだ風は冷たく、日本から持っていった厚めのオーバーコートもまるで目の荒い麻のコートでも着ているように感じられた。その中を地元の子供たちは元気一杯自転車を乗回している。赤ん坊を乳母車にのせて外気浴させている母親もいる。広場にはジブシーの一団がいるときもあった。馴々しく近寄って来てはものを売りつけようとしたり、金をせびったり、占いをしてあげようとばかりにトランプをふりかざしたりするので、言葉がまったく通じないことも手伝って、ちょっと不気味だった。予供運れの老人とは慣れない言葉としぐさで交歓した。子供同士は言葉など必要でなかった。
 
 また一週聞ほどしてモコトフ地区から手紙が来た。それがわたしたち一家が三年間お世話になることになったバランスキーさんからの手紙だつた。
 
 家を見に行くとその家にはバランスキー一家がまだ住んでいた。バランスキー氏は顔中に髭をはやしたがっしりした体格の人で家の中を隅々まで案内してくれた。大きな三階建ての建物を縦に三分割しその一番左はしがバランスキー氏の家だった。玄関はまったく別々だし隣の家との間もレンガの壁でがっしり仕切られているのでまったく別の家屋のようなものだ。事実、この家にこれから三年住むことになったのだが、残りの二軒の家にどういう人が住んでいるのかさえわからずじまいだった。

 建物の壁は七十センチもあり、窓はすべて二重窓、一階の窓や半地下の窓にはすべて親指大の鉄格子が嵌込まれている。サロンからテラスに出るガラス戸の前にはこれまた親指大の鉄のさんのシャッターがある。玄関のドアは分厚い樫の木の板で、大きな鍵が三つも付いていた。日本人の感覚からいえぱこれはひとつの城のようなものだ。この中に閉籠ってさえいれば、よほど大きな武器を持った敵ならいざ知らず、普通の武器を持ったぐらい敵に襲いかかられても、侵入されることはまずあるまいと思われた。
 ところが、どっこい、この思い込みが、後日裏切られることになるのだ。
 
 一階には、玄関の小ホールと大きなサロンと台所。小さめのトイレ。玄関の小ホールから螺旋階段を昇った二階には、大きな寝室と二つの小寝室があつた。バランスキー家の家族構成が我家とまったく同じなのでこの寝室の組合わせはちょうど都合がよかった。我々夫婦が大寝室に入り、十五歳になる娘のアーニャの部屋に娘が入り、十歳になるクーバの部屋に息子が入れぱいいのだ。二階には、トイレ付きの大きなバスもあった。

 三階には、広い寝室と納戸。それに倉庫とトイレ付きのシャワー室。

 これとは別に地下室が付いていた。車を縦に二台入れることのできるガレージ。食糧倉庫。作業部屋。洗濯室。それにガスボイラー室。そこから全室に温水を回して暖房をとるのだ。それぞれのフロアが東京で住んでいた家より大きいのだから家族四人が住むには、充分というものだった。

 テラスから一段低くなった庭に出ると、庭も六、七〇坪もあり、ブラム、林檎、さくらんぽ、あんず、葡萄、すぐり、ぐみ、桜、ラズベリー、もみ、もくれんなどの木々が芝生を取りまいている。バラの花壇もある。テラスの回りの柵にはつるばらの蔓が絡み合っている。
 
 庭いじりは大好きなので全部自分で手入れをしている、この家を借りて貰えたら、そして、お嫌でなかったら、その後も自分が手入れに来ますよとバランスキー氏は人のよさそうな微笑みを浮かべた。

 三階は下宿人に貸しているというが、こんな大邸宅にこのポーランド人一家は現にこうして優雅に住んでいるのである。どういう種類の家族であろう。しかも、我々が借りるなら一週間以内に家を空けるというのだ。

 妻も気にいったという。前任者の家を引き継がなくて良かったともいった。確かに、あの薄汚れた家に比べれば数段ましだった。場所もモコトフ地区で周りには緑がいっぱいあった。

 そこで借りることに決め内金を入れた。壁を塗りなおすか、ということだったが、一日も早くホテルから出たい一心で、そのままでいいということにした。これは少し失敗だった。

 もし家具や繊毯も一緒に借りたければこのまま置いていっていいというので、必要と思われるものを残していって貰うことにした。これで家貝を探し回る手間がほとんど省けることになった。これは大いに正解だったし、幸運でもあった。もし残していって貰った家具を自力で全部同じ様に揃えようとしたら、任期明けまでかけても間に合わなかったかもしれない。

 さて、残るのは家主との契約だけかと思っていたらそうではなかった。家屋の賃貸契約はすべて住宅管理公団を通さなければならないのだった。

 公団の局長のアポイントを取り許可をすぐ下してくれるように、チビックと一緒にコニャクの瓶を下げて陳情に行った。オーケーがとれたので許可申請をすることにした。

 ややこしい書面にいろいろと書きこんで提出しなければならないのは日本の役所と同じである。ひととおり書類を作り、家主のサインを貰いに再度パランスキー家にでかけた。同行したチビックがバランスキー氏と相談して家の見取り図を書きこんでいる。どうも台所をないことにして家賃を安く上がるようにしようとしているようだ。まさか台所のない家などあるはずがない。削るなら別のものにしたらというと、チビックは自信たっぷり、
「任しておいて下さい」
と片目をつぶる。局長の承諸は得ていることだし、ポーランドとはそういうところかもしれないと思って、それ以上なにもいわないことにした。

 翌日住宅管理公団へ出掛けた。大宮殿のすぐ近くだつた。暫くまたされて通されたのは女性の担当官の部屋だった。かなりボリュームのある人だ。書面に目を通していろいろと質間をする。もっぱらチビックが応対する。

 最初は穏やかだった担当官が、少し苛立って来た。家屋の図面を鉛筆の先でコツコツと叩き出した。チビックが言い訳めいたことをいっている。どうも台所はどこだとやられているらしい。相手が悪かった。男の担当官なら見逃したかもしれないが女の担当官では台所がないのを見跳す筈がない。とうとうチビツクも台所を削って出したことを認めた。担当官は、得意げに賃貸面積の欄の数字に台所の分を加え、月当たりの家賃は二五〇ドルと査定した。

 台所が増えた分予想より高くなったが、二五〇ドルならまあまあではないかと思つた。ところがポーランドの仕組みは表があれば、裏があるのだ。公定レートがあれぱ闇レートがあるようなものだ。二五〇ドルと査定されると、それと同額を月々家主にドル・キヤツシュで渡すのが慣例なのだそうだ。別途その契約を家主と結んだのはいうまでもない。

 こうして家探しは一件落着、待ちに待った我家の引越しの日は四月五日になった。

 その当日、一月と一週間のホテル往いから解放された子供たちは歓声を上げて家中を走りまわつた。まだ東京から船荷は着いていなかったのでスペースは充分あつた。妻は早速台所に立った。野菜を刻む小気味のいい包丁の音が辺りに響きわたつた。

 こうしたもの音に包まれながら、わたしはサロンのソファの上に長々と体を伸ばし、一月と一週間分の疲れを癒した。 (1986/10/30〜11/1)

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ポーランドでの生活

2 買い物

(1) 家具

ワルシャワでは家具付の家を借りたが、居間にある供え付けのソファだけではバーティの客をもてなすのに足りなかつた。そこでソファを買いたすことにして、家具店回りを始めた。日本の感覚で、家具店か、デパートの家具売場を一、二回れぱ、欲しいものはすぐにでも手に入ると思っていたのだが、どっこいそうはいかなかった。相当手広くあちこちの家具店を捜し回ってもこれはといういい家貝はなかなか見付からない。
「これはいい」
と思って買おうとすると売約済だったりする。どこそこの店にいい家具が入荷したという日本人サークルからの情報で駆つけても全部売りきれていたりする。我が家でで一日も早くパーティが開けるようにして、これまで呼んでくださった人を招き返したい。そう思って暇さえあれぱ車を走らせて家具店を見て回ることになった。

