これは、「エッセイ」コーナーに掲載した「単身赴任者の愉しみ」、「旅の愉しみ」、「日々の愉しみ」を「単身赴任者の愉しみ」という表題でまとめて出版しようという意図で取りまとめた企画書である
目次を一見すれば、著者が多種多様な愉しみを道連れに人生の旅を続けている姿が浮かび上がってくる。語り口は平易でユーモアもあり、読者は、自分の興味や趣味に即して、本書を楽しむことができる。
著者は、ごくありふれたサラリーマンで、年齢は55歳、モーレツサラリーマン・会社人間の世代である。現在も、現役の会社役員(製造業の会社の常務取締役)として、第一線で活躍している。
その一方で、本書で取り上げたような仕事や会社と全く関係ない分野でも、人並み以上に生活を楽しんできた。現在も、愉しみの分野を増やしているという。今後、会社人間から、もっと生活全体を楽しむ「社会人間」を尊ぶ方向へ、社会全体が動いて行くことが予測されるが、著者は、様々な障害に遭遇しながらも、自らを貫き、やや時代に先駆け、多面的に人生を愉しむ、私を失わないバランスの取れた生き方を実践してきた。本書はいわばその実践録であり、多くの人々の共感をもって迎えられるに違いない。
(2)文章は簡潔で読みやすい。適度のユーモアもあり、一編は短いので、ちょっと時間があれば簡単に読める。雑誌連載ということで、字数が厳しく制約されていたことも手伝い、文章は冗句が削られており、展開はスピーディで、飽きさせない。
(3)生き方としても参考になる。 こうした生き方は、日本ではあまりポピュラーではないが、読む人は、いかに人生を愉しみながら生きていくかについて様々なヒントを得ることができるだろう。新しい生き方を始めようと志す人にとっても、心強い道案内になってくれるだろう。
(4)平凡なサラリーマンの知的生活の実践録として、知的刺激に富み、読んで面白い。 著者は、サラリーマンでありながら、若いときから知的生活に憧れ、自ら実践しており、エッセイのなかに、そのためのヒントが転がっている。
私が麻雀を始めたのは、昭和三八年に社会人になってからのことだ。それも、社会人になりたてのほやほやの、新入省者への研修期間中に同期生から手ほどきを受けて覚えたのである。
当時は、まだ高度成長期の入口時代だから給料は安く、とくに公務員の給料は安く、そのせいで遊びの種類はごく限られていた。麻雀は、比較的金も掛からず、趣味と実益を兼ねられるということで、社会人のつきあい上、必須科目に近い地位を占めていた。職場では、知らないと片端扱いを受け兼ねなかったし、下手だと先輩同僚にいいカモにされ、小遣いに事欠くことになり兼ねなかった。そこで、われわれ麻雀処女組は、寸暇を惜しんでは研修所の近くの雀荘へ繰り込み、大学時代にすでにマスターの域に達していた同期生から、これ以上安くしようのないレートで教えを受けたのである。
その雀荘には、役満をやると「大三元 何々様」というふうに壁に紙を張り出し、ご祝儀をくれる風習があった。確か煙草を一パックだったかくれたものである。私が始めてやった役満が忘れもしない、この四暗刻なのだ。「四暗刻 阿部様」と書かれた紙が暫くの間その雀荘の壁に掛かったのを、なんとなく照れ臭いような、晴れがましいような気持ちで眺めたものだ。
ついつい、麻雀の話に熱が入ってしまったが、本題は別のところにある。
私は九州の出身で高校卒業後、東京に出、そこで大学を終え、就職もし、結婚もした。その後、四国高松と北海道札幌へ赴任したことがあるのは、前回書いた通りである。
ご承知の通り、日本列島は四つの大きな島から成り立っている。つまり、北海道への赴任をいわれる前の時点で四島のうち三島まで住んだ経験があったのだ。麻雀でいうならいわば三暗刻はテンパっていたのである。
しかし、四暗刻に比べれば三暗刻などゴミ手に過ぎない。三暗刻をテンパったら、やたらにリーチを掛けたりせずダマテンで様子を見、後一枚揃いのパイをつもって来て四暗刻へ手を変えること。少々麻雀が打てるようになるとこれは常識になる。そんなわけで地方に赴任することになるならなんとか北海道のパイをつもってこないものか。正直私はそう思っていた。
そこへ、北海道への赴任の話が飛び込んできたのである。
「ヤッタ!」
見事に四暗刻をテンパったのだ。役満をテンパったときのあの痺れるような高揚感が襲ってきた。後はなんとかつもって上がること。どうしたらつもったことになるか。私は、その土地に住んだというからには少なくとも一年以上居住する必要があると思っている。四季をせめて一通り経験しなくては住んだとはいえまい。日本広しといえど、四島に一年以上住んだことのある人の比率はそう多くはあるまい。その意味で、一年以上北海道に住めば、四暗刻つも上り、役満達成を祝って良いだろう。そう思っていた。人に言いもした。だから転勤の辞令がたとえ数日にせよ一年足らずで舞い込むことを恐れていた。テンパっても上がれなければ、余計悔しい。前任の二人とも一年すれすれだった。
北海道は、学生時代になけなしの金をはたいて十日ばかり旅行したときからずっと憧れていた土地でもあり、一度は住んでみたいと思っていた。実際に住んでみて、期待していた以上に素晴らしいところだった。だから役満達成とは関係なしに出来るだけ長く滞在したい気になった。
私の願いが通じたのか北海道の赴任期間は一年を二日だけだが越えた。かろうじて一年以上、すれすれの役満達成だったが、役満ツモ上りであることには変わりはない。実生活では麻雀から足を洗って久しいが、
「四暗刻 阿部様」
久し振りに墨でこう大書された紙が回り中に張り出されたようないい気持ちだった。
四島の四季折々をなにがしかの実感を持って思い浮かべ、そのそれぞれの良さを追体験できるとは何という幸せであることか。私は比較文化論が好きだが、四島比較文化論もぶてるとしたものである。思い出すと懐かしさに胸がキュンと痛くなるような土地を故郷というのであれば、私には、第二、第三の故郷がある。高松にせよ、北海道にせよこれからも何度も行ってみたい所である。こうして次々と故郷が増えるのであれば、よしんば単身赴任に難儀な面があるにせよ、これを愉しみとしなければ勿体ないというものである。
カラオケに関する限り、どうみても私はバスに乗り遅れた口である。というのも、私が外国滞在した三年のうちに、カラオケは、日本人の趣味としての地位を確立してしまっていたからである。
三年振りに帰ってくると、私は浦島太郎であった。バーやスナックに連れていかれると、いきなり、スピーカーから鼓膜に穴の空きそうな凄まじい音量の伴奏が飛び出してくる。度肝を抜かれていると、日頃真面目一方で歌などこれぽっちも縁がないといった顔をした人までが、さっと立ち上がるや、マイクをプロはだしに扱いつつ、リズムに合わせて腰を振り、節回しも鮮やかに歌うのである。かつてのシャイな日本人の面影はもうそこにはない。
聞き惚れていると、あなたの番ですよ、と、マイクが回ってくる。私は音痴ですから、などと逃げを打っても、順番は崩してはならぬとの鉄則があるらしく、無理やりマイクを握らされる。なにせ、カラオケとはいえフルオーケストラの演奏をバックに人前で歌ったことなど皆無、練習抜きの即本番で、いきなり歌えといわれると、あれほど大きく聞こえた伴奏もほとんど聞き取れない。ままよと、口を開くと、マイクに声が通らない。
「マイクのスイッチを入れなきゃ!」
注意が飛んでくる。
伴奏は勝手に進む。ベルトコンベアーと同じで決して待ってはくれない。慌てて追いすがると、声はうわずり、息が切れる。どこがイントロでどこで息継ぎか、まったく要領を得ぬまま、ヨタヨタと曲の終わりに辿り着いたときには、冷や汗で全身びっしょり。
この最初の冷や汗十斗の経験が災いしてか、カラオケにはいまいち気が乗らないのである。東京にいる間は、それでもそれほどカラオケを歌う機会も多くなかったので助かったが、北海道に赴任したらその機会が、むやみと増えたのだ。なにせ職場と、世界の歓楽街ススキノが異常接近しているうえ、私は単身赴任で夜は全部空いてると思われている。
どうせバスに乗り遅れたのだ。私はカラオケなぞ歌いませんと、孤高を決め込むのも立派な態度であろう。しかし、それでは場が持たないことだって多い。
「この前も、夜が更けるのも忘れて、カラオケ歌合戦をやりましてね」
とおっしゃる、先輩もお見えになる。そのお相手もしなければならない。若い人とのパーティーでも、歌いたくてうずうずしている若手が一杯だ。ほぼ全員がカラオケバスに乗ってしまった日本で、私が歌わないと我を張れば、場が白けるのは目に見えている。大石内蔵助が、じっと我慢しながら京の遊郭に遊んだ心境を範とし、まったく歌いませんではなんだから、せめて一二曲、お付き合いできるようにするのも勤めのうちだ。そう考えて、なんとかレパートリーを作ろうと考えたが、歌うことに関してはほとんど素養がない。なんとか歌える曲は、どれも古色蒼然として苔が生えている。新曲を聞いてたちまち歌いこなす芸当など、最も縁が遠い。
さてどうしたものか?
少々頭をひねったところで、ひょいと思いついたのが、カラオケ替え歌作戦であった。例えメロディーは古くても、歌詞を入れ替えれば多少は新味を帯びる。数少ないレパートリーを人に先をこされても、オリジナルの歌詞があれば
「同じ曲ですが、私は違う歌詞でやらせていただきます」
と歌えないこともない。それに一風変わった歌詞に気を取られて貰えれば、少々の音痴は見逃していただけよう。
作詞ならなんとかなる。大学時代に母校の応援歌の作詞をしたことがある。これは卒後四半世紀たった今でも神宮球場で健闘しているようだ。作詞の同人サークルに入った経験さえある。その時、『燃えつきた恋』で「遠藤実賞」をいただいた。歌う方が、借りてこられた猫同然なら、作詞の方には、飼主の家の炬燵で丸くなっている猫の気安さがある。
そこで、替え歌作りに乗り出すことになった。しかし、なんといっても、まず、自分が歌えるメロディーでなければならないので、選択肢はごく狭い。最初に選んだのが、鶴田浩二の『街のサンドイッチマン』だった。昭和二八年の曲だ。かなり古い。出来上がったのが『札チョンブルース』である。
一 金縁眼鏡に背広着て/泣いたらホステスが笑うだろ
/涙出たときゃ星を見る/札幌チョンガー札幌チョンガー
/おいらはススキノの常連さ/とぼけ笑顔で今日も飲む。
二 もてぬと誰でも知っている/ススキノはチョンガーの海だもの
/泣いちゃいけない男だよ/札幌チョンガー札幌チョンガー
/おいらは街の道化者/今夜も看板まで空口説き
三 明るいネオンに誘われて/今夜もフラフラススキノへ
/請求書見るまで夢を見る/札幌チョンガー札幌チョンガー
/おいらはママの道化役/今夜も空手形抱いて寝る
これは札チョンの悲哀をやや自虐気味に歌ったものだ。初期の作品には「王将」や「白い花の咲く頃」などの替え歌もあるが、どれも同じ路線のものだ。しかし、同種のだけでは飽きられるし、自虐趣味だけでは歌う本人の気も滅入る。そこで、もうすこしまとも路線のものにも挑戦することにした。
そのころ、函館に出張というので千歳空港に駆け付けたら、目指す便が欠航になり、金一千円也の飲食券をあてがわれて、次の便まで3時間も待たされることになった。しょうがないので、スナックでビールを飲みながら待つことにした。が、実をいうとこういう時が替え歌作りには絶好なのだ。まともな時間を当てるのはいささか惜しいが、天から降って湧いたようなこんな自由時間、ジョッキ片手に、考えるともなく歌詞をひねるには最高なのである。三時間のうちに三編ものにした。その一つ。
一 捜し歩けばかすかな噂/街のここそこ/一つや二つ
決してあなたを忘れぬと/誓ったお前のささやきが
おれの行く手に灯をかざす
夜の札幌/雨が肩を打つ
もうお気付きかもしれないが、これは石原裕次郎の『北の旅人』の替え歌である。レコードは裕次郎の死後昭和六二年に出されている。レパートリーに北海道に関係のあるものをせめて一つは加えたいと思い、これだけはCDを買って少し練習もした。
二 噂たどればはかない影が/夜の巷に/浮かんで消える
心の底から待っていた/お前とつましい仮所帯
/どこへ消えたか行き違い
夜の薄野/霧が迷わせる
三 ぷつりとぎれたお前の行くえ/今日も当てなく盛り場巡り
一度はこの手に手繰り寄せ/二人で分けたい幸せを
/消えぬ思い出あの笑顔
夜の札幌/雪が降りしきる
演歌的情緒一色で気が引けるが、替え歌は元歌におぶさらざるをえないのである。同じ路線の『恋のいくえ』は、私と生まれ年が同じの『湖畔の宿』の替え歌で愛着があるが紹介する紙面が足りない。いずれカラオケバーでお会いしたときにご披露しましょう。
自分でいうのもなんだが、替え歌の歌詞の方は意外と好評で時には所望されて、店に書き残したりもした。だが、歌うほうはあまり褒められた記憶がない。
JIHYOU-TANSIN5-1 900314/15/16
本を読む。新聞を見る。書きも のをする。なにをしていても、回りに音楽が流れていないと、酸素不足の金魚のよう に息苦しくなってしまうのである。受験勉強の最中でもクラシックを流していた。大 学時代も専門書を読みながら、BGMは欠かさなかった。さすがに職場では音楽を流 すわけにはいかないが、家庭では、テレビを見ながら音楽を聞いていて、妻から
「ど っちか止めて」
と良く苦情を言われる。おまけにその中で本まで読んでいるものだか ら、
「一体あなたの頭の中はどうなっているの」
呆れられたことは、数度に止まら ない。
「パパ もう少し音を小さくしてくれない」
音量も良くクレームの対象にな った。
ながら族とはいえ音楽好きには変わりはないのだから、自宅には、一応の オーディオセットは揃っている。現在のグレードのものを揃え始めたのは、高松への 第一回目の単身赴任のときだった。たまたまある雑誌社の懸賞論文に応募したのが入 賞して金二十万円也が転がり込んできた。それまで安月給の手前、欲しいものも欲し いと言い出せず、三位一体型のステレオで我慢していたのだが、多少にせよ、家計に 負担を掛けないとなると、遠慮することはないと強気になった。
