[チビクロの冒険(1)]

4  

 もうあれから何時間たったのでしょう。

 あたりは相変わらず真っ暗で、ジェットエンジンの音が鈍く響いています。

 お腹が猛烈に空いてきました。喉が乾いてひりひりします。しかし、今さら弱音を吐くわけにはいきません。どんなに辛いことがあっても我慢しようと決心して飛行機に潜りこんだのですから。

 真っ暗の収納庫の中で慰めになるのは、ご主人一家のスーツケースの匂いだけです。ご主人の頼もしい匂いや、奥さんのくすぐったい匂い、ミコちゃんやひろしくんの甘ったるい匂いが漂って来るのです。

 それに匂いと言えば、ぼくの頭を狂わせそうなソーセージとベーコンの匂いがどこからともなく漂って来ます。

 よほどそのありかを探り出して食べようかと思いましたが、そんなことをしたら見つかってしまうだけだと思い直し、あきらめました。

ーーー犬は食わねど高ようじ

ーーー痩せ我慢 負けるなチビクロ ここにあり

 いろいろ口からでまかせのおまじないを唱えましたが、一向に効き目がありません。もうお腹がすいて目から火花が出そうになった頃、ドスンと大きな音がして、飛行機のスピードが、急ブレーキをかけたときのようにぐぐーっと落ち、ぼくは壁にぐいぐい押し付けられました。どうやら、地上に降りたようです。やがて飛行機は止まってしまいました。

 しばらくすると収納庫のドアがガラリと開きました。続いてなにやら聞き慣れない人間の言葉が耳に飛び込んで来ました。入り口から入ってくる空気が、やけに冷たく感じられます。ぼくはブルブルと身震いしました。

 と、金髪の男の人がのそっと入って来て、荷物を運びだし始めました。ご主人の匂いもすうっと遠のいて行きました。ぼくは、金髪の男の人が、反対側の荷物をかついているすきに、ドアから、エイヤとばかり地上に飛び降りました。ちょっとつんのめりましたが、大丈夫です。素早く運搬車の下に潜り込みました。

 そこから飛行機を見上げると、今しも乗客がタラップを降りてくるところです。その中にご主人一家の元気な姿も見えます。ご主人の金縁の眼鏡がキラリと光っています。ぼくは、飛び出して行ってご主人にじゃれつきたい思いにかられましたが、飛行場というところは入ったり出たりするのがとても面倒なところだということがよく分かっていましたので、じっと我慢していました。

 ご主人一家はタラップの下で待っていたバスに乗り込んでいます。と、そのとき、ぼくが潜り込んでいた運搬車がいきなり動き始めました。こうなれば運搬車の下に隠れたままついていくより仕方がありません。右に左にカーブを切る車の下に隠れて走るなんてなかなか難しいことです。前輪を注意深く見、曲がる方向を間違えないように気をつけながら、ぼくはただ走り続けました。

 ところが走ることだけにあまりに一生懸命になっていたので、運搬車が急停車したとき、思わず車の前に飛び出してしまったのです。

 「アッ」

思ったときは、もう遅すぎました。

「オッ」

「ヤッ」  

ぼくに気付いた運搬車の運転手が鋭い叫び声を上げました。大勢の人が一斉に振り返り、ぼくの存在に気付くと口々に何やらわめきながら、突進して来ました。言っていることはさっぱりわかりませんが、ぼくを捕まえようとしていることはよくわかります。こうなればもう逃げるよりありません。

 ぼくは必死になって走りました。ここで捕まってしまったらこれまでの苦労も水の泡です。

 走りながら振り返ると、兵隊さんやおまわりさんや、いろんな格好をした人が五十人も追いかけて来ます。この追かけっこを、空港の展望台から眺めている人もいます。その中にはぼくを応援してくれている人もいるようです。

 ぼくは生まれつきかけっこは得意で、急カーブを切ったり、急停止もお手のものなので、いつもだったら、人間に追いかけられたぐらいで困ることはないのですが、何といっても今はお腹が空き過ぎています。走っているうちにふらふらして来ました。

