My Opinion

since April 24,1997
これまで、雑誌、新聞などに発表した意見などを収録していきます。
目次

国際研究協力と創造的技術立国への道(週刊財経詳報1984/6/25)new
国会審議の充実と改善(週刊財経詳報1987/1/26) new
生かせぬ国際経験(週刊財経詳報1987/3/9)new
国際摩擦と休暇(週刊財経詳報1987/4/20) new
なりふりかまわぬ日本でいいのか(週刊財経詳報1987/8/1) new
(1998/4/13掲載)


円高時代への対応(財経詳報1985/11/18)new
羞恥のレベルの低下(財経詳報1986/1/20)new
情報化と自由化(財経詳報1986/3/3)new
 
(1998/4/13掲載)

「良く知らされた国民」への道(財経詳報1985/4/22)new
「家庭は銃後」観からの脱皮(財経詳報1985/5/27)new
正論と賢さと(財経詳報1985/7/8)new
休暇の効用(財経詳報1985/8/26)new
愛社心への歯止め(財経詳報1985/10/7)new

(1998/4/12掲載)


 経済力に相応しい金融・資本市場の自由化を(週刊財経詳報1984/3/5)new
米国による技術情報流出規制問題へ適切な対処を (週刊財経詳報1984/4/2)new
「ジャバントラスト」構想を成功させよう (週刊財経詳報1984/8/3)new
貿易も碁の精神で (週刊財経詳報1984/9/24)
国際化時代にふさわしい教育改革を(週刊財経詳報1985/1/28)new
歩みを緩め、考えるべき時(週刊財経詳報1985/3/11)new
(1998/4/11掲載)

  • 摩擦解消に抜本的な産業構造転換を(週刊財経詳報1983/7/11)new
  • コンセンサス方式で時代に対応出来るか(週刊財経詳報1983/8/29)new
  • 農作物自由化交渉に政治的決断を(週刊財経詳報1983/10/10)new
  • 技術立国は創造性への評価を高めることから(週刊財経詳報1983/11/21new

  • (1998/4/9掲載)

  • 新しい時代へ向けての地域造り(長崎県広報誌LINK1992/3)
  • ボーダーレス時代への対応(週刊財経詳報1989/9/11)
  • Iと私と自己主張(週刊財経詳報1989/10/22)
  • 大本営発表と選挙公約(週刊財経詳報1990/2/23)
  • 言葉の壁を越える壁(週刊財経詳報1990/3/18)
  • 豊かさにおぼれない教育(週刊財経詳報1990/5/6)
  • 政治三流の証明(週刊財経詳報1990/6/17)
  • 公共投資に利用者の視点を(週刊財経詳報1990/7/30)
  • 本性の確認と反省こそ急務(週刊財経詳報1990/9/13)
  • 世界に通じる言葉の欠如(週刊財経詳報1990/10/29) 
  • 余暇について(週刊財経詳報1990/12/10)
  • ルール違反と手段としての戦争(週刊財経詳報1991/2/12)
  • 共存共栄の思想(商工金融1988)
  • 国際研究協力と創造的技術立国への道

    (週刊財経詳報1984/6/25)

     わが国は、戦後外国技術の導入とその改良による生産技術の優位性を、バネに自由世界第二位の経済太国にまで急成長し、今もって先進工業国の中で最も安定した経済成長を統けている。現在、世界経済の低迷が続く中で、このようなわが国にたいして、各国はその経済力にふさわしい国際的役割をはたすことを求めている。このような要請に答えるには、わが国が世界に誇れる唯一の資源ともいうべき人的資源の活用による技術開発を通じて、世界の技術革新をリードし、世界経済の成長の核を提供し、もってその牽引者の役割を果たすことこそ最も相応しいといえよう。

     ひるがえつてみると、一九八○年代に入りマイクロエレクトロニクス、情報関連の技術の進歩は、従来の予想をはるかに越え、新素材、バイオテクノロジー等の新しい分野における技術革新の萌芽にも目覚ましいものがみられる。一九九〇卵代に花開くとみられるこれら先端技術の開発を巡って世界各国とも現在熾烈な競争を演じているが、それはこの競争の勝者が一九九〇年代の世界を制するとみられるがらである。

    このように現在は、いわば「技術革新の胎動期」というべき重要な時期にあたっており、今後「創造的技術立国」を目指すぺきわが国としては、各国の後塵を拝さないためにも、これらの先端技術の開発に官民を上げて取り組む必要がある。

     しかしながら、周知のように、今日の技術開発は一層困難性が増しており、優れた研究者や技術情報の国際交流なくして実のある成果をあげることがますます難しくなっている。昔から、発明・発見と国際交流は科学技術の進歩の車の両論であり、国際交流により、異なった文化に根差した異なった発想が火花を散らしあうととろに創造的な着想が芽生え、これが新しい発見、発明を促し、新技術に結実していく。欧米諸国においてはつとにそのことの重要性に着目して国際研究協力を日常化し、外国研究者の招聘事業をきわめて大規模に実施している。わが国の研究者にもその恩恵に浴した人は多い。

     同質性の高いわが国の場合とりわけ国際的な技術情報の交流、人的交流の必要性は高い。したがってこの際、海外からの研究者の招聘事業の抜本的拡充を図り、産学官の研究所において国際的な共同研究を推進する必愛がある。

     これは、サミットにおいて世界経済活性化の観点から国際研究協力に対する要請が高まっているのに応える道であり、わが国自体の創造的研究能力を高める道でもある。

     また、国際的な研究協力は限られた研究開発資源や今後ますます巨額化する研究開発施設の有効利用の点でも意義があるばかりでなく、先端技術を巡る保護主義の台頭を押え、わが国の生命線ともいうべき自由貿易体制を維持するためにはむしろ不可欠な措置ということができよう。また、今後は開発した技術を人類に役にたつ技術として開放することにも意を用いなければなるまい。技術開発とその成果の開放は、技術的障害のブレークスルーを通じて世界経済の活性化に多大の貢献をなすであろう。

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    なりふりかまわぬ日本でいいのか

    (週刊財経詳報1987/8/1)

    最近シュルツ米国務長官から倉成外相宛てに一通の書簡が届いたという。「ベネチア・サミットで会うのを楽しみにしているが、その際は先の訪米で説明してもらった事柄について、より具体的な話を聞かせてほしい」と。

     中曽根首相、倉成外相が四月の訪問時に米側に伝えた「五兆円」の内需拡大策や、三〇〇億ドルの資金還流計画について、その中身をサミットできちんと示すよう念を押してきたのだ。

     実は昨年も日本は「三兆六、○○○億円」の内需拡大筋を国際的に大宣伝したが、民活等で水増しした中身の薄いもので、各国の失望を買った経緯がある。今度は裏切らないでくれと先手を打ってきたわけだ。

     日本を巡る懸案問題を討議する国際会議が開かれたり、政府首脳が外国へ出掛ける度に、いわゆる「お土産」を大急ぎで取りまとめ、なんとかその場を凌ぐのは、今や日本の常套手段になっており、各国に警戒感を深めさせている。いや、すでに大いなる不信を買っている。国際的には一旦約束しながら実行しないことほどに信頼を失う行為はない。しかし、国内にはそれほど深く反省する色が見られない。これは一体どうしてだろうか。

     どうも、日本人の基本的な体質の中に、約束の無視を是認してはばからない面があることが、こうした国際的な局面にも反映しているように思える。

     小さなことでいえば、就職協定をしても、陰では各社とも平気で青田買いをする体質である。毎年脱税で摘発される企業の中にも多くの有名企業が含まれている。商法違反と知りながら、総会屋に金を渡す大企業の幹部もいる。東芝機械は虚偽の申告でココム違反の工作機械をソ連に輸出していた。つい最近ホテルニュージャパンヘの判決か出たが、33人の死者を出した火災も経営トッが営利優先の立場から法の規定を無視し安全対策を意図的に手抜きして引き起こした大惨事であった。

     もとより、法律違反の一切ない社会などありえない。だが、社会的な評価の高い一流の大企業ですら(もちろんその幹部も含め)金儲けのためなら、自社の利益のためなら、平気で法違反・協定違反を犯しかねない体質を持っている点が問題なのだ。

     戦後金鰭けのためなら恥も外聞も捨ててなりふりかまわず生きるという生き方を是認したがためにその習性が今もって抜けず、嘘も方便の生き方が社会の隅々にまで瀰漫している。国会にしても憲法違反とされる一票の格差を最正しない定数のままで頬かむりしている。

     中曽根首相が選挙公約を無視して売上税の強硬突破を図ったのも同じ体質・精神構造に基づくのだろうが、これはさすがに公約違反ということで国民の猛反発を買い廃案に追い込まれた。

     国際的な例を一つ上げれば、今もって日本は動物密輸大国でワシントン条約(希少な野生動植物の国際取引を規制する条約、1973年成立、日本は1980年批准)を骨抜きしているとして国際的な非難を浴びている。

     とにかく、冷静にわが身を顧みれば、上から下までなりふりかまわぬとしかいいようのない、誠に悲しむべき生き方が戦後四〇年たった今も続いている。国際的な信用を取り戻すにはこうした生き方をすこしずつ改めていくよりないだろう。

     さて、ペネチア・サミットも近いがシュルツ国務長官が満足するような「お土産」を持って日本は参加できるだろうか。国際的な信頼をこれ以上失いたくなければ、今回は中身の濃い内需拡大策を練上げ、「なりふりかまわず」実行する以外に手はあるまい。

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    国会審議の充実と改善

    (週刊財経詳報1987/1/26)
    通常国会が再開され審議が始まる。今国会では防衛費のGNP1%枠突破や売上税の導入等をめぐり白熱した討議が予想される。そこで、本当に実質的な審議をして貰うために、二、三注文を出しておきたい。

     まず、予算委員会に全大臣を常に出席させるという無駄を省いていてもらいたい。行政の停滞を避ける意味でも、必要な大臣が海外へ出掛けて外交を進める意味でも大臣を四六時中予算委員会に縛りつける慣習は改めるべきだろう。テレビで居眠りをしている大臣の顔を見ることほど興醒はない。最初からその質間者の討議に関係のない大臣は出席しないでよいことにすれぱそういうことも大方なくなろう。もっとも関係があっても総理以下うつらうつらしているような中身の薄い審議も結構多いが。

     質問者の方にも居眠りさせる原因がある。一般的に勉強不足の質問者が多いからだ。勉強不足なためについ二番煎じの質問をし、重箱の隅をつつくような質問や記憶力のテストをやるような質問でお茶を濁すことにもなる。

    重要なのは国会をもっとフラソクに討議できる場にしていくことだろう。現在では実のある討議にほど遠く、質問する側と答える側とが判然と分かれているのみならず、質問されると役人の作った模範回答を棒読みする大臣がいかにも多い。俄づくりの大臣の俄勉強ではフランクな討議に耐えうるはずがない。
     
     ところでたとえ大臣が棒読みするにしても、そのための準備を関係各省とも国会開催中は深夜遅くまで職員を多数残してやっている。どんなことでも質間されれぱその場ですぐ答えられなけれぱならないというのも問題なら、前の晩どんな遅く入手した質問にも翌日答えなければならないというのも問題だろう。役所に聞きたいことがあれば早めにその質間内容を示してきちんとした回答を貰うべきである。準備不足からのちょっとした失言や揚げ足取りをもって大いなる成果とするのであれば野党側も落ちたものである。