じっくりオーディオ 専門誌を研究し、専門店にも足を運び、アンプはサンスイのAU−D907、スピー カーはヤマハのNS−1000、プレーヤーはデンオンのDP−55Lというふう に、当時そのクラスでは名器の誉れ高い装置を揃えていったのである。この機種選び はなかなかの愉しみだった。もっとも、これでは二十万円で納まるはずもなく、相当 な持ち出しになったが、妻には内緒にした。結局、セットが全部揃ったのは、東京に 戻ってからになった。
レコードは、外国滞在中に買い込んだ分だけでも八百枚を 越えていたし、FM放送のエアチェック用にはカセットデッキとチューナーも買い揃 え、FM専門雑誌を定期購読して、バイロイト音楽祭の長大なワーグナーのオペラか ら新発売の推薦盤レコードの小品までせっせと録音したので、カセットもすぐ数百の オーダーに増え、好きな音楽を聞いたり、ながら族を決め込むにこと欠かない環境は 整っていた。
そこへ、札幌への赴任の話が舞い込んできたのである。だから、任 地での音楽環境を速やかに整え、いささかなりとも呼吸困難に陥らないようにするた めにいかに頭を悩ましたか分かっていただけよう。もっともこうした悩みの中にこそ 本当の愉しみがあるものではあったが。
すでに息子も高校三年、有力なながら族 の後継ぎに育っていて、大学受験勉強しながら、ロックを聞いている。まめにエアチ ェックをし、カセットのダビングはする。つまり、オーディオセットは息子に九割方 従属している状態だった。しかも、息子のたっての願いを聞き入れて、収納場所に苦 労するほどのLPレコードを持ちながら、CDプレーヤーも買い揃えたところだっ た。レンタル店からCDを借りてきてダビングするのが、若者のファッションになっ ており、CDプレーヤーは必需品と言うのだ。私とてCDが嫌いなわけではない。た だ、大蔵省の機嫌を損じない頃合を見計らっていたのだ。
CDは使ってみるとな かなか便利で音も悪くない。一千万円以上もするオーディオセットを持っている知人 が、CDは二万ヘルツ以上の音をカットしているのでLPより音が悪いといって、一 夕自慢の地下のオーディオルームに招待し、聞き比べをさせてくれたことがあった。 確かにその通りだったけれど、こちとらのはその差が分かるほどの高級機ではない。 扱いが便利なものだから、CDプレーヤーを買って以来、ほとんどもっぱらCDを聞 くようになってしまった。それにCDしか買わなくなった。演奏時間は最大七十分 少々もあり、LPのようにしょっちゅうレコードを掛け直す手間も掛からないし、繰 り返し演奏や、収録曲の順序の並べ替えも自由自在なのだから、ながら族向けに開発 されたような機械である。おまけに針を更新する必要もない。CDプレーヤーも持っ ていかないわけにはいかなかった。
といって、お揃いのオーディオセットをごっ そり北海道へ持って行ってしまえば、息子の受験勉強に支障を来す恐れがあった。赴 任期間は一年止まりの公算が強いが、結構荷の張るセット一式に重たいレコードまで 持っていくべきだろうか。持っていくとして、どんなレコードを何枚ぐらい選ぶか。 大問題だった。
結論を先に言えば、CDプレーヤーを組み込んだラジカセを持参 することにしたのである。方針が決まると早速、新宿の電気店に出掛け、予算の許す かぎりハイグレードのものを選んだ。これが赴任準備の出費第一号になった。リモコ ン付きでダブルデッキで倍速ダビングができ、音質が自由に設定可能なイコライザー や、重低音用のウェハー付き。なかなか重装備のものだが、しょせんラジカセ、音に 限界があるのはやむをえなかった。とはいえ、赴任後、それこそどんなながら族ぶり を発揮しても、体が共振するような音量で聞いても、だれに咎められることもない環 境の下で大いに活躍したことはいうまでもない。
テレビを見ながら、新聞や本を読み ながら、料理しながら、ご飯を食べながら、皿洗いや洗濯・掃除をしながら、ワープ ロを叩きながら、棋譜を並べながら、ゴルフクラブを振り回しながら、トイレに入り ながら、ラジカセを聞いた。朝起きては一曲、帰宅しては一曲。今思い返すと四六時 中それは鳴り響いていたような気さえする。もっとも掃除の時は掃除機の音がうるさ くて、なんにも聞こえなかったし、お風呂の中でも聞きたかったが、場所が離れ過ぎ ていて音が届かなかった。
CDはコレクションの中から単身赴任向きのものを選 んで持っていった。つまり、自分専用で、他の家族から文句の出ないものという意味 だ。赴任後は、レコード店にいっては単身赴任向きのを選んだ。つまり、自分の欲し いものをだれに憚ること無く選ぶのである。カラオケ練習用に石原裕次郎の『北の旅 人』を買ったのもその類いだ。今や、どんなものを選んでも、聞いても、こんなもの をと、非難される恐れは皆無なのである。
ギドン・クレメールの演奏するバッハ の無伴奏バイオリンソナタやダン・タイソンの演奏するショパンのノクターンなど何 度繰り返し聞いたことだろう。ルツェルン弦楽合奏団の演ずるアルビノーニのアダー ジョなど、夜半、物音一つしない広い部屋で一人ぽつんととりとめもないもの思いに 耽りながら、その胸を締め付けるような哀切さによく浸ったものだ。
時を選ば ず、思う存分好きな音楽が聞け、その傍らで気ままにやりたいことができるというの は、ながら族冥利に尽きるものだったし、確かに単身赴任者ならではの愉しみには違 いなかった。言ってみればながら族長年の夢が実を結んだのである。だが、夢がかな ってみるともう一つ物足りなかった。それというのも、家族の雑音に悩まされながら 聞くという愉しみが失われており、それこそが自称ながら族の無上の愉しみだったこ とに気付いたからである。
悩みがそのまま愉しみになることが結構多い。
美女二人に言い寄られてその夜をどちらと過ごすことにするか。金を儲け過ぎてさてどう使ったらよいか。この種の悩みがまさにその類いであり、想像するだけで楽しいが、とんと縁がない。私のは実にささやかで、旅に出るときに、一体伴侶としてどんな本を何冊ぐらい持っていくかという程度にすぎない。
旅に限らず、ちょっと出掛けるときにも本を持っていく。テニスバッグの中にも、本の特設コーナーがある。妻と二人で、子供の学校の学園祭に出掛けるようなときでも、例外ではない。読み掛けの文庫本をそっとポケットに忍ばせる現場を押さえられて、
「私と本とどっちが大切なの」
さんざいやみを言われるが、どうしても本をおいてけぼりにする気になれない。
だから、旅行となると、目的が、出張であれ、観光であれ、スキーであれ、海外視察であれ、必ず本を同伴する。出発の何日も前から一体今度はどれにしようか、何冊ぐらいにしようかと思い悩む。悩んだ末に、いつも多めの本を持っていく。旅先でしまったと思わないためである。だが、需要が供給にマッチしたことは一度もない。決まって持って行き過ぎるのだ。ひどいときには、三冊も持っていって一行も読まずに帰ってきたこともある。それなのに、その次ぎもまたぞろ持っていくのだ。本は結構重たいにもかかわらずにである。こればかりは、何回失敗しても学習効果が働かない。ひょっとすると本は私のテディベアなのかもしれない。
こんな私だから、赴任に当たって、単身生活を分かち合うべき本の選定にどれ程悩んだか、お分かりいただけよう。もう、赴任の随分前から、その作業に取り掛かった。書斎の本棚には読みたい本がずらりと並んでいる。なにせ、本屋に寄るとまとめ買いする習性がいつの間にかついてしまった。いくら読書に励んでも、まとめ買いには追い付かない。読み残した本が幾らでもあるのである。時間ができたら読んでやろうと思ってた本が、待ちくたびれてあくびをしているのだ。単身赴任ならそれこそ本を読む絶好の機会ではないか。あれも読もう。これも読もう。短ければ一年ぽっきりの赴任だというのに、月に二十冊ずつ読んでも読みきれないほどの本を持っていくことになった。おまけに本を読んだり、物を書く時の参考書も必要だということで厚い辞書類も携行した。
本は子供の頃から大好きだった。敗戦直後の年の小学入学だから、読みたくても本は無く、買って貰えるのは月に一冊の雑誌程度で、友達と交換で回し読みしたが、たちまち底をついてしまう。いい図書館もなかった。だから、いつも本に飢えていた。いつか買いたいだけ本が買えるようになれたらと思っていた。いまも買いたいだけ買えるわけではないが、子供のときに憧れていた意味でならやっと買いたいだけ買えるようになった。
日常品の中で本ほど安いものはないとかねがね思っている。だから新聞雑誌の書評欄にはできるだけ目を通し、欲しい本があるとメモしておく。読書案内、読書日記の類いに目がない。書評を集めた本を買ってくる。本を探すための本、本を読むための本、本を書くための本、本を書くために読むべき本についての本、などなんでも買ってくる。日頃から、活字中毒ぎみで、乱読の傾向が著しく、家族がくだらないということにまで興味を持つ。だから本屋にいくと、書評に言う現代人の必読書や、巨匠久々の会心作、推理マニア垂涎の書がやたらと目につく。必読書に手を延ばすと、会心作がどうして私のほうはほっておくのという顔でウインクする。こうなると不義理できない性分なのだ。つい両方とも面倒を見てしまう。その結果、心ならずもまとめ買いとあいなる。
本代も馬鹿にならなくなって、サラリーマンの駆け出し時代にさえやらなかった古本屋も利用するようになった。歴史的な名著などは古本屋でなければ見付からないという言い訳も用意して。さいわい早稲田の古本屋街は自宅のごく近くなので、古本屋の梯子をしては、両手に持てるだけ持ってのご帰還となる。こうして、書斎はいうに及ばず、家中が本で溢れかえる。だから、赴任地へかなり同行したつもりだったが、甲子園の高校球児が記念に持って帰る小袋一杯分の砂並の効用しかなかった。
単身赴任は読書の絶好の時期と思われたが、必ずしもさにあらず、主夫業もこなさなければならないとなると結構忙しいのである。しかも、知らぬうちにふらふらと本屋に出掛け、まとめ買いする習性だけは、単身赴任になろうと変わるはずもなく、いや、むしろ助長され、早速札幌駅近くの大きな本屋の常連になっただけでなく、薄野に古本屋まで見付けてせっせと本を買い込んでくるものだから、少々読んだ程度では追い付かず、収支決算は決まって赤字となった。
こうして当初の目論見だった読書三昧の日々を愉しみとするよりは、「つん読」がはるかに大きな愉しみになってしまった。負け惜しみではないが、つん読も愉しみであることに違いない。一度これは欲しいと思って手に入れた本であれば、たとえ一行も読まなくとも、書棚に並べだ時から交感作用が働き始めるのである。いろいろと思考を刺激するだけではない、こっちが本当に読みたくなったときに向こうからすうっと近付いてきて、運命的に出会った男と女が結ばれたときのような喜びをもたらしてくれるのだ。そんな時ほど読書の愉しみを感じるときはない。まとめ買いをするのもまさにその時のためなのだ。
つくづく思うのだが、本は未知の世界への扉である。一旦そこを開くと目の前には息を飲むような素晴らしい別世界が広がっている。だから、私は、次々と扉を開かずにおれない。まだ、ひとつの世界を抜けでないうちにまた次の扉を開いては、別の世界に迷い込む。常時、十も二十もの世界を行ったり来たりしている。時空間を越えてワープするようなその浮遊感がなんとも愉しい。もとより、一旦扉を開いたが最後、最終頁まで行かなければ抜け出せない世界に入り込み、徹夜も辞せず一気に駆け抜ける愉しみも知らぬわけではない。
結局、持参した本に倍する本を抱え込んで赴任地を離れることになったが、いつ、どうやって、なにものにも煩わされぬ読書三昧の日を確保するか、あれこれと思い悩むことにこそ、本好きにとっていつに変わらぬ愉しみが存するもののようだ。
だが、何時、電話をかけ、何を、いかに話すかについては、少々考慮がい る。
何時という点については、まず家族の生活のリズムへの配慮が必要になる。一家団欒 で連続テレビ・ドラマを見ている、風呂に入っているような時間は避けなければならな い。自分の都合のいい時間帯とも合わせる必要がある。それに、高松や北海道から東京 へは、長距離電話なのだから、よほど緊急な用件でもないかぎり、少なくとも割引料金 の適用される時間帯を選ぶべきだろう。頻度も問題だ。これも電話代と結びつく。余り 頻繁にかければ、話題に事欠くうえ、面倒がられることにもなりかねないし、第一有り 難みが無くなる。疎遠にならない程度の、適当な回数を、早く見つけなければならない 。
わが家の場合、特殊事情への配慮も要った。と言うのも、北海道赴任時代、留守宅の 電話は、いつの間にか、二人いる子供専用に近くなってしまっていたからである。長々 とよく話の種が尽きないものだと感心するぐらい話をする。長電話も長電話、超の字が つく。時間帯も、深夜だろうと早朝だろうと、意に介さない。だから、よほど頃合いを 見計らって電話をしないとお話中ということになってしまうのである。つくづく電話に 対する世代間の感覚の差を感じたものだ。
我々の世代はどうしても電話は、仕事、用件と結びつく。用件なしに長々とお喋りす る感覚はない。まだ、電話代は高いという感覚も残っている。これは、電車の初乗りが 十円の時代に、市内電話も十円だった名残だろう。もっとも、当時は時間制限は無かっ たが。今、電車の初乗りは一二〇円だから、三十年たっても同じ十円でかけられる電話 は相対的に安くなっている。市内電話が、三分で一二〇円もすれば、子供たちももう少 し考えるだろう。しかし、思い出してみれば、我々も若い頃には、ガールフレンドとぺ ちゃくちゃと長話していたのだ。それが職場に入り、電話は短く、私語は慎み用件のみ 、という教育を受け、いつの間にか、電話=仕事=効率第一の観念を植えつけられてし まったのである。
