97年2月中旬、山口県の秋芳洞、萩市、山口市、宇部市と島根県の津和野を訪れる機会があった。萩市、山口市、宇部市以外は初めての訪問地であった。
97/2/11建国記念日の十一日、山口宇部空港に降り立ったのは、午前八時過ぎであったが、折りからの寒波襲来ということで、小雪が舞っている。予約しておいたレンタカー(スバル・)で走り始めたが、雪は、激しくなるばかり。ラジオを聞くと、山口県下には、風雪、雷警報が出ている。宇部有料道路を降りて小郡に向かう国道ニ号線の自動車専用道路に入った頃には、横殴りの風、視界を遮るような吹雪に見舞われ、前途多難を思わせるものがあった。しかし、乗りかかった船、ここであっさりギブアップというわけにもいかない。今日の最終目的地は、この地方では、結構雪が深いと言われる津和野である。ホテルを予約している以上、たとえチェーンを巻いてもそこまで行き着かなければならないのである。
山口県は、さすが総理大臣を戦後も、岸、佐藤と生み出した県だけあって、道路の整備状況はいい。小郡から、萩方面へ向けての道路に左折してしばらく行くと、道路は、昇りにさしかかる。中国山脈の一番端にあたるあたりで、それほど険しくない山が幾重にも重なり合い、温帯系の樹木や竹などが生い茂り、その間に、黒や赤の瓦を載せた日本建築が点在し、豊かな景観を作り出している。雪は降ったり止んだり、空も曇ったり、明るくなったり、めまぐるしく変わる。
メインの道路を左に逸れて、かなりな坂道を昇って行くと、もう、秋芳洞である。いろんな入口があると見えて、さまざまな標識が出ているが、われわれが行き着いたのは、エレベーター口と言われるところだった。一番高い地点にある入口と見えて、そこからエレベーターで70メートル下るのである。入場料は、1240円。エレベーターの運転の男性が、降りる時間を利用して、洞の中は温度が17度、下った地点が、秋芳洞入口と言われる地点から1キロ、黒谷口から300メートルのところに当たるなどと説明してくれる。
「その服装では、出てくるときには、汗びっしょりですよ」という。同行した妻ともどもヤッケまがいの防寒着を着込んでいるのだ。
小学生の時から、この有名な鍾乳洞の名前は頭に刻み付けられている。妻とて同じである。それから半世紀たってやっとそこにやって来たのだ。
日本中に、その名が轟いているいるだけのことはあった。なかなかのスケールなのだ。天井も高い、幅も広い。天井から石じゅんが垂れ下がっている(特に「傘づくし」と名付けられたあたり)。床からも、面白い形をした石柱が立ち上がっている。千変万化の岩がある。表面にも縦の縞や横の線が、きめこまかに刻み込まれている。そのひとつひとつが、考えられないような長い年月が、造り上げたものだ。きれいに澄んだ水が、あるところでは音をたてて流れ、あるところでは、大きな鏡のように周りの天井や壁を写し込み、まるで、深い谷のように見せている。
小さな立て札に、百枚皿、千町田、千畳敷、ちぢみ岩、ライオン岩、洞内富士、青天井などの名前が書き込まれている。なかなか気の利いたネーミングが多く、なるほどと思わされる。百枚皿は、インドネシアで見た山頂に至る田んぼを思い出させた。曲がりくねった道を降りたり昇ったり、30分ほど歩くと、秋芳洞口に出る。高さが15メートルほどもある縦に長い入り口で、そこから、外の光がまぶしく差し込んでいる。外へ出る細い階段状の道に平行して、水が急流をなし、滝となって、流れ出ている。入り口のすぐ外に、小さな池があり、虹鱒が泳いでいる。屋根付の小さな休憩所があり、椅子が置かれている。大きな樹木が立ち並んでおり、ずうっと道が続いている。秋芳洞入口から入った人は、この道をまっすぐ進んで行っている。
われわれ、エレベーター入口組は、そこからまた引っ返して洞内に入る。入ってしばらく行ったところで、妻がこうもり(ユビナガコウモリ)を発見した。ちょうど、人の背丈のところに小さな鼠大のこうもりが、じっとうずくまっているのである。真っ黒で、洞内が暗いので顔の造作が、はっきりしないが、まったく動かない。カメラのフラッシュを焚いてもぴくりともしなかった。