     現在の質問を前の日に示すのは行政側に対するサーピスであるという人もいようが、多くの国家公務員が夜おそくまで答弁づくりのために貴重な自由時間をさいているという現実を見逃してはならない。個人の権利を擁護し、労働時間の短縮や行財政改革を計るべき国会の質間の準備のために労働強化が強いられ超過勤務手当が脹らんでいるというのでは矛盾も甚だしい。国会ではカネや予算の無駄づかいとなると、目くじらをたてる人もこうした面の無駄づかいとなると見過ごす。これはむしろカネ以上に貴重な価値なのであり、国会もコスト意識に目覚める必要がある。超過勤務時間に見合う手当を全額払うことにしたら国庫はたちまちパンクしてしまうこと請け合いなのだ。国家公務貫の個人的犠牲の上で国会審議もなりたっている。

     一方で来年度の予算案の中で国鉄の無料パスや半額が国庫負担という国会議員互助制度などの議員特権は手付かずで温存されているのだ。

     いずれにせよ、実質のある国会討議とはなにかをこの際与野党でじっくり話合って欲しいものだ。単に政府の在り方を批判するだけでなく国会そのものの在り方をもっと真剣に討議してその改革を計って貰いたい。国権の最高機関たる国会が文字通り隗より始めよと範をたれることこそ今重要である。

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    国際摩擦と休暇

    (週刊財経詳報1987/4/20)

     半導体協定違反間題に端を発した米国の対日本制裁措置の発表があっても、世界のどこの国からも同情の声が聞こえてこない。いや、むしろ英国やECそれに発展途上国からもそれに同調するかのような厳しい封日要求が突き付けられている。これまでの不行跡が一挙に明るみにでて、まったく同情を失ったかの観さえある。日本としては、この際、深く反省して対処方針を誤らないようにしなけれぱ、将来に大きな悔いを残すことになろう。

     太平洋戦争で廃虚と化した日本の国土を見た米国占領軍の要員はみな、誰一人として日本が再び米国に対して、なんらかの挑戦を行うときが来るなどとは夢にも考えなかったという(R・クリストファー『ジャパニーズ・マインド』)。それが半世紀もたたぬうちに自由世界第二の経済大国として様々な分野で米国に挑戦している。まさに奇跡以外の何ものでもない。

     だが日本人の多くはこの現実に昨今ではいささか慣れすぎてしまい、これまでの発展の多くを米国を中心とした先進工業諸国の提供する国際的な公共財に依存してきたことを忘れている。世界の各国が日本は自国が日本から受ける以上の利益を受けている、という意見を持っている。いわゆるフリーライダ−論であるが、日本は残念ながらこれを完全に論破できない。率直にいって日本の国際社会への貢献度はまだ決して高くない。

     日本は経済大国になるにつれて、やや傲慢になつた、世界の世論に素直に耳を傾けなくなったともいわれる。世界各国はこれまで日本に対して口が酸っぱくなるほど輸出一辺倒の経済発展体質を改め、早く内需による成長路線へ切り替えるぺきだと警告してきた。しかし今もって国会も政府もこれに真剣に取り組んでいるように見えない。

     財政再建は重要だろうが今後の長期的なわが国の発展を考えれば世界から反発を買う政策を維持するのは得策ではない。また経済界も輸出依存体質を改めようとする気運に欠け、円高が急速に進んでも合理化による輸出価格の切下げで対応するばかりで、相変わらず、国際経済環境が厳しくなつた、「もっと働け、働け」の掛け声が幅をきかし、賃上げも極力押える方向で事態に対処しようとしている。これでは内需拡大は期待できず、これまで以上に各国の報復措置を引き出しかねない。

     さて、ゴールデンウイークも近いが、世界からの働きすぎの非難に応える意味からも、内需の振興を図る上からも余暇の在り方についてこの際真剣に考えてみてはどうだろう。日頃の労働がやれ残業だ接待だと厳しいことも手伝って普通のサラリーマンの余暇の過ごしかたのトップは依然としてテレビの前でのゴロ寝である。これでは内需拡大には結び付かない。

     一方で、天下公認で休める正月とゴールデンウイークとお盆には行楽地には人が溢れれ、高速道路という高速通路が車で数珠繋ぎになる。ところがウィークデイになると行楽地はガラガラ。したがって時間当たりの行楽の生産性はきわめて低い。労働生産性の方は世界の最高水準なのに余暇の生産性は利用する側も利用される側も決して高くない。有給休暇が自由にとれしかも完全に消化できる体制が確立されていないのがその大きな要因である。

     余暇というと一見些細に見えるが、余暇を含めた生活様式の改革を真剣に考えない限り、従来通りの公共投資一本槍で内需拡大を図るのはすでに難しい時代になっている。

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    生かせぬ国際経験

    (週刊財経詳報1987/3/9)

     経済活働の国際的な広がりに伴い海外で生活する人も増え、国際結婚も増加した。ところが得がたい国際経験をして日本へ帰ってきてもそれがほとんど生かされない。生かそうにも寄ってたかって足をひつぱられる。そこでたちまち出国前の古い日本人に戻る。それがまだ悲しいながら日本の現実のようだ。

     海外帰国子女に対しても、それを温かく迎え入れる土壌が生徒どころか先生の方にもない。むしろ先頭に立って苛める先生すらいる。会社においても同様だ。

     そのためせっかく海外で身につけた人間的ないい習慣も日本に帰るとたちまち捨てざるをえない。定時の退社退庁、長い夏期休暇にしても率先して持ちこもうとすると大きな抵抗に合う。海外での経験を話すだけでも、海外かぶれ扱いされる。

     海外では人間らしい生活をしてきた人も、こうして日本に帰るや毎晩接待等で12時か午前1時の帰宅となり、週末のほんのわずかの自由時間を奥さんと子供とに取り合いされる生活に逆戻りする。日本では、会社は家庭から主人を奪ってしまう怪獣だ、と「日本人の外国人妻の会」の山内クレア会長がいうのもむぺなるかな(日本経済新聞一1987/2/28〕。

     日本に帰ると主人はたちまち日本的になってしまうと奥さん連中が嘆くことになるのも、日本の社会が異質の者を排除する論理でなりたっているからだ。皆一緒でないと日本人は気がすまない。一人でも異質の者が紛込むと寄ってたかって同質化を図る。いうことを聞かなければ除け者にし組織の外に追出してしまう。このため組織は上から下まで金太郎飴のごとき同質の者だけの集団に化す。しかもこの集団はいまだ滅私奉公の世界である。こうして人間らしい生活が送れるのは海外にいるときだけという逆転現象が生じる。

     中曽根首相の知的水準発言にはしなくも現れたように、日本は単一民族で、同質の者のみの集団のゆえに他国より優れているという思い込みがある。このため異質の者や、他民族に対して思いやりや配慮を欠く。日本が世界のリーダーになりえないのはそのためでもある。世界はそもそも異質な者の寄集めなのだ。アメリカが世界のリ−ダーたりえるのはアメリカそのものが多民族国家であるため、多種多様な民族の痛みに対して常に目を開いているからに他ならない。

     中曽根首相の知的水準発意はその意味でも世界のリーダーとして不適格性を世界に示したひとこまであった。同首相は決して日本では例外的人物ではなく文字通り日本人の代表釣人物であり、むしろ国内では国際派として通っている。ここに「単一民族国家」を標榜する日本人の限界がはからずも露呈している。

     日本が経済大国になり、政治的リーダーシップを要求される局面も今後増えようが、「単一民族国家」であることはその際決して利点ではなく、むしろ大きな不利であることを肝に銘じなければなるまい。海外から帰国した人や国際結婚をした人々の経験が生かされないようではわが国の国際国家への道は遠く、世界のリーダーの一角を占める見込みも薄い。

     国際経験の豊かな人にとっても住み易い国にするために、会社や学校の在り方をも含めて様々な面で考え直さなければならない。もしそれができなけれぱ、日本の国際化は失敗し、今度は逆にその余りの異質性や開鎖性のため世界から排除されることさえ起こりえよう。いずれにせよ、今日の日本のように、あらゆる異質牲を排徐し、自国民のことしか考えない国の繁榮は決して長続きするまい。

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    円高時代への対応

    (財経詳報1985/11/18)

     各国の政府・金融機関の連携プレーで円高・ドル安がようやく定着しそうだ。たた、ドル高時代から経済のファンダメンタルズはそれほど変わったわけではないので、まだまだ油断はできない。引き続き日銀や関係諸国の積極的な円高維持策を期待したい。
     
     今回の円高誘導が急速過ぎて企業の対応が離しいとの批判もあるが、それほど望み通りの段階的な円高誘導などできるはずがない。日米の貿易不均衡はじめ通商摩擦の元凶とされてきたドル高が、おそまきながらようやく取り除かれようとしている。むしろ大歓迎しなくてはなるまい。円高・ドル安がただちに現在の巨大な貿易イソパランスを解消するものではないにしろ、黒字解消の第一条件であることは疑いない。これなくしてはほかのいかなる勢力もしょせん無駄骨を折るに等しい。ただ、円高直後はJカーブ効果が働いて一時的には黒字幅が拡大しかねない。その結果貿易摩擦がさらに激化する局面も予想される。そのような場合にも円高維持のスタンスを堅持し、相手国にしぱしの猶予を求めながら、白らは積極的な内需拡大策を実施することによって輸入の拡大による貿易収支の均衡を一日も早く達成しなければならない。

     今後、短期的には輸出の伸悩みと内需の不足のために需要の減退が予想されるが、これを出血輸出などの安易な輸出依存で乗り切るようなことは厳に慎まなければならない。これからは輸出には輸入がつきものとの認識の下で企業は行動する必要がある。輸出さえすれぱいいという態度はもはや許されない。

     いずれにせよ、わが国経済はこれまではきわめて恵まれた環境にあり、それこそさしたる手を打たないでも、円安・ドル高を背景とする輸出の高い伸びに支えられてかなり高めの成長が可能であった。しかし、九月末以来ドルの独歩高が解消し、円高に転じるとともに局面は一変した。

     ただ、これがいわば正常なのだ。今後はこうした厳しい環境を前提としつつ適正な経済運営を図らなければならない。米国はじめ各国とのバランスに配慮しつつ、迷惑をかけない範囲でぎりぎり高い成長率を達成することがこれからの政策課題だ。諸外国からヒソシュクを買ってまで高い成長を追ってはならない、いや、そういうことはしょせん長続きせず、今回と同様の大きなしっぺがえしを食うことになる。

     翻って考えれば円高はわが国にとって基本的には望ましいことだ。円が高く評価されるということは、わが国の国力が高く評価されることに等しい。円高時代こそわか国の体質を外需依存型から内需依存型へ切り替えていく好機だ。早く外需依存体質から脱しなければ通商摩擦が激化しわが国の生きる道が極度の制約をこうむることになりかねない。現在はこれまでの恵まれすぎた時代から正常に戻りつつある時代であり、こうした厳しい制約の中で健全な経済運営をなしうるよう、まさに知恵を絞るべき時代なのだ。

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    情報化と自由化

    (財経詳報1986/3/3)
     情報化時代といわれ、各種のニューメディアが鳴りもの入りで喧伝されている。NTTのキヤプテンシステムもその先駆けとして華々しくデピューしたが、思惑からほど遠い業績という。原因は金を払うに値する情報の不足に尽きるようだ。