 ある日、大使館から比較酌近い家具店を覗いてみたところ、思わず、これだと膝を打つようなソフアが飾ってある。少々アンチークがかつた作りで、きじも紗の入った上品なものである。
「しめた」と思い、早速妻にすぐ現金を持って駆つけるように電話し、わたしはカウンターの前に列をなしている長い行列の最後尾に並んだ。わたしの番まであのソファが売れませんようにと念じながら。しかも、自分の番にならないうちに妻が駆つけてくれるように祈りつつ。幸いにして件のソファに売約済みの札も付かず、わたしの番になるまえに、妻も息咳切って駆つけた。
「あれだ、あれ」ねたしが指差すと、
「まあ、なかなかすてきじゃない。あれなら部屋も引立つわ」
妻も大いに気にいったようだ。ふたりして今や遅しとぱかり順番を待った。やっとわたしたちの番になった。わたしは、狙いのソファを重々しく指差し、
「あれを買いたい」
といつた。と、売子は二コリともしないで、
「ニエ(駄目です)」
と言下に否定した。
「ドラチェーゴ(どうしてですか)」
[あれはもう売約済みです」
「でも、売約済みの札はどこにも付いていないではないですか」
「でも、あれは間違いなく売約済なのです」
とあくまで素気ない。
「売約済の札もなにも付いていないのに変じゃないですか」
わたしが尚も食下がると、
「じゃ、証拠を見せますから付いていらしゃい」
背筋をピンとたてて売子が先にたつ。コツコツ。ハイヒールが木の床に響く。その後をわたしたち夫婦が急ぎ足で付いていく。売子はソファの前までいくと少し膝をを屈めてクツションの部分をいとも鮮かにバタンとひっくりかえした。
「これをみなさい。ここに売約済のスタンブが押してしてあるでしょ」
なるほど、それらしい赤いスタンブが品質表示票の上に押されている。しかし、我々にはまさかクツションの真下にそんなスタンプが押してあるとは思わないし第一そんなものが見えるはずがない。いちいちソファをひっくりかえして確かめなけれぱならないのだろうか。しかし、ひょっとするとこれがポーランドふうのやり方かもしれない。腹を立ててはいけない。売子は分かったでしょといわんぱかりにわたしたちをチラリと見ると、涼しい顔をして売場に戻った。
わたしたちはそれでもなんとなく釈然とせず、しばらくその場で釣り落とした大魚を眺めていた。と、先ほどの売子が、ポーランド人のお客をつれてやってき、さっきと同じようにソファをひっくりかえし、同じ事を説明し始めた。ポーランド人にも、ソファの下に押されたスタンブはやっ見えないものと見える。これでわたしたちの気も少しし晴れたたが、売子はソファをバタンと下に戻し相変らず涼しい顔をしてたちさった。別に売約済の札を誰もが見えるところに張り直そうともしない。ポーランド人のお客はわたしたちに同意を求めるように肩をすくめ、なにやらぶつぶついいながらたちさった。

 それにしても、こんな馬鹿げたことにさかれるエネルギーはどれくらいになるのだろうか。wこんな経験をしたからには、それを無駄にしてはならない。その後は売約済のスタンプがあるがないか、ソファをひっくりかえして確かめてから、列には並ぶようにした。それでもずいぶんと無駄骨もおらされたが、なかなかいいソファには巡りあえず、必要なソファやテーブルを買いそろえることができたのは、家を見付けてから半年も後のことである。

 そのとき買いもとめた家具は、ポーランドから持ち帰り、今も我家の居間で使っている。苦労を共にすれぱ、たとえものであっても離しがたい。大して立派な家具ではをいが、わたしは、特別の愛着を密かに感じているのである。
 
 

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ポーランドでの生活

2 買い物

(2)レコード

ポーランドは音楽の国だ。市の中央にあるワジェンキ公園では夏場はショパンの大きな銅像の側でピアノ演奏会が催される。ペンチに老いも若きもゆったりと寛ぎ、緑陰でショパンの名曲に耳を傾ける。この光景が音楽の国ポーランドを象徴している。市内には常設のオペラ座やオペレッタ座、大小のコンサート・ホールもあり、宮殿の一室でも昔ながらの衣装に身を装い、かつらをかぶった演奏家が演奏する酒落た小コンサートが催されたりする。

 わたしは、こうした環境に触発され、オペラ座にもコンサート・ホールにも良く通ったのだが、いい曲を聴くとレコードが欲しくなるのが人の常。だが、ワルシャワに着いた直後には、なかなか土地勘が働かず、レコード店がどこにあるかさえ分らなかった。これでは、レコードどころでない。そこで、月に一度ほどウイーンヘ仕事で出かける用があったので、もっばら同市の銀座通りともいうべきケルントナーシュトラーセで、レコードならぬカセットを買って帰り、その穴埋めをしていた。いいものが幾らでも手に入ったが、値段が高いのが難だった。一年ほどたってワルシャワの地図が頭の中に描けるようになると、次々にめぽ しいレコード店が見付かるようになった。それ以来精力的にレコード店通いを始めたので、三年の滞在を終えて日本に帰る頃には、八百枚を越えるちょっとしたコレクションができあがった。

 最初に見付けたのはポーランド産のレコードを主として扱っている店だった。これはワルシャワ随一の目抜き通りであるマルシャコフスカ大通りの大きなデパートの近くにあった。ポーランド産レコードの代表的多レ−ベルである「ムーザ」のクラシック音楽や、ジャズ、ロックのレコードも結構数多く揃っていた。もちろんこの店には他の社会主義国のレーベルのもあったが、とくにソ連産の「メロディア」レーベルのものが多かった。

 店内に入ると木製の大きなカウンターがあってその後ろに売子が立っている。レコードは更にその後ろの木の棚に並べられている。小数の特別のものーといっても売子が特別重要とおもったにすぎないのだがーはジャケツトが見えるように前向きに置いていてあるのだが、普通のものーつまり、選ばれた特別のもの以外のその他大勢−は全部背表紙だけしか見えないようにびっしり立てて並べられているので、一体どの曲かはっきり分らない。わずか二、三ミリの背表紙に小さな字で書かれたポーランド語を読まねばならないのだ。ニメートルも離れたところから新聞を読むようなもので、他の客にもまれながら、カウンターから身を乗り出すようにしてやっとのこと、
「あああれはモールアルトのバイオリンソナタではないだろうか。その隣にあるのはひょっとするとショパンのノクターンかもしれない」
という程度に分る仕掛けになっている。そこで売子にそれを指差して見せて貰い、間違いがなければ買って帰るというシステムなのだ。これはどのレコード店でも同じで、日本やウイーンの店のようにボックスの中に並べられたレコードを自分で自由にめくって選ぶというわけにはいかない。だから、欲しいものを見つけだすということは、並大抵の苦労ではないのである。日本でなら一応名の知れた曲ならば、いろんなメーカーから演奏家別に数種類も常置されていて、むしろどのレーペルのどの演奏家のものにするかが問題なのだが、ポーランドでは同じ曲がいろんなレーベルから出るということはまずない。できるだけ足げくレコード店に通い、自分の欲しいものが入荷されているのを見付けたらその場で即刻買うことだ。今度何時になったらそのレコードが入荷されるかだれにも分らない。またの機会にと考えて延そうものなら、このまたの機会は永遠に来はしないのだ。

 そのうち、ソ連や東ドイツヤやチェコスロバキア直営のレコード店を見付け、わたしのコレクションは順調に成長を続けた。東ドイッのレーペルは「エテルナ」、チェコスロバキアのレーペルは「スプラホン」。

 「エテルナ」にはドイツ系の作曲家であるべ−トーベン、ハイドン、モーツアルト、バッハ、メンデルスゾーンのいいものが多く、「スプラホン」にはチェコスロバキァ出身のスメタナ、ドボルジャーク、ヤナーチェク等の曲をチエコスロバキア出身の演奏家が演奏したものが数多く揃っている。[メロディア」には、チャイコフスキーやショスタコービッチ、プロコイエフが揃っているし、「ムーザ」にはショパン、シマノフスキ−からペンデレツキーなどのポーランド出身者のものが揃っている。各レーベルともやはりお国柄があるので、それを旨く利用するといいものが集まりやすい。コレクションが揃い始めると、興味も溢々高じてくるもので、日本がら持っていった「名曲の案内」という本を参考にして、次ぎに集める必要のある曲名をリストアッブし、何時もポケットにしのばせておく。レコード店に立ちよるチャンがあればそれを参考に選ぶのである。ときにはレコード店をはしごすることもある。

