多くの人から外国赴任時代には人聞らしい生活ができたという話を聞かされる。かくいう私も金くその通りだと思う。10年ほど前社会主義国であるポーランドという国に3年間滞在したが、そのときの生活が日本での生活に比べて一番人間らしい生活だったような気がする。
なにが人間らしい生活かというと、日本にいるときに比べて格段に広い家に住み、職住接近で長い通勤や「酷」電に悩まされることがないなどいろいろあるけれど、何といっても、自分の時間を自由に計画的に使えたという点が一番である。
日本では会社勤め、役所勤めをやっているとなかなか自分の自由時間を確保しにくい。万事が仕事優先だから、仕事が個人の自由時間に土足であがりこんでくる。今日中に片付けなければならないと言われれば、残業しても片付けざるを得ない。
だから前もってオペラヘ行く、家族と待ち合せて夕食を取りに出かける、仲間うちでパーティを開くというような計画が立てにくい。せっかくのプランがおじゃんになるような経験を繰り返すうちに、退社後の時間もついつい計画的な使い方をしないようになってしまう。
日本でマージャンや赤ちょうちんが流行るのはたまたまあいた時間の埋め草にちょうどいいからに違いない。今日は残業がないからさてオペラだ、パーティだというわけにはいかないのだ。そこでオペラとかコンサートの方は女性や若い人に任せて成人男子はせっせとカラオケやマージャンに精を出すことになる。こうして見事な男女棲み分け社会ができあがる。
長期休暇なども日本では定着していないのでなかなかとれないが、それが定着している国へ赴任すると一幸いにしてポーランドもそれが一般化していた一比較的楽にとれる。現地採用の職員が、それこそ運転手もお手伝いさんもちゃんと取るのに、雇い主たる日本人がとれないのは情け無いということで、その反射的な恩恵に浴するのだ。
こうして会社や役所に管理されない自由時間をたっぷり持てると人間らしい生活をすごしたという気になるものだ。日本では疎遠になりがちな妻や子供とも付き合える。本国で見ることもできなかったオペラも見れるし、コンサートホールヘも通える。外国人ともパーティやテニスなどを通じて随分仲良しになれる。読みたい本も読めるし、絵も書ける。旅行もできる。つまり自分のやりたいことがなにかと計画的にできるのである。
本国では無理で、外国で人間らしい生活が送れるというのも全くおかしな話だが、この事情は今も少しも変っていない。
日本では休むことに多少の罪悪感が付き纏っている。滅私奉公で自分の属する組織の為に自分の自由時間を何時でも快く献上する気構えが要求される。休む=仕事をサボるという後めたさから、有給休暇さえ完全に消化しにくい。長期休暇にしても、定着にはほど遠く、盆と正月に一斉に、しかも、ちょっぴりとるよりない。ウィークデイにゴルフに行っていた公務員が新聞種にされる。自由時間でさえ回りに気兼ねしないではエンジョイできない。そういう社会ではなかなか人間らしい生活は送れない。
ところが欧米では、皆が自分の自由時間を大切にし、心から楽しんでいる、つい我々余所者もその雰囲気にとけこみ自分の時間を心からエンジョイすることになる。私の場合、夏休みの自動車旅行がそのハイライトだった。そのときの失敗談を一つご紹介しよう。
3度の夏休みとも西側に自動軍で出掛けたが、一回の旅行で3000から6oooHも走った。ヨーロッパは幸いに陸続きで、きちんとした地図さえあれはどこへでも車でいける。共産主義国の国境を通るときには手続きに時間がかかるが。西側の国の国境は駅の改札を通るのとさして変わらない。
ある夏はワルシャワからローマまで行った。チェコスロバキア、ハンガリーを抜け、ユーゴースラビアからはアドリア海をフェリーボートでイタリアに渡った。朝7時に港を出、太陽が次第に高く上がっていくにつれて甲板に陣取った乗客が1枚1枚と服を脱いでいく。目の前に座っていた若い女性も最後にはブラジャー姿になってしまった。日光にあたる機会が少ないのでチャンスさえあれぱすぐ日光浴を始めるのだ。
イタリアには午前中に着いたが、急ぐ旅ではないので、適当な海水浴場があれぱそこで一泳ぎしながらのんびりと進み、その晩は、アドリア海に面したポルト・サン・ジョルジオという小きな町に一泊、翌日イタリア半島を縦走するアペニン山脈を越えてローマヘ向うことにした。
