童話の部屋

チビクロの冒険

(97/4/29完結)

 ここに掲載する「チビクロの冒険」は、わたしが1975年から1978年までポーランドに滞在した経験を土台に、創作した童話です。チビクロという犬の目を通して、当時共産主義政権下にあったポーランドでの日本人一家の生活ぶりを描いています。

 当時、まだ幼かった子供たちが、ポーランド時代を忘れないようにしてあげようとの親心で、でき上がったところから、読み聞かせながら作り上げていったものですが、妻子には幸い、好評を博しました。もちろん、懐かしさが手伝ってのことでしょうが。

 1984年頃、まだ100万円以上もしたワープロで書き上げたのですが、そのまま埃をかぶって埋もれていたのものです。インターネットという簡単に自己出版できる時代になって、日の目を見せてやれることに気付いて、ここに収録することにしました。が、当時はフロッピーも8インチという時代で、現在のワープロでは読み出すこともできません。止むを得ず、暇を見つけては、このページに打ち込んでいくことにしました。かなり長文なので、連載には、時間がかかることと思いますが、ご愛読願います。

97/4/29記:実は最近8インチ版の「チビクロの冒険」を3.5インチのフロッピーに移植したものを見付け出して作業が一挙に捗りました。今日のアップで、一応、「第一部」は完結します。

「第二部」は、まだ、一行も書いていませんが、「いつか書こう」とは思っています。幻で終わることになるかもしれませんが・・・

チビクロの冒険

 

阿部毅一郎 作

1997年3月28日連載開始

目次

  • ポーランドへ(1 /2 /3 4 )
  • アンナ( 5 /6
  • キジ猫(7)
  • いたずらな子供たち(8)
  • ボイテック一家(9)
  • 日本大使館(10/11
  • タクシ―(12)
  • 肉屋(13)
  • 新しい家(14/15)
  • アメリカンスク―ル(16/17
  • ディナー(18/19)
  • スタ―レミヤスト(20/21)
  • 買物(22/23)
  • エバ(24)
  • 再会(25/26/27)
  • 船荷(28/29)
  • 愛(30)
  • グダンスクへ(31/32/33/34)
  • 船荷の整理(35/36/37/38)
  • パ―ティ(39/40/41)
  • 総目次へ                  
  • ポーランドへ

       1  

     それが、ぼくのことでもめていることは、よくわかっていました。 毎日、毎日、ご主人と奥さんが大きな声で議論をしているのです。ぼくは 部屋の隅で小さくなり、尻尾を丸めて聴いていました。 

    「それはわたしだってチビクロは可愛いわよ。できることなら、一緒に連れて いってやりたいと思うわ。でも、行き先が北海道や沖縄ならともかく、ポーランド なのよ、ワルシャワなのよ。この東京から一万キロメートル以上も離れた、地球の 裏側にある国なんですからね。そこんところを良く考えなくっちゃ」

     これは奥さんの声です。いつもはやさしいいい声なんですが、議論をするときは ちょっと刺々しくなって、ぼくの繊細な耳にガンガン響きます。ぼくは奥さんが 話すたびに、耳たぶを折り曲げ、音量を少し絞って聴いていました。 

    「でも、チビクロがぼくらの本当の子供だったら、それでも東京に残していくかい。 ミコちゃんとひろしくんは一緒にポーランドに行くことになっているんだし、チビクロだけ 残していけないよ。チビクロは、生まれた時からわが家にいるんだし、犬とは いいながら、わが家の一員みたいなものじゃないか」 

     これはぼくのご主人の声です。なんとなめらかで、どっしりと重みのある、いい声 なのでしょう。ぼくは耳をピンと立てて聴きほれます。ぼくが口がきけたら、 

    「さんせい!」 

    と叫びたいくらいです。 

     それに、ご主人の鼻の上に輝いている金縁の眼鏡の立派なこと。ぼくは一生のうちで 一度でもいいからあんな素敵な眼鏡をかけて大通りを歩いてみたいと思っています。 そうしたら、道を行く人がみんな振り返って、  