何と言っても、今夜あたり電話が欲しいなと思っているときにかか ってくるタイミングのいい電話以上に、嬉しいものはない。そんなことを思いながら、 頃合いをさんざ図って電話したのに、何時までもお話中でがっかりした事もある。単身 赴任時代、割り込みが可能な、キャッチホンなる装置を付けていなかったのが失敗の元 で、運が悪いときにはその夜の電話を諦めざるを得ない時もあったのである。逆に、一 寸でも電話口に出るのが遅いと、コールサインが、誰もいない家の中で虚しく鳴り響い ている様子を、思い描き、なにかあったのだろうかと、胸騒ぎを覚えたものだ。
それに、留守宅へ一方的に掛けるだけでも面白くない。タイミングのいい電話を、留 守宅から貰いたい気持ちも一方ではあるのである。いくら待ってもかかって来ず、しび れを切らして自分のほうからダイヤルを回したこともなくはない。
電話するときには、話したいことや、確かめたいことをメモしておいた。時間の節約 にもなるし、後で、あれも話しておけば良かったと悔やまないためだ。とは言っても、 電話口に当の相手が出てくるとは限らないし、会話の勢いに、逆らうわけではないのだ が。
ただ、直接、会って話す訳ではないので、電話のもどかしさというものを感じたもの だ。自分のほうでいろいろ勘案したあげくかけた電話であっても、受ける側があっけら かんとしていて、暖簾に腕押しの感があるようなときだ。例えば、前日の電話の口ぶり から推して相当悩んでいたようなので、一日中心配した挙げ句、電話すると、本人はけ ろっと忘れていて、なんのことだっけ、といったような。ちょっとした愚痴を口にした くても、電話だと必要以上に相手の負担になりかねないと思って、口籠もったこともあ る。つまらない言葉の行き違いで、気まずい思いで電話を切らざるを得なくなることも ある。それに、こっちが釈明したくても、一方的に切られてしまえば電話はそれでお終 いである。
電話代の節約のため、毎日定刻にコールサインだけで家族と連絡し合ったという単身 赴任者の話もある。二度だけ鳴らした時は、無事の印、三度の時は、電話が欲しいとい ったサインを決めておくらしいのだが、その真似は、なんとなく侘しく思えてやらなか った。それに、毎日定刻にダイヤルを回す芸当ができる柄でもないし、ちょっと妻には 内緒にしておきたい不都合が起こりうる可能性が単身赴任者側には絶無ではないのだし 、たとえごく僅かにしても、その可能性を残しておきたいではないか。
定刻のコールサインは御免こうむったものの、適当な頻度の電話は欠かさなかったせ いか、東京に戻り無事家族と合流できたのだが、今や電話はますます、子供二人の独占 するところになってしまっている。職場も変わり、もう、単身赴任する可能性はほとん どなくなったが、赴任地から電話する必要が生じたら、よしんばキャッチホンがあるに せよ、もう一本回線を増やしたほうが無難なようである。
雪国というところは、雪が降った日からまったく別世界になる。トンネルどころではなく、タイムカプセルを抜けたかと思えるほどだ。
なにもかもが白一色に染め上げられ、街のたたずまいも一変してしまう。音もなく降る白い雪。そこにはなにか心をときめかせるもの、幻想的なものが漂う。雪かきは嫌だ、おっくうだ、ああ、雪国に生まれたのは不幸せだと口にする人も心の底では雪を愛している。雪の降る日を心待ちにしている。ましてや、スキーが好きになってしまうと、もう雪の降る日が待ち遠しくてならなくなる。
雪国の住人は、雪を抜きにしてはなにも考えられない。たとえ夏であろうと雪に律せられた言動をとる。札幌に赴任したのは、七月初旬だった。これから夏に向かうというのに、私はしばしば
「スキーをやりますか」
という質問を浴びせ掛けられた。
「やったことがないわけではないんですが、ここ十年、一回もやってませんので…」 「スキーも自転車と同じですよ。すぐ慣れますから。スキーをやらなかったら札幌の冬は、退屈でお手上げですよ、ましてや、単身赴任じゃネ」
みなさん揃いも揃って同じことをおっしゃる。これこそ雪が言わしめる言葉なのだ。
スキーをやらなかったら退屈でお手上げになりかねぬ冬が巡ってきて、ある日突然別世界が現出する。私はまだ半信半疑だ。本当にスキーは自転車と同じなのだろうかと。十年前ポーランドから帰国して以来一度も滑っていない。
南国九州の産で、大学を出るまでスキーとは無縁だった。就職した年の冬、課内旅行の幹事を仰せつかり、課長のスキー好きにかこつけて、かねて憧れていたスキーツアーを企て、課員のほとんどに無理やりスキーを初体験させ、自らもちゃっかり筆下ろしした。
ただそれで病みつきになれるほど金も暇もなく、その後多い年でも年に二〜三回、職場のスキー同好会主催の一泊二日夜行強行バスツアーに参加する程度で、ポーランドへ赴任したときも技量は初心者並みだった。
ポーランドでは、雪国に来たからには、少しはスキーの腕を上げたいという気持ちと、せめて子供たちにスキーの愉しみを覚えさせたいとの親心で、毎年冬休みにはワルシャワから四〇〇キロの雪道もものともせず、チェコスロバキアとの国境に近いザコパネまで車を飛した。ポーランドは真っ平らな国だからそんな遠い山岳地帯まで出掛けなければスキー場がないのだ。
そこで、当時小学校の入学前後だった子供を相手に、なだらかゲレンデで終日飽きもせず滑り続けた。独習で、やっと回転のこつを掴みかけたところで帰国した。それっきりで十年たってしまったのだ。面白いとは思うものの、東京でスキーを続けるには大変なエネルギーと時間と資金が要る。やることが多い上にスキーにまで手を出しては身も財布もパンクしかねぬと、やむなく諦めたのだ。
子供たちは、ポーランドで親しんで以来スキー好きになり、帰国後も安いパックのスキーツアーなどに毎年欠かさず参加し、滑り始めはまだ幼稚園児でおしりを極端に後ろにひく独特のスタイルで滑っていた息子は、今や高三で大学受験の勉強中だが、どうももうパラレルで滑れるらしい。
札幌への赴任は、思いがけず訪れた、スキーに再挑戦する願ってもないチャンスだった。うまく行けば受験勉強中で滑るわけにいかない息子に追い付けぬとも限らない。なにせ札幌はスキー場の中にあるようなものなのだ。だから、本当をいうと自転車と同じでなければ困るのだ。
十二月中旬、札幌国際スキー場へ赴き実証試験に取り掛かった。六人乗りのゴンドラで頂上まで行き、スキーの板、靴からウエアまでみんな借り物の出で立ちで、おっかなびっくり滑り出した。
スルスル、スルスル。滑るのである。スーッ、スーッ。やっぱり自転車と同じだったのだ。
翌日、狸小路のスキー店へ行き、上から下まで新品を揃えた。使わないでおくと損したという気になるように、予算の許すかぎりいいものにした。
何事も基礎が肝心なことはテニスやゴルフで骨身に染みている。そう思っていると、指導員の資格を持っている職場のOBのYさんが、教えてくださるという。教習のコースは札幌冬季オリンピックの会場にもなった手稲山、わが家から四十分で千メートルを越す頂上に行けるし、Yさんはスキーのために手稲山の麓に居を移した人なのだ。
最初の日は、滑る前に準備運動の仕方から上手な転び方まで習った。斜滑降、ボーゲン、シュテムボーゲンなどの模範演技を見せてもらい真似するのだが、Yさんのようにはいかない。山頂近くのリフトを利用して基礎練習を繰り返した。スキー板に乗った感じを掴みかけ調子に乗って飛ばしていると、いきなり急な斜面に突込み、「しまった」と思ったときはもう遅い。体は宙に舞い、ゲレンデに叩き付けられ、斜面を上下左右の感覚が麻痺したまま転がり落ちる。眼鏡はふっとび、眉間からは血が滲み、スキー板が絡んで暫くは立ち上がれない。
帰りに、男子回転コースの上を通ったが、まるで奈落の底を覗き込む感じだ。そこへ若い女の子までがひらりと飛び込んでいく。身震いがでる。暫く行くとこれまた絶壁にも等しいゲレンデにぶちあたった。女子大回転コースの中腹だった。大きな瘤が幾重にも重なった急斜面で、そこを降りなければ家には帰りつけないらしい。本当はスキーを脱いで歩き出したいところだが、私の実力を買っているらしいYさんの手前泣き言もいえず、死ぬ思いで挑んだ。
斜滑降に毛の生えた程度の技量しかないので瘤があろうと無かろうと必死に向こう端まで行く。そこで回転しようとするのだが、瘤は凍ってツルツルだし、斜面が急なのでうまくいかず、一旦止まってスキー板を入れ替えなければならない。だが、このままいつまでも回転に挑戦しなかったら、一番下まで同じ方式で降りざるを得ない。えい、ままよとばかり、右足に体重を掛けてエッジを切り替え、回転に挑む。
斜面と垂直になった瞬間、そのまま谷底目掛けて真っ逆様に転げ落ちるかとの恐怖心に襲われる。しかし、ここで慌ててはならない。出来るだけ体重を前に掛け更に右足のエッジに力を入れる。スキーが右に回り始め、スーッと横向きに滑り始める。やった!うまく回転できたのだ。
こうして難行苦行の末やっと下まで辿り着いた。全身くたくた、膝はがくがく、指先は凍え、足の爪先は痛い。しかし、なんとなく快いのだ。
スキー場は近いし、雪質は最高だし、それよりもなによりも親切ないい先生に恵まれ、個人レッスンをして貰えるのだ。これなら今後の精進いかんではかなりのところまで行けそうだ。何といっても練習初日に女子大回転コースを降りてきたのだ。そう思うと冷たい風に痺れた口元さえ綻んでくる。今にして思えば、もうその時、その後全休日をつぎこみ、一冬で二五回も通うことになるほど、スキーの魅力にすっかり虜になっていたのである。
だが、スキーが病みつきになってみると、この俗世間を離れた銀世界で、扱いにくいスキー板を操り、変化極まりないコースを、寒風をきって飛ばす快感が何ものにもかえがたくなる。苦労して滑べれば滑るだけ愉しみが増す。スキーの奥は深く、どこまで行っても切りがない。上には上がある。それがまたチャレンジ精神をくすぐる。
毎週末、指導員の資格を持つYさんから猛訓練を受けることになった。まず基本の手解きをしてもらいその後で後ろからついて滑り、お手本のシュプールを出来るだけうまくなぞる。どこでストックをつき、どこでエッジを切り替えるか。上手な人特有のいいリズム、呼吸を体得するには、これが一番だ。習字のとき、先生に書いてもらったお手本を根気良くなぞるのと同じ事だ。何度も繰り返すうちに、スキーが雪を掴む感触が少しずつ分かって来、スピードを自分でコントロールできるようになってくる。
とはいえ、そこは初心者の悲しさ、時折、コントロールできる限度を越えてスピードを出してしまい、ものの見事に転んでしまう。意図せざる顔面制動をやむなくされ眉間に傷を作ったのも練習初日に止まらない。ゴーグルもろとも、幾度となく眼鏡も吹っ飛ばすものだからとうとう柄を折ってしまった。
それでも飽きもせず、中年暴走族などと渾名を奉られながら、限界までスピードを上げてしまう。何といってもスキーの面白みはスピードにあるからだ。
スキーでは、本能に逆らわざるを得ないところがある。斜面が急であればあるだけ、余計谷側に体重を掛けなければならない。そうしないとエッジが立たず不安定になる。安全なようにと腰を引き、山側に体重を掛けるほど、不安定になり、転んでしまう。だから、うまくなるには、度胸がいる。怖いときこそ、怖い方に体重を預けなければならないのだ。
こうして手稲山をホームゲレンデに本能に逆らう訓練を重ねる一方、時折その成果を確かめるため道内の他のスキー場へ繰り出した。
まず二月には、職場の仲間やお師匠さんと車五台を連ねて吹雪の最中ニセコに行った。中山峠を越えるときには車の回りは白一色、前後の車も対向車も見えない。上からは吹雪、下からは地吹雪で地面に積もった雪が風で吹き上げられる。対向車が巻き上げる雪がフロントガラスを直撃する。頼りは時折見える、道路の端と中央線を示す標識だけ。右に寄り過ぎると対向車に、左に寄り過ぎると路肩に積み上げられた雪の壁に突っ込んでしまう。車に乗っていてこれ程怖い思いをしたのは後にも先にもない。とうとう五台のうちの二台が接触事故を起こしてしまった。まず、前の一台が、路肩の雪の壁の中に突っ込んでしまった。後続の一台がそれを避けようとして同じく路肩の雪の中に突っ込み、凍った路面の上を滑って後部を前の車の後部にぶっつけてしまったのだ。
だが、車の事故にも吹雪にもめげず、ニセコに辿り着き、吹雪の中でしぶとく滑った。いきなりゴンドラで頂上近くまでいくと、滑り出すところが狭いうえに急坂である。怖かったが仲間のいる手前、気合いで滑り出さざるをえない。ゲレンデは変化に富み、結構長く、下まで滑ると膝ががくがくする。温度も低く、ゴーグルや眼鏡に雪や氷が着いて見えなくなった。しょうがないから裸眼で滑っていると、まつげに雪が凍り付き、まるで簾の間から透かして見るような具合。スキーヤーにぶつからないように気をつけながら、それでも日没まで粘った。
とっぷり暮れた中を宿舎に帰り、暖房の利いた部屋で、ゆったりしたセーターに着替えて皆と歓談しながらビールを飲む。
「シー・ハイル」。
何時の間にか吹雪も止み、空には月が冴えわたっている。いや、これは幻の月かも知れない。あれから二年、時の浄化作用がもう幻の月を見させるのである。
夕張のマウントレーシーへは職場の人と行った。リフトに乗っては滑り降り、すぐさまリフトで上って滑り降りる。一回ごとにスキーが雪を掴む感じが分かってくる気がする。たった一年しかいないと思えば、一回でも貴重だ。いつの間にか一緒にいった仲間が見当たらなくなった。おかしい。とり残されたのかと思い、スピードを上げて後を追う。しかし見つからない。首を傾げていると、皆お茶を飲んでいたのだ。土地の人は、そんなにがつがつと滑り捲る必要はないのである。
トマムとサホロには中年男の三人組でいった。トマムは、夏にもいったがまるで別世界。でまったく違うところにきた感じだ。いずれも甲乙つけ難い中年暴走族で、空いたリフトを見つけて次々に場所を変え、これまた日没まで滑りまくった。
ちなみにサホロには日本で唯一の地中海クラブがあるが、さすがに人を愉しませるソフトが優れており、スキーだけでなくアフタースキーも十分愉しめる。そこで三月末にやってきた妻も連れて行ったところ、スキー初心者の妻もすっかり気に入り、毎年行く約束をさせられてしまった。