エレベーター口から降りたったところから、今度は黒谷口の方へ進む。そこからは、別の洞窟をトンネルでくっつけたようで、幅が狭くなった。五月雨御殿と名付けられたところでは、本当に雨のように始終天井からしずくが垂れている。高さ15メートル、直径4メートルもある黄金柱と名付けられた大石灰華柱のあるところには、写真屋が二人待ち構えていて、記念撮影をしてやっている。
看板に「重たい石灰石も写真で持って帰れます」と書かれている。金網に保護されたマリア像もある。巌窟王と名付けられた、近代彫刻張りの石の塊もある。黒谷口の方が、温度が高くて、防寒着のボタンを外さざるをえないほどだ。
赤いランプが点滅する靴を履いた小さな女の子を連れた五人連れの家族がいる。洞内は暗いのでランプの点滅が目立つ。男の子は、もっと小さくてやっと三歳といったところだろうか。それでも大人でも難儀な足場の悪い道を黙って歩いている。黒谷口の終点は、長いセメントのトンネルになっている。そこから一回外へ出ると、入り直すには百円いただきますと看板が出ている。そこから引き返す。帰りのエレベーターでは、さきほどの親子連れと一緒になった。
外へ出ると、小雪が降っている。風も相変わらず強い。建物の左側の道を300
メートルも昇って行くと、秋芳台カルスト台地の展望台がある。二階建ての建物で、螺旋階段を昇ると、大きな眺望が開けた。日本離れした風景である。なだらかな丘陵が幾重にもつながっている。一面枯れた茶色の草で覆われており、小さな枯れ木があるが、方々に石柱が、墓石のように林立している。その中を歩いている二人連れの後ろ姿が見える。風はますます強くなり、雪も横殴りに顔に当たる。丸い粒状の雪で痛い。屋根のない展望台に長く留まってはおれない。展望台のすぐ横に、土産物の売店があり、ちょうどお昼時期なので、店員が集まってのんびり昼飯を食べている。お客は、この雪ではやって来ない。店の前にあった自動販売器であったかいカフェフェオレを買い込み、坂道を防寒着の襟を立てて急ぎ足で下る。頭を上げることも出来ないほどの降りである。
レンタカーに乗り込むとほっとした。あったかい飲み物も利いた。しばらく元の道を引き返し、萩へ向かうメイン道路に戻る。カルスト台地の中を曲がりくねった道が通っている。先ほど、展望台から眺めた景色の中をしばらく進むのだ。日本離れして、スコットランドのハイランド地方の丘陵を思い出した。小雪が舞っているが、それでも、八月に見たスコットランドの厳しい感じはしない。湿潤で暖かみがある。かなり来たところにも、大正洞とか、景清洞などの看板が立っている。全長10キロというから、いろんな入口があるのであろう。
道は次第に下りになって来た。中国山地を抜けて日本海側へ入ったのである。ところが、空は明るく晴れて、雪も止んだ。こんな日に、日本海側の方が、天気がいいとは思わなかった。
萩市は、日本海に向かって左側の橋本川、右側の松本川に挟まれたデルタ地帯に発達した町だが、その左側の橋本川に沿う形で、しばらく進み、右に折れて常盤橋を渡り、萩城跡のあるあたりから、萩市観光を始めることにした。萩市史料館のある前に駐車して、歩き始めたが、風は強く、冷たい。城の石垣に差し掛かったあたりに萩焼の窯元が沢山軒を接して立っており、作品を店先に並べて売っている。安売りの陳列台もある。
あちこちに毛利元就ゆかりの地という幟が、折からの強風でぱたぱた音を立てている。NHKの大河ドラマで、今年は毛利元就が取り上げられたせいである。この城は、関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元が築いたもので、明治7年に解体されたという。そのため、天守閣などの大きな建物は見当たらない。城の入口には、受付の老人がいて、金200円を支払わなくてはならない。何か、みるべきものがあるかと聞くと、城内には神社や、茶室などがあるだけで、見るべきものはあまりないという。時間もないので、そこから引き返す。