    「なんて素敵な犬だろう」  

    と感心するにちがいありません。 

     時として、ミコちゃんとひろしくんがこの議論に参加することがあります。二人とも 決まってぼくの味方なので頼もしい限りです。 

    「ママ、チビクロも連れて行って上げましょうよ。チビクロも一回くらい海外生活を 味あわせてあげなくっちゃ」 

     これ小学一年生のミコちゃんです。ミコちゃんは、丸い顔で丸い目をした可愛い女の子です。 でも、ぼくがミコちゃんの靴をちょっとかじったりするだけで、 

    「チビクロ、お止め!」  

    と大声を上げてぼくのことをにらみつけます。そのときは、顔が四角になり、目が三角になります。 

    「チビクロが行かないんなら、ぼくだってポーランドなんかに行きたくないな。ママは チビクロがかわいそうじゃないの」 

     これが、今年五つになるひろしくんです。ひろしくんは、色が白くて脚が長くて、なかなかかっこいい男の子です。いつもぼくにエサを持ってきてくれるのですが、時々  

    「オマチ!」 

    と言って、ズイブン長いこと待たせることがあります。そんなときには、すこし憎らしいと思うことがあります。  

    「いつもママだけが悪者にされちゃうんだから。ママだってなにもチビクロが憎くて連れて行かないなんて言っているんじゃないのよ。あんな遠いポーランドまで犬を連れていくのは、それはそれは大変なことだから、言っているのよ。それなのにだれもわかってくれないんだから・・・」 

     もう奥さんは半分泣き声です。目尻にうっすら涙がにじんでいます。ご主人は、困ったような顔をして黙ってしまいました。人間の社会には <泣く女と児童には勝てない> ということわざがあるようですが(ご主人が良く口にしますから)、ご主人を見ているとこれがもっともだということがよくわかります。 

     そんなわけで、ぼくは一匹だけ東京に置いていかれることになってしまいました。

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    2

     

     ポーランドへ出発する日の前の日、ご主人は、ぼくを犬小屋ごと通りの向こう側にある、ご主人の両親の家に預けに行きました。 

    「母さん、チビクロはお風呂が好きなんですよ。申し訳ありませんが、週に三回はお風呂に入れてよくブラッシングしてやって下さい。それに、お豆腐にカツオブシをまぶしたのが大好物なんですよ。豆腐もカツオブシも高くなりましたが、たまにはご馳走してやってくださいね」 

     ご主人は、ぼくの頭をなでながら、お母さんに頼んでいます。 「お前に言われなくたって、チビクロのことなら、わたしゃ何だってよく知っていますよ。生まれたときからの長いつきあいだもの、ねぇチビクロ。ほら、今日からここがお前のおうちだよ。引っ越しのお祝いにちゃんとお豆腐にたっぷりカツオブシをまぶしたのを用意しときましたよ。ミコちゃんもひろしくんも遠い遠いところへ行っちまんじゃ、おばあちゃんさびしいですからね。これからはお前だけが頼りだよ、わかったわね、チビクロ」 

     ご主人のお母さん、つまりミコちゃんとひろしくんのおばあちゃんは、ぼくを膝の上に抱き上げ、ぼくのほっぺにチュッとキスしました。ぼくは、お返しに長い舌を出しておばあちゃんのほっぺたをペロリとなめてあげました。梅干しばあさんなんて近所の子供たちが悪口を言っていますが、決して梅干しの味はしませんでした。いつだったか、ひろしくんが転んで泣き出したとき、涙でいっぱいのほっぺたをなめてあげたことがありましたが、そのときの味にそっくりでした。 

     奥から真っ白い八の字髭を生やした、ご主人のお父さん、つまりミコちゃんたちのおじいちゃんも出てきて、 

    「ほ、チビクロ来たか。今日から、わしらが可愛がってやるからな。明日は空港までわしらと一緒に見送りに行くかね?」 

    と、髭をしごきながら言いました。 

    「クーン、クーン」 ぼくは一生懸命に尻尾を振りました。 

    「よし、よし、わかったわかった」 

    おじいちゃんは目を細めました。そしてぼくの目を覗き込むようにして言いました。 

    「明日、お前たちがポーランドへ行ってしまうのも知らず嬉しそうに尻尾を振っているが、チビクロも不憫なやつじゃ」 

     このおじいちゃんが、これでも人間の世界では有名な心理学者というのですから、ぼくには理解できかねます。

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    3

     こんなにすがすがしい、いい匂いのする朝はめったにありません。どこからともなく心をわくわくさせるような香がただよってきます。ああ、これは春の香です。もうそろそろ二月の終ですから春がすぐ近くに来ているに違いありません。ぼくは思いきって鼻の先を空中につきだして胸いっぱい素敵な匂いを吸い込みました。そのとたん、今日がご主人一家の出発の日なのだということがひらめきました。気持ちがたちまちシャンと引き締まりました。