     今日巷には、情報が溢れている。したがってそういう情報に比べ一段と価値の高い情報でなければ、わざわざハードのシステムを買い、キーボードを叩き、金を払ってまで手にいれようと誰もしない。これはその他のニューメディアにも当てはまる。日本人はソフトよりも常にハード先行型でことを運ぴ、ハードが整備されればソフトは後から付いてくると考えているようだが、それは本末転倒だ。現在INS網やVANの整備、ニューメディアコミュニティ、テレトピア構想等に熱を上げているが、これらはいわぱ、高速道路網のようなもので、それに乗せる価値のある情報やソフトウエアが開発されたいかぎり、ただのどんがらにすぎず、たとえどれほど技術革新性の高いニューメディアであろうと、それ自体は一文の価値もないのである。

     なぜ、価値ある情報が開発されにくいか考えると、価値ある情報を生み出そうとすると各種の政府規制に全部引っ掛かることに気付く。金を払い、ニューメディアという即時牲の高いシステムを利用してまで欲しい情報とは、まさしく即時性があり、かつ、きわめて個別性の高い情報でなけれぱならない。

     売れる情報の一例をあげれば、たとえば、九州の実家の葬式に急に行かなけれぱならなくなったとする。まず、飛行機の確保。どの社のどのルートで飛へば一番早く一番安く現地につけるか。空き席があるのか、ディスカウントの航空券はあるのか。これから飛行場までタクシーで駆けつけるとして、一番安いのは?その前に香典代と旅費に、現金が三〇万円ほどいる。借りる期間は次のボーナスまでとして、一番利子の安い金融機関はどこか。遺産として土地、家屋、現金が手に入ったが、これをどう資産通用したら一番有利か・・・等々。この種の情報なら少々金を払ってでも買う、だろう。ところが、現在ではこの種の公共運賃や金利は大方許認可の対象になっていて、どの社もみな一律か似たりよったり。これではわざわざ、ニュ−メディアに頼るまでもないということになる。

     このように売れる見込みのある情報は現在大方規制の対象になっている。情報化を図るということは、今日の統制的な一律主義を改め、社会システム自体を自由化していくことと不可分なのだ。価値の高い情報の発生源はがんじがらめにしておきながら情報化を進めようというのは、入口を封鎖して高速道路を作るようなものだ。

     電気通信事業の自由化ももちろん大切だが、ニューメディア熱に浮かされる前に、社会システムや情報自体の自由化についても関係者に一考してもらいたいものだ。

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    羞恥のレベルの低下

    (財経詳報1986/1/20)

    国会で議員定数の改正問題が議論され始めて久しいが、まだ解決の目処は立っていない。最高裁の違憲判決を受けただけでも国会の権威は薯しく損われたのたが、その善後策がすぐとれないところに、日本の文化的な限界が感じられる。国権の最高機関である国会が、違憲状況にほほかむりしうるのは、日本人の恥を感じるレベルが低下したことをシンボリックに示していると思われるからだ。

     日本文化は恥の文化であるといわれていたが、今やその伝統は失われたようだ。思いやりの欠けた、尊大と厚顔無恥がとって替ろうとしている。どこを見ても、公共の利益や公正さよりも、個人的な利益や、自分の属する組織の利益が優先している。人々は恥を忘れ、自らの利益獲得に汲々とし、自分の組織のために恥をぶ。恥知らずの汚名も、組織や派閥や国のためということで癒されるかのようだ。

     白已の栄達や保身のためなら、憲法に違反していようが反対する。会社のため、商売のためなら腐敗した政権にも取り入る。裁判所で偽証もあえてする。これらはすべて恥知らず以外の何ものでもないが、それらを容認するのが悲しいながらわが国の現実のようだ。

     常日頃汚いことぱかりやっていると感覚が麻痺して、汚いことが汚いとして感じられなくなる。異常とも思えなくなる。周りがみんなそういう人ばかりだと、自分がそうしないのが損に見えてくる。その結果、国際的に見て常軌を逸していても気付かなくなる。

     人間の内実が自ずと外部に現れるように、国内の恥知らずは自ずと国際関係にも現れる。今日日本の通商摩擦に対する対応振り一つについてもいつも後手後手で誠実さに欠け、ことあるごとにアンファアといわれ、経済的成功を鼻にかける日本人の尊大さが近年とみに指摘されるようになったのもこのことと無縁ではあるまい。

     恥を感じるレベルは人によって様々だが、その人の属する社会の文化によって規定される。国としての恥の意識もその国の文化の水準にかかわっている。国も様々であり、恥を感じるレベル、対象は当然国により異なるが、国際的な常識から余り外れると顰蹙を買う。そういう国は、国際的な信頼をかちとりえない。むしろ、尊大であるとして、忌み嫌われる。

     「衣食足って礼節を知る」という諺があるように自由世界第二位の経済大国で毎年石油危機直後のOPEC並みの悪字を稼ぐ国が、かつての貧乏小国時代と同じ振舞いをしたのでは各国から総スカンを食う。ところが今や日本は飽食飽衣の時代であるが「衣食ありあまって礼節を忘れる」国になりつつあるようだ。

     国際的にも、日本が礼節のある国として考える国は益々減っている。マルコス政権と結び付いた汚い商売にも多くの商社が手を染めていたように、なにかあると、どこにでも日本の汚れた手が伸びており、恥を忘れた振るまいがあったことが露呈してくる。

     戦後四〇年、これまで何事も経済優先で、食うためなら恥も外聞も捨て、手段を選ぱずやってきた。それが今や悪癖となり文化に深く根を下すに至っている。人間らしさや恥を知る心は片隅に追いやられようとしている。この世の中が確かに綺麗ごとだけでなりたつているものではないにしても、もうすこしなんとかならないものだろうか。

     飽食を維持するために恥を忍ぶというのは馬鹿げている。むしろ逆でなければなるまい。飽食からは遠くなっても恥を知る生き方もあることを思い起こす必要がある。

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    「良く知らされた国民」への道

    (財経詳報1985/4/22)
     

     四月九日に発表された対外経済政策は、その中身の評価は芳しくないが、発表の仕方は評判が良かった。

     総理自らが説明用のパネルの前で片手に棒を持ちながら直接国民に向かって噛み砕いたような説明をしたのは前代未聞のことであり、それだけにそのような伝統を持つ海外ではもとより国内でもかなり評価された。日本の総理も世界の民主主義国の首脳並に、国民に直接わかりやすくコミュ二一ケートする必要性を認識し始めたという意味で画期的なことといってよい。

     これまでは、いかなる政策を決めようとそれを国民にわかりやすく説明するという努力がそれほど払われてこなかった。一連の対外経済政策にしても、国民が読んでも分かりにくい表現で書かれており、それを理解することそのものが難しかったし、いわんや政策を決めた背景を理解することはさらに難しかった。今回のように総理自らがこのような政策を決めた背景を説明し、国民の協力を直接求めるというのはその意味でも前進である。今回端緒が開かれたこの方式を今後は慣例にして欲しいものだ。

     民主主義の基本は、政府と国民との間の良いコミュ二一ケーションである。これまではその面の配慮が余りにも乏しかった。アメリカのレーガン大統領にしても、しばしばテレビを通して国民に直接話しかける。サッチヤーやミッテランもしかり。

     彼等が来日したとき、あらゆる機会を利用して日本国民に話かけようとしたことは記憶に新しい。そのなみなみならぬ話術のさえに驚きを禁じえなかったのは筆者のみではあるまい。分かりやすい言葉で明確に自らの考えを説き明かす、その堂々たる態度にさすがは民主主義国家のトップであると感服させられたものであった。

     それに引きくらぺ、これまでの日本の政治家はそのような努力が足りなかった。今回やっとその端緒が見えてきたように思える。何も説明しなくても怒らない国民としてこれまで放っておかれた国民の中には、今回のやり方もいわぱ苦しい時の神頼みと同じではないかとして、余り高くかわないものもいる。確かに、いつも国民を良く情報を与えられた状態におく努力抜きに、このようなことを突然やっても効果は薄い。常日頃から総理が国民に直接話しかけているのでなけれぱ、むしろ不信が先に立つ。

     人間関係でもそうだが、やはり日常酌な付合いがあればこそ、一肌脱ごうかという気にもなる。今後は政府と国民との問のコミュニケーションを深めるための勢力が様々な面で必要である。何といっても、「良く知らされた国民」(informed public)の方がいざというとき頼りになることは歴史が証明している。

     そういう方向へ努力することが、諸外国が求める政策や政策決定過程の透明性の確保にもつながるものであろう。いずれにせよ、政策を密室で決め、ある目突然分かりにくい表現のまま国民に押し付けても、国民の協力は期待しがたい。

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    「家庭は銃後」観からの脱皮

    (財経詳報1985/5/27)

    太平洋戦争中、米軍が戦闘の合間にテニスをしているのに日本軍は大いに驚いたという、事実米軍はテニスもし、ダンスもし、休暇もとった。日本軍のいる島への艦砲射撃も夕刻には止め、たっぷりとした夕飯を取り、夜は十分寝て、翌朝また猛然と再開した。

     一方日本軍はテニスどころではなく全員戦闘にかかずり合い、昼間はもちろん夜も夜襲作戦で忙しかった。補給が不十分だったからろくなものも食えないうえ、寝るのを忘れて戦闘に打ちこんだので、体力の消耗が激しく、多くの兵士が戦闘よりも病によって一命を失った。

     戦闘の合間にテニスをする米軍が信じられなかったように、会社勤めの間に「息抜き」をすることが今もって日本人にはさほど良いものとは信じられていない。というとそんなことはない、今や余暇の大切さが広く認められ、大型連休中の人出は大変な数だし、日本にも確実にレジャー文化が定着したという反論が返ってこよう。

     果たしてそうか。先進工業国のなかで今もって週休二日制が定着せず、有給休暇ですら完全に消化されず、労働時間は他国に比べ年間三〇日以上も長い。戦闘のためには一切を犠牲にし、戦闘に役立つもののみ認めた精神構造は今も変わったとは思えない。レジャーにしても、会社勤めに役にたち、それに支障のない範囲という制約がある。

     だから一斉連休ならともかくめいめい別々にとる長期休暇等もっての外だ。寝食を犠牲にして戦闘に没入したのと同様、一番大切な会社のためならば、たとえ結婚記念日だろうが残業もし、同僚との融和や接待のためには午前様も辞さない。家庭やレジャーは二の次、三の次、職場に自分の家庭やテニスのことを持ちだしてはならず、持ちだすようでは会社兵士として失格だ。

     その後ろで、家庭はこれらの会社兵士の銃後として黙って耐える。耐えるものだとの暗黙の前提がある。今もって「欲しがりません、勝つまでは」が生きている。しかし、いつになったら「勝つ」のだろう。世界第三位の経済大国となり、貿易黒字がこれほど巨大になっても未だ勝つたといえないのだろうか。そのうち負けることにならぬとも限らない。

     近年、中高年夫婦の離婚が増えている。昭和四十五年に比べ五十五年は倍以上だ。しかも妻からいいだす例が増えている。その多くが夫婦間の心の結付きの稀薄さが原因という。

     夫を夜遅くまで職場に取られ、結婚生活とはいいながらほとんど心の通った会話もなく、家庭には寝に帰るだけ、共通の価値観も人生目的もない夫に、妻の方が辛抱しきれず、ある日突然三下り半を突き付けるのた。