 あるときチェコスロバキアの店にいくと、かねて欲しいと思つていたレコードがわんさと入荷している。思わず生つぱをのむ思いで、それこそカウンターから身を乗出し、売子に、次から次へと注文を始めた。と人のよさそうな売子が、
「お客さん、どうぞカウンターの中に入つて自分で選んで下さい」
という。早速好意に甘えて、カウンターの中に入り選び始める。そんな特権を与えられたのはわたし以外にだれもいない。ちょっと悪い気がしないでもない。カウンターの向う側から背表紙の小さな文字を目を皿のようにして選ぶのに比べ、楽なことこのうえない。これまで通りだったら見逃してしまいかねをかった掘出し物さえ次ぎつぎと見付かった。

 その日は恐らく四十枚を越えるレコードを買って帰ったはずである。両手にそれぞれ持ちきれないほど重たいレコードをぶら下げて帰ると、玄関口で出迎えた妻が呆れ顔をしている。お手伝いのイラは、
「ミステル!オーイェイイェイイェイイエイエー」
例によって両手を広げ目を丸くして驚いてみせた。でも、あんな経験ができたのも、レコードが驚くぼど安かったからこそできたこと。帰国後はそんな経験はついぞしたことがない。

 そんなわけでチェコスロバキアの店にはその後も良く通うことになって、件の売子ともすっかり馴染みになり、このカウンターの中に入る特権はそれ以降も間違いなく享受させて貰った。お陰でわたしのコレクションの中では「スプラホン」のレーベルのものが一番幅をきかすことになった。
東ドイツ店は、中年のおばさんが三人ほどカウンターの後ろに陣取っていたが、揃いもそろって不美人で不親切、おまけに店の掃除やレコードの管理をろくすつぽやらないので、レコードはどれも埃だらけ、試聴したいというと、安っぽいプレーヤーのうえにレコ−ドをぞんざいにのせ、針をドスンとぱかりに置くのである。こっちがハラハラする。だから良く注意して買わないと大きな傷が付いていたりする。是非之も欲しいと思つていたレコードを見付けても、それに大きな傷がついており、しかもその一枚しかないときなどハムレットではないが、
「買うべきか、買ねざるべきか」
と脳んだものだ。

 ソ連店は大きな店で、レコードだけではなく書籍や文員等も売つていた。ところで、「メロディア」のレーベルのものを買うときにはロシア文字(キリフ文)が読めなければならない。大学の一年のとき最初の数時間だけロシァ語のクラスに顔を出したことがあり、なんとかアルファベットは読めるようにはなつたのだが、それも十七、八年も前のことである。うろ覚えの記憶を頼りに一生懸命判読しなけれぱならない。だから、バッハがБAXであり、ハイドンがГAЙДОHであり、ぺ−トーベンがETX0ВEHであると分るまでには少々時間を要した。作曲家の名前が分かっても、それが何というソナタがシンフォニーかコン チェルトであるか見分けなければならないし、演奏家がだれかも判定しなけれぱならない。この店でもときにはカウンターの中にいれて貫ったけれど、同じレコードを二枚集めないように注意しながら、首を横にして背表紙の小さなキリフ文宇を苦労して読んだことを今になって懐かしく思いだす。

 ポーランドの「ムーザ」レーペルは、レコードも厚ぽったいしジャケツトの印刷もお粗末で、他の三国に比べ少々質が落ちる感じがしたが、これは他の国のが輸出品でありポーランドのが国内向けけであることがすこしは影響していたのであろうか。

 ただ、ショバン・コンクールが一九七五年に開催された際に、演奏された翌日にはレコ−ドにして売りだす早業を見せ付けられ、「ムーザ」もなかなか捨てたものではない、と見直したことがある。

 その年のショパン・コンクールで優勝したのが弱冠一八歳のツィンマーマンである。わたしは第一次予選からピアノ協奏曲による最終審査まで幾度も足を運び、彼が久し振りにポーランドが産んだ有力な優勝候補として次第にのしあがっていくプロセスに立ちあった。

 最終審査当日、ツィンマーマンがショバンのピアノ協奏曲第一番をほぼ完璧にひき終え、事実上優勝を決めたときの聴衆の熱狂振りは大変なものだった。そのとき購入した実況録音盤を聞き返すとあの日の興奮が蘇ってくる。

 社会主義国の各レーベルにも西側の演奏家の演奏したものや西側のグラモホン等のラーペルと提携したものもあり、カラヤン指揮の「ニュルンベルグのオイスタージンガー」やべ−ム指揮の「ドン・ジョバンニ」(歌手にはフイツシャー、ディスカウ、ニルソン、タルベラらが名を連ねている)、「フィガロの結婚」「ボツイエツク」(これもフィッシヤ−・ディスカウが主演)等もウイーンで買ううのに比べれぱ驚く程安い値段で買えるのである。

 わたしのコレクションのなかには、自慢にたる名盤も混じつている。リヒターやオイストラッハのガ一フコンサートの二枚一組みのものこの二人がフランクのバイオリン・ソナタをデュエットしたもの。リヒターのバツハ平均率クラビア全集。オイストラッハのモーツアルト・パイオリン協奏曲全集。ギレリスのモーツアルやバッハ、ぺートーベンのピァノソナタ。アルツール・ルビンシュタインのショパン。ベニー・グッドマンのモーツアルトのクラリネット協奏曲。それに、これにウイーンで買ったカラヤンのサイン入りのべー卜ーベンの交響曲全集。こういうレコードが今も繰り返し聴くわたしの愛聴盤である。

 日本にいるときには全然知らなかった東欧圏の演奏家もこのコレクションを通じて多数知るようになった。東欧圏ではよほどの実カがなけれぱレコードにして貰えない。だからレコードに数多く名を出している演奏家のを買うとまず間違いいのない漬秦を楽しめる。バイオリニストのギドン・クレーメルという名は日本ではついぞ耳にしなかつたが、「メロディア」のレーベルから次ぎつぎに彼の録音したものが発売され始めたので買って聞いてみるとこれがなかなかいい。そこでクレーメルのものは店に入荷次第集めることにした。日本にかえって来ると、ちょうどその頃、日本でも名が売れはじめていた。

 テノールのぺーター・シュ一ライヤーの名前も東ドイツの店で彼の吹込んだレコードがわんさか並んでいることから知った。バスバリトンのテオ・アダム、ハーブシコードのルジチコーワ、バイオリニストのスーク、指揮者のノイマン、スイットナー、コンドラシン、マズール、ピアニストのアンネ・ローゼ・シュミツト、パネンカなど名前をあげだせぱ切りがない。帰国後こうした演奏家が来日するとなんともいえぬ親しみしみを覚えるのである。いろんな苦労もしたがこうして集めたレコードがおよそ八百枚、その中で、べートベン、モーツアルト、バヅハ、ショバンが断然多い。

 今でも時間があったらこれらのレコードを引張りだして聞いている。しかし帰国して八年になるが、まだ一通り聞き通してさえいない。好きなものはなんぺんでも繰り返し聴くのだが・・・
 
 
 

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 3  西瓜

 ワルシャワの市内を車で走ると時々長い行列にお目に掛かる。

 肉屋とアイスクリーム店の前の行列は毎度御馴染みなので、見えども見えず、気にもならない。だから、目に付く長い行列のあるところ、何がしかの掘出し物があると考えてまず間違いない。

 そういうときは何はさておき、まず並ぶこと。これがポーランド生活者の知恵である。

 何を売っているか確かめたりしているとすぐ行列が二倍にもなってしまう。自分の直前で品切れにならぬとも限らない。まず、並び、その後で、周りの人に何を売っているのか確かめても間に合うのである。ときにはポーランド語が通じなくて自分の番になるまで何のための行列に並んだのかさっばり分らないこともある。わたしは、クリスマス用の鯉の行列に並んでしまい、結局生きた鯉をぶら下げて帰ったこともある。

 ある夏、車を走らせていたら、何時も見掛けぬ場所に長い行列ができている。しかも、このときはその行列の先の大きなビルディングとビルディングの間の狭い路上に、大きな西瓜の山があるのも目に入った。