石垣の角度はなだらかでさして高くない。石の積みかたは荒い。お濠の水は、風で波立っているが、橋本川から引いているのだろうか。
お濠に沿って左回りにしばらく行くと、石の彫刻の置かれた公園に出た。その名も石彫公園。彫刻の展覧会をやったこともあるらしく、その作品の一部が置かれているのである。平べったいピラミッドを海側から三つ低い順に並べたものや。これまた平べったいおわんを伏せたようなものである。そこから、白波を立てている日本海が見える。浜辺には松林がある。近づくとその松林より高く、飛沫が舞い上がっている。風が強くて、前に進めなくなった。何かにつかまっていないと吹き飛ばされそうだ。近くの松にしがみつく。波は高く、真っ白く泡立ち、矢継早に浜辺に打ち寄せる。これ以上前に進むと、飛沫でびっしょりになりそうである。近くにあった洗面所に逃げ込んで、難を避け、壁の後ろから首を出して、凄まじい風景を覗く。
福井県沖の日本海で、一月の初めにロシア船籍のタンカー「ナホトカ」号が遭難し、まっぷたつに裂けてしまった。船の後ろ半分は、2500メートルもの海底に沈んでしまったが、船首は漂流のあげく、三国町の沖合いに座礁した。船首から残された重油を抜かなければ、汚染が進むというので、作業が開始されたが、度々作業が延期される。どうしてだろうと思っていたが、この日本海の風景を目の前にすれば、納得できる。陸地で立っているのも、大変なのだ。傾いた船首に立っての作業など、思いも及ぶまい。公園の石の彫刻がどれもこれも平べったいのもこの風を考えてのことだろう。
史料館の前の土産物店で、軽い昼食を取る。妻はてんぷらうどん、わたしは、うどん定食。うどんに、ここの名物という「わかめおにぎり」の組み合わせ。値段は安かったが、味も値段並みだった。特にうどん、ぱさぱさした感じで、まったく腰がない。
せっかくだからと、目の前にある史料館に入った。ひとり、350円。入り口から入ると、全体が見渡せる長方形のホールがあって、その周囲と、中央に、ガラスケースの中に史料が展示されている。それだけである。萩市の殿様の兜とか具足、刀、槍、なぎなた、お姫様の貝合わせの遊具、明治維新の志士の書などがずらりと並べられている。遺墨、遺品が売り物らしいのだが、率直に言って、これで350円もとるの、といった類の展示内容である。イギリスにしても、アメリカにしても、入って、これは高いと思うような、展示場はそれほどなかったが、日本の展示物の中には割高と思うものが決して少なくない。展示の工夫も足りないものが多い。入り口に置いてある「萩史料館のしおり」にしても、文章がなっていない。説明内容は、ひとりよがり。明治時代、幾多の志士を生み出した当時の文化水準、今何処といった感慨さえ覚えさせられた。
萩市の市街に向かう。市内には貸自転車屋が多く、貸自転車が、4000台もあるという。ちょうど、自転車が、手頃な乗り物なのだろう。車だと駐車場に不自由するのかも知れない。そう思い、市営の駐車場を探して駐車した。二階建ての一階、がらがらに空いていて、場所は選り取りみどり。ところが、降りたってみると、よく、ナビゲーター殿と打ち合わせておかなかったせいで、目指した駐車場の一つ手前にあるやつで、そこからは目指す志士の家まではかなりあるのだった。中心の商店街とおぼしき田町通り(気のせいか呉服店が多い)を通って、木戸孝允旧宅に向かう。温度は低く、体は冷えてくる。田町通りを左に折れたあたりに、武家屋敷が連なっている一角があった。江戸屋横丁である。
白壁と黒板塀にに囲まれた屋敷が連なっているが、そのひとつに、青木周弼旧宅の看板がかかった家があった。門を入ると、どうぞお上がり下さいと、玄関先に木札が立てかけてある。入って、目の前の襖を開けると、初老の男性が、小さな暖房器を前にして座っている。「いらっしゃい」とわれわれを迎え入れ、やっこらさと立ち上がると、そのまま、間をおかず、襖に貼られた、青木家の系譜の説明を始めた。