さて、翌朝、高速遠路に乗ったところで、ナビゲータ役を助手席の妻に頼んだ。高速道路なら迷うこともあるまいと思ったからだ。ところが、快調に飛ばしていた高速道路が突然なくなってしまったのだ。妻はそんな筈はない、地図にちゃんと書いてあるという。しかし、現実に高速道路はそこでお終いなのである。
地図をよく見ると何のことはない建設予定の記号が付いている。ローマに行くのなら、50キロメートルも手前の道を右に折れなけれぱならなかったのである。だが引返すのでは時間が完全に無駄になる。ままよとぱかり、そのまま前に進むことにした。今その地図を引っ張り出してみてもよくその気になったものだと思う。
高速道路を一歩離れてしまえば、地図の精度は極端に悪くなる。それこそ道無き道をひたすら進むようなことにあいなった。まるで田んぼの畔道を進み、山中のけもの道を進むような難儀を繰り返しながらも、どうにかまだ日の高いうちにローマに辿りついた。カラカラの大浴場などのローマの遺跡が目に飛込んできた時のホッとした気持ちはなにものにも替えがたいものであった。
家族も良くやったと誉めてくれたけれど、思いかえしてみればそれは私の手柄でもなんでもなかった。何のことはない、すべての道はローマに通じていたのである。
(「季刊輸送展望」1988年冬季号掲載)
新聞で「本にする原稿をさがしています。もちこみ原稿を積極的に本にするニュースタイルの出版社」という広告を見つけた。企画Aタイプなら、全額出版社側の負担で出版します。企画Cタイプなら自費出版の扱い、企画Bタイプならその中間で、定価と流通コードをつけて書店注文を受けられるとの、説明がついていた。
いろいろ考えた挙句、その出版社に持ち込んでみた。半月ほどして、連絡があった。企画Bタイプで出版してあげられる。個人の費用負担は220万円ほどだが、これは、採算を度外視したほとんど実費に近い金額であるので有利ですとの注釈がついていた。
この話に乗ろうかとも考えた。自費出版しても同じ位はかかるのだし、流通コードをつけてもらえるのだから、書店注文があれば、売れるかもしれない。
しかし、220万円は、趣味につぎ込むにしては少々金額が大きすぎる気がした。わが家の大蔵省は、鼻から否定的だった。
ちょうどそのころ、インターネットがにわかに注目を浴びてきて、個人でもホームページを開けるとの情報を手にいれた。パソコンとのつきあいは、ポケコン時代からのものだし、ワープロは、100万円もする時代に購入し、以来、ほとんどの原稿はワープロで書いている。パソコン通信にも、2年前に加入し、歌句会などのフォーラムの常連として、楽しんでいた。
そうだ、自分のホームページ(HP)を開設して、インターネット上で、出版してしまえばいいんだ。アイデアがひらめいた。
さっそく、インターネットの勉強を始めた。HPの作りかたは例によって独習した。プロバイダーとも契約し、当初、他人のHPを覗き回るネットサーフィンから始めて、HP作りに必要なソフトのダウンロードもした。ワープロのフロッピーから、パソコンへの原稿の移植もせっせとやった。あまり、人まねはしたくなかったので、HPのスケルトンを練り、いろいろとデザインも考えた。
今年の節分の日に『阿部毅一郎のお愉しみコーナー』と銘打って、HP開設にこぎ着けた。構想は、膨らんで、エッセイに限らず、わたしの趣味としてきたものを網羅的に取り上げることにしたので、本にすれば、5冊分には相当するものを掲載することになった。テーマは、水彩画、短歌、俳句、川柳、歌詞、言葉遊び、童話、紀行文、日本経営論(これは、別の出版社から商業出版したものをほぼ、そっくり載せた)、時事評論、読書、囲碁、スポーツ(スキー、テニス、ゴルフ)と17にも及び、私家版全集の趣を呈している。
さて、反応が心配だったので、3月27日には、訪問した人のカウンターを設けた。うれしいことには、ちゃんと見てくれる人があって、カウンターの数字が、HPにアクセスする度に増えているのだった。
出版の220万円に比べたらHP造りにかけた費用なんてただ同然なのに、ちゃんと読んでくれる人がいて、「『単身赴任者の愉しみ』を読みました、わたしも単身赴任したことがあって、まったく同感です」などと見ず知らずの人からメールが舞い込んでくるのである。10月9日現在で、1400を上回る人が、わたしのHPを訪問してくれた。