本能が飼い慣らされるにつれ、少しずつ難しい斜面に挑みたくなるものらしい。手稲のあの女子大回転コースや、初日にその前で身震いした男子回転コースにも挑み、なんとか滑り降りれるようになった。その成果はコースの下でカメラを構えている妻にも披露した。
妻と前後して大学受験に現役合格を果たした息子がやってきた。受験前に来たいといってきたときには、受験生が滑るなんてもってのほかだと撥ねつけた。こっちの受入れ体制もまだ整っていなかったのだ。しかし、合格したら、北海道で一緒に滑ろう、褒美にスキー道具一式買ってやろうと約束した。そのため、合格後、「極楽スキー」や「ぴあ」の情報に通じている息子からかなり値の張るブランド品をせびられることになった。スキー店の店員まかせだった私とは全然違う。
「予備校の月謝を払うと思えば安いもんだよ」
と息子はいう。結局この一言に押し切られた。
一緒に、札幌国際、手稲、朝里温泉へいき、どこでも同じコースを滑った。訓練の甲斐がありなんとか間に合ったのだ。親子で一緒に滑るのは久し振りだったが、へっぴり腰で滑っていたあの小学生が今や大学生、背は私より大きくなり、滑りは堂に入っている。若いだけに勇敢だ。スピードも出る。癪だがこれは認めざるを得ない。しかし、相手は私のスキーより長く、重たく、値段も高いものを履いているのだ。
仕上げは春スキーの中心地旭岳だという思いがいつの間にか出来ていた。五月の連休にYさんと一緒にその旭岳に出掛け、最難関の四〇度の急斜面を無事滑り降りた時、やり遂げたという喜びが心の底から湧き上ってきた。
これで私には、北海道に帰ってくる大きなインセンティブが出来たのだ。息子がくる前になんとか息子に遅れをとらないようになっておくことと、このこととが私の最初からのもくろみだった。大好きな北海道に何度も来たくなるようにするには、なにか北海道でしか味わえないものを身につけて帰る必要がある。いっぱしのスキー好きになってしまえば、放っておいてもスキーのメッカ北海道に帰ってきたくなる。雪が降るのが待ち遠しくなる。そう思ったのだ。そのためにこそ、全休日をスキーに当て、八つのスキー場へ繰出し、延二五日脇目もふらず滑りまくったのだ。
事実、今や雪便りを聞くと、北海道が恋しくなる。スキー仲間の顔が見たくなる。昨年も北海道に滑りに行った。今年も行く。私のもくろみは見事に的中したのだ。
地方の生の情報を職場の幹部へ直接伝えたり、中央の情報を聞かせて貰って、討議す る会議自体の重要性が低いわけでは決してないが、後に土日を控える金曜日の設定には 、明らかに単身赴任者対策、生理休暇の意味合いも込められていた。高松時代から八年 経ち、地方からの参加者全員が、私同様、大学受験生を抱えるなどの理由で、単身赴任 だった。
高松時代は、東京での定例会議は年に二回程度で、出張と合わせても、年に 三回程度しか上京の機会は無かった。それだけ、家族とは疎遠にならざるを得なかった 。もっとも、高松での単身赴任は半年止まりだったけれど。
札幌時代、この定例会議のときは、木曜の夜の便で上京し、月曜の第一便で戻ること にしていた。
その日が近づくと、まず、お土産の心配をしなければならない。 高すぎず安すぎず、東京に持っていくと稀少価値があって、値差があり、喜ばれるも の、あまりかさばらず、持って行きやすく、北海道通と思わせることのでき、毎回同じ ものでないもの、などと考えると、結構選択に難渋するのである。とはいえ、私自体が 何よりのお土産であるわけだから、真剣に悩むほどの問題ではなかった。要するになに かあれば事足りるのである。
羽田空港に降り立ち、相変わらず慌ただしく、湿気が強く、人の多さが気になって仕 方のない東京の電車に揉まれて、やっとわが家の最寄りの駅にたどり着く。
駅を出ると、知らず知らずのうちに、足が早くなってくる。一刻も早く会いたい思い と一抹の不安とが交錯する。
みんな元気にしているだろうか。自分の居場所はあるだろうか。顔を合わすまで心配 でならないのだ。出征兵士が、帰宅する時の心境はこういうものだろうかと良く思った ものだ。
わが家の灯が見えてくる。居間のガラス戸に人の影が映る。台所で、忙しく立ち働く 音が聞こえる。 呼び鈴を鳴らす。待ち構えていたような素早さで、エプロン姿の妻がドアを開ける。 「お帰りなさい」。
顔一杯の笑顔。だがその中に、一月ぶりのせいか何とない照れくささが滲み出ている 。その後ろに、子供たちが、元気そうな顔を揃える。やっと一安心。
久しぶりに、妻の手作りの料理に舌鼓を打ちながらの家族四人揃っての夕食、前回の 出張から一月分の話題が食卓を賑わわす。
娘の大学生活の様子、息子の大学受験勉強の進み具合、妻のテニスの腕が少し上がっ たことなど、次々と話が弾む。私も、札幌での孤軍奮闘ぶりを、事細かに報告する。一 向に話題は尽きない。
久しぶりに会うせいで、みんなには、いつもより相手に対する思いやりがある。いた わりの気持ちがある。家族の絆を大切にしようという気持ちが言葉の端々に感じられる 。これは単身赴任の、予期せぬ効用と言うものだろう。
チェスタトンの小説に、妻のもとに戻ってきたときの喜びがひとかたではないという ことで、しょっちゅう世界周遊の旅に出る男の話がある。カツオヅリ船の漁師は帰るた びに新婚気分という。確かに一月の不在はお互いを新鮮にする効果がある。これも単身 赴任の、予期せぬ効用だろうか。
「不在は並みの情熱を冷まし、大いなる情熱をつのらせる。ちょうど風が、蝋燭を吹 き消し、火事をあおり立てるように」(ラ・ロシュフコー箴言集)ともいう。われわれ の家族にとって、単身赴任は、幸運の風たりえたろうか。
一月振りの帰宅の度に、大学受験を間近に控えた子供を含め、悩み多い年頃の二人の 子供を抱えて、家庭を必死に支えている妻の健気さを感じる。
確かに、単身赴任も大変でしょうけど、あなたは、家族のしがらみや煩わしさから、 免れているのだから、その点は楽よ。私は、それを全部背負っているのだから大変よ、 と妻が言う。その通りだと思い、ひたすら、感謝するばかりだ。単身赴任は、本人だけ でなく、残された家族にとってもいろいろと負担を強いるのだ。
土日には、テニスをしたり、家族揃って食事に出掛けたり、つもる話に花を咲かせた り、妻の心配事の相談に乗ったりしている間に、あっと言う間に過ぎてしまう。 月曜の早朝、一月先の再会を愉しみに、お互いの健闘を祈りつつ、玄関先で、別れる 。ラッシュ時の電車にさんざん揉まれ、やっと、機上の人になった後も、しばらくは、 家族のことが頭から離れない。
「みんな、頑張ってくれよ」と小声でつぶやく。そんな時、「えっ、何かご用でしょ うか」たまたま通りっかかったスチュワーデスに、小首を傾げられても、「あたたも、 頑張ってよ」と軽口を叩き、ニッコリ微笑むわけには、なかなかいかないものなのであ る。
生来言葉遊びが好きで、座右訓を求められると、「焦らず、勉強、気長に、生きて、血 の沸く、ロマンの、詩( うた)も忘れず」と答えたりする。各単語の頭の音に「アベキイ チロウ」が折り込んであるのが味噌だ。 札幌に単身赴任して約半年、冬休み明けの東京からの帰り、千歳空港に降り立つ際に下 界を見ると、青い海原が朝日に輝き、その向こうに苫小牧港や白雪をいただいた峰々が連 なっている。そこで一首、
−−北海の 輝く波路 行く船の 堂々として 美しきかな
船に北海道をダブらせて詠んだのだが、これには「ホッ、カ、イ、ド、ウ」が折り込ん である。
−−−ホッとする 帰りの便の 居心地は 道産子気分 嬉しからずや
これも同じ便のなかの一首で、赴任半年にして帰りの便でホッとしている自分に気付き、 その気持ちを「ホッカイドウ」に託したものだ。 小中学時代から、笑い話を作ったり、折り句を作って雑誌や新聞に投書し、賞品を貰っ たりした。中小企業白書を作った時には、苦労を共にした課の全員の名前を拝借して、折 句で白書編纂歳時記を編み、お礼の気持ちを込めて皆に配った。テニスクラブのクリスマ スのパーティの幹事を仰せつかり、余興に福引をやることにして、参加者全員に全部オリ ジナルの謎を出したこともある。「花の命」「早朝の脳卒中」「枕、ティッシュ、避妊具 」などと書いた籤を引かせて煙に巻いておく。さて、その心はと、順に「儚い運命=穿か ない定め」で新婚旅行用のパンティ・セット、「暁に倒る=垢付きにタオル」で垢擦りタ オル、「お床の必需品=男の必需品」で電気ヒゲソリといった景品を差し上げた。
北海道への赴任が決まったあと、色々と関係する本を読み漁り、北海道が様々な魅力に 溢れていることに気付いた。そこで、何とかその魅力を、覚えやすい形に纏められないか と頭をひねった挙げ句、HOKKAIDOに折り込むことを思いついた。赴任直後の挨拶 の際に披露したら好評だったので、その後もいろんな機会に活用した。札幌に赴任した年 が、丁度青函トンネルが完成した年に当たっていて、函館ではその記念博覧会をやってお り、全国的な大会や会議が目白押しで、赴任二月の間に四回も空路訪れた。その度に、全 国各地からのお客さんに披露して、北海道のPRに一役買ったのもそのひとつだ。
HOKKAIDOのHはhospitality のH、人々を温かく歓待する心。Oはopenminded ness、余所者にも心を開く開放性。次のKはkindness・・・と最後のOまで紹介し、そこ を縦軸に貫くのが、先頭のHに戻ってhumanity人間性が豊か、人間らしい生活の送れる地 域ということだ。北海道はこんなに魅力に富む所ですから、是非また来ていただきたいし 、お国の方々にもご紹介いただきたい、とお願いした。
札幌では、国の地方支分部局の長という職掌柄、この種の大会、会議、催し物での挨拶 、乾杯の音頭取りに類した仕事が沢山あった。日本人は儀式好きで形式尊重だから、紋切 り型の挨拶や形式的な音頭取りにも、静かに耳を傾け、唱和もしてくれるが、自分が聞か される側に回ると退屈至極、一向に面白くない。そこで及ばずながら聞く側の人にも、少 々の愉しみを提供しようということで、言葉遊びを取り入れることにしたのだ。
空知地域はかつては日本有数の産炭地域であったが、エネルギー転換で炭鉱はことごと く閉山に追い込まれた。地域振興のために、新しくリゾート開発に乗り出す機運が高まり 、その構想を国際コンペティションで問うたところ海外からも応募があり、表彰式が夕張 市で行われた。そのパーティの席上で乾杯の音頭取りを仰せつかり、
「夢語る 宴ぞ今日 は バラ色の リゾート目指し 祝杯上げん」
とユウバリシを折り込んだ句で、乾杯の唱 和をお願いした。
上砂川にある閉山した炭鉱の立坑を利用して世界一の地下無重力実験セ ンターを作る構想が持ち上がり、推進母体の設立のために画策した。苦労が実り、設立総 会にこぎ着けた。そこでも乾杯の音頭取り求められた。そこで
「北海道 科学の殿堂 い ざ建てん 同志集える 宴ぞ今宵」
とホッカイドウを折り込んで乾杯のカップを高々と上 げた。どちらも色紙を求められ、悪筆の私はためらいつつも結局認めた。後日、無重力セ ンターの事務所を訪ねたら、玄関正面にその色紙が飾ってあって、赤面の至りだった。
儀礼的な挨拶に比べれば、自分の言いたいことが自由に言える講演が、何倍も私の性に 合っていた。これにも言葉遊びを多用したせいか知らぬが、札幌では次々とお座敷がかか り、一年で二十回やった。文字通り、お座敷でしゃべったことも、スナックでやったこと もある。相手もお歴々からご婦人だけ、あるいは大学のセミナーのOBと現役までと多彩 だった。
演題は「自信を持て!北海道」とか「座標軸の転換」とし、HOKKAIDOに 託して、今後の北海道の発展方向を語ったりした。単なる物質的な豊かさから、精神的文 化的な豊かさへの価値観の転換、東京中心の見方から地域中心へ、現状から見るだけでな く、例えば戦後処理の時点に立ち返って現在・未来を見る見方が必要なことなど、私自身 の価値観、歴史観を織り交ぜて語った。話したいメッセージが山ほどあったので、何処へ でも気軽に出向いた。札幌だけでなく、釧路、旭川、千歳、苫小牧、室蘭にも行った。
旅先では、地名を折り込んだ句を作るのが愉しみだった。
「わが旅の 尽きせぬ思い 語らえば 長き一夜も いつか白らみぬ」 稚内
「幸祈る 妻の便りを ポケットに 炉端で憩う 幸せの時」( 札幌市) 。
句に折り込んだ旅の日はいつまでも忘れがたい。
北海道を離れるお別れパーティの席上でも、あいつなら、何か面白いことをいうだろう と期待されるまでになって、挨拶のときに、一首、折り句を披露して、それに応えた。
−−−北海道 輝く未来 祈りつつ 同志と別れん 麗しの朝
これは地方紙にも紹介されたが、「ホッカイドウ」を折り込んであるというコメントが無 かったのは、少し残念だった。果して何人の人が気付いてくれたことだろう。いずれにし ても、愉しむことが好きなせいで、こんなささやかな言葉遊びの中にさえ、大いなる愉し みを見出すことが出来るのだから、私も、つくづく幸せな男と思うのである。
単身赴任者にとっては、旅に出るのが、ことのほか愉しみな理由が、ひとつある。そ れは、日頃の家事から免れられるということだ。特に、炊事から。主婦が旅に出るのを 愉しみとする心理と変わらない。
もともと、旅行は大好きなのだ。そのうえ、単身赴任者特有の愉しみが増え、独身者 並みに身軽ときている。いつ何時であろうと、自分の一存で何処へでも行ける。チャン スさえあれば、これを見逃す手はない。旅行さえできれば、名目が出張であろうと、プ ライベートなものであろうと、構わうことはない。お負けに、赴任した地域が、四国に しても、北海道にしても、初めての土地。観光名所が多く、食べ物もうまく、行ってみ たいところだらけで、しかも、職掌柄、出張が多いポストときている。これを、大いな る奇貨とし、赴任期間の割りには、結構様々な所へ足を延ばすことになったことは言う までもない。