     日本軍が補給や情報や銃後を軽視し、戦闘だけにかまけて、結局戦争に負けたように、短期決戦ならともかく、これから長期的な戦いをしなければならない以上、こうしたロジスティック無視のやり方では日本の経済とてそれほど長くは強い戦闘力を維持できまい。今やむしろ家庭を戦争中の銃後同様、いかなる無理もしわ寄せしうるとの考えを改めるべき時期であろう。家庭あっての会社であり、縁済なのだ。離婚による家庭巌壊後の男性の自殺率が女性の六倍にも遠していることを忘れてはなるまい。それに職場神経症も多発し、職場での人間関係などの勤務問題を理由とする中高年男性の自殺もここ五年で倍増しているのだ。

     少し兵士たちを休ませ、家庭へ帰してやる必要がある。高齢化社会はもうそこまで来ている。

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    正論と賢さと

    (財経詳報1985/7/8)
     今年に入り、日本の史上最高の大幅経常収支黒字幅を背景として、米国議会の対日報復決議やアセアン諸国の対日批判、EC首脳会議の日本を名指しで非難するコミュニケの発表など、通商問題を巡りわが国に封する世界各国の風当たりはかつてないほど厳しい。

     それを緩和する意図で、日本政府は六月二十五日市場開放行動計画の一環として一、八○○品目の関税引下げ案を発表したが、国内的な事情で必ずしも各国の要望に沿う内容とはならなかった上に、経常収支は依然として大幅黒字が続いているため、名国の非難はいっこうに収まりそうにない。

     今月末に発表が予定される包括的な日本の行動計画の内容がよほどドラスチックなものにならない隈り、これら諸国の不満を解消することは難しそうだ。

     しかし、行動計画はそれほどドラスチックなものになりそうにない。関税引下げのプロセス内容を見るかぎり、まだ、真の国益よりも個別業界の利益や国内的事情が優先され、現在の日本の置かれている危機的な状況に対する認識が十分あるようには思えないからだ。この期に及んでも、まだなんとかなるさといった、楽天主義がはびこっている。

     一種の甘えと聞き直りである。甘えというのは、日本がすでに自由世界第二位の経済大国であるにもかかわらず、今もって経済小国時代の生き方をすることを認めてもらお弓とする甘えである。一人前の大人になったにもかかわらず、まだ学生気分が抜けず、学割の通用を認めよと甘えているのだ。開き直りというのは、国内的な事情の許す限りのことはやったのだ、それほど各国の要望に屈するわけにはいかない、これで不満ならば、どうにでもしてくれよ、よしんばこのため国全体がおかしくなろうと自由貿易体制にひびが入ろうと、それは知ったことではない、それはそのときの問題だという態度である。

     確かにわが国の大幅黒字は、わが国だけの責任ではなく、高い米ドルにも責任はあるし、わが国はすでに世界一の低い関税国であり各国の売込みの努力が足りないことにも原因はあろう。短期間に解決できる間題でもなく、わが国のみを叩けばすむ問題でもない。それゆえ、わが国としても正論で反論すべしという主張も繰り返されてきた。しかし、よしんばそれが正論であり、この正論で世界各国を黙りこませたところで、自らの生きる道を完全に閉ざすことになるというのがわが国の置かれている現実である。

     どうみても自由貿易体制が日本の利益のみにしかならなけれぱ、わざわざ自らの市場を日本に開放し統ける国がなくなるのは目に見えている。日本はどう転んでも貿易立国にしか活路を見出せない以上、この自由貿易体制は、金の卵を産む鶏である。開き直ってその鶏を殺す愚を犯してはならない。

     世界のなかで生きていくには正論をはくことより賢さが要請される。日本は正しいかもしれないが賢くないという海外紙の批判もある。

     米国議会の決議にしても、日本のやり方は自らの首を締める賢くないやり方であるとして、忠告してくれていると聞ぐべきだろう。忠告に耳を傾ける賢さを失えば、日本の前途には第二次世界大戦前と同じ孤立化の道が待っていよう。

     今月末まで残された時間はわずかであるが、賢いと評価しうる行動計画を期待したい。

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    休暇の効用

    (1985/8/26)
     お盆を中心とした民族大移動のシーズンも終わって、都会には普段の雑踏が戻ってきた。最近、労働時間を短縮することに対する国民の意識も高まってきて、夏休みの日数もほんのすこしながら長くなっている。ただ、欧米諸国と比較すると、まだまだ足下にも及ばない。

     なかなか続けて休みをとれず、長くても一週間止まり。そのためお盆にみんなが集中して休みをとることになり、お盆前後には決まって交通機関の大混雑が繰り返される。

     その大混雑の最中、筆者は幸いにしていきかえりの航空切符を手にいれることができ、家族四人で九州の田舎へ帰りしてきた。ほんの短い間ではあったが、今も健在の両親の下に兄弟がそれぞれ配偶者や子供づれで二〇人も集まり、一つ屋根の下で生活をともにし、私たち夫婦も子供たちもそれぞれに忘れがたい思い出をお土産に東京に帰って来た。

     都会にいるとついつい自分の育った田舎の生活さえ忘れがちになるものだ、が暫くぷりに田舎に帰り、思いのほか田舎も便利になっていることに驚かされた。道路も良く整備され、しかもそれほど混まない。どこへも短時間でいける。住宅も見違えるほど良くなりスペースもかなりたっぷりとしたものが増えている。文化施設や福祉・体育施設等も充実し、経済大国の恩恵が田舎にも及んでいる。

     にもかかわらず、田舎らしいよさというものも十分残っている。日中の温度はかなり高いが、爽かな風がそれをさほど感じさせない。緑が多く蝉の声がうるさいほどだ。海水浴揚に行ってもそれほど混みもせず、水も澄んでいる。夜になるとそれこそ満天の星。新鮮な野菜や魚。新鮮であることたけで驚くほどうまい。それも東京に此べると格段に安い。

     もちろん田舎の生活がいいことずくめではないにしても、都会の人間が田舎の生活を、田舎の人間が都会の生活を相互に知りあうということは必要なことだ。そのためには、もっとたっぷりと休暇がとれるようでなくてはならない。十分な時間的な余裕があれば、普段行けないような所へも出掛けていくことができ、新しい知見を増やすことができる。様々な人々とも触れ合うことができ、相互に理解しあえる。時間的な余裕がないとどうしても、十分な理解に達せず古い通念や先入観でものを見ることになってしまう。

     私たち一家にとってはかつての外国滞在時代の長い夏期休暇がどれほど貴重な多くの経験を味わせてくれたか想像以上のものがある。その体験を通していえることは、長く休暇をとることによってしか味わうことのできない種類のことが、想像以上に多いということだ。

     仕事の合間や短い休暇を精一杯利用して分かったつもりになっていても、本当には把握できない種類のものがそこには潜んでいる。

     普段の生活では味わえない体験をするということは、子供だけでなく大人にも必要だ。いや大人こそ必要だ。会社人間が会社から解放され、生活の幅を広げることが精神生活の安定と充実につながり、文化の幅を広げ創造性を増す原動力になる。新しい生活の仕方が新しいニーズやサービス需要を産みだし、これが内需増大にも結びつく。そのためには十分長い休暇をとれるようにする必要がある。

     のんびりと休暇を楽しめると、こんなことをとりとめもなく考えるようになる。こういうことを考えるようになることこそが、休暇の効用というものであろう。

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    愛社心への歯止め

    (財経詳報1985/10/7)
     マンズワインの有害物質(ジエチレン・グリコ−ル)入りワイン事件は、ついに操業禁止、司直の手が入るという事態にまで立ち至った。安全広告を出した後に、毒入りパルク・ワインの混入がわかり、ひそかに回収に走っていたうえ、輸入パルクのタンクを国産品とスリ替えるということまでやっていたというのだ。

     これが「高くついた愛社心」という形で報道されたように、世間にバレるまで口をぬぐって隠し通そうとしたのも、おそらく、旺盛な愛社心のあらわれなのであろうが、ここまでくれば愛社心も明らかに行き過ぎで、反社会性を帯びる。

     日本企業の強さは、いうまでもなく従業員の旺盛な愛社心に依存している。これがまた戦後の日本経済の成功の礎でもあった。しかしその反面、旺盛な愛社心は、今回のような事件を惹き超こしやすい土壌をも形成した。滅私奉公の精神で、私を殺し、公たる会社のため全身全霊を打ち込むことこそ愛社心の発露とされ、奨励されてきたため、社会的な常識や法律による規制の枠を踏み外してまで、会社のため尽くすことをよしとする精神が、知らず知らずのうちに、抜きがたい体質として多くの企業にしみつくに至っている。今回のワイン事件は、はしなくも輸入バルクに依存しながら、あたかも純国産であるかのような表示を行う、詐欺マガイの商法をおくめんもなく続けていたワイン業界の体質をも明るみにしたが、このことは上述のことを裏付けるものだ。

     しかし、こういう体質は決してこの業界にのみ特有のものでもなく、日本的組織には多かれ少なかれつきものといってよい。その根はいずれも旺盛な愛社心に求められるのであるが、自分の会社や業界を愛する心が、多くの国民をあざむくことを歯牙にもかけない精神と表裏一体となりやすいところに問題がある。自分たちが損さえしなけれぽ、多くの人々が迷惑をこうむっても構わないというのでは、自分勝手もいいところ、社会性の欠けた幼児酌精神構造といわれても仕方がない。

     こういう精神構造が、現在の通商摩擦への日本の対応にもあらわれている。ここでも、旺盛な愛社心、愛業界心、愛省心が、世界の迷惑や、長期的なわが国の利益を無視して、大手を振って闊歩している。パレるまで口をぬぐって隠し通そうとするのと同じ精神構造が、これまで策定された数次にわたる対外経済対策にも反映している。

     これでは、どれほど多く対策を策定しようと効果があがらず、通商摩擦がますます激化しても不思議ではない。

    ”外旺“がかかるたぴに、ただちに”安全宣言”をするが、次々と毒入りパルク・ワインの存在が明るみになり、あわててあらたな対策に走り回るのと同じようなものだ。

     旺盛すぎる愛社心も、愛省心も、愛国心も進むべき道を誤らせがちなものだ。今後は、その限界をわきまえ、むしろ適切な歯止めをかけることにこそ意を用いなければなるまい。

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    経済力に相応しい金融・資本市場の自由化を

    (財経詳報1984/3/5 )
    二月二十三目、二十四目の両日第一回日米円・ドル委員会が開催された。その成果は、会議後のスプリンケル米財務次官の次ぎの言葉に要約されている。

    「米国に次いで世界第二位の経済規模に成長したにもかかわらず、かなりの障害が残っている。当惑を感じざるをえない」(日本経済新聞二月二十五日)。

     これまでわが国が、金融・資本市場の自由化に当たって示してきた態度は、世界経済の中できわめて重要な座を占める大国としてのそれでなく、むしろ世界から孤立した小国の、国内的配慮のみを優先した振るまいというに等しかった。わが国は、自国の金融・資本市場の自由化を進めぬまま、世界の他の国々の市場化にょってえられるメリットだけは精一杯利用して、世界第二位の経済大国にのし上がって来た。そうしたこれまでの政策のツケ、が今、「当惑を感じ」させるほどに、自由由化の遅れた金融・資本市場としてわが国市場がとりのこされていることに繋がっている。この当惑は恐らく米国のみの当惑に止どまらず、今やわが国の政策担当者の当惑でもあるだろう。