 飛行場はだだっ広くて、どこまで走っても体を隠せるようなものが見つかりません。ぼくは、ひーひーあえぎながら、走り続けました。

 と、ドタドタした人間の足音に混ざって、それに比べたら十倍も軽やかですばしっこそうな足音が聞こえて来ました。もう、追い付かれてしまいそうです。

「おい、そこのチビくん」

 ぼくの耳にはっきりそう聞こえたのです。それは懐かしい犬語ではありませんか。ぼくは驚きました。振り返ると、5メートルもないところに、ぼくの三倍もありそうな、すらりと形姿のいいシェパード犬が追いかけて来ているのです。人間は、それより五十メートルも離れています。

「チビくん、そのまま真直ぐ走り続けなさい。ぼくはこの空港の警備犬なんだ。だからこうして君を追いかけなければならないけれど、決して君の敵ではない。ぼくの言う通り走りなさい。そすれば、君は飛行場からうまく逃げ出せるはずだ。そ、そこは、右!」

 ぼくは指示されるままに、右に曲がりました。いったいこの犬が本当に味方なのかどうかわかりませんが、こうなればこの犬に頼ってみるほかに手はないと思ったからです。

 時々、シュパードは、ウーワンワンとおどすような吠声を上げるのですが、その都度小さな声で、

「チビくん、今度は左」

とか

「そのまま、真直ぐ」

とか、やさしく助言をくれるのです。

「このままあと百メートル真直ぐ行くと、金網のフェンスがある。そこに君なら通り抜けられる穴が一つだけ開いている。そこから逃げなさい」

 後百メートルか。広い飛行場をもう半分以上走ったに違いありません。ぼくは最後の力を振り絞って走りました。シェパードはぼくと並ぶようなところを走っています。

「お見かけするところ、その監察札のついた首輪にしても、君はポーランドの犬ではないようだね。あの飛行機で密航して来たようだね。ポーランドには、不案内のようだから、うまくフェンスの外へ逃れたら、その付近に住んでいるプードル犬のアンナ嬢に連絡を取りなさい。彼女は親切だから、きっと君の力になってくれるはずだ」

 ぼくに今にも噛みつかんばかりのふりをしながら、シェパードはこう言ってくれたのです。目の前にフェンスが迫って来ました。確かにぼくがなんとかすり抜けられそうな穴が開いています。

 ぼくは、そのままのスピードで、その穴に突っ込みました。毛がひっかかり、針金の先にいくつも塊が残りましたが、そんなことを気にする余裕はありません。

 フェンスの直前で急停止したシェパードは、穴の間から、鼻先を突き出して、いかにも残念そうに低くウーと唸っています。が、その実、

「チビくん、よく頑張った。達者でな。ぼくはボイテックって言うんだ。アンナにもよろしく伝えてくれ」

と言ってくれたのです。

「ボイテックさん、本当にありがとう。お陰で助かりました。ぼくは日本から来たチビクロと言います」

 ぼくは、弾む息の下からやっとそれだけ、言いました。見れば先ほどぼくを追いかけて来た人達は、百メートルも向こうで完全にへたばって座り込んでいます。ボイテックは、ぼくのほうを振り返り振り返り、その人達のほうへと引き返して行きました。

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[チビクロの冒険(2)]

アンナ

5

 フェンスの外でぼくはしばらく休みました。空きっ腹でいきなり全力で走ったので体中の力が抜き取られたような感じです。それに先ほどは何でもないと思ったのですが、よく見ると金網を潜り抜けた時すこしばかり引っかけたとみえて、右肩のところに血がにじんでいます。舐めようとしても、そこまで首が回りません。ずきんずきんと傷の痛みが空きっ腹に響きます。

 辺りを見回すと枯れた草地が広がり、ところどころに雪がまだ融けずに残っています。すっかり葉の落ちた木がぽつんぽつんと立っています。その少し向こうの方には、茶色を帯びた林があり、うっすらと雪をかぶっています。

 ボイテックが、言っていましたが、ここはもうポーランドなのでしょうか。日本の景色とまったく違っています。日本ではもう春の匂いがしていたのに、まだ、冬の匂いだけしかしません。

 ぼくはボイテックが言っていたプードルのアンナを捜すことにしました。そこで四つん這いのまま首筋を伸ばし、空中に口を突き出して

「アンナさーん」

と、遠吠えしました。 最初は、ぼくの発音で通じるか心配でした。ただボイテックの言うことが全部わかったので、ぼくの発音でも大丈夫だろうと思い直しました。

「アンナさーん」

ぼくは、二度、三度遠吠えを繰り返しました。

と、

「だーれ、わたしのことを呼んでいるのは」

遠くから雌犬の声が返って来ました。よくわかる犬語です。

「ぼく、チビクロって名前の犬です。空港の警備をしているボイテックさんにあなたのことを紹介して貰ったのです。ぼくはつい今しがた日本という国から着いたばかりです。お腹が空いて死にそうですし、今夜泊まるところもありません。すっかり困っているんです」