出張のいいところは、ひとつのことに専念できる点だ。事務所にいると、常時複数の 輻輳した仕事を抱えている上に、飛び込みの仕事や来客も結構あるし、電話もあれこれ かかってくる。気持ちがすっきり晴れることがない。ところが、出張に出てしまえば、 少なくとも、仕事の内容はごく限定される。突然の仕事や訪問客が舞い込むこともない 。電話も、よほど緊急を要すること以外かかってこない。日頃の仕事が、フルコース的 であるとするなら、出張のときは、すうどん的と言えようか。胃袋の負担と同じで、精 神的負担はかなり軽い。
旅行の足は選り好みしない。汽車の旅、車の旅、船の旅、飛行機の旅、何でもいい。 それぞれに良さがあり、風情がある。乗り物のスピードや、高度で、見えるものは態様 を変えるが、それなりの見所がある。飛行機は絶対いやだという人もいるが、時間の効 率性を考えれば、厭わない体質のほうが、今の世の中、絶対得である。行きたいところ へ、早く行けて、仕事や見物の時間がたっぷり取れる。結局多くの場所に行けることに もなる。北海道ぐらいの広さになると、汽車や車では、短時日の旅では、行けないとこ ろが出てくる。函館、釧路、北見、稚内にも、札幌から、飛行機で行ったが、飛行機で 一時間程度で行けるところに、汽車でだと、半日かけて行かなければならなくなる。
四国は狭い島だから、域内の航空路は発達していない。高松から松山まで特急列車で いっても単線のせいもあって、四時間近くかかる。同じ時刻に出ても、東京から直接松 山空港に乗り込む人のほうがはるかに早く着くのである。その意味では、どこへ行くに しても、慌てず騒がず、汽車の旅をのんびり楽しむ心構えが必要になる。そこは良くし たもので、狭い所を縫うようにゆっくり走るので、車窓からの瀬戸内海の景色にしても 、おおぼけこぼけの山や渓谷にしても結構捨てたものではないから埋め合わせは十分取 れるのである。
旅に出ると、いろんな人に会い、話す愉しみがある。いかにもその風土が生んだとお ぼしき人の話を聞くのは楽しい。場所を選ばない話と、選ぶ話というものがある。そこ へ行かなければ、話題にもならないこと、話題にしにくいことは、結構多そうな気がす る。礼文島のウニの話や知床半島のひぐまの話などその類だ。いかにもその場所にふさ わしい話を、話すのに適した人から聞くのは、旅の愉しみのうちでも最上なもののひと つであろう。
旅に出ると、日常生活と違った意味での、暇な時間ができる。駅や港で、発車や乗船 を待つ時間。車窓や船のデッキから、のんびりと移り変わる景色を眺める時間。旅装を 解いて、旅館なりホテルなりでゆっくり寛ぐ時間。慣れぬ寝床で、なかなか寝つけず、 とりとめもないことを考える時間。いつもより早めに目を覚まして、辺りを散策する時 間。そうした時間、暇そのものが貴重で、充実して感じられる。日常生活では、暇でさ え、日常化してしまっているので、なんとなく過ごしてしまいがちだが、旅に出ると全 てが物珍しいことも手伝い、そんなとき、ふと詩心や歌心が生まれ、日頃滅多に詠まな い歌を詠んだり、替え歌を作ったり、言葉遊びに興じたりする。環境の変化に刺激され て、新しい発想も浮かぶ。日頃は余りに、定例化した生き方をしていて、なかなか新鮮 な目を持ちにくい。
旅は心を開放する。旅には、日常性からの脱出の要素があって、 それが心を開放するのである。単身生活も、赴任して、しばらくたてば、日常性の臭み を持ちはじめる。最初新鮮であった家事ひとつにしても、ルーティン化し、マンネリに 陥る。旅に出ることで、そこから脱出でき、新鮮な感覚を取り戻す。
写真をとるのも、旅に出たときのほうが断然多い。見知らぬ場所を記録に止めておき たいという気持ちもさることながら、やはり、心が開放されているからに違いない。あ りふれた日没や、日の出が、旅の空では、ことのほか、美しく感じられるのも、そうし た心の作用である。日常生活で、見落としていたものに、ふと気付くのである。 礼文島では、六月初旬というのに、冬のように冷たい風が吹いていた。その風の中で 、高山植物が小さな花をつけ、土にしがみつくように咲いていた。蒼い海に突き出た岩 場の陰で、数知れぬ海鳥が、鳴き戯れていた。いつもこの時期こんなに風は冷たいのだ ろうか。たとえ、これ以上冷たい風が吹き荒れる日があろうと、ぽかぽか陽気の日があ ろうと、毎年似たような情景が繰り返されるに違いない。しかし、ある日、特定のある 日それを見る旅人の心には、その日の光景が焼きつく。旅にはそうした限定性がつきま とう。
しかし、そのことは、単身赴任そのものにも付きまとうことだ。私の赴任した冬はこ とのほか、雪が少なかったが、翌年は大雪だったという。私が知っている常態というも のにしても、たかだか、人生五十年の所産にしか過ぎない。いってみれば、単身赴任は 、そうした常態=日常からの逸脱であり、それ自体が、旅のようなものだ。とするなら 、旅が好きである理由は自ずから明らかになる。それは、単身赴任を凝縮したようなも のであり、単身赴任を愉しみとする人が愉しみとしない訳はないのである。
さて、主婦業を始めてみると、実に細々した家事があることに驚かされ た。炊事洗濯掃除を三巨頭として、アイロン掛け、ボタン付け、ゴミ出し、布団干し、 各種料金支払い、物売りへの応接、電話の応対、クリーニング出し、灯油の発注、スト ーブへの注油、切れた電灯の補充、付け替え、ティッシュやトイレット・ペーパー、ゴ ミ用ビニール袋の補充、食料品の買い出し・保存、備品の補充、郵便物の受取、新聞紙 の整理、処分、各種配達物の受取、出張中の水道栓の凍結防止、車の雪落とし、病人の 介抱、傷の手当て、納戸の整理、戸締り、火の用心、隣家の預かり物の届けなどなど、 小者なら幾らでも続く。
しかも、専業主婦ではなく、ほとんどの週日は、日中留守にしながら、こなさなけれ ばならないのだから、余計大変である。例えば、ゴミ出しにしても、生ゴミを出す日と 、燃えないゴミを出す日は別だ。忘れると生ゴミは匂いだす。前の日からちゃんと黒い ビニールの袋に入れておき、翌朝通勤の際にゴミ集めの場所まで持って行かなければな らない。
もともとながら族だから、家事をやるのも、ながら族を決め込んだ。朝食を作りなが ら、洗濯機を回し、夕食を作りながら、お風呂を沸かし、掃除機をかけながら、灯油を 注油した。ながら族の利点は、朝飯が出来上がるころには、洗濯も終わっている点にあ るのだが、ただ、欠点は、どうしても、一方に、意識は偏りがちなので、よほど、注意 していないと、とんでもない失敗を仕出かしかねない点だ。
いつの間にか洗濯機のホー スが外れているのに気付かず、辺りを水浸しにしてしまうとか、お風呂の水が煮立つま で熱ためてしまうとか、灯油を危うく溢れさせてしまうとか。ただ、独り住まいの利点 は、そんな失敗をしでかしても、誰からも注意されずに済むところにある。その次から 注意することにすれば、それほど失敗を繰り返すものではない。新米主婦なのだから、 勉強勉強と思って、自ら慰めたものだ。
失敗と言えば、高松にいるとき、布団を干していて、雨に濡らしてしまったことがあ る。天気予報を信用しすぎてはいけないのだ。布団は一セット分しか持っていかなかっ たので、すっかり乾くまで往生した。ガスの火を消し忘れて、帰って来たらまだ青い炎 を挙げて燃えていたことや、玄関の鍵を閉め忘れて、出勤したこともある。大事に至ら ずに胸を撫ぜ下ろしたが、しかし、これも一回失敗すれば、二度と繰り返すことはない 。
家の中のレイアウト・整理ということになれば、単身者には、自分なりの感覚をフル に発揮できる。自分流に配置し、整理するので、動きやすく、見つけやすい。他人の目 には、混沌の極みのように見えても、本人にとっては、良く整理された図書館で本を探 すようなものだ。料理するにしても、道具は使いやすいし、欲しい調味料がすぐ出てく る。 これは、家族と同居していると、妻の実権下に置かれる領分である。日頃、室内のレ イアウトは妻の裁量下に置かれていて、その権限を少しでも侵すと妻の逆鱗に触れる。 例えば、廊下の隅に本箱を置こうとすると、大反対を受ける。ところが、いつの間にか 、禁じた本人は、そこに、踏み台を置いている。しかし、それを口に出して言うと荒波 が立つ。
料理を手伝うにしても、妻の専管下にある食品や道具、什器類のありかをひと つひとつ探さなけれならないので、つい、億劫になる。
ところで、赴任先に、妻がやってくると、自分が作り上げた秩序がたちまち妻流に再 編成されてしまう。まったく頓着しないこと恐るべきものだが、自分の領分だという意 識があるのだろう。部屋のレイアウトも、台所の食器類、什器類の置き場所も、たちま ち、妻の好み一色に染替えられる。それでも、独り住まいのときに比べれば部屋は数段 綺麗になったのだし、おいしい料理を作って貰えるのだから、黙って、ありがたがるよ りない。
病人の介抱も、主婦業に属しているが、なにせ、単身生活は、すべて兼業なのだから 、病気になってしまえば、病人と看護人も兼業せざるを得ない。だから、日頃から、病 気にだけはかかるまいと余程注意しているのだが、それでも風邪をひき、寝込んだこと があった。布団の周りに、必要なものをすべて並べて、布団にくるまり、ひたすら回復 を待った。次第に、腹は空いてくる。体力が一番必要なときに、それに相応しい食事が 取れないのだ。独り者は、大病して、体力が衰え、食事の世話ができなくなったらそれ こそお終いだなと思ったものだ。幸いにして、大病に至らず、看護人の作ってくれた粗 末なインスタントものでしのぎはしたものの、独り住まいの一番侘しい、深刻な側面で はあった。
帰京後は、主婦業は全面的に、早々と妻に返還した。元のように、自分の座る場所ま で含めて、妻の傘の下に入ることになったが、主婦業が大変だという認識を高めて帰っ てきたことでもあり、文句ひとつ言わず、はいはいと従っている。
物心ついた頃から、映画フアンだった。戦争直後の何もない時代、いつもひもじい思 いをし、接ぎあてだらけの服をきた子供にとっては、スクリーンの中に展開する世界は 、パラダイスだった。映画を見ること自体が贅沢で、回数は決して多くなかったものの 、いつも胸をワクワクさせながら食い入るように見たものだ。だから、「ニューシネマ パラダイス」の映画にのめり込む主人公の坊やの姿に、自分の子供時代とが二重写しに なった。
小学校時代には、先生に引率されて見に行ったものだ。「ターザン」、ウオルト・デ ィズニーの「白雪姫」、「シンデレラ」や自然記録映画、文部省特選の「路傍の石」、 「鐘の鳴る丘」「あすなろ物語」や「鞍馬天狗」などを覚えている。「アーアーアー」 と雄叫びを挙げながら助けに向かうターザンや、馬に跨がって杉作少年の救いに駆けつ ける鞍馬天狗に、友達と競って、拍手をしたものだ。「砂漠は生きている」中で、シャ ボテンの花の咲くシーンを見た時の感動がいまも残っている。
三益愛子主演の母親ものや小津安次郎の映画は母に連れられて、家族そろって見に行 った。立錐の余地もない観客席で、立ち見していた次姉がいきなり転倒した。驚いたこ とには、まだすやすや眠っていた。
当時の大スター中村錦之助や東千代之助が活躍する 「笛吹き童子」のシリーズなどは、熱中して聴いたNHKのラジオ・ドラマの映画化だ ったので見たかったけれど連れていって貰えず、友達の話をうらやましげに聴いたもの だ。小学校の校庭には巡回映画が時々やってきた。フィルムは途中で良く切れたし、蚊 もいたけれど少しも苦にならなかった。
食物にも、着るものにも不自由しがちの私の幼い頭には輝けるアメリカ、輝けるハリ ウッドが焼きついた。アメリカは美男美女の溢れる豊かな国、夢の国、憧れの国に映っ た。日本映画が白黒なのにアメリカ映画がカラーだったことも、その思いを高じさせた 。
九州から上京後の学生時代、就職したての頃も、娯楽の主流はまだ映画で、他に対抗 できる娯楽がなかったという意味で、わたしの世代は純粋な映画世代ということができ るだろう。暇があると真先に映画を思い浮かべ、昼食は、コッペパン一つで我慢しても 、渋谷や新宿の二本立て三本立ての名画座に通ったものだ。社会派から文芸物、恋愛物 から西部劇まで映画と名が付けば何でもよかった。六十年代に差しかかった頃で、幸運 にもちょうどハリウッド映画の全盛期で、映画史に残る名作が目白押しだった。
だから、高松や札幌での単身赴任時代も、映画は、最も身近な愉しみだったし、慰め だった。高松では、文芸大作からAVもどきまで映画館で見た。ただ、狭い土地柄だっ たのでAVものの時には、相当神経を使わなければならなかった。札幌では映画館へ行 くより、テレビで見たり、映画への関心を、淀川長治ら映画大好き人間が薀蓄を傾けた 鼎談集で大部な「映画千夜一夜」を読むことで紛らした。この三人ではないが、私も気 の合った映画好きと映画について話し始めたらもう止まらない。映画は確かに人を饒舌 にする。
「雨の朝パリに死す」。これは高校時代に見たのだが、「若草物語」などで少女時代 から知っていたエリザベス・テイラーが美しさの頂点にあった頃の映画だ。あの佳人が 、予想もしない運命に翻弄されて、あっけなく死んでしまうことの不条理に涙を流した 。大学時代には、「ローマの休日」や「懐かしのサブリナ」、「昼下がりの情事」のオ ードリーヘップバーンの妖精のような美しさに憧れた。
好きな女優や男優の名前を挙げはじめたらそれだけで紙数がつきてしまうだろう。憧 れの女優は殆ど年上だ。モーリン・オハラ、イングリッド・バーグマン、キム・ノバッ ク。今の若い人には何の記号かと思うに違いないが、MM、BB、CC...(日本女 優の名を明かさないのは、女房対策である)。
男優なら、マーロン・ブランド、ゲーリ ー・クーパー、バート・ランカスター、ヘンリー・フォンダ...監督なら、エリア・ カザン、ジョン・フォード、ジョン・スタージェス、ヒチコック、ビリー・ワイルダー ...