     これまでのわが国の金融・資本市場の自由化は長期的な政策や方針が先にあったのではなく、常にいわぱ先行する事態への後追的な容認に近いものであった。その脈絡からすれば、一九八五年は金融自由化の一つの転換期が好むと好まざるとにかかわらず訪れるものと考えられていた。それは、一九七五年以降大量に発行された長期国債の満期別構成がここ二〜三年の内に漸次中、短期化し、それが市場実勢による投資物件として巨大なオープン・マーケツトを形成し、八五年は、短期・長期市場において市場メカニズムが重視されざるをえなくなると考えられたからである。ところが、ここにきて、余りにも立ちおくれたわが国金融・資本市場の自由化に業を煮やした米国が、早急な自由化を迫って来たわけである。

     大蔵省は、第一回の委員会の結果を踏まえて、おが国金融・資本市場の自由化について総合的な計画づくりを急ぎ、結論のでた自由化策は三月末の次回委員会に示す考えと報じられている。

     願わくば、従来のような国内的配慮を優先するあまり、これ以上世界の国際金融界から取り残されるような計画だけは作ってもらいたくないものである。金融・資本市場の自由化の遅れは、将来の日本経済にとって重要な分野たる金融部門の発展にブレーキをかけるだけに止どまらない。貿易・投資・援助の諸側面において主導的な地位に立つべきわが国が、世界の金融・資本市場においてその経済力に相応しい役割をはたすことが出来ないいぴつな姿を示すことは、わが国の今後の発展そのものを阻害することになりかねないのである。

    週刊財経詳報1984/3/5号
     

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    米国による技術情報流出規制問題へ適切な対処を

    (財経詳報1984/4/2 )

     技術を制するものが世界を制する。近年とみにこの認識が高まって来た。その背後には、米国の技術力の相対的な低下がある。

     米国の技術力が、他国に比して、圧倒的に高い時代には、そんなことがこと改めて問題にされることとてなかった。ところが、米国を代表する鉄鋼、自動車産業の国際競争力の低下に引き続き、日本の追上げでマイクロエレクトロニクス分野においても、その競争力の減退が誰の目にも明らかになるに及んで、その認識がにわかに高まった。

     自由世界の守護神を任ずる米国にとって、とくに兵器と直結する先端技術分野での卓越性の動揺は、政治的に大きな衝撃であった。これが国外への技術情報流出規制を実施する大きな契機となった。

     米国のナショナルセキュリティの失墜は、自由世界全体のセキュリティを損うとの認識がこの措置の背景にはあり、それは恐らく正しい認識であろう。

     しかし、今や、一国による世界制覇の時代ではなく、自由世界全体が結束してその繁栄と安全とを守るべき時代であり、技術は自由世界共通の財産として、その実現の原動力とすぺきものである。技術情報の規制は自由世界の技術力の低下を引き起こすことは必定である。それゆえにこそ、自由世界における技術情報の自由な流通を確保することが重要であり、そのために日本としても最大の努力を傾けなければならない。

     周知のように、戦後の日本経済の急速な成長は、国外、とくに米国からの自由な技術導入によってもたらされた。近年日本の海外技術に対する依存度は低下しているとはいえ、決して自前ですべての技術開発を賄えるほどにわが国の技術力は高くない。その意味では、今後とも世界の技術情報が自由に流れ込むようなシステムを確保することはわが国の存続にとって必須条件である。

     昨年末に、米国との間で武器技術供与に間する政府間の公文が交換されたが、米国のわが国にたいする不信の根は、日本は同盟国といいながら、武器技術の供与一つにしてもそれに相応しい振舞いをしていないというところにある。

     つまり、日本はそのもてる技術を米国に供与しないのではないかという危惧と米国が技術を与えれば戦後米国が日本に与えた技術が巡りめぐって今米国の競争力やナショナルセキュリティを脅かすことになったのと同じ事になりはしないかという危惧である。

     武器技術に限らず、日本が米国の欲しがる技術の供与を拒めばそれだけ、米国に技術流出規制の口実を与え、それはわが国のみならず自由世界全体にとっても大きな損失となることを忘れてはなるまい。

     わが国としては、戦後の恩恵にたいする報恩の意味合いもこめつつ、ギブアンドテイクの精神で米国に対応する必要がある。

     この問題に関しては米国の身勝手さを非難する意見も多いが、日本が商売上だけの損得や、あるいは国民の武器アレルギーを口実に、開発した技術の供与を渋るようであれば、自らの身勝手さこそ反省する必要がある。

    週刊財経詳報1984/4/2号
     

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    「ジャバントラスト」構想を成功させよう

    (1984/8/13財経詳報)
    「アメリカにとって最良の産業政策は、寛大な移民政策にある」という説がある。今日の先端技術産業たるエレクトロニクスの分野でアメリカは
    いまなお世界のトップを維持しているが、先端的なマイコンチップの多くは、たとえば世界の論理素子をリードするインテル社の社長がハンガリ−出身であることが如実に示すように海外からの移民の発明に依存するところが大であり、その国籍も、インド、イスラエル、スイス等と多彩であるというのである(TRENDS一九八四年六月号)。
     
     確かに一理ある説である。昔から、秀れた科学技術の発明は、国際的な人的交流や情報交流に依存してきた。逆に、国際的な人的交流や情報交流のないところに科学技術の偉大な成果がもたらされたケースは意外と少ないように思える。したがってこの伝でいけば、創造的科学技術立国を目指すぺきわが国としては、今後大いに国際的な人的交流や情報交流を図らなけれぱならないということになる。とくに独創的な発明を不得意とするわが国としては、異なった文化に根差す異」なった発想の研究着と接触し、いろいろと刺激を受けるということは何事にもまして必要なことであろう。
     
     異なった発想がスパークするところに、新しい独創的な科学技術の発見が生まれるように思える。同一民族、同一言語のわが国の場合、いかに発想が異なっているように見えてもどうしても同質的になりやすくそのため従来改良型の発明は得意としてきた。しかし、多くの技術分野で欧米諸国にキヤッチアップを果たした今日さらに一層の飛躍を図ろうとするなら、海外研究者との交流をさらに盛んにすることは真剣に考慮すべき問題であるように思える。

     ところで親聞報道によれば、通商産業省でそのことの重要性に着目して海外からの研究者を多数招聘するため、新しく国際研究協力ジャパントラストを創設するという。これは、海外研究者の招聘事業に賛同する民間の篤志家の篤志を個人名を冠した公益信託として運用し、その運用益で招聘しようというものであるが、大いに推進すべきものと信ずる。

    しかもこの構想のいいところは、国が財政難の折から一般会計予算に依存せずに、民間の活力にその源資な求めたところにある。

     近頃民間にも公益的な事業のため金を出捐してもいいという人は大いに増えてきている。この四月、京セラの稲盛社長は私財二〇〇億円を投じて、ノーベル賞を上回る五、○○○万円の賞金を秀れた応用科学の研究者三人に毎年授与されることとされた。また、欧米の大学に講座を寄附する大企業も近頃では珍しくなくなった。今後はこのような金の一部をこのジャパントラストの事業にも使ってもらいたいものである。

     米国のNIH(国立衛生研究所)やドイツのフンボルト財団は、いまなお毎年数千人のオーダーで海外から研究者を招聘している。わが国からの招聘者の数は、そのうちいつもトップクラスに位置している。この様な海外からの恩恵を受けてわが国の技術のレベルもここまで来たのである。今後は単なる海外研究者の頭脳利用という立場を離れて、こうした長年の恩恵に対する報恩の意味合いからもこのジャパントラスト構想の成功を祈りたいものである。

     

    貿易も碁の精神で

    (財経詳報1984/9/24)
     

     碁は、日本人の最も愛好するゲームの一つで囲った地の大きさを競いあうゲームなのだが、勝つコツは、相手にも地を与えつつ、自分はほんのすこしだけ余計にいただく所にあるとされている。相手に少しも地を与えまいとして頑張る人がときにはいるけれど、そういう人は大抵負けるとしたものだ。

     これは、国と国との貿易や経済関係にも当てはまるように思える。相手国にいわぱ少しも地を与えないような貿易を長いこと続けていると、結局は相手国にそんな貿易を続けていく気をなくさせ、もう日本とは取引したくないというような所に追い込んでしまう。それでは貿易立国を旨とすべき日本が立ちゆかなくなるのは目に見えている。

     最近、貿易黒字定着論がにわかに脚光を浴びている。今年の通商白書や、経済白書がその論議に火を付けたのだが、とにかく今年の貿易黒字は史上空前のものになりそうであり、ここ数年この様な黒字傾向は変わりそうにないので、これを構造的、発展段階的なものとしてとらえ、黒字分を海外投資に振り向け、世界経済の活性化に役立てようというのである。

     ただ、この議論で気になるのは、当然図るべき内需中心の経済成長への転換の失敗を棚にあげ、外需中心の経済成長を安易に正当化する隠れ蓑に使われかねない点である。貿易も国と国とのつきあいの一種だ。構造的か否かは別として自国は毎年大幅な黒字を計上し、相手国には大幅な赤字を押し付け、相手国をつきあいたくないような心境に追い込むようでは、失敗である。それでは友好関係は築けないし、そんな国は信頼もされまい。米国、西欧諸国のみならず、近隣の韓国、タイ、マレーシア等からも日本非難の声が最近とみに高まっている。

     このように日本の国際関係は、どの繋がりを見ても誠に脆いものでしかない。それはこれまで自分ばかり地を稼ごうというようなやり方を長年にわたって繰り返して来たためである。

     今や、日本の生産技術は、世界のトップレベルに達している。ということは、大抵のものは、日本国内でできるということだ。

     日本から貿易インバランスの解消策の一つとして輸入促進ミッションなるものがこの秋にも米国や韓国へ派遣されるが、ミッションの団員に選ばれた人が嘆くのは、相手国から員うものが何もないということである。これは、わが国が作れるものはすべて国内で作るという政策を取ってきたせいである。

     しかし、それではどだい貿易なるものが成り立つはずがない。日本の最大の輸出製品である自動車にしても、先進工業国はもとより、親興工業国ならもう大抵の国で作れるのである。長続きする貿易の為にはたとえ自国でつくれるものであっても相手国に譲る(地を与える〕という態度が今後はますます不可欠になってくる。それが経済大国のとるべき姿勢のはずである。

     また、ブーメラン効果を気にする余り、技術移転に消極的なのも、いくいくは自らの立場を苦しくしよう。日本が戦後欧米からの技術導入で今日の経済大国の地歩を築いたことはどこの国でも知っているのである。忘恩の国をどこが高く評価するだろうか。

     碁を愛好する日本人のこととて、今後は碁に勝つコツで貿易もやろうではないか。
    週刊財経詳報1984/9/24号
     

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     国際化時代にふさわしい教育改革を

    (財経詳報1985/1/28)
    日本のような資源小国にとっては、自由主義経済圏第二位の経済大国という地位はかなり晴れがましいはずのものである。最近の数字は、一人当た
    りのGNPも一万ドルを超え、いよいよ日本の地位は高くかつ安定的になりつつあることを示しており、日本人の多くはすっかりこの居心地のいい地位になれっこになってしまっている。しかし、ここまで日本が発展してきたのは、国民の努力もさることながら、恵まれた国際的な環境があってのことであることを忘れてはなるまい。