 ポーランドで初めて見る西瓜である。子供たちの大好物。七歳の娘も好きだが、とくに五歳になる息子のほうが、好きなものはときかれると決っていの一番に

「西瓜」

と答え、思わず舌なめずりをするくらいの好物ときている。たとえどんなに長いとはいえ、この行列を見送ったりしたら、この国では父親役は勤まるまい。

 ポーランドの正式統計でも、正規の労働時間のうち労働者は一日平均一時間買い出しの為にサボっていると出ているくらいだから、わたしが家族の為にこの長い行列に加わったとしてもわたしの上司も大目に見てくれるに違いない。

 西瓜はブルガリアから輸入されたものらしい。ポーランドでは、寒すぎて西瓜は育たないのだから、乏しい外貨をさいて輸入せざるをえないのだ。それも年に一、二回のことだからこうして長い行列ができるのだ。これはオレンジとて同じことで、ギリシャやスペインからたまに輸入されるとこれまた長い行列ができるのである。

 オレンジのほうはわたしの家では外国人向けの輸入商社であるバルトナを通じて買ってっているので、買いそこなってもそれほど飢餓感はないが、西瓜は、日本を出て以来ついぞ口にしたことのない珍品である。

 ポーランド人の西瓜の買い方を見ていると、目の前で薄く切って貰って買っているのである。厚くてもせいぜい四分の一程度、薄い人になると、透けて見える程だ。値段が結構高いせいでもある。丸々太った二人の男の子をつれた母親でさえ紙のように薄い西瓜を大事そうにくるんでもらって帰るのだ。家に帰ってあれではどう分けあうのだろう。

 小一時間待ったろうか。いよいよわたしの番になった。待ちながら、わたしは、散々考えていたのである。一個丸ごと買おうか、それとも半分、いや、四分の一にしようかと。結論は出ていなかった。もちろん、金がなくてこんなことを考えたのではない。一個どころか、二個でも三個でも買うぐらいの金はあった。

 しかし、みんなこれだけ待って、高々四分の一の西瓜を買って行くのである。わたしが一個丸ごと買ったりしたら、みんなの白い目が一斉にわたしに向けられるに違いない。まだ行列は続いている。せっかく並びながら、買えない人もでてくるに違いない。

「お客さん、どのくらいにします」

 売り手の小父さんが片手に庖丁をかざして促す。わたしは背後から目に見えぬ圧力を感じながら、

「そ、そのう・・・」

と口ごもった。どうしようか。やっぱり四分の一にしようか。それとも・・・

「えつ?」

小父さんが首を傾げる。

 でも、ここで頑張れば家族はきっと喜んでくれるに違いない。まだあれだけ沢

山残っているではないか。よし!

「そ、そのう…ち、ちっちゃいのでいいから、丸ごと一つ下さい」
「丸ごと一つ?」
「ええ…」

背後から、

「ほ、ほう・・・」

といった嘆声とも溜息ともさだかならぬ声が一斉に湧き起こった。

 もう後ろを振り向く余裕はない。皆を敵に回してしまったのだ。わたしは西瓜を両手で抱え、まるで盗んだものを運ぶように背を丸め足早に自分の車へ向かった。車を運転しながらもなにか悪いことをしてしまったような意識がなかなか抜けなかった。

家に帰ると家族は大喜び。

「まあ、珍しいわね。ポーランドで西瓜だなんて」
「バンザーイ!スイカだ」

皆の見まもるなかでわたしが庖丁を入れると、パリッといい音がして、まっぷたつに割れた。真赤に良く熟れていていかにもうまそうだ。皆大きな口をあけて一斉にかぷりついた。

「わあーおいしい」

「本当に久し振りね、この味」

「パパ、ありがとう」
「今度見付けたら、また買ってきてね」

 皆は手放しでおいしそうに食べている。確かに良く熟れた甘い西瓜であったが、わたしにはちょっぴりほろ苦い味がした。

(1986/10/15記)
 

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 3 盗難事件

1986/11/2

 アルトール・ルービンシュタインがワルシャワヘやって来る。クラシック・ファンならたとえどんなはしくれといえども、こんな機会を見のがすわけにはいくまい。

 わたしは早速秘書に頼んで家族四人分の切符を手に入れた。子供たちはまだ幼かったが、当時ピアノの稽古をしていたし、この巨匠の演奏を聞いたことは終生の記念となるだろう。

 そのとき、このボーランドが生んだ不世出のピアニストは、すでに九十歳。当時パリに住んでいたが、健康が勝れない様子は、新聞などでも伝えられていた。恐らくこれが故国への最後の演奏旅行になるだろう。ショパンをひかせたら並ぶものがない名手ともいわれ、事実、わたしも数多くの演奏家のレコ−ドを聞いたが、最後に残ったのはルービンシュタインだった。

 どこがいいと言葉に出していうのは難しい。しかし、いわくいいがたい微妙なフィーリングが、ショパンを聞くならルービンシュタインといわせるのだ。同じポーランド人の血が通いあう面があるのだろうか。わたしはエテルナ版の彼のレコードを繰返し繰返し聞いた。

弱冠@@歳でデビューして以来チベット以外のあらゆる国で演奏したといわれ、美女と美食とをこよなく愛した型破りの生き方でも知られていた。もう伝説的な存在と思っていたルービンシュタインをナマで聞けるというのだ。わたしは、胸を踊せながらその日を特った。

 演奏会は、忘れもしないワルシャワ滞在二年目の十一月九日。その日は土曜日に当たっていた。六歳の息子が少し風邪気味で家に置いていこうか迷ったが、結局連れていくことにした。お手伝いのイラがその日に限って今日は都合が悪いと定刻五時にそそくさと帰ってしまったので、一人だけ残して行くのは心配だった。

 厚めの着物をきせ、コンサート・ホールヘ駆つけるともう開演の七時まで余り時間はなかった。前座のオーケストラの演奏が終り、いよいよルービンシュタインの出番になった。場内の期待が急速に盛上がって行くのが体に伝わってくる。楽屋口に聰衆の目が注がれ、今や遅しと主役の登場を待った。と、予期しない人物が現れてマイクの前に進みでた。背広姿の小男である。

「ルービンシュタインは、風邪で体調をこわされ、本日は出演できなくなりました…」
 
 観客席から溜息とも悲鳴ともつかぬ声が一斉に上がった。

「只今、ルービンシュタインのお詫びのメツセージを読み上げます。『親愛なるワルシャワのファンの皆様、誠に申し訳ない事ながら…』」

 せつかく張切って来たのにすう−っと気が抜けてしまった。代役には気の毒だがどんなに立派な代役でもルービンシュタインの代役は勤まらない。演奏を聞いていても、気の抜けたビールを飲むようなものだった。休憩時間になると早速ホールに出て、コ−ヒーとお菓子の売店の長い行列の後ろに並んだ。他の観客にしても帰るに帰りかね、なんとなく時間潰しの趣である。世っかくの主役が来ないなんてと妻とぼやきながらひょいと階段の方を見上げると、そこにお手伝いのイラが夫と一緒にいるではないか。恐らくずっと前から我々の存在に気付いてこちらを見ていたふうなのだ。目があった時の罰の悪そうなうなずきかたからそれと察せられた。

 いつもなら、子供たちの所へとんで来て、
「ムイ・コーハイニー」(私のかわいこちゃん)

とだきあげ、頬ずりのひとつもしそうなものだが、こわぱった顔のままその場を動こうとしない。

「イラは、どうしたんだろうね」

 予供たちが心配する始末だ。後半の演奏を告げるブザーで席に付く時それとなく確かめると、イラ夫婦はわたしたちとまったく同じ列の七、八番後ろの席に座つていた。
 
 演奏が終り、立上がりながら振返ると、イラ夫婦は出口からそそくさと姿を消そうとしていた。どうして、あんなに急いているのだろう。どうも今夜のイラの行動には腑に落ちない所が多い。

 車で自宅に戻ったのは十時頃だった。五寸釘ほどもある大きなキーを取りだして、ドアに三っつ付いている鍵の上から一番目と二番目をあけ始めた。まず、一番上から。この鍵はクルックルッと二回回さなければ開かない。一回目でプラス状に食込ませた爪が横に抜け、二回目でドアから爪がはずれる仕掛けになっている。半回転しかさせない日本の鍵に慣れているわたしにはこの鍵一つでさえまどろっこしい。一番目が開くと続いて二番目。これもほぼ似通った構造だが、もっとずしりとしている。でも、本当にこんな複雑な鍵を二つもかける必要があるのだろうか。急ぐとき等は本当に面倒に思えるのである。時々キーがうまく回らないことがある。

