文化としての日本的経営 第2章
1 日本的組織の基本構造ーウズ社会の解明 浮き上がる/ウズ社会/流れに乗る/主流・傍流・流派・派閥/干す・干される
浮き上る 組織の中で「浮き上る」という表現が良く使われる。次期社長の本命だったA副社長が突然系列の子会社の社長に飛ばされたのは、対米進出に強硬に反対し、社内で浮き上ったからだ云々。こうした言回しを聞くと我々には、組織から酸素不足の魚のように浮き上ってしまい、困惑しきっているA氏の顔付きまで目の前に浮かび上ってくる。こんなに気安く使われるこの言葉の中に、日本人の組織観が集約されている。そこで、まずこの言葉を手掛かりに、日本の組織の構造の本質に迫る作業に取掛かるとしよう。 まず、この言葉の用語例を二、三取上げてみよう。
(例一)太平洋戦争の開戦の責任をおわされたのは東条首相であったが、彼は戦争がほとんど不可避の時点で最高責任者にされた。東条が最後まで固執した支那駐兵にしても、東条の個人的希望ではなく彼が属していた陸軍という組織の要請であった。東条といえど、この組織の要請には逆らえなかった。 「東条がもしこれに異議を唱え反対していたら、彼は陸軍の中で完全に浮かび上った存在になっていただろう」。(ロッキ―ド事件の)「田中角栄についても同様のことがいえよう」(1)。同事件で役者顔負けの偽証をやってのけたとされる全日空の社長や丸紅の幹部にしても、もし、偽証しなかったら、組織の中で完全に浮き上った存在になったに違いない。
(例二)国立大学協会は、昭和六二年六月一六日の理事会で会長、副会長を改選したが、これまで慣例として副会長に選任されてきた京大学長の西島副会長が落選した。これは国立大学入試グル―プ分けを背景に「同学長がB日程の東大への対抗から「入試日程を決めるのは大学の自由」という原則論を繰返し、国大協内で浮き上ってしまった結果、とみられる」(2)。
以上のような例や、三越の岡田社長解任劇が示すように、組織の中で一旦浮き上ってしまうとたとえ組織のトップといえどももはや組織の中での影響力は無に近くなってしまう。他のメンバ―の対応ぶりは実に冷やかで、それこそ「取りつく島」もなくなる。こうなると浮き上った当人も、気持ちの上では、組織への帰属感を失い、組織はもはや安心して住める居場所ではなくなる。 このようにいわば精神的な除名を受けたに等しい状況が「浮き上った」という表現の意味するところである。
組織の中で「浮き上る」という表現が使われ、しかも、それが、組織の要請するところから逸脱し、組織の他の成員との精神的紐帯が切れてしまうという意味合いをもつことを考えると、次ぎのような日本人の組織観が自ずと見えてくる。
日本人は無意識のうちに、組織というものを、そこから浮き上ってしまいかねない流体としてとらえているのではないか。しかも、成員間に目には見えないが磁力に比すべき一種の力=精神的吸引力が働いており、通常は、成員はその吸引力で流体の底部へ引込まれ、「溶け込んで」いるが、組織の要請するところに逆らった言動をとると、その力が働かなくなり、本人の意図とは関係なしに、ぽっかりと組織の外へ浮き上がってしまう構造を有しているととらえているらしい。無意識が、実態をより正確にとらえるのは良くあることで、この場合もそれが当はまるように思われる。
事実、日本の組織をある種の流体からなる「ウズ」としてとらえると、この「浮き上る」現象を含めて、様々の現象が極めてうまく説明出来る。
ここでいう流体の本質は、筆者の見るところどうも「気」といわれるものであるらしい。日本の組織は、外国語に翻訳の難しい、この「気」という流体のウズとしてとらえうるように思われるのであって(3)、日本人そのものが、この「気」という流体の小さな渦であり、その回りにいわば気をまきちらしている。これが人と人の間に星体間物質のように漂っており、これを感知できるフィルムで写真をとれば、ちょうど仏像の光背のように見えることであろう。複数の人が集まると、これが互いに干渉を始め、融合し、渦を巻きはじめる。もとよりその渦のまきかたは、そこにいる人と人との関係の濃淡有無で大いに違う。ほとんど相手の存在を無視していいような場合(=気にしなくていい場合、いわゆる赤の他人の場合)にはほとんど渦は生じないが、関係が深くなればなるほど(=気にしなければならない度合が高いほど)、渦は激しく巻きはじめる。逆に、この渦巻きの激しさの度合で人間関係の濃淡を図ることが出来る。