「映画千夜一夜」の中で、淀川長治が、リリアン・ギッシュなど、ひと昔前の俳優の名 前を懐かしそうに挙げるのだが、私が挙げた名も、今の世代の人には、既に過去の人ば かりだ。今や、自らが恋愛事から遠ざかったせいかファン心理に必要な憧れの要素が薄 れてしまい、新しいファンの対象は増えなくなった。メリル・ストリープやブルック・ シールズやトム・クルーズも「わるくないね」とはいえ、「ファンだ」とは言いにくい のだ。憧れの気持ちが明らかに少なくなった。昔、憧れていた女優のなれの果てを知っ たことも確かにこの事を助長する。人の一生を、その表と裏とを、映画俳優を通して見 てしまったのだ。その意味では、親近感をもって俳優を見るようになった。要するにス ターの神秘性が消滅した一方で、自らも枯れてきたのである。
テレビの日曜洋画劇場は、私が結婚した年に始まった。新婚当初妻とふたりして仲良 く一緒に見たものだ。昨年、われわれは銀婚式を迎えたが、同劇場の25周年記念と重な った。「さよなら さよなら さよなら」をなんど聞いたことか。
今や、映画館はたまにしか行かなくなった。テレビ放送か、レンタル・ビデオでお茶 を濁せるという意味では、現役パリパリの映画ファンと言うより、既に昔見た古き名画 を懐かしむオールド・ファンに近い。
比較的最近映画館で見た映画では、(と言っても随分旧聞に属するが)、「ダンス・ ウィズ・ウルブズ」「アマデウズ」「フィールド・オブ・ドリームズ」などがよかった 。「バック・ツー・ザ・フユチャー」の徹底した遊びの精神も捨てがたい。「たかが映 画じゃないか」と思うけれど、「されど映画だ」と言わざるを得ないこうした作品に出 くわし、心から「参りました」を言わされる愉しみは、なかなか捨てがたい。映画館の 大きなスクリーン一杯に、人間の創造力、イマージネーション、感受性の極致をきっち りと定着して見せつけられると、感動を覚え、やはり、映画は映画館での思いを深くす る。音と色彩と構図の極め付きに酔わされ、その都度、やはり、人間はすごいと思い、 人間への信頼を再確認する。
水野晴雄の口癖ではないが、「いやー映画って、本当にい いものですねー」。
数年前帰郷したとき、地元の高校の同窓生が十数人も集まって、私の歓迎会をして くれた。その席の大半の人とは、実に三十年振りの再会だったこともあって一人一人が 私との思い出を語ってくれたのだが、その中の二人までが私が中学時代に木下順二の「 夕鶴」のよひょう役をやったことを覚えていて、高校に入る前から知っていたという。 結構涙を誘う演技だったらしく、私は自分が考える以上に演劇少年だったようだ。
中学 入学後、熱心な先生に誘われるまま演劇部に入り、この演目をもって郡部の町にまで巡 演したのである。小学六年生のとき、自分で初めて買った文庫本が、シェークスピアの 「ロメオとジュリエット」だったから、演劇好きの兆しすでにその頃から芽生えていた のかも知れない。
大学時代には、シラーやシェークスピアを愛読した。就職したての頃、私が下宿した 家の主は、有名な仏文学者で劇作の翻訳が多く、自訳の演劇が上演されたときなど、招 待券をくれたので、見に行ったことがある。題名も作者名も覚えていないが、主演の滝 沢修が、ツルツルの頭を光らせながら、「人間は誰しも、日常生活の上でも演技してお り、俳優とて例外ではない。とするなら、舞台の上での俳優の演技は、それとどう違う のか。舞台での演技こそ、その人そのものをさらけ出すことではないのか」といった類 の俳優としての悩みを、例の良く通る声と緩急自由自在のセリフ回しで、独白するシー ンがあったが、そこだけを不思議と良く覚えている。身につまされたからでもあったろ う。
もう十五年も前になってしまったが、ポーランドに三年間赴任した時代には、同国が 演劇が盛んであったこともあって、時折劇場に足を運んだ。今も鮮やかに覚えているの は、「レプリカ」という劇である。全くの無言劇であったが、極めて印象深いものであ った。入場すると平土間の中央にこんもりした土の小山があり、一人の男が丁寧に箒で 回りから土をかき寄せている。観客はその回りを取り囲むように座る。あちこちの柱か らは生きた人間に見紛う等身大の石膏の彫像がぶら下がっている。やがて開演のベルが 鳴ると、例の土の小山のなかから、にょきっと人の腕が出てき、両手が出、頭が出、の たうち回りながら、人が一人出てくる。やがてもう一人。もうこれでお終いかと思って いると、やや間をおいて次々と、驚くなかれ十人近い人が、大して大きくない土塊の中 から現れ、天に腕を差し延べ、地に身を折り伏し、何ものかを求めるように身体を捩る 。息を飲んでいると、柱にぶら下がっていた彫像までが動きだす。それまでピクリとも 動かず、てっきり本物の石膏像と思い込んでいたのが、それも俳優だったのだ。ポーラ ンドの置かれた状況を暗示する苦悩の身振りと、その驚くべきパフォーマンスにすっか り圧倒されたことだった。
パフォーマンスと言えば、日本からワルシャワに「早稲田小劇場」がやって来てこれ も、白石加代子を始めとするパフォーマンスのすごさで、ワルシャワの観衆を熱狂させ た。ただ、日本の政府関係機関の援助を受けてやって来た、日本ではある程度名の知れ た劇団の出し物はそれこそ小学校の学芸会の域を出ず、第一幕が終わるか終わらないう ちに観客のほとんどが帰ってしまい、我々日本人が、申し訳程度に少数居残った体たら くであった。
ポーランドでは、碁の普及に乗り出していたのだが、それが日本に伝わり、NHKの 囲碁番組で有名な小川誠子さんらが、囲碁普及使節団として来てくれた。下にも置かぬ もてなしをしたことは言うまでもない。それからしばらくたったある日、電話がかかっ てきて、棋士の小川誠子の義弟の山本亘と申します。私は俳優でいまブラツラフの有名 な実験劇場に演劇の勉強に来ているが、いつぞや姉が囲碁の使節団でお世話になったお 礼にと、四段の免状を託されてきた。これからワルシャワのお宅にお届けしたいと言う のだった。
現れた山本さんは実に愉快な人で、しかも大の碁好きだったので、大いに語り、夜を 徹して碁を打った。帰国直前にも、碁の禁断症状と称して現れた彼と徹夜碁を打った。 これが縁で、帰国後、彼が主演する「五番街夕霧楼」に招待してもらったり、彼が属す る地人会の会員になって、年に何回かは観劇に行き、たまには楽屋を尋ねて、夕食をご 一緒したりしている。演劇について話し合うと時間のたつのを忘れてしまう。
単身赴任時代の札幌では、青山 の「坂本竜馬」を見た。期待して行ったが、これ には失望した。第一、シナリオが悪い。周辺を描いて中核に迫る手法は分かるが、余り に周辺に偏りすぎて、肝心の中核が浮かび上がらない。人物像が見えてこない。大木を 描くのに、根幹にまともにとりくむことをせず、枝葉だけにかまけ過ぎた感がするので ある。
今も年に四五回は劇場に足を運ぶ。その度思うのだが、舞台にリアリティを 現出させるのは、決して日常的な会話、素振りをそのまま写し取った、くそリアリズム ではない。演技にしても、日常的な素振りをなぞらうことでは、日常性をそのまま舞台 の上に再現できない。ときたま、その誤解に根ざしたようなシナリオや演出に出会い、 がっかりする。劇的なるものへの昇華を抜きにしては、劇的な感興を観客に覚えさせる ことはできない。作者と演出家と俳優と、そして観客の劇的なるものについての認識が ミートし、強烈なカタルシスを感じた夜など、涙が溢れて止めようがなく、照明がもう 少しゆっくり点いてくれたらとひたすら願う。そんな時にこそ、人生の密度が一挙に、 二倍にも三倍にも濃くなり、同じ生き物として、同じ空間=劇場=人生を共有している 喜び、ほかならぬ観劇の喜びを満喫するのである。
赴任先に、家族が訪ねてくるということになると、単身赴任者は、やけに張り切っ てしまう。指折り数えてその日を待つ。漠然と待つだけではなく、色々と準備に余念 がない。日頃苦労をかけている分を少しでも埋め合わせたい気持ちも働くのだ。どこ そこへ連れて行こうとか、どんなものを御馳走してやろうとか、一緒に何を楽しもう とか、研究する。そのために、観光案内書を繙いて勉強もする。職場の同僚から情報 も集める。家の掃除にも念を入れる。
赴任先が、近県ならまだしも、高松、札幌となると、家族を呼ぶのは、大仕事にな る。第一経費がかかる。二重生活を強いられているだけでも、いつもより物要りなの だ。それに家族の往復の旅費が上乗せとなると、回数は自ずと制限せざるをえない。 子供たちの学校の都合もあるし、妻だけ呼ぶにしても、残った子供たちの食事の世話 のことも、考えなければならない。
あれやこれや考えると、お互いにとって大きな愉しみではあるにせよ、結局年に二 度も呼べれば、上々ということになる。事実、高松の半年の単身赴任時代には、家族 全員を呼んだのは一回きりで、それ以外に、妻とは中間地点の京都でデートをした。 めったに行かない京都を夫婦揃って見物できたのも単身赴任の余得だったのかも知れ ない。札幌の一年の間には、妻を二回、子供を一回ずつ呼んだ計算になる。
短い滞在期間を目一杯活用するには、効率よく、観光案内をしなければならない。 何処が見所で、どんないわれがあるのか、何が名物で、何か見落としはないか、細心 の注意を払って計画を練り、何を聞かれても、すぐ答えられるように用意しておく。 家族のほうではそんなことを、別に期待してもいないのだろうが、住んでいる当人の ほうは、昔からの住人のように、知らないことがあると沽券に係わる気になるのだ。 住めば都の郷土愛が芽生えて、自分の住んでいる町がどんなに素晴らしいところであ るか、知ってもらいたいのだ。新しい場所で、自分が所を得てちゃんとやっているこ とを分かってもらい、安心してもらいたいのである。
高松時代には、勤労感謝の日の連休を利用してやって来た。二人の子供もまだ小学生 で、滞在期間も短かったので、近くの栗林公園や高松城址に一緒に行ったり、名物の讃 岐うどんのうどんすきや、瀬戸内海の新鮮な魚介類を楽しんだりしているうちに、あっ という間に帰って行った。 札幌時代には、娘の夏休みに合わせて八月上旬に、妻が娘を連れてやって来た。大学 受験勉強真っ最中の息子は、夏休みの特訓があるということで東京に残った。
私のほうでも夏休みを取っておき、千歳空港まで車で迎えにいった。札幌への帰りは 、支笏湖回りにした。波静かな湖畔で暫く寛いだが、二人ともすっかり気に入って、東 京へ帰るときにも同じ道を通り、同じ場所で暫くゆっくりした。
洞爺湖へも行った。午後三時過ぎになって、娘が急に行きたいと言いだしたものだか ら、やや慌て気味の出発だったが、道は空いていたので、中山峠越えの快適なドライブ だった。眺めが雄大で、変化に富み、木々の緑が生き生きしている。湖は、人出も少な く、ひっそりしていた。帰る頃には、夕日が湖面に照り映え、息を飲むような美しさだ った。
野幌の開拓百年記念公園でも、のんびり半日を過ごした。どこへ行っても、空気が澄 んでいて、空間がたっぷりあり、人が少ないことが、家族には、好評だった。 赴任直後の泊まり込みセミナーで知り合った小樽の知人を訪ね、周辺地域を含めて懇 切に案内して貰った。小樽商大の校内や、伊藤整、小林多喜志の文学碑巡りなど、これ だけはにわか案内人では真似のできない、地元の人ならではの案内だった。そのうえ、 寿司の御馳走になった。寿司のネタは新鮮そのものだったし、話のネタも飛びきり上等 だった。
妻とは、ナイターのテニスも楽しんだ。宿舎から車で五分の所に緑に取り 囲まれたコートがあった。八月とは言え、夜になると涼しいぐらいで、テニスの汗が快 かった。 翌年の三月末には、妻と大学に無事合格した息子が前後してやって来た。息子は、ス キーが巧そうなことを言っていたので、私のほうは一緒に楽しめるように、十年間放置 していた初心者同然の腕前を一挙に中級にまで引き上げるべく、その冬は、休日という 休日にはスキー場に通い、指導員の資格を持つ人を先生に涙ぐましい努力をしたのだ。 それが役にたった。息子とは、下調べを済ませておいた近目の三つのスキー場で精力的 に滑り、妻とは、これも一度行って気に入ったサホロの地中海クラブで、十年振りに一 緒に滑った。
東京とは、全く違う環境の中で家族を見るのは、愉しいものだった。 思わざる一面を発見したりする。それが新鮮だった。宿舎も、周りの環境も、家族がい る間は賑わい、東京での普段の家庭生活とも一味違う、ちょっとしたお祭り気分が漂う 。
そうしたお祭り気分も、家族が帰ってしまうと、たちまち、消えてしまう。元の独り 住まいに戻っただけなのに、宿舎が、いつもよりだだっ広く思われて、わびしい。火の 消えたような、静けさが、やるせない。今度は、いつになるのだろうと、知らないうち に指折り数えているのである。
中年サラリーマンの蒸発のケース・スタディによれば、男には家庭でも職場でもない 「第三空間」が常に必要であり、それを持たない人は蒸発の可能性があるらしい(笹川 巌「趣味人の日曜日」)。常に正気で、よき職場人、よき家庭人を演ずることを求めら れれば、うっとうしくて気が滅入る。たまには気ままに世の諸々のしがらみから逃れ、 ぶらりといくえ定めぬさすらいの旅に出たくもなる。単身赴任住まいは、それこそ家庭 でもなく職場でもなく「第三空間」そのものであり、ある意味では公認の蒸発でもある 。私が、二度単身赴任したことは、真性の蒸発防止に役にたったのかもしれない。
私のように齢五〇ともなれば、長年連れ添い、いつの間にか、家庭の真ん中にどっか りと腰を落ちつけている妻に、大学生や高校高学年になり、一人前の生意気な口を利く 子供の二人程度はいるものだ。とすれば、多少なりとも家族に煩わされて生きているの である。日曜日にゴルフに誘そわれても、三週連続ともなると、大蔵省の監視の目を気 にし、家族サービスのためにも空けておかなければなるまいと思い、断ったりする。と ころが、その日になると、妻は、これ新調しちゃったとめかしこみ、同窓会があるの、 留守番頼むわね、と出掛けてしまう。子供はバイトだのデートだのいって出て行ったき り帰ってこない。独り、天井を見上げてフテ寝することになる。
単身になりさえすれば、それこそ、自分のやりたいことが遠慮なくできるのだ。別に 、蒸発したい気になっていたわけではないが、それまで「第三空間」に恵まれていなか ったこともあり、辞令に命じられるまま、勇躍任地に赴いたのである。
確かに、単身赴任生活は、それ自体が愉しいわけではなく、それを愉しもうという心 構えがあって初めて、愉しくなる。私は、最初のときも、赴任する前から、この滅多に ない単身赴任生活を一体どうやって愉しもうかと考えた。その意味では単身赴任の愉し みはすでに赴任前から始まる。二度目のときは、最初の時の経験を生かして、もっと愉 しんでやろうと意気込んでいた。その心構えのお蔭で、縷々書き綴ったように、実に様 々な愉しみを味わうことができた。