    「そうだ、今日はぼくにとってとっても大切な日なんだ。うかうか過ごすわけにはいかないんだ」

     ぼくは、犬小屋から出て、その前をせかせか歩きまわり、あれこれと思案をめぐらせました。

    「飛行機の出発は午後10時30分だから一時間前に空港に着くとして、タクシーには七時頃来てもらえばいいな」
    とご主人が言っていたのを思い出しました。それにご主人一家が行くポーランドのことも繰り返し繰り返し頭のなかではんすうしてみました。これは商社員のご主人が、奥さんやミコちゃん、ひろしくんと話し合っているのを聞きかじった、文字通りの耳学問です。

     それによるとポーランドは、日本の北の端よりもっと北にあるとても寒い国らしいのです。冬にはみんな厚い毛皮のコートを着、毛皮の帽子をかぶっている国らしいのです。日本には、山が多く、どこへ行っても山が見えるのにくらべて、ポーランドにはほとんど山がなく、どこも平たい国らしいのです。

     飛行機で行っても、ポーランドへ行くには20時間もかかるらしいのです。ぼくは、ご主人の車で箱根や日光や鎌倉まで連れて行ってもらったことがありますが、それ以上遠くへは行ったことがありません。それにこんあことを言うのは恥ずかしいのですが、これまで一度も、新幹線にも飛行機にも乗ったことがないのです。

     でも、20時間ぐらいで着けるのなら大したことはなさそうです。なんと言っても一日もかからないのですから。いつだったかご主人に日光に連れていってもらったとき、帰りの道路がひどく混んで10時間もかかって帰って来たことがあります。あの二倍程度なら大したことはありません。ぼくは車のなかではいつもぐうぐう眠ることにしていますから、10時間かかろうと3時間で済もうと大した差はないのです。とにかく食べ物さえもらえれば20時間車にゆられても平気だという自信があります。

     ・・・でも、今度は食べ物が貰える保証がありません。ぼくはこの日は、おばあちゃんが出してくれる食事を朝昼晩おなかいっぱい食べました。

    「チビクロったら、体は小さいのに良く食べること。最初からこの調子なら、うちに置いてもなんの心配要らなそうね」

    おばあちゃんは感心しています。

     それにもう一つ心配なのは、ポーランドは寒い国で二月でも厚い毛皮のコートが必要と言うことです。でも、その点なら、ぼくはもともと毛皮を着ているようなものですし、なんとかなりそうです。

     五時過ぎにはあたりはすっかり暗くなりました。六時半頃ぼくはそっと犬小屋を抜け出ました。こんなときには、ぼくみたいな真っ黒の毛並みはとても好都合です。通りを渡ってご主人の家に行き、玄関脇の暗闇のなかに身を潜めました。幸い、だれの目にもつかなかったようです。

     七時きっかりに二台のタクシーがやって来ました。おじいちゃんとおばあちゃんも、やって来ました。玄関口に積み上げてあった手荷物をみんなが手分けしてタクシーのトランクに積み込み始めました。

     おばあちゃんが

    「ヤスオ」

    とご主人の名前を呼びました。

    「お前のところにチビクロは戻っていないかい。一緒に連れていこうと犬小屋へ行ってみたらいないんだよ。晩ごはんをあげたときにはちゃんといたんだがねぇ」

    「いや、戻っていませんよ。今ごろどこ行ったんでしょうね」

    「まったく困ったわねぇ。もう捜す時間もないし、せっかく見送りだというとき、チビクロはいあんくなってしまうんだから」

    おばあちゃんは、ためいきをつきました。

    「チビクロ、いなくなっちゃたの。じゃ、ぼくちょっと捜してくる」

    赤と黒のチェックのオーバーコートでめかしこんだひろしくんは、おばあちゃんの家の方へ走り出しました。

    「ひろし、もう時間がないのよ。飛行機に遅れちゃうわよ。チビクロはおばあちゃんが後で見つけて下さるわよ。この間もしばらくいなくなってけど、ちゃんと帰ってきたでしょ」

    奥さんがひろしくんのうしろからあわてて追いかけていきます。ひろしくんは小さい割にはすばしっこいのです。

    「ぼく、チビクロが、見送りに来ないならポーランドなんかには、行かない」

    「ひろし、そんな聞き分けのないことを言うもんじゃないよ」

    これは、ご主人の声です。

     ああ、ぼくとしては、どんなに辛かったことでしょう。できれば、

    「ここにいるんだよ、ひろしくん、ワン」

    と飛び出して行きたいところでした。しかし、それではぼくの計画はおじゃんになりかねません。ぼくはみんなが騒いでいるすきに、物陰から飛び出し、すばやくタクシーのトランクに忍び込みました。積まれたスーツケースの一番後ろに小さなすき間があったので、見つからないように、そこに身を鰻のように細くしてうずくまりました。