組織は、いうまでもなくある種の存立の目的を持ち、その成員はその目的の完遂のために協力すべき立場にたたされる。つまり無関係ではおれない立場にたたされる。同じ組織に入り無関係ではおれない関係に一旦立つとその成員は、他の成員と「気」を合せようと、「気」にし、「気」をつけ、「気」を遣い、「気」を配り、「気」構える。日本人の文化的伝統として、なんらかの人間関係が生じると他人へ出来るだけ気を合せようとする性向・気質がビルトインされている。それが働き始めるわけである。そこに力のベクトルが生じ、「気」が渦巻き始める。そうして生じた小さな渦が次々と融合していき、やがて組織大の渦に成長していく。その結果、「ウズ」の中心へ向かって吸引力(=求心力)が生じるのだ。その構造の詳細については、以下順を追って説明していくこととして、とりあえず、ここでは、組織が、逆円錐形に近いウズ状の構造を持っているということを確認し、日本型の組織を「ウズ社会」と名付けよう。このウズ社会が重層的に集ってさらに複雑な組織を作り、社会を構成しているが、その基本構造は「ウズ社会」と同一である(十二章参照)。これは丁度大宇宙の中に銀河系宇宙やアンドロメド宇宙をはじめとする島宇宙があり、その中にさらに太陽系などの小宇宙があるのに似ている。
日本のあらゆる組織は、ほとんど例外なしにこの様な「ウズ」構造を持っており、その成員を 図 一に示すように、その中心へ向かって吸引する。各成員は、他の成員に気を合せようと、気にし、気をつけ、気を遣い、気を配り、気構えていなければならない。つまりそうして組織の渦に早く「溶け込もう」と努める。努めなければならない。その気構えを失うと、組織からたちまち浮き上ってしまう。これは組織のトップであろうと平の社員であろうと例外はない。ただ、組織の中ではいわば気を遣い、気を配る序列とでもいうべきものが極めて精緻に決っており、これがいわゆる日本的経営の特質とされる年功序列制と分かちがたく結付いているのであるが、これについては後で述べる。 組織に入った当初は、その組織の有する「気」(=「気風」)についてほとんど予備知識がなく、気を合わせる意欲は旺盛でも旨く合せることが出来ない。つまり新入りの成員の持つ、他の成員との同質性は薄く、異質性が高いので、ウズの周辺部に止どまるが、時間がたち組織の「気風」をのみこみ、他の成員に気を合せ、気配りすることが上達し、同質性が高まり、自らもまた、後輩や周りのものを自らの発する「気」に合わせさせるようになっていくに伴い、次第にウズのより中心に近くより頂点に近いところへと接近していく。なお、気の融合したものが「風」や「流れ」と言われるものの正体である。
各自の持つ他の成員との同質性・異質性の多寡、各自の気を合せようとする気構えの多寡、他の成員による強要の度合、他の成員との競争の激しさによって、一人一人のウズ社会の中での軌跡は異なる。出世とは渦の中心部へ向かってより深く、より接近していく過程としてとらえられる。「中」「中心」「中央」「中枢」など中の重要性が高いのも組織が渦構造を有しているためである。このことは日本人が中流意識をもちやすいことにも繋がっている。つまり、図一で示す三次元のウズ社会の中で、周辺よりはより中へ、浮き上がるよりはより底へ近くと言う、二重の意味で中への選好意識を反映しているのである。 A、B二人の新入社員が組織に入って来たとして、Aの組織の他の成員との同質性が高く(=気に入れられ)、組織の気風に良く馴染み、しかも気風に合せようとする気配り・気構えが旺盛であるのに対して、Bの方が同質性が薄く、気構えも旺盛でなければ、Aがよりスピ―ディにウズ社会の中枢部へ向かって接近していくのに対して、Bの軌跡はより緩慢なものになる( 図 二)。
このようにウズ社会では「気」が出世の尺度として極めて大きな位置を占める。これが筆者がウズ社会を「気」の支配する組織体と位置付ける理由の一つだが、これも後で詳しく分析することとして、いましばらくは、日本人の組織流体説を裏付ける作業を続けるとしよう。
各成員が中枢部への接近を目指して激烈な競争を繰返しているのであるから、ちょっとした異質性も気構えの緩みもマイナス要因になる。