作家の林望さんが、ある雑誌(日経ネットナビ1997/10月号)で『私のブックマーク』に、わたしのHPを取り上げて、次のように紹介してくれた。
<ネットと付き合うようになって、新しい発見もあった。例えば、右ページで紹介した『阿部毅一郎のお愉しみコーナー』(http://www.linkclub.com./~akybe/index.html)。俳句、囲碁、エッセイ、スポーツ、水彩画まで、何でもござれの風流な紳士が、趣味で作っているホームページだ。「日本にも本当の意味での趣味人がいたんだなとうれしくなりましたね」>
その右ページの紹介欄には、
<私が連載している日本経済新聞のコラムを読んでメールをしてきていただいた方のホームページです。「人生は愉しみへの旅である」とのコンセプトに従って、水彩画、エッセイ、俳句、ドライブ、童話などさまざまな「部屋」がとりそろえられていますが、どこも非常によくできている。作者はいかにも趣味人という感じがしますね。この方も私と同じで、ホームページが「私自身の広告」そのものになっています。本来、ホームページというのはこうあるべきだと思いますね>
こんなうれしいコメントがついていた。わたしは、これまでのわたしの生き方そのものが是認されたように思えて、思わず、小躍りしてしまった。
220万円かけて出版していても、半年の間に1400人もの人に読んでもらえるとは限らないし、エッセイのみならず、いわば雑多の趣味の数々までも、高名な作家から評価してもらえるようなことなど、ほとんどありえなかったろう。
このことは、インターネットの新しいメディアとしての有用性がいかに高く、それを有効に利用すれば、個人の才能を伸ばす分野が限りなく広がっていることを示している。既存のメディアに頼らずに、ちょっとした工夫をし、新しい使い方開拓したことが報われた思いがした。(1997/10/9記)
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その「さとみ会」から卒後35年の記念集会をやるとの通知が届いた。さっそく出席の返事を送った。
私は「関東さとみ会」では常連なのだが、地元島原での同窓会に出るのは卒後、今回が初めてである。三十周年記念の時にも、出るつもりだったが、直前に札幌に赴任し、飛行機を乗り継いで行かなければならない島原はあまりに遠かった。
「さとみ」の命名にちなんだ三三周年の時には、何があっても参加しよう心に決め、幹事からの講演をするようにとの話しにもそれまでの罪滅ぼしにと快く応じた。ところが、その同窓会が、雲仙岳噴火というおよそ信じがたい事態の突発で中止になり、またしても、参加のチャンスを失ったのだ。
東京では、地元での35周年記念の同窓会に参加できない人達に呼びかけ、その十日前に「関東さとみ会」を開いたところ、三一人も集まった。そのうちのわたしを含む五人が三一人分の消息や言伝てを携えた形で、島原に赴いたのだ。
三五年という長い年月、まったく御無沙汰した挙げ句の参加である。当日は、今浦島の心境で、おそるおそる赴いた。ところが、お元気にしておられる十人の恩師の温顔に接し、全国から集まった、七十人もの懐かしい面々に会った途端、不安は霧散した。
私にとっては、三五年振りの人が大部分だった。一八の時に別れたきりになっていたのに、よく見ると、三五年という長い風雪を経た風貌の向こうに、どことなく当時の面影らしきものが浮かび上がってくる。話すうちに、様々な思い出が蘇り、懐かしさが込み上げて来た。皆なかなか魅力的に歳をとっている。美貌に磨きをかけた女性も多い。いまや自分の息子や娘が一八才以上になっているというのに、一八才当時の思い出をベースに五十を越した男女が話に花を咲かせるのだ。これほどの年
月を経ながら、なんの違和感もなく話し合えるのが不思議なくらいだ。
三五年前の田舎の高校生は、極めて封建的で、男女間で気軽に口をきき合うことなどあまりなかった。それが五十を越した男女の気楽さで
「あの頃、密かにあんたに惚れちょった」
「私も憧れてたの」
と冗談に託して出し遅れた密かな思いを伝え、二次会ではカラオケに合わせ、ダンスも踊った。
雲仙岳噴火のよる火砕流や土石流の発生で、同窓生の中にも、実家を流された人、いつ流されてもおかしくないところに家屋があり、