「コトン」
いい音をたてて鍵があいた。今夜はスムーズだ。ノブに手をかけ、ドアを開こうすると、これがびくともしないのだ。こんなはずはないと思って確かめると三番目の鍵が内側からかかっているのだ。その瞬間、

「やられた!」

背筋に冷たいものが走った。何ものとも知れぬ侵入者が内側から鍵をかけたに違いないのだ。通常わたしは三番目の鍵はかけない。だからキーも持ち歩いていない。従って、開けようとしても關けられないのだ。地下室のガレージから入れないことはないが、我々だけで入って安全だろうか。どこかにまだ賊が潜んでいないとも限らない。

 幸いすぐ近くのトルコ大使館の前に警官の詰め所があった。わたしはそこ車を飛ばし警官を一人連れかえつた。警官と一緒に地下室の鍵を開け、そこから家の中に入った。階段を昇りつめたところにあるドアの鍵をまず開け、玄関前のホール通じるドアをおそるおそる開き、何事もないことを祈りながら明りをつけると、部屋の中の様子は一変していた。

 ドアのすぐ側にあるはずのテーブルが玄関の小ホ−ルのドアのところまで移動している。居間を見ると、キャビネットの聞き戸といい引出といい、およそ開けられるところは全部だらしなく開けられたままになっている。妻は半狂乱になり顔を覆って泣きはじめた。子供たちも怯えて顔を強張らせている。

 二階は、もっと酷かった。寝室の洋服タンスや鏡台、ベッドの側のキャビネットもひっかきまわされて床の上も散らかり放題、足の踏み場もない有様だ。タンスの前にとんでいった妻は宝石箱がまったく空っぽになっているを見付けてへたりこんだ。ハンドバッグ類もイニシアルの入ったものを除くと、その年の夏、自動車旅行したときイタリアやウィーンで買ったものもすべて姿を消していた。

 ベッドの枕もとの上に吊ってあったタペストリーも盗まれた。畳一枚分以上もあるもので、男の子と女の子を描いた素朴な絵柄がことのほか気にいっていただけに残念に思う思いも大きかった。東京に持ち帰り枕許に飾ろうと考えていた。バランスキーさんに頼んで壁に木の杭をうちこんで飾って貰ったのに、杭ごとむりやり引抜かれた跡が痛々しく残っていた。

 荒されたのは子供たちの寝室も三階も例外ではない。娘の部屋のタンスの上に置いていたひらがなのタイプライターまできちんと持って行っている。確かに時間さえ充分にあればなにも例外を設ける必要など泥棒にはありはしない。多々益々弁ずは泥棒のセオリーというものだろう。

 同行した警官は担当が違い帰らなけれぱならないというので、急いで担当の取調べ官を派遣してくれるように頼んで帰って貰った。

 妻は錯乱状態であらぬことを口走り、ただおろおろするばかり。わたしとてもう、胸を押しつぶされる思いだ。神経はキーンと音をたてそうなほど張詰めていてとても正常には振舞えない。

  とりあえず、子供たちをベッドにいれ、現場の状況を変えないようにして警官の到着を待つことにした。ところが待てど暮らせどやって来ない。日本でなら百十番に電話すればものの数分もしないうちにパトカーのサイレンが聞こえて来るのだが…

 賊は庭に面したテラスから侵入している。テラスに通ずるガラス戸が半開きになっており、ガラスが一枚割れている。テラス側の鉄の格子で出来たシェルターがものの見事にねじまげられている。商京錠が上部と下部に付いていたのに上の方だけ鍵をし、下の方は外したままにしていたので、人が一人屈んで通れる程度に外側へ捲り上げることが出来たのだ。その下をかいくぐって、入ってきたのだ。でも我々夫婦が二人掛かりで引張ってもびくともしないような鉄の格子を曲げるのである。とても一人の人間の仕業とは思えない。それに曲げるとき、大きな音はしなかったのだろうか。近所で聞いた人はいなかったのだろうか。しかし、隣近所はしーんと静まり返っており、もの音ひとつ聞こえてこない。

 テラスから裏庭におりると人の歩いた形跡が残っている。どうしたことかバラの花壇の側に蓋の開いたインスタント・コーヒーの缶が転がっており、芝生の上にコーヒーの粉がこぼれている。

 足跡は裏の通りのところまで統き、フェンスの網が縦に上から下まで切断され、人が一人通れる分だけ開けられている。そこから悠々と出入りしたに違いない。裏の通りは夜は暗く、ほとんど人通りがない。

 二時間後に二人違れの取調べ官が現れた。午前零時を過ぎていた。どちらも背広姿。大柄で間延びした顔の五十すぎの男と、小柄で実直そうな四十台の男のコンビである。五十男がパチパチと写真を取り、小さな筆で、あちこちにパッパツと銀粉を振りかけて指紋をとる。写真をとるときには決まってここの写真を取っていいかとわたしに許可を求める。

 四十男の方は分厚い大型のノートにその一部始終を記録する。うつむいた姿勢で、一刻もペンを休めない。一体、なにをそんなに書くことがあるのだろうと思うほどだ。

 この取調べ官が到着する前に、わたしは重大な発見をしていた。サロンのテ−ブルの上の灰皿にタバコの吸殻を見付けたのである。わたしは煙草はやらないし、その日はお客もなかった。とすればこれは泥棒の吸った夕バコに間違いない。

 犯人の指紋が必要なのであれぱ、犯人の血液型も必要だろう。吸殻に着いた睡液から血液型を特定できるという話を聞いたことがあった。大変な物的証拠になるに違いない。わたしは五十男に、その旨を告げた。と、間延びした顔にニヤケタ笑いを浮がべ、右手を大袈裟に振って、

「ニエ!」

一言いって取りあおうとしない。いささか拍子抜けし、

「こいつら本当にやる気ががあるのかね」

との疑惑が湧いた。

 ところで、余談だが、翌々日の月曜日になって警察から例の煙草の吸殻はまだ残っているかという電話が掛かって来た。それまでに見舞客が尋ねてきてくれたし、件の灰皿は吸殻で溢れるようになったのでごみ箱にぶちあけた後だった。慌ててごみ箱の中をひっかきまわしたけれど、もはや、犯人の吸ったものを特定できる訳がなかった。

 捜査は一階から始まった。サロンのキャビネットからは、一眼レフのカメラや交換レンズ類、それにウィーンで買いあつめたミュージック・カセット類もケースごと盗まれていた。わたしが常日頃もちあるくアタッシュケースも中身ごとなくなっていた。ウィーンの銀座通りで買った物だ。アタッシュケースはともかく手帳類が盗まれたのが痛かった。それにマイクロ一テープレコーダーもそのなかに入っていた。せめてもの救いは地下室の上がり口のカーテンの陰に隠れて、八ミリカメラが助かったことだ。

 サロンの酒類のキャビネットからは封を切っていないスコッチやコニャク類が見事に消えていた。飲みかけのサントリーの「だるま」はちゃんと残っていた。何という余裕だろう。五十男は「だるま」にパッパッと銀粉を振りかけ指紋を探しながら
 

「これは日本のウイスキーじゃないのかね」

露骨に飲みたそうな表情な浮かべて振返った。

「飲むか」

「一杯御馳走してくれるかね。日本のウイスキーははじめてなものでね」

わたしはコップを三個台所からとってきた。五十男は一気にぐいっとあおった。

「うまい。おい、お前も御馳走にあずかれよ」

連れも勧められるままに飲み始めだ。

こうして、ウイスキー片手の捜査が始まった。酒が回るにつれて取調べ官は陽気になり饒舌になった。ピッチも上がって来た。

 もうわたしは半ば以上諦めていた。こんな調子で、犯人などつかまるはずがない。もともとつかまえる気などないに違いないのだ。盗難にあったことこそ不幸。今更どうしようもない。せめてもの救いは息子を一人残して行かなかったことだ。もし、息子を残していき、どろぼうが息子を見付けたとしたら…