つまり、その組織に止どまり、自分が勝ちえた現在のポジションを少なくとも確保し、さらに中枢部への接近を目指そうとするかぎり、比喩的にいえば一瞬たりと気がぬけないのであり、「気」の緩みはしばしば致命傷になる。その組織の許容しうる範囲内の異質性であれば問題はないがそれを逸脱するとたちまち浮き上る。この厳しさもウズ社会が「気」で支配されているといえる要因なのである。
一度完全に「浮き上り」外周部へ追いやられた成員が、心を入替えて、気を合わせる気構えを示せば、ウズ社会に止どまることは出来ようが、なかなか中枢部へ戻ることは難しい。ウズ社会の周辺部は、こうした落後者の溜まり場と化す。窓際族とは落後者に奉られた蔑称に他ならない。
ワンマン体制のときはウズの最深部は尖っているが、会長や社長などのトップ陣によるいわば集団指導体制の場合はウズの最深部は必ずしも明確に尖ったものとはならない。その複雑な力のバランスに応じた複雑な形状を示す。また業績悪化の責任をとらされてのトップの突然の交替、ゴルフ接待中の社長の急病・急死によってもウズの頂点は激しく変化し新たなところを頂点としてウズを巻き始める。これによって主流と傍流とが入替ったりする。戦後のレッドパ―ジによる上部幹部の一斉の交替などその最も激しい例である。
流派、派閥にしても日本の組織が流体として観念されていることの傍証になろう。ウズ社会の中にはさらに細かな渦が渦巻いており(会社組織も一つのウズ社会であり、同時にその中の一つ一つの課も一つのウズ社会である)、あるいは実力者・有力者の回りに新たな渦が生じ、これが絶えず、主流争いを繰返す。あるときは回りの渦を併呑する。
つまり、「気配り」を全くせず、「気」を遣わず、「気」にしない状態にある人をおくのである。組織内にいるときは他の成員から「気」を配って貰い、その「気」に合せ、その「気」を吸って生存しているのであるが、その「気」を配って貰えないと、陸に上がった(これも流体であるウズ社会から気のないところへ出ることを意味する)かっぱ同様、吸うべき「気」がないのであるから、やがて呼吸困難に陥り、完全に参ってしまい、「気」絶する。陸に上がった河童は、頭の皿の水が乾いていまい、衰弱するとされるが、日本人も組織から締め出されて「気脈」を絶たれると参ってしまうのである。 ある程度、干した効果が現れると、つまり、他の成員へあまり「気」を合せようとしなかったものが出来るだけ気を合せようという気構えをみせるようになったりすると、「干す」のをやめて、もとの仲間に戻して、生気を取戻させる。しかし、ある程度の「気まずさ」は残る。まったく気を入替えようとしないものは、干されっぱなしにされることもある。
「気」の合せかたも相手次第では極めて難しく、「気難しい」上司に合わせ損うと、それこそ一生の不作でそんなうきめに合わされひやめしをくわされる「気の毒」な人も出てくる。「窓際族」もその一種である。
つまり、日本の社会は明確なル―ル・規範によってコントロ―ルされているのではなく、極めてうつろいやすく変りやすい「気」によって牛耳られている。ウズ社会の中枢部へより近い人々の「気」に逆らわないように「気」を遣い、「気」を回し、「気」兼ねをし、気分を害しないように四六時中「気」を張り、細心の努力を傾けなければならない。その気構えを失うか、「気」を抜くか、あるいはそれを拒否すればたちまち浮き上り、干されてしまう。「気」の遠くなるような構造を持っている。
ウズ社会の成員には、自分がウズ社会のどの位置にいるかということが、重大な関心事である。年期をつむにつれて次第にこの「タテ」と「ヨコ」の座標を正確に把握出来るようになってくる。というのも、序列としては同じ課長であっても、ポストによって重要度がかなり違うことが次第に分かってくるからだ。組織の重要な意思決定に参画する課長と、課長という肩書はあっても部下もほとんどいず、庶務的なル―ティンワ―クをこなす課長では月とスッポン程の差がある。どのポストが「流れに乗」ったものか、どのポストが端パイか、極めて精妙に序列づけられている。
日本の組織における年功序列制も、この精妙な序列づけを前提としている。年次に応じて肩書の序列は同列にしても、いわゆる「年功」に応じて、極めてはっきりした序列づけが行なわれている。