ここが、青木という藩の典医だった青木の家で、ここで開業していた。その息子は、明治天皇の主治医になった。いまペルーで、人質になっている青木大使も子孫である、などなど。庭に面した障子にはガラス窓がついていて、そこから小さな庭が見える。老松や老梅がある。梅は、丈が一メートル程度で、横に五六メートルも長く枝が延びている。下から支柱で支えられているが、もう、骨も肉もなく、皮だけでかろうじて繋がっている。それでも花を咲かせている。案内役の男性が、青木藩医も、見た梅で、もう、長く持つまいという。
木造の日本家屋にしては、なかなか大きくて、部屋数も多い。玄関も患者用のが、別にあった。患者を見た部屋、薬を渡した小さな窓口なども案内してもらった。(以上97/2/15記)
青木宅を出て、木戸の屋敷を探すが見つからない。探していると菊屋家住宅の前に出た。この住宅は、豪商の屋敷らしい豪邸で白い漆喰の土蔵がびっしり立ち並んでいるが、入場料500円も払ってゆっくり見る時間的余裕もないので、その回りをぐるりと見て回って、見物に代えた。しばらく行くと高杉晋作の誕生地の屋敷があった。これも白壁の屋敷である。門を入ってすぐ右側に、小さなボックスがあり、一人100円払うように書いてある。二人分払って中に入ったが、もう、係りの人もいない。今日は、もう閉めますと立て札が出ている。庭に回って見たが、障子は閉ざされている。庭には手入れの行き届いた植え込みがある。生まれたのは、私よりほぼ一世紀前である。その頃から生えている木もあるのかも知れない。
近代史を早稲田大学の成人向けのコースでちょっとかじったことのある妻は、明治維新の志士の生家を訪れることができたというので、大満足という。
そのあと田中義一のゆかりの地などを見て、引き返すことにした。(続く)
駐車場に戻って、松陰神社を目指す。市の右側にある松本川の松陰大橋を渡り、左にターンすると、立派な鳥居が見えてきた。これが松陰神社である。なかなか大きな神社である。
中には松下村塾や松陰が松陰の伯父の旧宅が保存されている。松下村塾はほったて小屋に毛が生えた程度の狭い粗末な建物である。紙と木で出来ていて、吹けば飛ぶような印象を受ける。松陰が、ここで教育に当たったのも、わずか二年半である。しかし、ここから維新の幾多の英傑を生み出したのである。世の中を動かすのは、物ではなく、思想である。松下村塾の木製の表札の前で近代史づいた妻から記念撮影を仰せつかった。
神社本殿の礼拝する箇所は掘りくり返されている。観光客の少ないこの時季を狙ってのことだろう。それでも、大型のバスも来ている。
伊藤博文の旧宅は、神社からすぐ近い。便所や風呂場が屋外に設けられた農家作りの家であった。たまたま松下村塾の近くに生まれ落ちたことが、博文の運命を決定したとも言える。他の志士にしても同じことが言える。巡り合わせとはこうしたものだ。
そこからやや坂を上ると、萩市が一望できるところに出る。そこが、松陰の誕生地であり、墓所である。大きな銅像が建っている。親族の墓がずらりと並んでいる。その中に松陰の墓もあった。
萩市を見下ろすと、二つの川に挟まれた小さな町である。これまで訪れた城跡や町並みが手に取るようにわかる。屋根瓦が白く光っている。その向こうに鼠色の日本海が見える。
順路に当たる東光寺に行く。この寺は、毛利家の菩提寺である。かなり奥行きのある寺であるが、あまり時間的余裕もない。正門から一礼するだけで済ませ、寺のすぐ前にある萩焼の店に入って、妻用の茶碗を買うことにした。私は大きな萩焼の茶碗を持っているので、それに合うのをひとつ萩市を出る前に買おうというのである。店には登り窯の店という大きな看板が出ている。女主人がいて、近くにある窯元もみんな電気窯で焼いているが、うちのは、山に設けた登り窯で焼いているので、高い温度が出、釉薬もそれ用だから、色つやが他の店のと違うという。確かに電気窯で焼いたものより輝いて見える。薄い青色の手頃の大きさのを妻は求めた。値段も手頃だった。
「いい品ですよ」女主人は太鼓判を押してくれた。