 良かった。本当に良かった。これだけで充分ではないか。もうこうなれぱのんぴりいこう。わたしもウイスキーをなめなめ、延々と続く捜査に根気よく付合った。

 我々がルービンシュタインのコンサートヘ出掛けたのは、六時半頃、それから帰ってきた十時までの三時間少々の間に、鉄の格子のシェルターをねじまげて侵入し、一階から三階までのおよそ値打ちのあると思われるものをことごとく持ちさる手際の良さ。とにかく冷蔵庫の中の肉までもっていっているのである。いかにも肉が恒常的に不足しているポーランドに相応しい泥棒ではないか。
 
 今日という日のこの時間を選んで侵入したことだけを取りあげてみても賊が我々の今夜の行動を熟知していたことを裏付けている。何といっても、かの高名なルービンシュタインのコンサートである。切符を四枚手にいれた以上家族四人揃って行かないはずがない。そこでコンサートの開幕のベルに合せて賊は忍込み、閉幕に合せて、退散したのだ。しかし、開幕時間と閉幕時間と登場人物だけが決まっておりシナリオのない劇などありうるだろうか。

 とすると誰かがシナリオを書いて渡したに運いない。でなければ、この手際よさをどう説明したら良いのだろう。わずか三時間余りの間に寸部の狂いも生じない完璧な劇を上演出来るはずがない。まるでそこになにがあるかを知りぬいたものが少しも迷わずそこへいき、そこにあるものを機械的ともいえる正確さで運び去っているのである。悠々と煙草さえくゆらせながら。しかし、一体誰がそのシナリオを渡したのだろう。
 
その時チラッとイラの姿が閃いた。

 どうしてイラはあそこにいたのだろう。我々の監視役?開幕を告げ、閉幕時間が来たことを知らせる助手がいれば出演者はどれほど楽かしれない。万が一ルービンシュタインに事故があって我々が早めに帰宅したら…確かにその万が一が起こりはしたが、我々は早めに切りあげてこなかっただけだ。演奏会が終わるや入口に急いだイラ。それにあそこにいれぱイラには完全なアリバイが成立するではないか!ただ、余りに完璧すぎる。

 日本にいると、大半の人が自分の家の電話が盗聴されるとか、手紙が開封されるとか、尾行されるとかいったようなこととまったく無縁な生活を一生送る。だからこの種のことに対してはまったく無感覚になる。わたしとて例外ではなかった。この共産圏の真直中に一年半も生活しながらまったく日本にいるときと変らぬ感覚でこれまで過ごしてきた。

 ドアに三つ鍵があるのは三つ鍵が要るからだ。シェルターの上下に南京錠が付いているのは上下とも必要だからだ。何とそれでも充分ではなかったらしい。後日現れた家主にシェルターをよじまげられて賊に入られた話をすると、家主は我々をサロンのテラス側の壁の所に連れていき、ちょうどカーテンの陰になっていたクランクのようなものを示して、それを回しはじめたのである。すると賊にねじまげられた鉄のシェルターの外側に、もう一枚厚い鉄のよろず戸が静々と降りてくるではないか。これだと戦車ですら撥ね付けて終うだろう。降り切ると部屋は真っ暗になった。

 そこまで徹底しているのである。自分の無知さ加減に無性に腹がたった。

 わたしの前には間延びした顔でウイスキーを飲み飲み銀粉をはたいている男とせつせせつせと記録をとっている男がいた。この二人の男にしても自分に割りつけられた役割を見事に演じている名優に違いない。共産主義圏の暗い楽屋からこの晴舞台に登場し、シナリオに従ってこうして立派に演技を演じているわけだ。わたしも負けるわけには行くまい。立派に相手役をやりおおせなければ。わたしにはファイトが湧いてきた。

 この時初めてわたしは自分が共産圏のど真ん中で生活していることを実感した。共産圏で暮らすことの本当の意味を理解したのである。

 捜査は延々と続き、終わった時には朝の六時になっていた。その間、本部へ一本の電話を入れる訳でもなく、一本の電話が掛かってくるわけでもない。庭に出て泥棒の足跡を確かめるでもない。最初から最後まで銀粉パッパッと写真とりだけ。恐らくポーランドの泥棒は、警察ののろのろ捜査に合せて、逃げるときにものろのろと逃げてくれるに違いない。

「いやーすつかり御馳走になっちゃって」

といわんばかりの格好でこの二人の名優は手を振りながら舞台から未明の暗闇の中へと消えていった。

 その早朝、わたしの一報で駆つけてくれた、ポーランドに長いこと住みついている外国人は、これはポリティカルであると言下にいった。だから絶対つかまらないと。つまり、警察とぐるで、なにか重要な書類のひとつでも盗みだして警察に提供すれば、後のものはなにを持ちだそうと見逃すという了解があるというのだ。

 おそらく、この頃評判のトラックで乗付ける三人組ではないか。このところ二週間ごとに外国人の家に忍び込んではごっそり盗み去るが決してつかまらない。彼が名前を上げる被害者のなかにはわたしの知人も混じってていた。

「盗まれたものは決して出てはきませんよ」

彼は確信ありげに予言した。

 イラは、月曜には定刻にやって来た。顔をそむけるようにして入ってき、我々が泥棒に入られたと言わないのに泣き顔になった。そしてハンカチで顔を覆うと台所のテーブルにうつ伏して泣きはじめた。それ以来一週間というもの泣き通しだった。仕事にはほとんど手がつかなかった。

 イラは我々の行動には以前から異常と思えるような関心を示しており、我々がパーティをやった翌日など、誰がお客に来たかとうるさいくらい妻に尋ねたりしたものだ。そのイラがなにひとつ聞かない。泥棒に入られたことについてさえつ いに一言も聞かなかった。
 
 泥棒に入られる一週間前からイラはどうしたわけかテラスに面したガラス戸の前に電機掃除機を置きはじめた。それまで玄関脇の小さな物入れに置いていたのに不思議だなと思っていた。でもその辺りにはゴムの木の鉢も置いてあり、ソファのかげになりそれほど客の目に付くわけでもないので黙って、するに任していた。

 泥棒の入った経路は後になって詳しく調べて見ると、テラスに面したガラス戸の二重のガラスの外側の一枚だけしか割れていなかった。もし、がラス戸を押えるスライドの鍵が正確に掛かっていたのなら、部屋の中に入る為には、ガラスを二枚とも割り、手を差込んでその鍵を外して入らない限り、ガラス戸の上の漆喰を大きく壊さなければならないのだ。だが漆喰はまったく痛んでいない。とすると最初からスライドの鍵は掛かっていなかったと考えるよりない。ガラス戸の前にそれとなく置かれた電気掃除機はガラス戸が前に開かないように押えつけるため意図的ににおかれたものだったのだ。
 わたしが、その推理を訪ねてきた客に話していたときだ。ふっと人の気配を感じて後ろを振りかえるとちょうど螺旋階段の途中でこちらを見ていたイラと目が合った。そのときのイラの表情は、猟銃を向けられもなや逃れる術のないことを悟った雌鹿のように痛々しかった。

 知らせをきいて家族共々月曜日に駆つけてくれた家主は、テラスのすぐ下の地下室の窓ガラスの前の鉄格子が真四角に切断されているのを発見した。その切断の跡はピカピカと光っているものから茶色に錆び付いたものまで様々だった。テラスは庭より一メートルほど高いのでテラスのすぐ下はサロンからは死角になっている。その陰に時々忍びこんで、やすりで気長に切断したらしいのだ。我々の目を盗んでは、鉄が錆びる程の長い期間そこに出入りしていた人物がいたことを考えるとぞっとした。よほど地の利をえた人物に違いない。わたしは思わず、黙々とそびえたつ周りの建物を見回した。

 切断された鉄格子に面した地下室の窓ガラスは破られており人がそこから入り込んだ形跡があった。それに地下室から玄関のホールに出るところのドアの鍵を無理やり開けようとした跡もあった。恐らくそのルートで侵入し鍵をこじあけるのに失敗して、テラスからのルートに切替えたに違いない。鉄格子は切断したものの、地下室からの侵入に失敗し、へたをすると鉄格子を切断したことに気付かれる恐れがあるということで、多少無理を承知でコンサートに出掛ける短い時間を選んで侵入したのではないだろうか。

頬はこけてしまった。ちょうど一月たった頃イラは病気を口実にして辞めていった。

 イラに逃れる道があったろうか。イラも犠牲者に過ぎないのだ。イラがやったことといえぱせいぜいシナリオを書くための材料を提供したにすぎない。たとえどんな報酬をもらったにしても事件後の彼女の精神的な憔悴を埋合せるものではなかつたであろう。