この「年功」は、会社への勤務期間や仕事の能力だけでなく、「気」にまつわる各種の評価(これまで述べてきたような気の合せ方、気の利かせ方などとともに気力、気の強さ、気の大きさなど)が組合されたものなのである。こうして同じ同期生であっても、年次が上がるに従ってはっきりと差がつく。そのためにこそ、入社したその日から一瞬たりともおろそかにせず、各成員が、組織の要請に従うべく気張るのである。自らを殺し、良心を売り偽証してまで、同質化を目指し、一段でも高い序列を得、一歩でも中枢部へ近付こうと努めるのだ。気を合せるために気遣う気苦労は大変なものだ。そのため気疲れし、気が滅入り、気を病む。へたをすると気が狂う。日本に神経症患者が多いのと厳しい気遣いを要請される「ウズ社会」であることとの関連は決して低くはないように思われる。
この精妙な序列づけが先にも述べたように、気を遣い気を配る序列でもある。タテ軸とヨコ軸とを加味して中枢部へより近い方が、実質的な序列は上なのであり、単なるタテ軸だけで序列がきまるわけではない。いわゆる実力者といわれるものは、肩書きでは下でも実質的序列では高い。「中枢」という言葉が、組織の運営上最も重要な機能を果たすと言う意味に使われることも組織が渦構造を持っていることを裏付けるものであり、ウズ社会は、組織の実定法(権限規定・職務規定など)とは関係なしに、暗黙の了解の下に中枢部という極めて影響力の強い私的なインナーサークルが出来やすい構造を持っている。
日本の組織では序列の下のものは上のものの「気」に合せ、上のものに気を遣い、気を配らなければならず、序列が上になればなるほど、気を遣わなくてもいいようになっている。下のものが上のものへ気を遣うのは義務であっても、上のものが下のものへ気を遣うのは義務ではなく、恩恵である。渦の最深部に達すれば自らが「気」の渦を巻きおこす中心人物になるのであるからおよそこれまでのように「気」を遣う必要がなくなる。「気まま」が許され、部下が「気」に入らなければ異動させることも出来、「気変り」、「気紛れ」にも回りが合せてくれる、極めて「気楽な」身分になる。こうして下のものの気苦労から解放され、トップの「気安さ」を手にいれんがため激烈な序列競争(出世競争)が展開されるわけである。
この様に、日本の組織をモデル化したウズ社会は、タテ軸に序列を取り、ヨコ軸に中枢部からの距離(あるいは同質性の濃淡)を取ることによって、日本の組織の様々な分析に応用できる。( 図 四)
会社の「気風」とは長年にわたってその会社を構成したトップをはじめてとする成員同志が気を合せた結果として生まれるその会社独特のもので、前代の気風が次ぎの世代にも受継がれ成員のパ―ソナリティが次第に似通っていきその会社特有のパ―ソナリティを形成していく。 その組織を構成する成員同志で気を合せることから(気を合せざるを得ないことから)そこに形成される気風は正しくその組織にしかないものとなり、そのため、成員のパ―ソナリティはその組織の独自のものとなり、他のウズ社会の成員のパ―ソナリティとは全く異なり、相互に高い異質性を帯びる。これが転職を益々困難にもし、合併を難しくし、他の組織との間の意思の疎通を著しく悪くし、なわばり争いを演じさせる原因になる。ウズの性格上、接触すると壊れやすいので、渦と渦との間に出来るだけ距離をおくように努める。こうして成員は外部に対する鋭い関心を失い、それぞれ独立したウズ社会の中にとじこもりがちになる。これが同じ組織に止どまり続けようとする意識をさらに強める。
日本的経営の特徴とされる終身雇用制も日本の組織のこの様な拘束性に根差している。この拘束性がなければ、日本企業がたとえどれほど終身雇用制を定着させようと努めたところで今日見られるほど定着しなかったに違いない。逆にこうした拘束性を持つ企業が、不況に遭遇して「会社人間」化させた成員を減量経営で「整理」していくことの困難さ・非情さが見えてくる。
角を立てるとは、端的にいえば「気」を合せようとしないことである。会社の気風に染まろうとせず、上のものの気分を害することもお構いなしに、理屈をいい、合理的な基準だけに基づく判断を堂々と述べることである。しかし、長年、ウズ社会の渦に揉まれ、年を取り苦労をすると次第に円満になっていくのである。