単身生活が、愉しいことばかりでないことは言うまでもない。独り住まいを始めて、 暫くの間は、妙に物音が気になって仕方がなかった。東京ではほとんど気にもならなか ったのに、夜、明かりを消して床につくと、玄関のドアの辺りで聴き慣れぬ物音がする 。誰か侵入しようとしているのかも知れない。そう思うと、心臓が早鐘のように打ち始 める。それだけ神経が高ぶっているのだ。慣れない独り寝の床で、聴き慣れない音の意 味するところを合点するまでにはかなりかかる。それまでは、ガラス戸に当たる風の音 にも身が縮むのだ。誰もいない家のなかに独りぽつんと寝ている訳だから、ちょっとし た物音にも過敏になっていて、なかなか寝つけない。寝つけないまま、暗く、静まりか えった夜更け、とりとめない物思いに耽る。別れてきた家族のことを思い浮かべ、寂し さが、じんわりと忍び込んできたりする。単身赴任者が、一番、侘しさを感じるときだ 。
独り住まいの侘しさを独り酒で慰めるときもある。酒の肴に絶好のものを貰ったりし たとき、家族にも食べさせてやりたいと思いながら、それを肴に、ちびりちびり、酒を 飲むのである。テレビを見ながら、あるいは本の頁を捲りながら、杯を重ねる。話す相 手がいないのだから、テレビを見ていても、室内は、静まり返っているような気がする 。夜がしんしんと更けていく音さえ聞こえる。心配事に心が煩わされていても、いつし か酒は五体に巡り、眠気が襲ってくる。気楽なのは、そのままそこで寝込んでもいいし 、隣室の万年床に倒れ込んでもいいことだ。酒は確かに、独り者の友であり、独り寝の 伴侶なのだ。
週末、予定していたテニスやゴルフなどが土砂降りの雨のために中止になったりして 、さして何をする当てもなく、ぽっかり一日空くことがある。もちろん好きなことはい ろいろあるのだから、それをやればいいわけである。しかし、いくら好きなこととは言 え、一日、独りで、本を読んだり、テレビを見たりしながら過ごし、雨の中、食糧を買 いにいき、三度の料理も作らなければならないと考えると、それだけでうんざりする。 予定していなかったことでもあり、何をやるにしてもおっくうで、気が進まないのであ る。
一日は、間違いなく、二四時間あり、単身赴任時代には、自らに向かい合わなければ ならない時間が確実に増える。自分自身が付き合いにくい人物であると、気が滅入りや すくなり、単身赴任生活を愉しむどころではなくなる。そのためにも、日頃から、愉し みの種を増やしておくに限る。にわかに、愉しみを増やそうとしても、それほど容易に 身につくものでもなく、本質的な愉しみを味わえるところに行きつくものでもない。
人間は、しょせん、孤独と言うが、それを楽しめる心境のときと、そういう心境にな らないときがある。家族と生活を共にしていれば、孤独と共同生活とを適当に噛み合わ せることができる。しかし、単身生活では、その選択がきかない。「第三空間」もいい が、逆にそればかりだと、職場と家庭のしがらみを抱えた中年サラリーマンといえども 、家庭的な温もりが欲しくなってくる。単身赴任は愉しみだといいながら、ある面では 強弁に過ぎないことを知り、内心じくじたるものを覚えるのも、経験者たる単身赴任者 自身なのだ。
札幌では、赴任の引っ越し荷物より一足先にマイカーが着いた。長年乗り慣れた二〇 〇〇ccのブルーバードである。フェリーで早朝苫小牧港に着いたのを、時間に合わせ て取りに行き、自ら運転して帰った。一般道路だけでなく、早速高速道路も走ったが、 東京に比べればどこも道幅が広く、空いていて、これからの快適なドライブライフを予 感させるものがあった。事実、北海道時代は、ドライブも大いに愉しませてもらった。
運転はもともと嫌いではない。車には、若い時から関心があり、運転免許を取ったの は、大学一年生の時で、総経費一万円以下で取った記憶がある。ただ、就職しても、当 時の賃金レベルでは車どころではなく、マイカー族の仲間入りを果たせたのは、それか ら十五年後、ポーランドに赴任した時のことである。
ほとんどペーパードライバー同然で赴任し、ワルシャワで、職場の運転手を先生に腕 を磨いた。二月後には、グダンスクへ長距離旅行できる腕になっていた。だが、今から 振り返ってみると、かなり危なっかしい腕前だった。よく無事故で往復七〇〇キロメー トル近い行程を全うしたものである。初めて、高速道路に乗ったのは、その年の夏の休 暇に、オーストリア、スイスへ旅行した際、ウィーンからザルツブルグへドライブした 時である。ポーランドには、高速道路がなく、一般道路を百キロのスピードで飛ばすこ ともあったけれど、やはり、初めてとなると、大いに緊張したものである。
ワルシャワの三年間の滞在中、毎日の通勤から、日常的な買物、テニス、観光、スキ ーパーティーへの往復に車は欠かせなった。旅行も、国内はもとより、国外へも車で行 き、車の便利さを知った。夏休みにはいつも家族連れで西側諸国に出掛けた。南はロー マまで、西はブダペスト、ザグレブ、東はマルセイユ、リヨンまで。一回の旅行で六千 キロメートル近くも走った。この距離は、宗谷岬から、鹿児島の佐多岬を往復する距離 に当る。妻が運転しないものだから、全行程、いつも一人で引き受けた。当時の西ベル リンには、買い出しに何度か出掛け、日本の食料をはじめ西側の商品でトランクを満杯 にして帰った。
この海外赴任以来、車はわが家の必需品になった。帰国後も、車は買 った。だだ、ワルシャワ時代のように、長距離旅行や毎日の通勤に使うわけでなく、土 日にテニスやゴルフに利用する程度なので、いくら乗っても、年間の走行キロ数は高が 知れていた。ところが、そこへ舞い込んで来たのが、北の大地北海道への赴任であった 。だから、大いにドライブを楽しみ、走行距離を稼ぐつもりで乗り込んだのは当然だっ た。
北海道は、面積で日本の二十%以上を占める広大な島である。九州に四国、更に山口 、広島両県を加えただけの広さがある。走ってみると良く分かるが、走っても走っても と思わせる広大さがある。毎年、公共投資の十%以上が投入されているので、道路の舗 装はいい。面積の割りには人口が少ないから、道路が空いている。首都高速道路が、高 速ならぬ拘束道路と渋滞振りを揶揄されるのに引換え、北海道の高速道路は、ネーミン グ通りの実力を発揮する。高速道路は、こうでなくっちゃと良く思ったものだ。
ハンドル捌きも軽く、北海道のそれこそ三六〇度視界の開けた道を、しかも前後に一 台の車の影もない真っ直ぐな道を、それこそぶっとばす時の快感は、北海道ならではの ものである。ワルシャワ時代の車は、プジョー五〇四で、高速性能がよくて、高速道路 を一四〇キロで飛ばしていたものだから、ついついスピードを上げる癖が出てしまう。 軽快なテンポの音楽を流しながら、心地よい風に吹かれ、空を舞う鳶を追い、雄大な自 然の景観を楽しみつつ、アクセルをぐーぅっと踏み込む。加速で椅子に体を押しつけら れる。思わず、鼻唄が出てくる快適さだ。
近辺なら、藻岩山、大倉山あたり、周辺なら、支笏湖、洞爺湖、小樽、石狩、野幌、 一寸足を延ばせば、積丹半島、留萌、襟裳岬あたりが恰好のドライブ・コースだった。
しかし、この快適なドライブも雪が降るまでのことで、雪が降ったら事情は一変する 。ただ、雪道の走行は、ワルシャワでさんざん苦労したので多少慣れてはいた。雪にハ ンドルを取られていきなり人垣の中に突っ込みそうになったり、氷でツルツルの道でタ イヤがスリップして前からバスが来るのに真っ直ぐ突っ込んで行ったり、坂の途中でエ ンコしている車に同情して速度をゆるめたら、失速して坂の下まで延々と下がっていか なければならなくなったり、こんな経験なら幾らでもある。そんな雪道をおして毎冬四 〇〇キロメートルも離れたスキー場に出掛けたりもしたのである。札幌で一番苦労した のは、青空駐車だったので、車に乗るたびに雪掻きをしなければならないことだった。
ワルシャワに比べれば、坂が多いことにも神経を使った。スキーは、いつも仲間の人達 と行き、もっと雪道に習熟した人の車にちゃっかり便乗させて貰っていた。
東京へ帰任と決まってから、道東の摩周湖、サロマ湖、知床半島を一週間かけて巡り 、北海道でのドライブの総仕上げをした。これで、それまで思ったほど増えていなかっ た走行距離数を、大幅に増やすことができた。北海道は、確かに広かった。自然は豊か だった。様々な鳥や獣にも出会った。景色はどこも素晴らしかった。人情は厚かった。 そして最後は、釧路港から車と一緒にフェリーボートに乗り、三一時間も船に揺られて 、東京に帰ってきた。
帰京後は、北海道の過酷な天候で衰えの目立つ車を、RV(パジェロ)に買い換えて 、新たなドライブライフを楽しんでいる。しかし、北海道時代、まだ高校生だった息子 が、今や運転免許を取り、車の利用権を巡るライバルに成長しているので、走行距離数 は増えても八割方は息子に帰属し、優雅なドライブライフというわけには行かなくなっ ている。
単身赴任者としての愉しみと、単身赴任者にとっての愉しみとには、微妙な差異があ る。単身赴任者としても、様々な愉しみがあることは言うまでもない。このエッセイは 正しくそのことをテーマにしている。しかし、単身赴任者にとっては、その属性を失う ことこそ、何よりの愉しみに違いない。いつまでも単身赴任者を続けたい人は、まずい ない。できれば、早くその資格を失い、家族と合流したいのだ。たとえ、そのことによ って、単身赴任者としての愉しみをすべて失うにしても。
私のように、半年と一年、合わせて一年半の単身赴任者にすぎなくても、そう思うの だから、二年も三年も、人によっては十年以上も単身赴任を続ければ、どんなにか、単 身赴任者でなくなる日が待ち遠しいか、想像に難くない。
単身赴任も結構楽しい、慣れれば苦にならない、家族のしがらみから免れて清々する 等と強がりを言っていても、本音では誰しも、早く免れたいのである。帰任の辞令の出 る日や、家族と合流できる日を一日千秋の思いで待っている。どう考えても、単身赴任 は不自然で、本人とっても、家族にとっても、人間性の破壊に繋がる要素を蔵している 。
高松に単身赴任したのは、ちょうど自宅の建築の最中に辞令を貰ったためで、妻をお 目付役に残し単身で赴任したのだ。家が完成した半年後、子供の転校に都合のいい三月 末に、家族を呼び寄せた。せっかく、自宅を建てたものの、新宅に入れたのはそれから 一年以上も後になった。単身赴任時代の高松より、家族揃っての高松のほうが、余程愉 しめた。食事ひとつ取り上げても、帰宅後買い物へ行き、慣れぬ手つきで料理し、ひと りで食べるのに比べれば、仕事から帰ると温かい手料理(地元の豊富な材料を生かし、 種類も多く、味付けも数等上)が待っており、家族と談笑しながら食べるほうがどれほ どマシか分からない。
札幌では、一年後東京への帰任辞令が出た。まあ、いい頃合いだったように思う。札 幌は、確かに、いいところだから、後一二年は、単身赴任で頑張れたろうとは思う。し かし、どう考えても、それ以上になると、頑張っている感じがつきまとって来、単身赴 任自体を愉しむのとは、違ってくる。単身赴任者特有の愉しみがないわけではないが、 それも、いささか強弁している面があるのであって、単身赴任を志願してまで、手に入 れたいものではない。普通の家族人であっても大方は十分愉しめるものだ。
一年後家族と合流すると、息子は、大学合格を無事果たし、娘は大学生活、三年目を 迎えていたが、妻は、一年間、留守宅を守った苦労で、いささか、くたびれていた。た だ、単身赴任の経験を経たうえでの合流だから、家族全員、お互いの存在を尊重する気 風が出来、家庭人としての愉しみが、質的に、向上した面も確かにあった。 単身赴任時代手慰めに作った謎があるので、二三ご紹介しよう。日本では、なぞなぞ は子供の遊びのように思われているが、アラビアでは大の大人も打ち興ずるようだ。
* 単身赴任とかけて、穴の開いたアコーディオンと解く。
その心は、穴を指で押さえた り、ガムテープを張ったり、いろいろ工夫すればなんとか美しい音を出せるようになる だろうが、しょせん穴の開かないアコーディオンにはかなわない。
** 単身赴任とかけて、海底遊覧船と解く。
その心は、誰しも、一度は乗ってみたいし、 確かに、海底にも素晴らしいところも多く、愉しみも多いだろうが、海上に戻れると思 わなければ、誰も、遊覧船には乗ろうともしないだろうし、海底の美しさを味わうゆと りもあるまい。
*** 単身赴任とかけて、手作りのドーナツと解く。
その心は、出来立ての熱いうちはおい しいが、直ぐ固くなって食欲があまり湧かなくなる。真ん中に大きな穴がぽっかり開い ているが、それがなければドーナツではない。
単身赴任を免れるということは、真ん中にぽっかり開いた大きな穴がなくなることで ある。さて、大きな穴がなくなってしまえば、完全無欠の生活が待っているかというと 、必ずしも、そうならないところが、人生の妙なるところで、相変わらず、家族のしが らみや煩わしさに悩まされることも多く、たまには、ドーナツを食べたいと思う日もあ るのである。
単身赴任者の愉しみは、帰任したからといって、消滅してしまうものではない。かつ ての赴任地を再訪するという大きな愉しみが残っている。単身生活で、いろいろと苦労 した土地であればこそ、思い出も深く、再訪したくなる度合いもそれだけ高いように思 える。
私は、札幌では赴任中から再訪の種を蒔くことに努めた。その代表選手がスキーであ る。赴任当初は初心者クラスの腕前しかなかったので、冬の間、全ての休暇をスキーの 練習に当て、なんとか中級程度になろうと頑張った。技量がスキーを愉しめるレベルに 達すれば、どうしてもスキーのメッカ北海道に行きたくなるだろうと算段してのことだ 。事実、いまや、スキーのシーズンになるとじっとしておれなくなり、北海道のゲレン デに馳せ参じては、かつてのお師匠さんや、スキー仲間と一緒に滑るのを無上の愉しみ している。苦しい修行時代、数えきれないほど転倒した覚えのあるテイネ・ハイランド のパノラマ・コースを滑るときなど、懐かしさがこみ上げてくる。方々のスキー場に出 掛け、道内の土地勘を磨いておいたお蔭で、家族連れで手頃なスキー場へ行き、パウダ ー・スノーを満喫して帰ってこれるようにもなった。
訪れる名目はスキーだけに止まらない。いろいろとヒネリ出しては、北海道行きを実 現し、昔の職場や知人を訪ねたり、友人に声をかけて、ゴルフをしたり、一杯飲みに行 ったりする。薄野には、馴染みのママもいる。 「まぁー、お久しぶりね」 忘れずにいて、歓迎して貰えると嬉しいものだ。昔ながらの常連客にもお目にかかれる 。赴任時期が同じで、同じ境涯を慰め合った知人が、帰任地から、たまたま馴染みのマ マを訪ねてきているのに出くわして、杯を交わすこともある。