宇部空港で、レンタカーを借りたとき、津和野に行くにはどう行ったがいいか確かめた。レンタカーの受付の背後には大きな山口県の観光地図のプレートがあったが、それには出ていないが、新しい県道が、東光寺の後ろから出ている、それが一番いいと言うことだった。そこで、ここを萩市観光の最終地点にしたのだった。
女主人に確かめると、店の前の道を暫く行って大きな道にぶつかったら、そこを右折すれば、その道が津和野に繋がっている。整備のいい、いい道だということだった。時刻は、すでに、午後三時四十分、余り、遅くならないうちに津和野に着きたいものだ。山道で雪の難所もあるとも聞いた。なんと言っても、この天気では雪が心配だ。ときおり、雪がちらつくし、風雪、雷警報も、まだ、出たままなのだ。
走り始めてすぐに、教わった県道に入ったが、確かに道はよく整備されていて、走りやすい。ただ、気がかりは、津和野という標識がほとんど出てこないということである。阿東という地名だけが繰り返し出て来る。ほんのおざなりに津和野という標識も出てくるので、間違ってはいないと思うものの、やはり、気になる。中国山地のゆるやかな坂道を、のどかな景色を楽しみながら、車を走らせる。
県道が、大きなT字路にぶつかった。右折すると山口で、左折すると津和野との標識がある。国道九号線である。左折して国道に入った途端、今度は頻繁に津和野と出てくるようになった。さっきまでは県道だったから、標識は県内の目的地に限定していたのだろうか。それにしても分かりやすい標識にしてもらいたいものだ。
徳佐あたりに差し掛かると、道路の両側に、北海道の道路のように紅白のポールが10メートルおきぐらいに立っている。これは雪が積もったときに、道路の両端を示して、車が道路から落ちないようにするためのものだ。それだけ雪の難所ということなのだろう。たしかに、道の両側に、うっすらと雪が残っているところが多くなった。田圃にも雪がある。それでも道路には雪がなく、走る分には、まったく支障がない。ただ、道路の凍結に注意のいう標識が頻繁に出てくるし、所々に、温度は零度とか、二度とかいった表示も出てくるので、かなり曲がりくねった道のことでもあり、速度を上げすぎてスリップしないように注意しなければならない。道路は、峠を越えて、下りに差し掛かる。津和野は、その坂道を下りきったところにあった。
線路下のガードをくぐって、両脇に家の立ち並んでいる市街地に入り込んだ。右すべきか左すべきがはっきりしないので、とりあえず鴎外記念館の表示のある方へ、左折する。暫く行くと右に曲がる道が出てきたのでその前の道路端に駐車し、そこにあった店の女性に、ホテルの名前を告げて、道を尋ねた。Uターンして、この道をまっすぐ進めばいいらしい。言われる通りに、引っ返すと、一番の目抜き通りらしい通りに出た。その右手に目当てのホテルの大きな看板が見つかった。午後5時。ホテルの従業員は、お待ちしておりましたと、迎え入れ、ロビーで茶を出してくれた。大きなガラスを通して、通りが見える。通りのホテル側に水路があって、そこでは鯉が泳いでいる。鯉の町のシンボルなのだろう。
通された部屋は四階にあり、窓から津和野の市街が見渡せる。目の前には全く高い建物は見当たらない。この空模様では、明日の朝、ゆっくり見物する時間があるかどうか、わからない。明日午後には、小野田市に着かなければならない用件があるので、雪でも積もったら、慣れないチェーンを付けて、越えてきた徳佐あたりの山道を走らなければならないのである。そうなると、早めにホテルを出なければならなくなるだろう。そう思って、着替えもせず、すぐ下に下りていった。従業員に近くで見物を紹介してもらい、もうすでに薄暗くなりかけた通りに出た。
ホテルを右に出て、しばらく歩き、左の細い道路に折れ、線路を越え、少し坂道を上ると明光寺である。こちらは照明がないので、先に行けとホテルで勧められた寺である。30メートルはあろうかと思える木が山門の前に傾斜地に立っている。階段を上って前庭に入ると、左手の小高いところにある墓地に森林太郎の墓があった。階段を上って近くまでいってみた。それほど大きくはないが、門から入って左を向けば、一番奥にあるその墓まで見通せるような位置に立っている。文豪森鴎外は、ここにひっそり眠っているのである。