このように、ウズ社会のなかでは、気のウズが「円滑」に流れるように、その成員一人一人が丸味を帯びなければならない。角があると引掛かって渦が回らなくなる。流れが滞る。丸味を帯びさせるための研石となる言葉は実に様々なものがある。先ほどの「若い」もその一種である。以下列記すると「変人」「変りもの」「赤」「余所物」「仲間の敵」「仲間の恥」「反企業」「非国民」「異端者」「食出し者」「気が合わない」「気が知れない」「外人」「付合いが悪い」「ひねくれもの」…等など。 このように日本の社会では、角を立てることを極端に嫌い、丸味を帯びること丸いことを絶対的な善として高く評価する。(丸味を尊ぶという意味も含め、日本組織を円形に近い渦型のウズ社会と名づけたわけでもある)。夏目漱石の「智に働けば角が立つ」という有名な警句が示すように、ウズ社会では知的合理的に物事を処理し、割切ることはむしろもめごとの元となる。その意味でウズ社会は「知」の支配する社会ではなく誠に変りやすい「気」の支配する社会なのである。
日本社会で好まれる喧嘩両成敗も知的な理性的な判断に基づく裁きというより、現状を足して二で割って当事者の気分を害しないように丸く収めることを目的とする日本独特の裁きで、知的理性的論理的であるより気を害しないことを最優先させるウズ社会独特の方法である。とにかく理屈は何であれあらゆるもめごとは丸く(つまり気が衝突しないように)収めなければならないのである。
この様なことから、欧米の社会や中国・韓国の社会が「知」あるいは「理」の支配する社会であるのに対して、日本の社会は「気」の支配する社会であるといえよう。森本哲郎は「智に働けば角がたつ」という言葉をフランス人に分らせようとしたが、それはむしろ反対ではないかと反論され、理解して貰えなかった経験談を紹介している(4)。
四月に入ると各社で一斉に入社式が行なわれる。社長以下全役員幹部職員が勢揃いし、新入社員を一堂に集めて厳粛に行なわれる。それをまた各紙が写真入りで有名会社や有名社長の訓示を添えて大きく報道する。すっかり定例化した春の風物詩である。 このように盛大に入社式が行なわれるのは、この式を境として新入社員はこのウズ社会のウズにまきこまれることになる意義深い日であるからだ。鳴門海狭の上にかかった鳴門大橋から下に渦巻くウズへ飛込むようなもので、一度飛込んだが最後定年までそのウズから抜けでることは出来ない。
その意味でも日本の組織は渦そのものなのだ。その中で生活し、物心両面に亘る生活上の必要物を全てそこから供給してもらうことになる。このウズ社会を離れたら、たちまち干上がってしまう。ウズ社会が、本人にとっては全人格を捧げた、いわば全社会なのであるから、そこを離れては文字通り生きていけなくなるのである。
ところで、日本ではごくありふれた入社式も、諸外国ではあまり例を見ない風習のようである。日本のように学校の卒業時期に合せて新卒を一斉に採用するのは珍しく、普通は、雇用の必要に応じてその都度中途採用する。従って一斉に入社式をやるわけにもいかない。それに、日本のように一度組織に入ると、そのままそこに定年までいつづけるのではなく、自由に転職が可能なのであるから、盛大な入社式をやっても意味がない。
日本の場合、入社式に先立つ入社試験で会社のお気に入りを驚くほど注意深くふるいにかける。まず受験出来る大学の指定、論文型式による思想検査、会社の幹部による面接試験を通して会社のお眼鏡に適った、直ぐにでも会社の気風に染まりそうな人物だけを選ぶ。 米国では、公正雇用慣行(Fair Employment Practice)があり、男女の性別、出身国、人種、白人・黒人などの体色、宗教などを理由に、労働者の雇用機会を制限したり、労働条件を差別することを禁止している。採用申込書で許される主な質問事項と許されない事項を見ると、その徹底ぶりが良くわかる。
許される事項としては、名前、住所、電話番号、社会保険の番号、学歴(ただし仕事の内容に関連がないとダメ)、職歴、前職の賃金、雇用機関、辞めた理由、どの職種が面白かったか(面白くなかったか)、その理由、なにを最もやりたいか、等である。これにたいして、許されない事項または避けるべき事項としては、性別、年齢及び生年月日、外国語の能力(出身地、人種が推定できるから)、両親の名前、所属クラブ・組織、結婚しているかどうか(能力とは関係ない)、子供の数、写真(性別・人種がわかる)、慎重・体重(仕事とは関係ない)、生地、眼や髪の色等である(5)。
日本の現状では、これでは会社のお気にいりを選考できないと人事関係者は天を仰いで慨嘆するに違いない。日本は入社試験の時から会社のお気にいりを選考するのに甘いのである。