     やっと、ひろしくんもなっとくして、戻って来たようです。トランクの蓋もバタンと閉められました。周りは真っ暗になりました。ガクンと一揺れしてタクシーは走り出しました。

     狭いトランクの中には、ご主人一家の匂いが充満しています。積み込まれたスーツケースや細々した手荷物から、日頃からなじみの匂いがしているのです。この匂いを嗅いでいるだけで、安心できます。

     時々急カーブをきるのでしょうか、体がいきなり右へ引っぱられたり、左へ連れ戻されたりしますが、真っ暗闇のなかではとりたててやることもないので例によってウトウトしていました。どのくらい走ったのでしょう。

     車がゆっくりと止まりました。みんなが、降りている物音が伝わってきます。トランクの蓋が開きました。明るい光がさっと差し込んで来ました。ここで見つかったら、元も子もありません。ぼくは細めていた体をもっと細めて、光の当たらないところに身を隠しました。タクシーの運転手が、大きなスーツケースをよっこらしょと持ち上げ地面に降ろすためにちょっと横をむきました。

     そのわずかの隙に、ぼくはすばやくトランクから飛び出し、さっとタクシーの下に潜りこみました。幸いだれにも気付かれなかったようです。

     ご主人一家は、それぞれ手荷物を持って、空港の大きなビルディングへ向かって歩始めました。その二十メートルほど後ろからぼくはこっそり付いて行きました。

     ご主人は、ビルの中の受け付けのカウンターへ行き、そこに座っているおそろいの赤いスーツを着た女性と話し始めました。背広の胸のポケットから、大きな財布を取り出して、そこからさらに切符のようなものを取り出して、その女の人に手渡しました。大きなスーツケースやバッグなどを預けたりしています。きっと飛行機に乗る手続きをしているのでしょう。あまりにその近くに行くと見つかってしまうので、二十メートルほど離れた柱の陰から見ているのですが、それだとはっきりしたことは、良くわかりません。  空港の時計はもう九時四十分になっています。このまま、ご主人一家の様子を遠くからぼんやり見ていたのでは、せっかくの計画もおじゃんになりかねません。

     確かご主人一家の乗る飛行機の出発は十時半のはずです。ぼくはとにかくそこらじゅうを走り回って空港の様子を探ることにしました。空港のロビーはまだかなり混んでいます。人と人の足の間をうろちょろとせわしなくかいくぐり、荷物の山の上をぴょんぴょん跳び超え、あっちのカウンターこっちのカウンターを嗅ぎ回りました。それこそ足を棒にして走り回ったあげく、ぼくは大発見をしました。どうも人間と荷物とは別の入り口から飛行機に乗せられるらしいのです。それに人間が乗り込む方の検査は、とても厳しくて、それこそネズミ一匹、入り込むすきがないようです。小さいとは言え、ネズミより十倍以上は大きいぼくに入り込むチャンスはないも同然です。

     とすれば、チャンスは一つしかありません。

     ぼくは、先ほどご主人がいたカウンターに引っ返しました。カウンターはずらりと並んでいますが、どのカウンターにも、きれいな女の人が座っていて、乗客から荷物を受け付けています。まず荷物を秤の上に乗せると、重さ何キログラムという表示がでます。重さを量り終わると女の人はボタンを押します。すると荷物の下のベルトが動きだし、荷物は後ろの穴の中に吸い込まれて行くのです。

     見渡すと、幸い一つのカウンターのランプが消えており、係の女の人が座っていません。ぼくは小走りにそこへ行き、近くに人影がないことを確かめて、素早く、荷物を量る台の上に飛び乗り、カウンターの下に潜りこみました。だれにも気付かれなかったようです。ぼくはそこで一息入れてから、今度は一気に壁に開いている穴へ向かって突進しました。穴の中に飛び込んだ瞬間、ぼくはたちまち足を取られ、すってんころりとひっくり返り、そのままスーッと滑り落ちて行きました。まるで奈落の底に落ちて行くような感じがしました。やっとこさ止まったところでよろよろしながら立ち上がると、そこは長い滑り台の一番下でした。さきほど飛び込んだ壁の穴から先は滑り台になっているのです。同じ様な滑り台がたくさんあって、さまざまな形をした荷物が次々に滑り降りて来ます。下では、男の人が待ち構えていて小さな運搬用の車の上に荷物を載せています。ぼくの滑り台にはだれもいなかったので助かりました。

     ぼくは、見つからないように急いで物嗅げに隠れ、鼻をピクピクうごめかしました。数千。数万の匂いの中から、たった一つの匂いを選び出すのです。  クンクン、クンクン・・・  ありました!