 体制が人間をスポイルするのだ。力持ちで働きもののおぱさん。六十五歳になるまで恐らく何のこともなく平凡に暮らしてきたに違いない。ところがたまたま外国人の家にお手伝いさんとしてはいりこむことになった。

 事件後知ったことだが、外国人の家や会社でに働くものは一週間に一回当局へ報告する義務があるのだという。だからイラはパーティの翌日などどんなお客があったのか、どんな話をしたかのかと根掘り葉掘りきいたのだ。そのつながりから今度の事件に巻きまれることになったにに違いない。わたしは同情こそすれ憎む気にはなれなかった。

 といって、イラがまったくの聖人君子であったなどと言うつもりはない。人並みにあるいはそれ以上に我々の持っているいわゆる西側の品物に対して羨望は抱いていたのだ。イラが我家に来て以来時々妻の折畳み式の傘とかスカーフとかが紛失することがあった。一体どこへ行ったのだろう。妻はその度にいぶかしんだ。まさかイラがと思っていた。
 
 イラが辞めて行った後、家の隅々まで片付けものをしていると、以前粉失したものが一纏めになって三階の倉庫の一番奥から出てきた。それはどう考えてもイラの仕業としか考えられなかった。ちよつとくすねてみたものの、家の外へ持ちだすだけの勇気はなかったのだ。そのくらい小心なイラだった。そんな小心さが、意に反して事件に荷担したことの重圧にたえかね、身も心もぼろぼろになり、ついに辞めざるをえない事態を招いたともいえよう。

 人間の記憶などまったく当てにならない。玄関のテーブルが動いたのは賊が玄関からはいつてくる人を邪魔する意図で動がしたのかと思つていたのだが、数日たってそれがその下に引いていた絨毯を盗むために動かしたものであることに、やっと気付く有様だった。子供たちも何日かたってから

「あっ、僕の機関車の玩具がなくなっている」
「わたし貯金箱ない」
と気付く始末だった。だから、盗難品のリストは増える一方だつた。

 事件後警察から時々呼出しが掛かった。盗難品が出てきたので見に来てくれというのだ。その度に妻と一緒に出掛けたが、子供だましのガラクタばかり。相手は真面目な顔をしてこれではないかと机の上一杯にいろんな物を並ぺるのであるが、一眼レフの代りに安っぽいバカチヨンカメラが、室石の代りに色の付いたガラス球が示されるのである。
事件発生当日、二人の係官をおざなりに派遣しただけで、その後、近所の聞き込みひとつせず、テラスから逃げた泥棒の足跡の検分もしない警察が、本気で泥棒を追っているなど到底思えなかった。だから、見せ掛けの熱意を示すために、時々こうして呼び出しが必要だったのだ。

  保険には一銭も入っていなかった。うかつにも社会主義国に保険があるかさえ確かめてもいなかった。だから丸損ということになった。

 社会主義国は理想の社会で、泥棒などいないという神話を半分信じていた。それに、なによりも、親指大の鉄絡子の入った住宅に入った途端、これを破って入って来る泥棒などいるはずがないと単純に思いこんでいたのである。

(1986/11/6)
 

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ポーランドの日々(メモ)


国のあらまし
 母なる大河ヴィスワ河平たい国 森林面積ポーランドの農業(1983年)

政治
乳牛に鞍気違い

自然
鹿リスアヒル野鳥ハンティングの国


碁のヨーロッパ選手権は二週間も続く

買い物
家具

食べ物
お燗されたワイン

執筆メモ



 

国のあらまし

平たい国

 ワルシャワの平たさに気付いたのは東京に帰ってからである。ポーランドから帰国して、東京で初めて車を運転したときのことだ。
 赤信号で車を停めると、決まって車が、前へ動いたり、後ろへ動いたりするのだ。あわてて、ブレーキをかけなければならなかった。
 ポーランドではこんなことはついぞなかった。車を停め、ブレーキを踏まなくても、車はその場に留まったままで動かない。だから、車の運転を始めたポーランド時代には、停車してもブレーキをかける習慣は、全くつかなかったのである。それだけポーランドが平たく、東京の道はたとえ、真っ平らに見えても微妙に傾いているということだ。
 ポーランドの平均高度は60メートル程度、日本に比べればほとんど真っ平らな国と言って良い。国中どこを走っても、山らしい山に出くわすことはほとんどない。だから、雪が降ってもスキーができない。スキーのためには、チェコとの国境にある山岳地帯にわざわざでかけなければならないのである。この地帯は、ヨーロッパでも最も古い地層といわれるカルパチア山系に属している。
 われわれ家族も、毎冬、クリスマス休暇は、チェコとの国境に近いザコパネで過ごした。そこまで行かないと本当の山らしい山はなく、スキー場もないのだ。でも、スキーのためとはいえ、凍り付いた冬道を片道で400キロも走るのは骨だった。

母なる大河ヴィスワ河
ヨーロッパの大都市は、大河に沿って発達している。ポーランドも例外ではない。
ポーランドは、ヴィスワ河が生み出した国とも言え、この大河沿いにない大都市を探すのが難しい程だ。首都のワルシャワ、17世紀まで首都だったクラコフ、国際見本市の開催されるポズナン、コペルニクスの生まれたトルン、バルト海に面したグダンスク、グジニア・・・
 このヴィスア河は、チェコとの国境にまたがるカルパチア山系の山中に源を発している。そこまで旅行したことがあるが、全長  キロの大河もその辺りではチョロチョロと流れるありふれた小川に過ぎなかった。
 この大河が冬ともなると凍結し、まるで爆撃を受けたレンガ造りの建物の瓦礫のようにごつごつと盛り上がるのには驚かされた。平たいところを探し出すのがむずかしほどなのだ。冬になると、子供連れで、よく見に出かけたものだ。

単一民族、日本の情報アンテナは単一方向
フランスにも、ラテン系もいれば、ロシア系、ポーランド系、アフリカ系もいる。イタリア、イギリス、ドイツも同じ。アメリカは言うまでもない。
ユダヤ人と言う回路もどの国も持っている。
親類を通して情報が入る。ポーランドも、表向きの情報に対抗できるものとして、各国にいる親類からの情報がバランスをとっている。政府の与える情報だけが、彼等の情報ではない。それに対して、各国に血のつながった親類を持たない日本の情報はどうしても片寄りがちである。(1986/11/19)
ポーランドが危機に陥った際、自分の同胞を助けよという動きが、アメリカでも起きる。ポーランドですら、友邦国を持っている。日本はどうか。(1986/11/19)

森林面積
森林面責は8700千ヘクタール。対国土面積27.8%
日本は25198千ヘクタール、国土面積の67.7%

ポーランドの農業(1983年)
馬160万頭、牛1126万頭、豚1558万頭、鶏6100万羽、牛肉635
千トン、(日本495千トン)、豚肉1400千トン(日本1429千トン)、家禽類195千トン(日本1260千トン)、チーズ401千トン、バター280千トン、鶏卵423千トン、一人辺り食肉消費量70kg(日本35kg)


政治

 

乳牛に鞍
共産主義はポーランドに似合わない。それは乳牛の背に馬の鞍をのせるようなものだ(スターリン)
工藤幸雄『乳牛に鞍』(1985/2/6毎日新聞第一面広告より)
気違い
ポーランドの置かれている状況をまともに考えると気違いになるよりないとワルシャワ空港で言った若い女性の通訳がいた。ほっそりした美しい人だった。
 日本もポーランドよりましだけれどまともに考えだすと気違いになるよりない面を沢山持っている。私は改めて彼女に共感を覚えた。インテクチュアルであるということは、気違いにならざるをえないようなところに目を据えることなのだと思う。表面的なところだけ見て、スイスイと生きていければ、その人はインテリジェントであってもインテレクチュアルではないだろう。(1986/11/8)
 