「くよくよしてもしょぅんなか」
と悟りを開陳する人もいた。
その当日にも雲仙岳は大噴火し、ひどい降灰があった。車のフロントガラスをたちまち白く覆い、家屋草木道路を灰まみれにし、風に煽られ砂塵となって舞い上がった。梅雨時期で火砕流と土石流も猛威を振るっており、前々日の大雨でその矛先は新たな住宅地を襲い、市の中心部といえども、絶対安全とは言えなくなった。
皆それぞれそんな心配を抱えていたが、午後一時半に始まった同窓会は明るく楽しく賑やかに、いつ果てるともなく続いた。一人一人が心からの満足感を抱きながら、五年後の再会を期して別れたのは、もう深夜であった。
(1993.7.29)
私には単身赴任の経験が二度ある。最初は四国高松、二度目は札幌であった。だが、合わせても一年半に過ぎない。そんな私に「単身赴任考」の原稿依頼が舞い込んできた。はたして私に書く資格があるのだろうか。この道十年を越える大ベテランも、回数が十回を越える熟練者もいるのだ。編集者の人選ミスではないのか。と読者ー特に一年半以上の単身赴任の経験者あるいは経験中の人ーも疑問を感じておられるに違いない。
思うに、これは私が単身赴任の権威ということでの申し入れでなく、恐らく私がある月刊雑誌にもう一年半近く「単身赴任者の愉しみ」と題してエッセイを連載しているのが編集子の目に止ったからに違いない。それにタイトルは単身赴任講ではなく、単身赴任考なのだ。講義するからには、単身赴任の奥義を極めておく必要があるだろうが、考えるだけなら、二年足らずの若輩にも、その深ささえ問われなければやれぬことはない。
それに私ごときに、単身赴任についての総合的哲学的考察を期待されるわけがないし、与えられた枚数でそんなことができる訳もない。「単身赴任者の愉しみ」の延長線上で気軽にいくことにしよう。読まれた後で、こんな物によくぞ「単身赴任考」とつけたものだと非難されぬために、これは、あるいは「単身赴任好」あるいは「単身赴任恋」あるいは「単身赴任仰」でもあると逃げ道を用意しておこう。「単身赴任控」でもいっこうに差支えない。
事実、私は単身赴任を好み、単身赴任に恋し、単身赴任を仰ぎ見ている。だから、その控えとして「単身赴任者の愉しみ」を連載しているのだ。いつまで愉しみの種が続くか分からないが、続くかぎりは連載を続けたい。掘り返せば、単身赴任からもいろいろな愉しみが出てくる。確かに、単身赴任にはそれなりの悩みや苦しみがないわけではない。といって、「単身赴任者の悩みと苦しみ」と題打って連載すれば、人生相談と間違えられかねないし、たちまちネタ切れになってしまうだろう。苦しみを見つけ出すことにはそれほど愉しみを見出だせるものではないが、愉しみを見つけ出す作業はそれ自体が愉しみだから、結構長続きする。これは今から単身赴任を始めようとしている人には少しはヒントになる考え方かと思う。常に物事はプラス面を見るにしくはない。
私など、単身赴任する前から、一体どうやってこのめったに無い単身赴任生活を愉しもうかと考えていた。その意味で、単身赴任の愉しみはすでに赴任前から始まる。二度目のときには、最初の時の経験を生かして、もっと愉しんでやろうと考えた。
「単身赴任者の愉しみ」を書く構想は、最初のときに思い付いていたので、二度目のときはそれを仕上げる意気込みで出発前に愉しみのメニューを書き出しさえした。 私のように齢五十ともなれば、長年連れそい、何時の間にか家庭の真ん中にどっかりと座り込んでいる妻に、大学生や高校生になり、一人前の生意気な口を利く子供の二人程度いてもおかしくない。とすれば、多少なりとも家族に煩わされて生きているのである。日曜日にゴルフの誘いがあっても、三週連続ともなると、大蔵省の監視の目も気になるし、家庭サービスのために空けておかなければなるまいとも思い、断ったりする。ところが、その日になると、妻は、これ新調しちゃったとめかしこみ、同窓会があるの、留守番頼むわね、と出掛けてしまう。子供は子供でバイトだのデートだのいって出て行ったきり帰ってこない。一人、天井を見上げてフテ寝することになる。
単身になってしまえば、それこそ、自分のやりたいことを遠慮なくできるのだ。これだけでも愉しみが増えることは分かっていただけよう。