一時期、森鴎外の文章に憧れて、小説もどきをかいたことがあった。こちらは、近代史の方に対抗して、墓の前で記念撮影に収まった。寺は、美しい建物で、セメント造りだが、屋根は藁で葺いてある。建物の間には雪が厚く積もっている。本堂の左側の坂道を上ったところに、坂崎という、この地を治めた名君の墓があった。その後ろはもう山で、反対側に見える山もそれほど遠くない。津和野は山と山の谷間にある小さな町である。ねぐらに帰る烏の長い行列が空をよぎっている。それより遥か上空にゆっくりとトンビが輪を描いている。
ホテルの前を通り過ぎて左に折れ、次の目的である鯉が飼ってあるという通りを目指した。白壁の続く通りの片側に、大きな水路があり、錦鯉や黒鯉などうようよいる。もう薄暗いので鯉は、あまり動かない。小さな物陰に身を寄せ合ってじっとしている。中には水流の真ん中で流れにあらがって泳いでいるのもいる。ずいぶん大きなのがいる。小さいのも、鮒の子供のようなのもいる。背の低い街灯が灯っている。温度はかなり下がって来ており、今時、鯉を見物しているのはわれわれだけである。(以上97/2/16記)
町の中心を流れる川に出た。その岸に沿って歩いて行くと、ホテルの面している大きな通りに出た。その向こうに鳥居が見える。弥栄神社である。境内には樹齢800年の欅の大木があった。二人掛かりで腕を回しても届きそうにない。あたりは相当暗くなってきているので、木々の色も葉の色もただ黒ずんで見えるだけである。
神社の後ろはこんもりした山があり、頂上まで明りの帯が見える。近くまで行ってよく見ると、そこは別の稲荷神社で、頂上へは階段が続いており、その階段をまたぐようにして赤い鳥居がびっしりと頂上まで続いて建っているのだ。まるで鳥居のトンネルである。階段を登って行くとところどころに鳥居の切れ目があり、そこから津和野の町が見下ろせるのだ。先ほどの川はすぐ下に見える。右手に数多くのランプが点滅している。町は大方黒ずんでいて、住宅の窓からの明りも見える。
鳥居の数は数千もありそうである。ひとつひとつに寄進者の名前が墨でしたためられている。20本ほどが一つの単位で、建立された年月日が同じである。新しいのは昨年の12月となっている。どれもそれほど年数がたっていない。寄進者は、実に様々な地域に及んでいる。それだけの信仰を得ている神社なのだ。
暗いことでもあり、途中で引き返し、弥栄神社の本殿の前を抜けて帰る。そこには池があり、鯉がひっそりと休んでいた。(97/2/28記す)
宿に帰り着いて、一人で大風呂を独占し、でゆっくり汗を流す。夕食は一階の部屋に降りる。客が少ないせいかひっそりとしている。その分、もてなしがいい。浴衣にたんぜん姿で妻と向かい合っての食事だ。もう、食べ切れぬほど料理が並んだ。なかなかおいしい。話のよくわかる女将が世話を焼いてくれる。
明日は、昼までにどうしても小野田市に行かなければならない用件があるので、雪が心配だという話しをすると、女将は、明朝、出発の前に徳佐の方の様子を聞いてあげましょうと受け合ってくれた。少々雪が降っても早めに出ればなんとかなるだろう。ということで、明日の朝食は7時半にしてもらった。
四階の部屋に戻って窓の外を見ると、谷あいの小さな町、津和野はひっそりと寝静まっている。お酒も回って来た。われわれも、そろそろ眠りにつくことにしよう。(97/3/4記す)
97/2/12翌朝、目を覚まして、最初にやったことは、窓のカーテンを開けて外をみることであった。どんよりと曇っていて、小雪がちらほら舞っている。しかし、積もってはいない。温度は低そうである。やはり、早めに出発したほうが良さそうだ。
朝食も昨夜の食事に劣らず沢山皿が並んだ。アルコールのコンロで卵焼までしてくれる。どうしても全部たいらげるわけにはいかなかった。親切な番頭さんが、出発の時間を確かめ、車のヒーターを入れ、玄関に付けてくれた。出発のときには、女将さんと番頭と給仕をしてくれた女性までが、揃って見送ってくれた。