「えっ、日本から?日本ってずうっと遠いところにある国なんでしょう。その日本から?」

「そうです。その日本から」

「まあ、それはお疲れでしょう。ポーランドへそうこそ。でも日本の犬も、わたしたちと同じ言葉を話すのですか」

「ええ、どうもそうらしいですね。こうやってあなたとなに不自由なくお話しできるのですから」

「いつだったか、通りで日本人が話しているのを立ち聞きしたことがあったけれど、何を言っているのか、まったくチンプンカンプンだったわ」 「つい今しがた空港でポーランド人に追いかけられたんですが、何を言っているのか、ぼくには、何もわかりませんでした」

「人間って偉そうなことを言っているけど、あんがい遅れているのね。その点、犬族のほうが進んでいるってわけね。日本の方ともこんなに簡単にお話しできるんですもの。あら、いけない。あなたはチビクロっておしゃったわね。あなたが、お腹を空かせているのも忘れてすっかり長話ししてしまって、ごめんなさいね。わたし、今そちらに行けないので、わたしの家にやって来て下さらない。わたしの声のする方へ真直ぐに駆けていらっしゃれば、すぐわかりますよ」

 ぼくはアンナの声に導かれて、枯れ草の野原を横切り、小さな木造の家の傍を通り抜け走っていきました。薄く雪をかぶった林の中の小道をしばらく行くと、大きな石造りの家が、目の前に現われました。

「チビクロ、こっちよ」

その大きな家の裏手からアンナの声がします。急いで裏に回るとそこには、大きな木がいっぱい生い茂った広い庭があり、建物の半地下になったガレージの前に、ほっそりと姿のいい白いプードルが鎖につながれて立っていました。

 それが、アンナでした。ぼくはアンナがあまりに美しい雌犬なので、すっかり気後れしてしまいましたが、車の通り道になっている舗装した通路伝いに、そのまま歩調を落とさず、アンナのそばまで走り続け、思い切ってアンナの鼻の頭に自分の鼻の頭をこすりつけました。これがぼくらの仲間の「はじめまして」の挨拶です。ポーランドでも同じ様な挨拶が通用するのか、最初は不安でしたが、同じ犬語が通用するのなら、この挨拶も通じるのではないかと思って、思い切ってやってみたのです。

 アンナが、うれしそうに鼻の頭をこすり返して来たときは、本当にほっとしました。それにアンナはピンと伸ばした、美しい尻尾を、威勢よく左右に振っているではありませんか。これは最高級の歓迎のしるしです。鼻だけこすり返しても、尻尾がだらしなく垂れていたり、そのこすりつけた鼻で相手の匂いを胡散臭げにくんくん嗅ぎ回ったりするのは、けっして友好的な態度とは言えません。そんな犬とはそれ相応のつきあいをしなければなりません。

「早速ですけど、チビクロはお腹がぺこぺこなんでしょう。どうぞ、これを食べて下さい」

 初対面の挨拶もそこそこにアンナは、アルミボールによそった肉の塊を勧めてくれました。

 ああ、二十数時間ぶりに口にする食べ物です。遠慮している時ではありません。ぼくは勢いよく、肉に飛びつきました。

 なんとおいしい肉でしょう。こんなにたっぷりこんなにおいしい肉を食べたのは初めてでした。 ポーランドに出発する前に、奥さんが

「お友達の話しだと、ポーランド料理って、あまりおいしくないらしいのよ。困るわァ」

などと、ご主人と話しているのを聞いたことがありましたが、この肉に関する限り日本の油っぽい肉よりよっぽどおいしく、しかも量がたっぷりです。ご主人だってこんなにいい肉をこれだけたっぷり食べたことは滅多になかったに違いありません。