例えば、音楽。あなたと家族と音楽の趣味がぴったり一致するはずがない。奥さんは女性だし、お子さんとは世代が違う。ながら族のあなたは、四六時中好きな音楽を鳴らしておきたいとする。
「うるさい」
「そんな音楽聞くと頭が痛くなる」
「たまには静かにして」
周りから非難の一斉放火を浴びて、あなたは、多勢に無勢、しぶしぶスイッチを切らざるを得ない。ところがである、単身赴任になってしまえば、天下御免の葵の印籠を手に入れたに等しい。何を、何時、どんなボリュームで聞こうと遠慮は要らない。あなたがもしカラオケ好きで、しかもど演歌のファンであったとしても、『人生劇場』をどれほど蛮声(失礼、美声)を張り上げて歌おうと、音漏れの心配のないカラオケボックスを無期限に借り切ったようなものなのである。
ただ、問題は、これまであなたがせっせと揃えたオーディオセットやディスクが何時の間にか、あなたの支配権の届かぬ所にいってしまっており、赴任地に持参しようとしても、実現出来ぬため、別途、新しいものー多くの場合、単身赴任は仮住まいと思われているので、二重投資を避けるためにも、最初のものに比べれば、かなり安手のものーを買い入れ、それで我慢しなければならないことである。
もしあなたがいろいろ趣味をお持ちなら時間や家族に束縛されない単身赴任時代こそそれらを磨く最適な時代でもある。かくいう私も囲碁やゴルフなど単身赴任時代に幾分腕を上げることができた。また赴任地で取っ付きやすいスポーツなどを新たに趣味として身につけることもできる。
私の場合、札幌への赴任が決まったときから、スキーの腕を上げることを愉しみとしていた。東京には五十男の初心者がスキーを愉しめる環境はないから、赴任前の十年間は一回も滑らず、技量はせいぜい斜滑降・ボーゲン止まりであったが、一シーズンしか滞在しなかった札幌で延べ二五日も滑り、最後にはなんとか上級コースも滑れるようになった。単身赴任中も自分自身でおおいに愉しんだばかりでなく、スキー仲間も出来、家族も呼んで一緒に滑ったから、帰京後も家族揃って毎年北海道の気に入ったゲレンデに行くようになった。
こうして生涯の趣味が身につくし友人も増える。家族共通の愉しみもでき、土地勘が身につく。単身赴任の愉しみは、単身赴任の終わった後にも続くのである。
だから、単身赴任の可能性がすこしでもある人は、日頃から心して、愉しみの種を殖やしておくことをお推すめしたい。一日は二四時間あり、単身赴任時代には自らに向かい合わなければならない時間が確実に増える。自分自身が付き合いにくい人物であると単身赴任時代は気が滅入りやすくなり、単身赴任生活を愉しむどころではなくなる。
中年サラリーマンの蒸発のケース・スタディによれば、男には家庭でも職場でもない<第三空間>が常に必要であり、それを持たない人は蒸発の可能性がある(笹川巌『趣味人の日曜日』)らしい。常に正気を求められ、よき職場人、よき家庭人を演ずることを求められれば、うっとうしくて、気がめいる。たまには気ままに世の諸々のしがらみから逃れぶらりといくえ定めぬさすらいの旅に出たくもなる。単身赴任住まいは、それこそ家庭でもなく職場でもなく<第三空間>そのものであり、ある意味では公認の蒸発でもある。たまに単身赴任することは真性の蒸発防止に役にたっているのかもしれない。
チェスタトンの小説に、しょっちゅう妻のもとから離れて世界周遊の旅にばかりいる男の話がある。それというのも妻のもとに戻ったときの喜びがひとかたではないためなのだ。「不在は並の情熱を冷まし、大いなる情熱をつのらせる。ちょうど風が、蝋燭を吹き消し、火事をあおり立てるように」(ラ・ロシュフコー箴言集)ともいう。その意味でも単身赴任は日頃の夫婦関係が大いなる情熱の下に営まれていたかを問うことになるだろうし、互いの新鮮さを蘇えらせる妙薬になる可能性もある。単身赴任で冷める情熱であればしょせん並の情熱にすぎないのだから、他のちょっとしたことでも冷める可能性があったのだ。
私の愉しみの一つに、なぞなぞ遊びがある。アラビアでは大の大人もなぞなぞ遊びに打ち興ずるようであるが、日本ではもっぱら子供の遊びのように思われている。ある時、単身赴任者同志が、世のしがらみから解放された第三空間に寄り集い、童心に帰ってなぞなぞ遊びの世界に遊んだ。そのときたまたま単身赴任と掛けて何ととくか、私より単身赴任のキャリアの長い連中になぞを出した。その中でマシなものを二、三紹介しよう。