     ところで、日本経済の国際経済に占めるプレゼンスが大きくなるにつれて、日本を巡る国際的な摩擦も大きくなり、かつ複雑になってきた。この様な国際的な問題を旨く処理していかなければ、今日の日本の地位を保っていくことはできない。だが、現在の居心地のいい地位にすっかり安住している国民の多くは、国内的な繁栄の中に閉じ籠っておりさえすれぱ、いつまでも現在の経済的繁栄が続くかのような錯覚に陥っている。

     日本のこれまでの歴史を振り返ると、国内的な事項に専心している限りにおいては、大変な発展を遂げるのであるが、それが旨くいき国際的な強国となり、複雑な国際関係を旨く処理しなけれぱならないような立場にたたされると、なかなか旨くこなすことができすに、行き詰まってしまうことが多かった。太平洋戦争敗戦しかりである。

     近代に至るまで長い間国を閉ざし、一民族一国家を形成してきた日本人にとつて、国際関係というものは多くの場合「複雑怪奇」であり、一筋縄では手に負えないものである。そのため、国際関係をうつちゃっておいてひたすら手慣れた国内事項にのみ目を向けがちになる。その結果、いつも手厳しいしつぺがえしを国際関係から受けるのである。

     さて、最近、臨時教育審議会が設けられたことも手伝って、今後の教育の在り方が精力的に論じられている。教育の現状を見ると、いろんな所に行詰まり現象が見られその手直しが必要なことは誰もがたやすく合点できることである。

     今後臨時教育審議会でも多くの改革察が立案されるであろうが、ただ、その際忘れられてはならないのは、国際的な視野である。国際的ないわぱしがらみのなかでしか生きていけない宿命を持つわが国にとって、真に必要な人材は、国際的な視野を持ち国際的な場において活躍できる人でなければならない。また、国民の一人一人が国際間係の重要性を十分認識しうるような教育が行われなければなるまい。その様な人材を生み出し、生徒の一人一人に国際的な視野をうえつける教育こそ今後のわが国にとって必須である。その様な視野を欠く教育改革案はたとえどのように優れたものに見えようと日本の進路を誤たせかねない。

     明治維新の元勲らが国際関係にいかに細心の注意を払ったかを夢忘れてはならない。明治維新から四〇年後に日本は日露戦争に勝利を収めたが、それからちょうど四〇年後には太平洋戦争に敗れている。それからまた四〇年、日本は今繁栄の頂点に立っている。
    週刊財経詳報1985/1/28号
     

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     歩みを緩め、考えるべき時

    (1985/3/11)
    最近の調査では、日本人の歩く速度は、世界一らしい。歩く速度が早いせいか、経済成長の速度も世界一のようだ。お蔭で今や自由世界第二の経

    済大国となり、毎年大幅な経常収支の黒字を計上するようになった。このままでは、一九八三〜九〇年の黒字累計額はかつてのOPECにも匹敵する四、○○○億ドルの巨額に達するという(興銀試算)。このため、貿易摩擦が恒常化し、今やその対応に追われっぱなしの有様だ。

     さて、世界一の速度で日本人は歩み統け、一体どこへ行こうとしているのか。それが今ひとつはっきりしない。速度を上げるために、多くの国で常識化した週休二日制すら犠牲にしているのだから。

     世界の国々の通常の速度をかなり上回る速度で歩み続ければ(また、続けることが出来れば)、恐らく日本は他の国々を遠く離してしまおう。その先には一緒に語らう相手もいない、孤独の世界が待ち受けているのだろうか。

    生命体のなかに正常な細胞に比べ著しく成長の早い細胞が発生すると、生命体そのものを危険に晒すので、その摘出が図られる。このガン細胞の発生は、正常な細胞とのコミュニケーシヨンの欠如に基づくとの説がある。

     今の日本を称して世界という生命体の中のガン細胞であるという人もいる。これは聞き捨てに出来ない問題であろう。日本の成長は通常の国に比べ異常に早すぎないか。世界名国と円滑なコミュニケーションが行われているか。国際的な摩擦はコミュニケーション不足を示すのではないか。日本という有機体を構成する各細胞間に血の通ったコミュニケーションが確保されているか、など、常に自からチュックする必要がある。たとえば「問題が各省庁にまたがると現場は自分の職場中心の堅い態度になりやすい。そこにネックがあると米側は不満を持っている」(大河原駐米大使一九八五年二月二八日◯◯新聞)との指摘は、その必要性を示唆している。

     最近の英誌エコノミストは、東南アジアの森林資源が危機に瀕しているのは、日本人に責任がある。日本は自国の森林を守るため、将来の環境問題を考えずに、東南アジアの木を大量に輸入していると指摘している(二月八日号)。今後東南アジアで原木を切り出すことが出来るのはマレーシアのサラワク州ぐらいらしい。

     アマゾン流域には、大群を成し、物凄い速度で移動を続ける蟻が住んでいる。その蟻の行くところすぺての生き物が食い殺されてなにも残らない。一匹一匹の蟻には顔がなく、ただ自分たちの群れのために一生懸命働き続けて一生を終わるという。

     現在の日本とアマゾンの蟻とのイメージがタプつて来ないだろうか。確かに早く歩けばそれだけ経済効率は上がる。しかし、どこへ行くのかをしかと考えずに歩き続ければ、自ら破滅の道を急ぐことにもなりかねまい。少し歩みを緩めて、「考えること」が必要な時ではないだろうか。人間が蟻と同列にされるのではあまりにも悲しすぎよう。
     
     週刊財経詳報1985/3/11号
     

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    摩擦解消に抜本的な産業構造転換を

    (1983/7/11)
     
     五月の経常収支も、四月に引き続き大幅黒字となった。この勢いでは、今年度の経常収支の黒字幅は二○○億ドルを軽く突破しそうである。これを背景に、通商摩擦が激化することが予想される。とくに、大幅な貿易収支不均衡の生ずる米・ECとの貿易摩擦は年末にかけて熾烈化しよう。

     この通商摩擦問題は古くて新しい間題で、ここ一〇年来、経常収支の黒字幅が拡大すると激化するというまったく同じパタ−ソを繰り返えしてきた。

     その対策としてわが国ではこれまでも内需中心の経済成長への転換が唱えられてはきたものの、なんらの抜本策が伴わなかったため、その実効は上がっていない。そのため、摩擦が激化すると、緊急商品輸入とか、関税切下げとか、輸入割当て枠の拡大等でお茶を濁さざるをえなかった。しかし、現状では、これまでのような百年一日のごとき対症療法的対策で時を稼ごうとしてももはや手遅れともいえるほど、事態は深刻化Lている。昨今の米欧の新
     
     
     

    聞論調は、明らかに日本のこれまでの十数年に及ぷ「無策」ぶりを非難するものに変わってきており、もう同じ手口ではだまされませんよという強い姿勢がうかがわれる。

     通商国家たるわが国にとっては、この通商摩擦問題は“オイル・ツヨック”におとらぬ大問でモあることを正確に認識したうえで、その解決のため、あらゆる方策を傾ける決意をすべき、今は、その時ではないだろうか。

     日本がオイル・ツヨックに対して示した優れた適応力を、この際、貿易摩擦問題に対しても示すべく、官民あげて必死の努力をする必要があるように思える。その努力を怠れば、西側陣営の一員としての責務を十分果たしていないとの非難をこうむろう。これによって西側陣営に亀裂が生じ、日本が国際的孤立という窮地に立たされるおそれさえある。

     わが国の産業構造は、世界の一割国家となった今も、NICs同様の輸出依存型であり、景気刺激を行うと、まず輸出ドライブがかかりやすい体質を持っている。この体質を改め、今こそ真剣に内需依存型の産業構造への転換を図る必要がある。

     内需振興のためには、これまでの日本人のライフスタイルを変えるぐらいの発想の飛躍が必要であろう。会社人間を是とし、これまで通りの朝から晩まで仕事一辺倒の生活を前提としていては新しい需要の喚起は無理というものだ。もうすでに会社人間の許容しうる空間・時間には、「モノ」にしろ「サービス」にしろギッシリと詰まっている。思い切って、週休二日制や長期夏期休暇制を断行し、残業時間を大幅に縮減するような措置をとれば、国民の生活空間・自由時間が大幅に増大し、新しいモノやサービスを受け入れる余地が生じよう。これが新しい様々な需要を生み出し、日本経済の成長の牽引力となるのである。このことによって国民の生活の質的向上も同時に達成されよう。

    週刊財経詳報1983/7/11号
     

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    コンセンサス方式で時代に対応出来るか

    (1983/8/29)

    今月中旬、新しい経済計画「一九八○年代経済社会の展望と指針」が策定された。関係者の苦心の作であり、その労を多とするものではあるが、正直なところもうひとつ胸に響いてくるものがない。それは、この計画が率直さに欠けると思われるからだ。総選挙向けに厳しいことはすぺて今のところ頬かぷりしたというのであれば、これは随分国民も嘗められたものである。しかし、もう時代は、国民に、いつまでもこの様な大して毒にもならないかわり、薬にもならないような計画をあてがっておけぱすむ時代ではないはずだ。

     従来の計画であれば、高い成長率が、あらゆる国内的な矛盾を覆い隠してくれた。政策の羅列をしておけば、後は高い成長率の中にすべての矛盾が吸収されたのである。しかし現在のように低成長時代ともなると、ほとんど大きくならないパイの配分を巡って、国民各層の利害が鋭く対立する。したがって、経済計画には、その配分の哲学を明確かつ率直に示す義務がある。

     既成勢力や既得権に媚びていては新しい時代を切り拓くことが不可能な時代なのであるから、従来の政策を断固止めるということも明言しなければならない、その意味でこの様な時代においては、新しい経済計画が発表されれば、天下が上を下への大騒動になるくらいでなければ、その有用性は乏しいとさえいえる。

     しかし、今のシステムの中でそんな有用な計画が出来るかということになると、残念ながら「否」といわざるをえない。周知のように、政府が発表するこの種の計画は、民間の委員による審審議会の答申という体裁が取られているが、各省合議というスクリーンに掛けられたうえで公表される。したがって、各省にとって都合の悪いことは、すべて、削られるか文章の手直しが施されている。こうして、国民が今一番知りたいことがうやむやにされることになる。

     今回の計画には数値らしきものがほとんど示されなかったことからも伺えるように、従来型の計画策定の手続きに限界があるのは明らかだ。今後の計画は作成システム自体の見直しというところから手をつける必要があろう。

     国民ばもっと率直に語りかける計画を望んでいる。今後は、従来の官庁間のコンセンサス優先方式では、もはや、内外の山積する難題には有効には対処しえなくなっているとの認識に立って、本当の意味での指針たりうる、いわば薬にもなるかわりに毒をも含んだ計画を作るシステムを作ることこそ重要であり、それこそ計画策定官庁が取り組むべき最重要課題であろう。

     これは現在の政治、行政をも含めたわが国の全社会システムの見直しにつながる問題であり、一朝一夕に達成出来るものではないが、日本の危機管理能力を高めていくためにはどうしても必要なプロセスではある。

    週刊財経詳報1983/8/29号
     

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    農作物自由化交渉に政治的決断を

    (1983/10/10)
     十一月のレーガン米大統領の訪日をひかえて、日米通商交渉がこれからいよいよヤマ場を迎える。中でも農作物をめぐる交渉は、先に米側から大幅な輸入枠の拡大を求める新提案が出されており、それにどう対応するか、日本側は苦しい決断を迫られている。