食べ物

お燗されたワイン
酒をお燗するのは、日本独特のものだと思い込んでいたのだが、そうでも、ないことがわかった(注1)
ザコパネにスキーに行ったときのことだ。同行したダスさんに連れられて市内の名所見物に出かけた。ケーブルカーを登った小高い岡に登ると一面の雪の原だった。その日は風の強い日で、近くの樅の林が、うなりを立てていた。折れてしまわないかと心配になるほど大きく曲がっている。たちまち、体温がうばわれるような冷たい風だった。その中を子供連れで、公園の中を一回りした。よくしたもので、この寒さの中でも、ちらほら他のスキー客らしい人も見物に来ているのだ。
 寒さに関係ない子供たちは、元気いっぱい走りまわっている。ちょっとした斜面を見つけては、靴でスキーのようにスーと滑り降りる。真似して やってみたが、なかなか難しかった。
 そんな寒さの中でも、篭にものを入れた売り子が、ものを売ってまわって回っているのだ。篭の中を覗くと、ヤギのチーズだった。独特のきつい匂いがした。試食してみたが、それほど美味しいものではなかった。
 一通り、公園の中を見て回って、ケーブルカーの乗り場近くに戻って来たら、小さな丸木小屋でワインを売っていた。
案内役のダスさんが温かいワインはどうだという。
「えっ、温かいワイン?」
思わず、聞き返した。
「そんなワインがあるの?」
「あるとも」
 木のドアを押して中に入ると確かに温めた赤ワインを売っているのである。ガラスの器の中でワインが温められており、客が注文すると、蛇口からコップに注いでくれる。凍えた両手でコップを挟み込むようにして持ち、きゅっと一杯やると冷えきった体の中にお燗されたワインの温かみがしみ通ってきた。
 これは、なかなかいける。
 寒いときには温めて飲む。人間、どこでも、考えることは同じと見える。(1986/10/31)

(注1)日本人は、お燗するのは日本独自の風習と思い込んでいて、あちこちで今でも、日本以外の国でもお燗して、飲むのを初めて発見したという文章にお目にかかる。(1998/3/29)
  


自然

鹿
家族連れのドライブ旅行で、チェコとの国境に近いザコパネへ向かっていたときのことだ。幹線道路、と言っても、二車線ほどの道でしかなかったが、車がほとんど見えないくらい空いていたので、私は前を行く車にかなり接近して、かなりのスピードで走っていた。その道が、森にさしかかったときだ。時刻は夕暮れ時。前の車がいきなり急ブレーキをかけた。私も驚いて急ブレーキを踏み込み、やっとのことで追突を免れた。いったい、こんなところで急ブレーキとは、と思って前方を見ると、なんと、大きな鹿が、今しも道路を横切って、向い側の森の中へジャンプしながら、姿を消すところだった。子牛程ある大きな鹿だ。優雅な身のこなし。ジャンプするところは、まるでスローモーション映画を見るような感じだった。
 そう言えば、道路標識に、鹿のマークが書いてあった。「鹿が道路を横切ることあり、注意!」の標識だったのだ。
 ポーランドを車で走ると、これと同じ標識があちこちにあった。それだけ野生の鹿が多い証拠なのだろう。ポーランドは自然保護に力を入れているて、道路の縁を雉がゆったり歩いていたり、このように鹿が姿を現すたりするのだ。特に、チェコとの国境に近いこのザコパネ近辺では、森の中や岩場の上に鹿を何度か目にしたことがあった。人通りのけっこう多い山道のかたわらで悠然と寝そべっている鹿を見たこともある。
 さて、鹿も森の中に姿を消したのでさあ出発とばかり、前方不注意のまま、アクセルを踏み込んだところ、それこそ、危うく前の車に追突しそうになって、あわてて急ブレーキをかけた。前の車は、鹿見物を決め込んで、まだ悠然と停車していたのである。
(1986/10/17)

リス
ワルシャワ市の中央にあるワジェンキ公園にも、リスがおり、樹の枝の上を巧みに走り回る。人の側まで降りてきて、ピーナツなどを直接貰う。貰うと2、3メートル後ろの落ち葉をかき分け、埋めてから、また貰いにやってくる。その仕種が可愛い。

野鳥
 市内でも、野生の鳥や、水鳥がいっぱいいた。餌を手ずから貰う小鳥もいる。ワジェンキ公園で老婦人の手から、ホーバリングしながら餌を貰う雀大の小鳥を目撃したことがある。一般的に、野生の小鳥にしても、日本の鳥よりも人間を恐れない。
 冬期には、ワジェンキ公園では、池の凍り付いた氷の一部を割って水鳥に餌を与えていた。池の水面に溢れる程、白鳥、がちょう、鴨のたぐいが集まって来ており、鳴き声が凄まじかった。
 大きな水鳥のなかには足を挫いたものがいた。降りるのに十分な水面がないので、やむなく氷の上に降りて、挫くのだ。


ワルシャワの街のなかには、どこにいっても鳩がいっぱいだ。道路にも公園にも。、もちろん雀もいっぱいいる。
車で走っていると、ほんとうに直前になるまで飛び上がらない。今度はとうとう轢いてしまったかとこっちがハラハラするほどだ。ところが、絶妙のタイミングで飛び上がり、車が行き過ぎると、また元の場所に何ごともなかったように降りたち、悠々と餌を啄み始めるのだ。

わたしの家の庭にも、かささぎなどの大きな鳥が、姿を現した。二階の窓から見える大木に、鳥が鈴なりになることもあった。木の枝と鳥とが織り成すシルエットが夕焼けの空に浮かび上がる。ポーランドではどこに行っても野生の鳥がいる。自然と共に生きているという実感があった。


 鶏は野原を走り回り、地虫を食べて大きくなる。だから、その卵の殻は堅い。日本の卵を割るつもりで茶わんの縁などで軽くコツンとやっても、割れない。ひょっとするとゆで卵だったかと疑う。割ると黄味の色が濃く、皿の上でも、丸く盛り上がる。目玉焼きにすると、本当の目玉のように丸くなる。

アヒル
 ポーランドは、平坦な国で至る所に湿地帯があったが、そういうところにはアヒルが群れをなしていた。車で走るとよく目にしたものだ。
 ポーランドの名物料理にカチカ料理があるが、これは要するにアヒル料理のことで、味付けが日本人向きで、日本人社会で 人気があった。とくにスターレ・ミヤストの一角にあった料理店のカチカ料理は評判で、我が家も、何度か出かけた。一羽そのままか、半羽かの単位で注文するのだ。

ハンティングの国
自然が沢山残っているので、ハンティングが盛んだった。ビスワ河の水源地を訪ねた山の朝、食堂で銘々の自慢の犬を連れたハンターの一群と出くわしたことがある。鹿やイノシシ、ウサギを撃つのである。ヨーロッパバイソンは、保護地域で保護されているが、年に何度か、ハンター用に何匹かが提供される。すると遠くはアメリカの金持ちからまで申し込みがあるらしい。百万円台の金がかかるとか聞いた。
フランス大統領のディスカールディスタンもハンティングが好きで、休暇を利用して、ポーランドにハンティングに来たこともあった。
 ハンティングがポーランドへ旅行者を集める目玉商品にもなっていた。
「ポーランドでハンティングを!」
をと言うキャプションが書いた広告をみたことがある。



 

買い物

家具
 いいソファが欲しかったが、気に入るものがなかなか見つからなかった。何軒家具屋を探し回ったことだろう。やっとある店でいいのを見つけ、家内に金を持って来るように電話し、わたしは長い行列のうしろにならんだ。妻が、あたふたと駆け付けた。やっと自分の番になり、これを下さいと店員に頼んだ。店員がそのソファーをひっくり返し、一枚の紙を見せた。売約済みの紙だった。  (1986/10/14)cfエッセイの部:買い物:家具
 
 

碁のヨーロッパ選手権は二週間も続く
碁のヨーロッパ選手権(注2)に招待されたが、二週間にわたって悠々と打ち続けられる催しには、短い夏休みしかない私には到底参加できなかった。個人選手権は、持ち時間3時間。60秒のbyoyomi(秒読み)付きだ。このbyioyomiだが、述語になっている。碁の述語のほとんどはヨーロッパでも通ずるのである。

 (注2)ヨーロッパ選手権の開催国:第19回(1975年)クレムス(オーストリア)、第20回(1976年)ケンブリッジ大(イギリス)第21回(1977年)オランダ



執筆メモ

ある国については、そこに到着した直後、新鮮な感覚が残っているうち未熟を恐れず、書くか、あるいは長い思考の沈潜の後、数々の経験をし透視し、そこに残ったものについて、書くかのどちらかである。(1982/1/28)


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