* * 私「単身赴任と掛けて何ととく」
A「単身赴任とは、穴の開いたアコーディオンを弾くようなものだ」
私「さて、その心はー」
A「穴を指で押さえたり、ガムテープを張ったり、いろいろ工夫すればなんとか美しい音を出せるようになるだろうが、しょせん穴の開かないアコーディオンには勝てない」
* * 私「単身赴任と掛けて何ととく」
B「単身赴任とは、海底遊覧船に乗って海底を見ているようなものだ」
私「さて、その心は」
B「確かに、海底にも素晴らしいところは多いが、海上に戻れると思わなければ、遊覧船には乗らないし、海底の美しさを味わうゆとりもない」
* * 私「単身赴任と掛けて何ととく」
C「単身赴任とは、手作りのドーナツのようなものだ」
私「さて、その心は」
C「出来立ての熱いうちは美味しいが、直ぐ堅くなって食欲があまり湧かなくなる。真ん中に大きな穴がぽっかり開いているが、それがなければドーナツではない」
マシとは言ったものの、少々、ものの見方が一面的で偏っているきらいがある。単身赴任自体の愉しみを認めながらも、元の生活をより上位においているのが気に掛かる。とはいえ、単身赴任のキャリア不足の私には伺い知れぬ深淵を抉っているのかもしれないから、ケチをつけるのはよそう。単身赴任の真実をどれくらい穿っているか、判定は読者ー特に一年半以上の単身赴任の経験者あるいは経験中の人ーにお任せするとしよう。
一月二日、午前十一時五十分。晴。やむにやまれぬ思いでめったに書かない日記を書 き始めた。いや、自動意識追尾装置に自動ワープロを連動させているだけだから、書く というのは正確ではない。考えることが自動的にCRTの上に、映し出されて来るだけ なのだ。
それにしても、初夢は奇妙で怖い夢だった。初夢ということでもあり、あら かじめ、夢レコーダーをセットしていたので、ばっちり、カラー録画できた。早速自己 開発したスーパーパソコンの夢分析ソフトで分析してみると、なんと、四二年も前の一 九九三年に見た初夢と瓜二つであることが分かった。あの年、十五才の夢多い少年だっ た私は、「二〇三五年の一日」がテーマの空想日記大賞に「夢レコーダー」のタイトル で応募し、輝く大賞に入選したのだった。そのせいで初夢に、二〇三五年の五七才にな った自分が、大晦日に開発したばかりの夢レコーダーで初夢を録画し、それを夢分析す る夢を見たのだ。
長年の研究一筋の生活のせいで、頭は真っ白、ぶ厚い眼鏡を掛け、やや小太りの夢見 るような眼をした男が四二年後の自分かと、十五才の私はややがっかりしたことを覚え ているが、現実の自分と言えば、文字通りあの初夢に登場した男と寸部も違わないのだ 。
あの入選がきっかけで、夢レコーダーの開発が生涯かけての夢となり、これまで、結 婚もせず、ひたすら発明にいそしんできた。その成果は、脳から出る弱電波を自動的に 追尾して文字化する自動意識追尾装置に結集し、すでに十年前メディア革命を引き起こ し、数々の発明賞を受賞しただけでなく、研究と独身生活に必要なあらゆる装置を自動 化・ロボット化した、このハイテク大邸宅を建設できるほど、稼がせて貰いもした。だが 、テープレコーダーからVTRへの道のりが長かったように、意識や夢の映像をカラー 録画する夢レコーダーの開発には手間取り、あの初夢同様、ぎりぎり一昨日の大晦日に完成した ばかりだった。
夢分析の結果が正しいなら、世の中には正夢というものがあることが、実証されたわ けである。しかし、これが本当に正夢というのなら、私は、五七才の初夢を見た日の正 午きっかりにに、突然心臓麻痺で倒れ、大発明家の常として、脳味噌だけが摘出され、水溶液 の中で自動生命維持装置に管理されて永遠に生き続けることになる。
しかもその後は、脳 味噌は夢レコーダーと直結され、電流の刺激で、ひたすら夢を見させ続けられることに なるだろう。そうして絞り取られた夢は、夢分析ソフトで分析され、人類の進歩に役立 つ発明に利用されることになるのだ。
時刻は、正午一分前。まだ、なんともない。ひょ っとすると、正夢ではないのかも..??いや、何となく胸のところが苦しくなってき た。
「く、く、苦しい。だ、誰か、いや、び、美人看護ロボット、エリコ!早く、早く来てくれ。た、た、助 けてくれー!た..」