     ご主人のスーツケースの匂いです。ぼくの匂いも混じっています。先ほどのタクシーの狭いトランクの中で付いたのです。もうそのスーツケースは、十五メートルも向こうの運搬車に積まれて、今しも、動き始めようとしています。

     ぼくは、あっちの物陰、こっちの物陰に、巧みに隠れながら、長く数珠つなぎになった運搬車の後を追いました。運搬車はやがて屋外に出ました。そこは、見渡す限り遠くまでだだっ広く、長い光の帯のような、滑走路の誘導灯がどこまでも続いています。蛇行しながら進む運搬車のすぐ後ろからぼくはとっとことっとこ付いていきました。

     運搬車は大きな飛行機のお腹の下で止まりました。見上げるとそのお腹のところに大きな黒い口がぽっかり開いています。

     その中へ運搬車から荷物の積み込みが始まりました。どうやったらその中にうまく忍び込めるのでしょう。運搬車に一人、お腹の中にも一人おじさんがいて、荷物をきちんと収納庫に整理しているのです。  ぼくは窮余の一策を思いつきました。

     ぼくは、運搬車から荷物を持ち上げているおじさんの後ろにこっそり回り、いきなりお尻にガブリと噛みつきました。

    「イテーィ!」

    おじさんは大声を上げ、両手でお尻を押さえながら後ろを振り返りました。もちろんその時には、ぼくは運搬車の下に身を隠しています。

    「どうしたんだ?どうしたんだ」

    飛行機の中からもう一人のおじさんも降りてきました。

    「いや、いきなりなにかにお尻をガブリとやられたんだ。こんな所に犬がいるわけもないんだが、イテテテ・・・」
    「なに、いきなりガブリだって?こんなところで?どれどれ」

    飛行機から降りてきたおじさんが傷口を調べています。

     ぼくは、申しわけないと思いながらも、この隙を利用しないわけにはいきません。素早く、運搬車の屋根にかけ上り、飛行機の収納庫目がけてジャンプしました。やっとこさでしたが、入り口の端に前足がかかりました。必死の思いで、体を持ち上げ、収納庫の中に入りこむのに成功しました。思ったより、広いところでした。すでにたくさんの荷物が積み込まれています。これなら、簡単に見つけられそうにありませんが、念のため、一番奥の、大きな棚の下に潜りこみました。

     さきほどのおじさんが、収納庫の中に戻って来て、作業を再開しました。じっと息を潜めているとご主人の匂いがすぐ近くにやって来ました。ご主人のスーツケースやバッグが積み込まれたにちがいありません。

     やがて、作業が終わったとみえて、おじさんはいなくなり、収納庫のドアがピッタリ閉ざされました。もう周りは鼻をつままれてもわからない闇になりました。 キーン ジェットエンジンが唸りをたて始めました。飛行機がゆっくりと動き始めたのがわかります。ジェットエンジンの音が一段と高くなりました。ちょうどスピードを出すのが好きなご主人が車のアクセルツォぐいと踏み込んだときの感じににていうるなと思っていると、今度は、体が空中に放り出されたような感じになり、そのまま身体ごと床にぎゅーっと抑え付けられなんとなく後ろへ引っ張られるような感じがします。それがしばらく続いたあとは、エンジンの音は少し違いますが、ご主人の自動車に乗っているのとたいして違わなくなりました。いえ車より揺れが少なく、自分の犬小屋に寝ているのとあまり変わりがなくなりました。

    「ジェット機は、富士山よりずうっと高いところ飛ぶんだよ」
    ひろしくんが、いつだったかご主人の郷里の長崎に連れていって貰った後で、飛行機に乗ったことのないぼくに、自慢そうに話してくれたことがありましたが、真っ暗の収納庫の中では、右も左も、上も下も、富士山の上なのか海の上なのか、なにもわかりません。なにもわからないので、例によって眠ることに決めました。起きているとお腹も空いてくるに違いありませんし、これから二十時間もなにも食べられないのですから、とにかく、眠るに限るというものです。

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