札幌では、単身生活の舞台となった界隈を、たまたま車で通りかかったりすると、懐 かしくて、思わず、身を乗り出してしまう。たとえ僅かな期間だったとはいえ、食糧を 買いに通ったスーパーマーケットや、ラーメンを食べに行った中華料理店、そぞろ歩い た名もない通りなどが車窓をよぎると、なんの変哲もないそれらに、妙に胸を揺すられ るのだ。
帰任してからも、赴任地との関係はなかなか切れない。知らないうちに、赴 任地に関連する記事やニュースを追いかけている。赴任地に関する本を求め、テレビ番 組を見て いる。お馴染になった物産を買い、郷土料理に食指を動かす。在京者による赴任地の ファンの会、帰任者の会に出席し、地元主催の懇親パーティーなどに、招かれる。地 元から上京した人が訪ねてくれる。手紙のやり取りをする。講演のお呼びがかかる。 確実に、赴任地とのパイプは繋がっているのだ。もう、故郷も同然である。
私も、北海道大好き人間だから、同好の人と「北海道にこだわる会」なるものを作 り、月一回飲み会を催して、北海道になにか役に立つことができないものかと話し合っ ている。その話の中で、北海道の名産であるサラブレッドを、もっと売り出せないかと いうことになり、会のメンバーともども、日高の浦河町で開催された第一回の全国市町 村ホースサミットにオブザーバーとして参加した。これは全国の馬に関係のある一〇〇 を越える市町村が集まって、「馬・人・文化」をメイン・テーマに、馬を通じて文化の 向上、地域興こしを図っていこうとするもので、その後毎年持ち回りで開催されている 。このサミットにも、民間グループとしては唯一毎回代表を送っている。
このことが機縁で、毎夏、浦河町で開催される、シンザン・フェスティバルにも参加 するようになった。シンザンはかれこれ三十年も前に大活躍した五冠馬であり、生涯記 録が一九戦一五勝、勝てなかったときも全て二着だったという名馬である。町長がその シンザンを育成した谷川牧場主でもあり、われわれ一行を歓迎していただけるのに甘え て、いつも大挙して押しかけている。広大な牧草地で、星空を仰ぎながら、ビールの大 ジョッキを片手に、炭火で焼いたバーベキューをつつくのは悪くない。
シンザンは、今も健在で、あと半年長生きすれば、ギネスブック入りの長命記録を樹 立する。毎年この名馬の背中をたたいて、長生きしてくれよ、と励ましてくる。
−−空蒼く シンザンの夢 駆けめぐる
谷川牧場主に、訪問者簿への記帳を求められて、書き添えた拙句である。本当に空が蒼 く高く、空気がおいしく、われわれの夢も自由に駆けめぐるのである。 「こだわる会」では、純粋のボランティア精神で、地元の人達と連携を取りながらい ろんなことを手掛けているが、いつか大きな実を結ばせたいものだと考えている。この 夢が実現すれば、私の再訪の機会は、確実に増えるだろうから、今から愉しみである。
残念なのは、まだ高松を再訪していないことである。初めての単身赴任で経験不足だ ったことや、後半家族と合流したことなどから、強力な再訪の種を蒔き忘れたことも手 伝って、いつの間にか、十年を越す歳月が過ぎ去ってしまった。しかし、これとて、長 年振りに再訪する愉しみのために、いまは少々我慢していると考え、わたしは、愉しみ リストの末尾に、すでに計上しているのである。
買い物の仕方ひとつ取り上げてみても、その人の生い立ち、体験が色濃く反映される こと、驚くばかりだ。安月給のサラリーマンを長年続けたせいか、デパートで現金正価 で買う気にならない。どうしても、ディスカウントやセールに目が行ってしまう。家族 からは、実際に必要なものよりも、安さや、割引率の高さに目がくらんで買い込む性向 をとみに指摘されているが、幾分の真理を認めざるを得ない。とは言え、そういう性向 がなければ、掘り出し物に遭遇することもないのだから、それなりの成果は上げている のである。
それに、共産圏に住んだ体験があるせいか、品物の溢れる日本の店であれば、少々サ ービスが悪くても、王様扱いを受けているように感じられ、ショッピングが愉しくてな らない。ワルシャワに三年間滞在したが、物不足の上に、店員は揃いも揃って、サービ ス精神絶無で、買って貰うよりは、売って上げる意識の子ばかり、買い物は愉しみどこ ろか、苦役に等しかった。店に入っても、品物は大体カウンターの向こう側に置いてあ り、一々店員に頼んで見せて貰わなければならない。レコード店でも、同じシステムな のだから恐れ入る。ジャケットが見えればまだしも、薄い背表紙しか見えないように棚 に並べられているものを、カウンターに身を乗り出し、目を凝らし、
「すみませんが、あれは、ショパンのポロネーズでしょ。そ、それです。恐れ入ります が、それ見せてください。お嬢さん」
と言わなければならない。店員はポイとカウンターに放り投げてくれる。店員一人は、 お客一人にしか応対しないから、前の人があれこれ選んでいる間は、じっと待たなけれ ばならない。お客が選ぶのを、リンゴを齧ったり、カナッペを食べながら、見ている店 員もいる。だから、大抵長い行列ができる。選び終わると、伝票に品物の名前を書き入 れて貰い、それを持って、会計係のところに行き、金を払って来るのだ。そこにも行列 ができていることが多い。便利な電卓などないから、鉛筆をなめなめ計算するので時間 が掛かるのである。支払った証拠にスタンプを押してもらって、最初のカウンターに戻 る。当然そこにも行列ができている。こうして、都合三回並んでやっと買い物ができる のだ。それに、せっかく店に行っても品切れで、いつ入荷するか聞いても、大体、わか らないということが多い。
そんなワルシャワから帰れば、日本は天国である。もともと 、買い物は嫌いでなかったのだから、愉しみの度合いがますます高まっても不思議はな い。
男は、ショッピングが嫌いだという俗説があるが、私は信じない。自分がさして買い たいとも思わないものを買わされたり、他人の買い物のお付き合いでデパートに出掛け るのは嫌いだろうが、自分の欲しいものを買うのであれば、嫌いなはずはないのである 。それは、男の好きなゴルフ道具の店や、カメラやパソコン、釣り具などの店を覗けば 、たちどころに了解できることであって、そこでは、大の男が、目を光らせて、品選び をしているではないか。逆にそんな店に、女性を付き合わせようとしても、彼女たちの ほうで、尻込みするだろう。
ただ、いくら買い物好きでも、結婚してしまえば、買い物の主導権は、妻が握りがち になる。よしんば、自分の物であっても、妻への配慮抜きに好きなものを買うわけには いかない。値が張るものは、妻の欲しいものとのバランスに常に細心の注意を払わなけ ればならない。たとえば、背広一着にしても、妻の了解なしに買うといさかいのもとに なる。あなたが背広を買うのであれば、私はコートが欲しいわ、とどんな物にでも、決 まって対案が用意されているのだ。それに柄やスタイルにしても、妻の好みを無視でき ない。つまり、買い物に関するかぎり、妻帯者は、妻の傘の下に置かれることになるの である。
その点、単身赴任は、妻の傘の下から出る、滅多にないチャンスなのだ。相談しよう にも近くにいないのだからしょうがないじゃないか、という言い訳が成り立つ。買って も、直ぐ見せる必要がないから、既成事実が成立しやすい。そんなわけで、単身赴任時 代は久しぶりに羽をのばせたのであった。とは言うものの、財源は、もとより限られて いるのだから、それほど愉めたわけでもなかったが。
買い物を愉しむには、実際に歩き回るなり、新聞を良く読むなりして、情報を集めな ければならない。だから、世情に疎くならず、仕事にも役にたつ。好奇心も満たされる 。歩けば健康にもいい。店員との値引き交渉はそれ自体愉しい。いろいろと副次的効果 がある。あれこれ比較研究したうえで、本当にいいものが買えたときの嬉しさは格別だ 。
帰京後、単身時代に買い込み、持ちかえった背広、ジャンバー、セーター、電子レン ジなどの品々は、ひとつひとつ、妻の密かな査定を受けることになった。賛同しかねる 物を見つけると、その場では、露骨に否定的な態度は取らず、ふーんと言うだけで、口 を噤む。別の機会にそれとなく、一般的な言い方で、遠回しに「ジャンバーって、形が 案外決め手なのよね。今度、買うときには相談してね」などという。しかし、買った本 人にしてみれば、十分買い物自体の愉しみは味わった後なのだから、何と言われても、 「そうだね」と相槌を打つ余裕がまだある。しかし、考えてみると、買い物の愉しみを 巡る駆け引きは、いよいよこれからが正念場なのだ。
東京のバーやクラブでは、自由にステップの踏めるほどスペースのある所は希で、踊れても、足踏み程度しか出来ない。踊りが好きでも、なかなか踊れず、普段はカラオケでお茶を濁すよりない。ところが札幌に着任した初日、連れていってもらったクラブには、踊り心をそそる広いダンスフロアがあり、しかも、打てば響く踊り手がいたのだ。もう我慢できない。久し振りに伸び伸びと踊らせてもらい心地好い汗をかいた。お陰で私のダンス好きは初日から知られるところとなった。
桜井秀勲によれば、外国の習慣の中でまだ家庭に入ってこないものは社交ダンスだけだそうだ。他のものはキスの習慣にせよ、週末を外のレストランで楽しむ習慣にせよ、すべて根付いた。ところが社交ダンスだけは日本の男たちが大の苦手としている。だがそんな男たちも奥さま族から尻を叩かれて、フロアにたたされるのは時間の問題で、女性群は早くもさっそうとダンス教室に通いつめているという。NHKも講座を設けているし、いまや、社交ダンスはブームに近い状況のようだ。
社交ダンスは、久しく、ディスコダンスに花形の座を奪われ、壁の花の悲哀を味わっていた。私は社交ダンス育ちだから、ディスコダンスにはいまいち興が乗らない。私の大学時代は、ダンスと言えばいわゆる社交ダンスで、ブルース、タンゴ、ワルツ、ルンバ、ジルバなど組んで踊るダンスが主流だった。離れて踊るマンボやドドンパなどはまだマイナーな存在だった。当時ダンスは、学生の愉しみのトップクラスを占めており、学生会館などではしょっちゅう講習会が催され、ダンスパーティーは目白押しだった。
入学早々の私は、田舎を出て日の浅いにきび面の学生だったが、人並みに色気付き、ある日ダンスパーティーで素敵なメッチェンに巡りあうことを夢見、講習会にせっせと通った。一日も早く、絶世の美女にも臆せず申し込めるだけの技量を身につけようと、講習会から帰ってからも、学生寮で友達と男と女のパートを入れ替えステップのおさらいはする。キャンパスの街灯の下で夜半一人でステップの練習はする。例によって短期集中で、技量が後戻りしない不可逆点突破を策したのである。
その努力が実り、ダンスパーティーに出ても、それほどおどおどする必要がなくなり、女子大主催のものにも押し掛けるようになった。ただ、他流試合に適うほど腕(足?)は上がったものの、絶世の美女とは巡り合えなかった。
当時のダンスバンドで有名だったのは、有馬徹とノーチェクバーナ、鈴木章二とリズムエースあたりで、彼等が競演する大ダンスパーティーで踊り明かしたこともある。その頃ザ・ピーナツがヒットさせていた「小さな花」を聞くと、条件反射的に、講習会で、ひたすら足元を見詰めながら、講師のスロースロークイッククイックの掛け声に合わせ、これまた足元を見詰めているパートナーを恐る恐る押したり引いたりした場面を思い浮べる。
ダンスができたお陰で、ポーランドに赴任したときには、いろいろと楽しい思いをした。ちょっとしたレストランには決まってバンドがあり、生演奏に合わせてそれこそ老いも若かきも気軽に踊る。妻とその輪に入って踊っていると、日本の曲を演奏してくれたりする。
冬休みをスキー・リゾートのホテルで過ごしたとき、大晦日の徹夜パーティーに参加した。パーティー券が何と勤労者の平均月給の2割もする超豪華版だった。同宿のオランダ人のグループは頭にきて、廊下で自分たちだけのパーティーを開き、後になって我々のパーティーにストームを掛けてきたほどだ。さすが高額のパーティーだけに、参加した人は豪奢な衣装をまとい、きらびやかな宝飾品で身を飾っている。これが社会主義国のパーティーかと思うほどだった。
私ども夫婦が同席したのは、クラコフ駐在のソ連総領事と医者の夫人とその娘。演奏が始まると皆踊り始める。総領事は踊らないので私が女性三人を相手せねばならない。妻と踊った後の私のお目当ては初々しい美人の娘のほうだったが、将を得んとせばまず馬を射よ、母親のほうに声を掛けると二つ返事で手を差し延べてくる。母親はビール樽のように太っていて、腕を背中に回そうにも届かない。腰でリードしようにも相手のおなかが邪魔になる。手綱なしに馬を操るほどの苦労をしたが、苦労のしがいはあった。最後に得た将が素晴らしかったのだ。
ポズナンの見本市のときには、日本館の手伝いをしてくれた女子大生たちが踊りの仲間になった。ドイツ系の名字を持つ美少女アンナやその後イギリスに渡ったと言うイボンナ、彼女たちはその後のポーランドの大激変の波をどういうふうに被ったのだろう。あの軽やかなステップでも、荒波をうまくかいくぐる訳にはいかなかったろう。
ひょっとすると、単身赴任時代こそ、ダンスの恩恵が一番感じられる時かもしれない。ダンスには口以上の情報伝達力がある。組んだ瞬間、「お主できるな」。ピンと閃く。剣の達人が太刀を合わせた瞬間、相手の技量を見抜くように。出来る相手と息がぴったり合って踊れたときの喜びは並大抵のものではない。たとえフロアは狭くとも、こちらのリードに敏感に反応し、どんな無理なステップにも獲物を追うチーターのようについてくる。曲想に合わせ、ある時は猛り狂う怒濤のようなスピンターン、ピボットターンの連続に、女体をしならせ、ある時は月光の下の小波のような最スローのステップに優しく体を委ねる。踊った後で、溜め息をつかんばかりに、
「久し振りに痺れちゃった。今夜はぐっすり眠れるわ」
などといわせた夜など、男冥利を感じる時だ。だが、こっちは、ぐっすり眠れるどころではなくなるのは確実で、単身赴任者にとってはかえって辛い夜になりかねない。
ダンス好きの方はお気付きだろうが、曲が終わった後も、女性が暫く組んだ手を放さないときがある。息を整えているのだ。女性のほうは、出来るだけ力を掛けないように気を配っているのだが、思わぬ力が入る。そういうときはそ知らぬふりをして、そっと支えてやる心遣いが必要だ。
ダンスをすれば、女性が良く分かるようになり、自然思いやりが身につく。ダンスは、カラオケだけ男だけのモノカルチャーより数等マシに思える。やはり、日本男性も奥さま族に尻を叩かれてもフロアに立つべきだろう。日本中でダンスが出来るようになれば日本も変わる。早くそんな日が来ないものかと今から待ち遠しい。