     ところで、国内では、農業関係者を中心として農産物の輸入自由化に反対する声が相変わらず強い。とはいえ、これまで同様の国内事情優先主義でこの事態に対応しようとするのは長期的に見た場合国益に反することになりかねないように思える。

     農作物の交渉を含め国際的な交渉においては国内の政治力を駆使して、一時的に「勝った」としても長期的にみれば日本にとってきわめて不利な方向へ舵を切ったのと等しい結果になる可能性があるからである。

     国民の多くは日本が戦前、国際連盟の椅子を格好良く蹴ったとき快哉を叫んだのであったが、歴史的にはそれは大きな過誤へ陥る第一歩に等しかったことは今日日本人の多くが認めるところである。

     その当時国際的な友好関係を最優先させるぺきであったのと同様今日においても国際的な友友好関係と自由貿易体制とをわが国は何よりも優先させるぺきであり、これを失えば、日本の前途に直ちに暗雲が立ち込めるのは必定である。相手側の自由化要求をはねつけて快哉を叫ぷのはたやすいが、それによって保護貿易主義の台頭に拍車を掛けることが必然である以上、この際うるものと失うものとの軽重を大局的な観点からじっくりと判断する必要がある。そのためには大所高所からのリーダーシップが必要なのであって、事務当局は技術的な駆引のみにすぺてを委ね、政治的決断を回避することだけは避けねばならない。

     今日の事態がきわめて逼迫している背景には、日本のこれまでの自由化努力が、ほとんど実効を上げなかったために、日本の経常収支の黒字幅が最高の水準に達し、日米間の貿易収支の不均衡がアメリカ側からの再三にわたる警告にも拘らず、今年度過去の最高額を更新しようとしていることがある。

     同様の事態はこれまでも幾度となく生じたのであったが、日本側はこれといった抜本策を講じるでもなく経常収支の黒字幅が減少し事態が改善されたと見るといわぱ一過性の問題のごとく問題を放置してきた。

     仏の顔も三度という諺もあるが、いくら「大国」アメリカといえども踏付けにされれば本気で怒りたくもなるというものだ。交渉にあたって望みたいのは、自由化しても対外均衡の改善にはほとんど寄与しないとか、農業は製造業の犠牲になっているとか、農作物は国民の「生存」に直結するから別扱いにすぺきとかの、国内事情を知った人にしか通用しない論理や、相手側に同じ論理を使われれば直ちに手上げになるような論理を使わないということである。

    いずれにしても、日本側に今や大国の度量が求められる時代になっていることをはっきりと認識する必要があろう。

    週刊財経詳報1983/10/10号
     

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    技術立国は創造性への評価を高めることから

    (1983/11/21)

     技術の重要性にたいする認識が世界的にも最近とみに高まっている。これまでの最大のイッシューであったエネルギー間題が石油の需給緩和によってややその緊迫感が薄らいだ後を受けるような形で、技術への期待が盛り上がっている。

     その背景には、日本の成功がある。資源小国である日本が、世界第三位の経済大国になりえたのは、加工組立産業やエレクトロニクス分野における強い国際競争力の故であり、これが先端技術に根差していることに各国が気付くに及んで、にわかに技術への関心が高まったのだ。

     それに、石油危機にたいして、日本及ぴ各国が石油の消費量を削減し危機の乗切りに成功したのが、省エネルギー技術や代替エネルギー技術を始めとする技術の御蔭であったことも、技術への関心を高めたといえよう。

     このような情勢を背景に、先端技術を巡り先進工業国の間で激しい競争が演じられるようになってきた。

     ところで、通商摩擦を引き起こしているわが国のいわゆる先端技術製品について子細に見ると、残念ながら、わが国の創造的開発技術に基づかないものがそのほとんどを占めている。

     たとえば、ICにしても、原理は外国から導入されたものであるし、しかも日本の有力企業のICが米国企業製品のデッドコピーではないかとして係争沙汰になっている。最近、IBMとの間で決着のついたコソピュータのソフトウエアを巡る争いにしても日本側にオリジナリティが不足していたことに起因するものであったことは明らかである。

     これらのことは、日本は他国で開発された技術の製品化、つまり、生産技術の面では秀れているけれど、自らオリジナリティを発揮する技術、つまり開発技術の面ではかなり弱体であることを示している。

     周知のように、開発技術と生産技術の間には同じ技術とはいえかなり質的な隔たりがある。生産技術はいわぱ解のある問題を解くようなものだ、もちろん解くこと自体が易しいとはいわないまでも、従来の日本式の集団志向型の研究体制で一人一人がすこしずつ改善案を持ちよって努力すれぱなんとかこなしうる。

     ところが、開発技術は、全く解があるかないかさえ定かでないところに自ら問を見付け自ら答えなければならない。まず、設問すること自体に他人と異なる問題意識や独創性が必要なのだ。

     ところで、日本の精神風土には、独創性やオリジナリティを尊重する気風が乏しい。その裏返しとして、他人のオリジナリティを盗用することをそれほど忌避しない。

     同質化を旨とするわが国においては、猿真似も生活の知恵とされ、猿真似しうる才覚がなけれぽむしろ馬鹿にされる。確かにいつも二番手、三番手につけておき他人のオリジナリティを真似するほうがずっと楽ではある。しかし、今後は急速にその様なことを許されるような環境ではなくなろう。

     いずれにせよ、日本が技術立国を目指さなければならないことは、明白である。その意味からも今後は、創造的技術開発のできる風土を作っていかなければならない。現在の物真似を奨励するような学校教育や企業経営から脱して、わが国全体を創造的研究開発向きの体質へ切り替えていくのでなければ、技術立国も絵に書いた餅に終わりかねまい。
     

    週刊財経詳報1983/11/21号

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    新しい時代へ向けての地域造り      

       
    (長崎県広報誌LINK1992年3月号所載
     島原市の出である私にとっては、雲仙の噴火は悪夢そのものだった。

     両親が患ったこ ともあり、その見舞いがてら昨年は四度ほど帰省したが、山紫水明の故郷が、火山灰を かぶり薄汚れ、美しい山容を誇った雲仙岳の山頂には不気味な溶岩ドームが、かさぶた のように覆いかぶさっている。被災した人々の多くは、仮設の住宅で不自由な避難生活 を、いまもって余儀無くされている。島原市や深江町の皆様には心からお見舞いを申し 上げたい。

     この二百年振りの噴火は事前にほとんど予測がつかなっかったため、多大 の被害と、犠牲者を出したが、事前に予測すべき事態を予測できないと、多くの犠牲を 強いられることになるのは、自然界のみならず、人間界でも同じことである。

     というのは、現在、雲仙の大噴火にも比すべき大きな変動が、日本の経済社会に生じ ているからである。その予兆は様々な局面に露出している。しかし、ほとんどは地下の マグマのように隠れていて、その実態を正確に把握するには相当な目利きを要する。こ うした動きを無視して、その上に経済社会を築くようなことをやっていると、いつ根こ そぎ崩壊の憂き目を見ないとも限らない。その時こうむる被害は、雲仙噴火の比ではあ るまい。

     第一の動きは、量的成長時代から、質的充実時代への移行である。今までの経済成長 中心経済から成熟経済への動きと言ってもいい。儲け第一の時代から、生活の充実、精 神的豊かさを追求する時代へ、価値観が大きく転換している。日本は今や経済的には世 界一豊かな国の仲間入りを果たした。従ってモノという点から見れば、世界一のモノ持 ちである。(長崎県の県民所得は日本ではむしろ低い方だが、それでも世界の中では、 極めて高い位置を占めている。)しかし、国民の多くは世界一豊かだという実感がない 、と不平を言っている。

     しかし、考えてみればモノが幾ら増えても、カネを幾ら稼いでも、それだけで、豊か さを感じられる保証がないのは当然のことだ。儲けや目先の損得に心が占領されていれ ば、豊かさを感ずる隙間(ゆとり)もあるまい。世界一の金持ちにはなったものの、周 りが、自然破壊、環境汚染、家庭崩壊、地域社会崩壊、教育荒廃、文化劣位では豊かさ を感ずるどころでもない。この意味でも、ひたすら物的拡大を目指す従来手法の地域開 発はもう終わりにきている。経済的発展と文化との融合を図らなければ人間らしい生き 方は実現できず、豊かさの実感は得られない。

     第二に、モノ・カネの時代から、これからはチエ・情報・知識の時代へと移っていく 。こうした知識・情報が、社会を動かし、価値や富を生み出す経済社会の基本材になる のであるが、カネやモノと違って、有限ではなく、人間が幾らでも生み出すことができ 、しかも、共有し、共用することが出来る。その特性が今後の経済社会の仕組みを大き く変えていこう。その動きに先鞭をつけて取り組むのでなければ、後塵を拝することに なりかねない。長崎県は、経済成長が他の地域に比べ遅れた分だけ、まだ良好な自然や 、空間が残っている。しかも、歴史的に培われた他の地域にはない優れた文化を有して いる。これらを出来るだけ保存しながら、新しい時代に相応しいチエ・知識を土台とす る産業の発達をこそ促すべきであろう。

     第三に、国内中心の時代から、国際化時代へ移行する。いわゆる一国繁栄主義は終息 し、共存共栄、相互依存主義の時代が始まる。地球の環境的な制約を考慮に入れなけれ ばならない時代でもある。その意味でも、周辺諸国に優しい国造りが求められている。 長崎県は、幸い地理的にも、歴史的にも、心理的にも、中国、韓国をはじめ、東南アジ ア諸国に近い。この特質を大いに生かして、大いに国際的に協力・貢献すべきである。 国際的な貢献の先覚的な県になれば、県民の威信も大いに上がり、満足感も得られよう 。技術・経営手法の移転、研修生の受入、市場の開放、共同投資、情報ネットワークの 構築など、幾らでも協力・貢献することはある。

     いずれにしても、長崎県の特質に深く思いを致し、じっくりと計画を練り上げるゆと りが必要だ。対症療法的に、折角の良好な自然や空間や資源(物的のみならず人的・文 化的なものを含めて)を食いつぶしていけば、あまり年月を経ぬうちに、過密地帯並み の荒廃した自然や地域社会、利用価値のないスクラップの類の山ができるだけだろう。

     単に経済的な豊かさを目指すより、住むことに誇りを持てる、従って心の豊かさの感 じられる県造りを目指すべきだ。決して第二の東京を目指すべきではない。東京は経済 成長第一時代の今や遺物であって、朝夕の通勤ラッシュひとつ考えても、まともな意味 では人の住める場所ではない。小型東京を目指す追随型から独自の方向を目指す自主選 択型の県へ、長崎県は先覚的な県になりうる多様性と適格性とを持っている。何事にせ よ、先取りするには勇気がいる。先行者の後に付いていった方が楽に見えるし、安全の ように見える。しかし、先行者自体が行き詰まりかかっているのに気付かず、後を追う のは決して賢明ではないだろう。

    (長崎県広報誌LINK1992年3月号所載)

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    ボーダーレス時代への対応              890911ZAIKEI-KENGEN
     世界的な規模で、経済のボーダーレス化、つまり国境無き経済への動きが、着実に進んでいる。国境という垣根が取り払われ、広く共通の経済ルールが、多くの国で採用され、モノ、カネ、ヒトが国境を越えて、自由に動き回る。日本は、このボーダーレスエコノミーの恩恵を最も享受している国の一つであろう。