 ぼくがおいしそうに食べているのを、傍らからアンナは満足そうに見ていましたが、ぼくの右肩に血がにじんでいるのに気付くと、

「まあ、かわいそう、こんなところを怪我して」

と、やさしく舐めてくれました。

 食事が終わるとぼくも犬ごころが着いて、アンナに日本からポーランドへやって来たいきさつを話す余裕が生まれました。ぼくが飛行機に忍び込んで、密航して来たことを話すと

「まあ、チビクロって勇気があるのね」

 アンナが感じ入ったようにため息をつくので、ぼくもなんだかすっかり嬉しくなって、日本にいたときよりも言葉がなめらかに飛び出してくるしまつです。ここが日本から一万キロメートルも離れたポーランドという国で、今日知り合ったばかりの友人と話し合っているなんてまったく思えないほどです。

「そんな訳で、ぼくは飛行場でご主人一家とはぐれてしまったんです。だから、これから、どうしても探し出さなければならないんです。でも、右も左もわからないポーランドで、いったいどうして探し出したらいいのか、すっかり途方に暮れているんです」

ぼくの話しを聞き終わるとアンナは

「チビクロ、心配しなくてもいいわよ。ご主人を探し出すまで、いつまででもわたしの小屋に泊まって下さってもいいし、わたしも近所の仲間に連絡をとって、あなたのご主人一家のことをいろいろ調べて貰ってあげるわ。今日は疲れたでしょうから、早めに、休んで下さい」

と励ましてくれるのでした。

 時刻はまだ三時半ということでしたが、あたりはもう暗くなってきました。ぼくはアンナの言葉に甘えて、その晩は、ガレージの中に作られたアンナ用の木箱に泊めてもらうことにしました。

 夜になると、サラサラと小雪がちらつき、寒さも一段と厳しくなってきましたが、アンナと体をすり寄せて眠りましたので、少しも寒くありませんでした。

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[チビクロの冒険(2)]

6

 翌朝、目を醒ますと周りはしんと静まりかえっています。アンナはぼくに体をぴったりと押し付けて眠っています。スヤスヤいい寝息です。柔らかいいい匂いがします。ぼくは幸せな気持ちで、アンナの寝顔を見つめていました。

 ガレージのドアには、アンナが外へ出れるように、小さな出入り口がついています。そこから、外を見ると、どこもかしこも真っ白です。きっと夜中じゅう雪が降ったに違いありません。こんなにたくさん積もった雪を見るのは初めてです。すっかり嬉しくなって、ぼくはガレージの外へ出、真っ白い雪の上でピョンピョン跳びはねて遊びました。雪はサラサラしていて、少しも体にはくっつきません。

 しばらくすると、アンナも起き出して来て、ぼくと一緒に飛んだり跳ねたり、ころげまわったりし始めました。鎖につながれているアンナは、ガレージからあまり遠くには来られませんが、後ろ足で立ち上がり、ポンポンとじょうずに飛び跳ねます。ぼくもアンナに合わせて後ろ足で立ち上がり、前足を合わせてポンポンと飛び跳ねました。ぼくたちの周りに白い雪が舞い上がります。とても素敵です。

 その時でした。

「コラーッ」

 いきなり大きな音が頭の上から落ちて来ました。いえ、本当にコラーッと言われたのかどうかはっきりしません。なにしろ聞き取れないポーランド語で言われたのですから。でも、どなられたことははっきりわかりました。思わず、首をすくめ、ぼくは、とっさに走り出しました。後ろから、怒鳴り声が追いかけて来ます。

 アンナが、あわててガレージの中へ走り込むのが眼の端に写りました。

 三十メートルも走ったところで後ろを振り返って見ると、石造りの家の窓から、顔中ひげだらけのあじさんが、上半身を乗り出すようにして、ぼくに向かって右腕を高く振り上げ、大声でなにやらわめきちらしているのです。

 ぼくは、安全のために、それからさらに二十メートルぐらい離れたところにあった、大きな木の後ろに隠れて、アンナの家をうかがいました。

 しばらくすると、さきほどのひげのおじさんが庭に現われ、嫌がるアンナをガレージから引きずり出して家の中に連れ込むのが見えました。 アンナのかぼそげな悲鳴が聞こえて来ます。アンナはきっとおきゅうをすえられているのでしょう。ぼくのうかつさのために、なんの罪もないアンナに迷惑をかけてしまい、申し訳なさで、胸がはちきれそうになりました。

 これでは、アンナのところへ戻っていくわけにもいかなくなりました。せっかく、頼りになる友達ができ、安心して泊まれる場所が見つかったと思えたのも束の間、ぼくは、真っ白く雪の振り積もった、右も左もわからないポーランドの町に、またしても一匹だけポツンと放り出されてしまったのです。

97/4/1

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