お礼に私の水彩画で、昨年月刊誌の表紙を飾ったもの(8月と11月)を出版社が絵葉書にしてくれたものを差し上げた。色がきれいと喜んでもらえた。
昨日着た道をしばらく引き返す。道路はところどころ凍結している。スリップに注意しなければならない。温度表示がところどころに出ているが、零度かそれ以下である。幸い徳佐のあたりも雪はなくて、ドライブは順調である。
昨日県道が国道にぶつかった所から先が初めて通る山口市に通じる道である。予定よりも早く山口市に着いたので、ほんのちょっぴりだけど寄ってみることにした。わたしは一度だけ来たことがあって、そのときは県庁に寄ったのだが、美しい町という印象が残っている。
車で走ってみると確かに美しい。県庁のあたりは道路の幅もゆったり広めにとってあり、緑地帯もたっぷりある。建物のデザインも悪くない。風は強いが空はすっかり青く晴れわたっている。ここにも毛利元就ゆかりの地ののぼりが立っている。
ザビエルの縁りの教会に行ってみた。45年前に焼けたことは知っていたが、ちょうど再建中であった。工事現場の人に後ろの小山は何かと聞くと知らないという。わずか30メートル登ればいいのにだ。
登ってみると亀山公園だった。公園の真ん中に毛利公の銅像がある。大きな木が生い茂っているので、それほど眺望がきくわけではないが、ほぼ市の中心の一番高い地点なので山口市の骨格がほぼ見てとれる。県庁も木の間から見える。先ほど通った幅の広い道路もかなり下のほうに見える。犬を連れた中年の女性がベンチでくつろいでいる。
「いいところですね」
と声をかける。人も少なく空気も澄んでいて、長生きできそうである。犬も太っていてのんびりしている。公園を一回りして、レンタカーに戻る。先ほど確かめておいた国道9号線に出る。これを真直ぐ進めば、昨日秋芳洞、萩方面へ別れた小郡に出る。それから先は昨日の道を宇部まで引き返すだけである。天気もいいし、快適なドライブが楽しめそうである。(97/3/5記す)
宇部市までは、昨日来た道を引き返すだけだから、簡単なようなものだが、道というものは、往々にして、行と帰りの印象は違うものだし、特に車のように、スピードの出るものでの場合は、印象が違うので、簡単ではない。とは言うものの、それほど、複雑な経路ではなく、小郡駅を少し過ぎて、国道2号線を右折するところさえ、間違えなければ、宇部に間違いなく帰りつけるのである。有料道路はがらがら。快適に飛ばして、余裕をもって宇部に帰り着いた。これまでも、何度も宇部に来たことがあるのだが、タクシーに乗ったり、お迎えの車に乗ったり乗るだけなので、ほとんど土地勘が働かない。しかし、こうして自分で車を運転すると、町の構造が良くわかるようになる。地図に導かれて、大通りを走ることにし、宿泊先の宇部全日空ホテルに到着。チェックインし、荷物を降ろして、レンタカーを返しに行った。レンタカーの事務所も、先刻その前を通って確かめておいたので、間違えようがない。予定の時間より早めに返却したので料金も少し安くなった。事務所にいた、若い女子職員が、返却したばかりの車でホテルまで送ってくれた。道は、土地の人らしく、裏道をとおって。
そんな訳で、約束の場所にはゆとりを、到着することができ、所要の勤めを果たすことができた。
翌日、宇部市の名所である常盤公園とその中にある熱帯植物園を見物した。公園は、広大で、大き樹木が生い茂っている。大きな池もあり、そこには、白鳥や黒鳥、それにペリカンなどの大型の水鳥がたくさんいて、見物である。
有料の熱帯植物園は、一見の価値がある。今回の小旅行で、あちこちで、料金に値しない見世物にぶつかったので、これもひょっとしたらと危惧したのであったが、杞憂だった。ラベルがしっかりしているし、展示の仕方にも工夫がある。なかなかレベルの高い植物園である。そこから、帰りの便の飛び立つ、山口宇部空港までは、車で五分程度の距離。最後に、いいものを見たので、いい締めくくりができたと思いつつ、機上の人になった。(終)(97/3/23記)