日本の会社がお気にいりを選び、盛大な入社式をやる背景には、会社という運命・生活共同体へ迎え入れ、共同体員としてそれから定年まで運命(生活)を共にするという伝統的な意識が存在している。入社式はいわば誓いの儀式なのだ。この様な意識を背景として終身雇用制も成立しているのであって、現在、よしんば転職が増え、終身雇用される人の比率が低下しつつあるにしても、少なくとも入社するときの意識はこの様な伝統的な意識そのものなのだ。こうした意識がなければ終身雇用制が成立することは不可能だった。
企業のみならず、日本社会においては、組織に入るとき多かれすくなかれ、けじめをつけるための儀式が行なわれる(入社式・歓迎会)。これはあらゆる組織がウズ社会であり、成員を全人格的に取込み、成員の間の精神的な繋がりによって、組織の機能を果そうとするからである。 これに対し、転職が自由に行なわれる社会の組織は、成員を全人格的に取込むのではなく、成員の持つ機能を一定の代価を支払って購入する。それゆえ、成員がお互いに精神的な繋がり(=気を合せようと気を遣う気構えを常に持ち続けること)を持つ必要はない。この社会では、成員相互のコミュニケ―ションは、言語(=契約)によって、いわばドライに機能的におこなわれる。それゆえ、この社会を契約社会と名付けよう。
一方、ウズ社会ではコミュニケ―ションは成員が気を合せお互いに同質化することを通じていわば非言語的に以心伝心で行なわれる。気が合わなければコミュニケ―ションは不可能なのだ。そのため、大部屋で仕事を一緒にやり、つきあい残業もし、同じ釜の飯を食い、ことあるごとに酒をくみかわし(「縄のれんも仕事のうち」)、私的にも付合い、自分の一部始終を腹を割ってぶちあけ、いつもざっくばらんに振舞う。腹蔵なくという言葉が示すように、腹綿の内側までさらけ出しても異質性(=気が合わないところ)がまったくないことを示すのだ。こうして自分が全く他と同質であり、何等の異質なところを持っていないということを示して始めて真のコミュニケ―ションが可能となるのだ。日本人は、言葉でコミュニケ―トをすることが出来ないのである。
去る者は日々にうとしという諺があるが、これは日本人が気を通してコミュニケ―トすることを裏付けている。遠隔地では気を合せようがないし、お互いに異質性を持たないことを示しようがないため、コミュニケ―ションがうまくいかなくなるのである。気を合せるためには、日常的に接触し、お互いの気と気とが繋がりからみあいウズを生じるほど近くにいなけらばならない。気は各人のごく身辺に光背のように漂っているものであり、遠隔地になるとそこまで届かなくなるのだ。
中国の日本人残留孤児をみると日本人に比べるとそれほど笑顔をみせようと勤めていないように感じる。そのせいか内地の日本人の顔付きと少し違ってみえる。人の顔の表情はその社会がつくる。従って違う文化圏に長らく住めば顔付きが違ってくることは当然のことだ。
日本人は知人に合うとなんとか笑顔を作ろうと努める。そのため、日本人の顔は半ば笑いかけたような顔になる。この笑顔を作ろうと努める心理的背景には、他人に出来るだけ気を合せ、他人から異質性のある人と思われたくないという気遣い気構えがある。ウズ社会の中でも笑顔を絶さない人が多く、社訓などにも「いつも笑顔で」と強調されるのもそのためである。
ただ、相手が全くこちらに関係のない人の場合には、その笑顔が引込んでぶすっとした顔になる。これは極めてはっきりしていて、会社の受付の女性にしても自分の会社のお客かも知れない間は半ば笑顔を作っていても、全く関係のない人が紛込んだということが分るとたちまち笑顔をやめてしまう。地下鉄の中や大都市の路上など皆知らん顔していて、ぶつかってもニコリともしなければ、ごめんなさいともいわない。
日本人の笑顔は、気を合せようという気構えのあることを示すサインである。だから合せる必要がないと分ればたちまち消え去る。ほんのお愛想。いみじくも愛想笑いとは、相手に取入るための笑いの意である。
注
(1)小室直樹『危機の構造』『危機の構造』ダイヤモンド社 一九八二年 十七頁
(2)『日本経済新聞』昭和六二年六月一七日
(3)近藤いね子他編『小学館プログレッシブ和英中辞典』小学館 一九八七年 三九〇頁
(4)森本哲郎『日本語の裏と表』新潮社 一九八五年
(5)高倉信昭『海外進出の企業戦略』財経詳報社 一九八七年 二七八頁