     ところが、日本人の意識の中には、日本から出ていくとき、つまり、他国へ入るときには、ボーダーレスの恩恵を享受しながら、他国人が日本へ入ってくるときにはそこにボーダーを設けて、その恩典を享受させようとしない性向がみられる。これは、鎖国政策をとっていた江戸時代の意識の名残である。

     自国が享受している以上、相互主義の観点から同等の恩典を他国にも享受させるのが当然であるにもかかわらず、今もって、鎖国政策を取り得るとの前提での対策・議論が行われている。たとえば、外国人労働者に対する対策、議論がそれである。 

     江戸時代まで日本は四囲を海といういわば鉄壁で取り囲まれた島国であり、容易に鎖国政策を取り得た。陸続きの国であれば、鎖国政策を取ろうとしても、およそ不可能であった。火力の強い国が回りから入って来、干渉する。国境線自体がその都度人工的に変えられる。国境を接しながら独立を維持していくには、戦力を整え、外交に知恵を絞り、絶えず隣国との融和に努めなければならない。隣国との付き合いでは、自国に都合のいいところだけをつまみ食いするわけにはいかない。

     かつての鉄壁の城塞も、ジャンボジェット機や大型外航船の行き交う現在では、陸続きの国の国境とさして変わらなくなった。最近相次いでボートピープルが漂着している。あんなボロ船でも数千キロの海路をやって来れるのである。観光ビザで入国した多くの外国人労働者が不法就労という悪名に甘んじながら日本経済の底辺を支えている。これらはわが国にとって初めての経験だが、政情が不安定な国や、経済力の弱体な国と国境を接していれば、これが常態というものであろう。

     中国すら逃げ込んだ多くのベトナム難民を抱えている。シンガポールにも五万人ものベトナム難民がいる。にもかかわらず、この富める日本が、今もって江戸時代同様の鉄壁の国境があるかのごとき錯覚のもとで時代遅れの対応をしようとしている。

     最近行われた日米構造協議においても、いわば日本がアメリカ国内で享受していると同等の扱いを求めるアメリカに対し、日本側はああいえばこういう式で対応するばかりで、真にボーダーレスエコノミーを支え、その恩恵を今後とも享受しようという国としての自覚が欠けていた。

     外国人労働者や難民へどう対応するか。日米構造協議にどう対応するか。日本の対応振りを各国は多大の関心をもって見守っている。少なくとも江戸時代と同様の物理的な鎖国を取り得るかのような錯覚に基づく政策は、早急に改善しなければなるまい。

    週刊財経詳報89/9/11号

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                             891022ZAIKKEI=KENGEN

       Iと私と自己主張

     英語の構文には、必ず主語があり、一人称の場合にはIが付く。それに対して、日本語では、主語が必ずしも表に出ず裏に隠れる。それゆえ、英語を話す英米人の方が日本人に比べて自己主張が強いという説が日本では罷り通っている。確かに英語のIを日本語に訳すとき一々「私は」と訳すと、いかにも、「私は」「私は」としゃしゃり出ているように感じられる。しかし、これは日本語の文脈の中でそう感じるのであって、Iを即「私は」と機械的に訳す方が間違っている。日本語では述語が主語を含んでいるので、主語を明示するとかえってくどくなり、極めて自己主張の強い文になってしまうのだ。

     日本語では、文中にこの「私は」を入れるか入れないか、極めて慎重な気配りが払われており、自己は決して奥に引き籠もっているわけではない。むしろ、過剰なほどに自己に拘っているのが、日本語であり、日本人である。だから、たとえ、主語が省かれていても、述語や構文全体から、我々には話手の自己主張の強さが手にとるように感じとれる。

     一方、英語では、Iという主格を明示するのが普通なので、それを省略するとかえって目立ってしまう。それに省略しても主語の欠落を補う特別の述語がない。英語にIが付き物だからといって、これだけで英米人が自己主張が強いと即断するのは、誤っている。

     日本人は、主語を省きながらも、言うべきことを言って一歩も後ろに下がらない。とくに組織や国の代表になった場合など梃でも動かない。相手の理解を求めよという場合、一方的にこちらの言い分を相手に飲ませよと言うのと同義だ。これは、最近の、日米構造協議における討論を見ても、良く理解できる。

     日本語の構文を根拠にして、英米人に対して、自己主張が弱いという思い込みがあるため、言うべきことをもっと言えと言う主張が良くなされるが、言うべきことを言うばかりか、相手の言うことにはほとんど耳を貸そうとせず、改めるべき点も改めようとしないのが日本ではないのか。長年にわたって、臆面もなく大幅な貿易黒字を続けていることが示すように。

     その言い訳に、毎度決まって持ち出すのが、長期的視野にたつ日本企業に引き比べ、米国企業は短期的視野から利益追及を行うので、今日の絶対的な経済力の格差を招いたという主張だ。しかし、長期的観点から物事を見ることの出来る日本が、どうしてこうも長年にわたって黒字を出し続け、一向に改善できないのだろう。同じ日米構造協議で問題になっている地価問題にしても、もう随分前から指摘されているにも拘らず、実効の上がる対策は一向に講じ得ない(これも、日本人の自己主張が強くてその調整が極めて難しいことの証しでもあるが)。

     都合のいいところにだけ、自らの長期的視野を吹聴するのは、どう見てもおかしい。ところが、このような論理的な破綻にも日本人が自己主張に長けていないとの思い込みゆえにか極めて鈍感で、恥じるところがない。

     いずれにせよ、Iと私の差異から誤った自画像を作り上げるに類した愚かさとはいいかげん手を切って、自己を正確に認識するとともに、世界に通用する自己主張の術を身に付けないと、それこそ国際的な摩擦・軋轢を益々と強めてしまうことになるだろう。

    週刊財経詳報89/10/22号

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        大本営発表と選挙公約
                 KENGEN900204-3
     一週間後に迫った衆議院議員選挙の投票日を目指して、選挙運動が真っ盛りである。与野党逆転の掛かった重要な総選挙ではあるが、国民に選挙の本当の争点が明らかにされているようには思えない。外交面でいえば、激動する国際世界の中におかれている日本の現状をどう認識し、日本異質論や封じ込め論を初めとして、最近ますます厳しさを増しつつある国際世論にどう対処しようとしているのかはっきりしない。内政面にしても、土地問題、税制、農政、政治改革、衆議院議員定数是正、外国人労働者問題など重要問題が山積しているが、これらについて率直な現実味のある政策が示されているとは思えない。

     かつて大本営は、国民に真実を伝えると国民は気が弱く戦意を挫かれ兼ねないということで、常に日本軍勝利の情報を流し続けた。今もって国民はその当時と変わらない気の弱いお人好しと見くびられているようで、各党とも口に甘く耳に快いことを並べるだけで、真実を率直に語り掛ける勇気に欠けている。国民を真の大人と見ていない。真実を告げればへなへなとその場に崩れ落ち兼ねぬ気の弱い癌患者か、幼子でもあるかのような扱いだ。

     総選挙の公示日を前にして行われた五党首討論会にしても、五機の小型飛行機による航空ショーの趣があった。地上数千メートルの上空に五色に彩色された、文字通り雲を掴むような抽象論・建前論でそれぞれに美しい模様を描き出してみせたが、それもしょせん煙幕にすぎない。たちまち風にかき消されてしまい、飛行機自体もやがて地上に降りてこなければならない。我々国民が聞きたいのは、地上に下り立った後の討論なのではないのか。空中に幾ら美しい模様を描いて見せても、我々国民が今後直面しなければならない、厳しい現実はいっこうに見えてこない。

     もうそろそろ、地に足を踏まえてじっくりと討論をすべき時なのだ。何時までも利益誘導的な夢物語を繰り返すだけの政治が通用するわけがない。国民はそれなりに日本の直面している難しい現実をわきまえている。そこで各党からその対策を聞きたいと思っても、確たる将来の展望も示さず、臭いものには蓋、きれい事だけ並べ、難しい問題に踏み込めば火傷をするとの姿勢に終始するだけでは幻滅よりない。むしろ、国民には見えない厳しい現実や将来展望を示し、それにいかに対処しようとしているかを明らかにすることが政党に求められる基本的な役割のはずだ。それが逆に甘い現実認識を示すばかりで、いざとなれば、なんとかなるとの精神論を繰り返すのではなにをかいわんや。

     要するに政党側の国民に対する認識不足が目立つのだ。政策不在で「何卒宜しく」と名前を連呼するだけの選挙にはもううんざりだ。国民の反応は冷えきっている。ソ連・東欧での大変動を見れば明らかなように、世界のかしこで見くびられてきた民衆の反抗が始まっている。この現実を与野党ともはっきり認識する必要がある。

     大本営発表を信じていた国民が、事の真実を知ったときには手遅れになっていたように、耳に快い公約を真に受けて、一票を投じ政権を預けたところが、たちまち急転直下予期せざる難局に巻き込まれ、混乱の海に放り出されるようなことにならないように願いたいものだ。しかし、このままいけばかつての二の舞必至のように思えてならない。

    週刊財経詳報90/2/14号

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                          ZAIKEI-KENGE900318-1KA

        言葉の壁を越える壁 new

     現在の閣僚や与野党の要人の中で、米国を始めとする主要国の要人と気軽にヨコメシが食える人物が何人いるのだろう。閣僚でなくても、構造協議に参加している政府高官でもいい。外国から要人が来日する。あるいは自ら外国に出掛ける。そうしたときに、公式のレセプションはともかく、親密度を高める場となる非公式の夕食会を自ら設営したり、あるいは、招待されたら喜んで出掛け、夕食を共にして楽しく、これからも長く付き合いたいという気にさせ得る人物、つまり相手にひとかどの人物として認められ、真の友人扱いを受け得る人物が何人いるのだろう。

     国と国との間の関係では、たとえ表向きの外交が、どれほどぎくしゃくしていても、そうしたいわば日常的な、ファーストネームで呼びあえるほどの親密な間柄にある要人が一定数おれば、それほど深刻ではないと言われる。ところが、外国に出掛けても、ヨコメシは出来るだけ避け、日本人だけでタテメシを食い、日本で外国人に招待されても「公務多忙」を理由に欠席する。

     例えば、モスバッカー米国商務長官とダンフォース上院議員が来日したときアマコスト駐日大使が主催した夕食会に主要閣僚が六人招待されたが、二人だけしか出席しなかったように(『日本経済新聞』一九九〇年三月十八日)。

     米国を始め世界各国と持続的な友好関係を深めたいと、二言目には主張しながらその言葉の裏の現実がこういうことでは、国の長い将来を考えれば、むしろ、昨今の経済摩擦以上に事態は深刻なのかもしれない。なぜなら、これは決して言葉の壁だけの問題ではなく、もっと広範な一国の文化的な壁(=限界)の問題だからだ。経済摩擦は、なんとか解決の糸口を見付け出すことができるかもしれないが、対等に付き合える人材の育成は一朝一夕にはいかないのである。日本異質論は実にこうした問題にも起因しているのだ。

     夕食会に出席しても、関心領域が選挙対策や仕事だけで、にわか「勉強」の成果を自説のごとく繰り返すだけでは、相手を感服させることは出来まい。論理的な討論になっても、なあなあとまあまあの国で育ち、日頃から討論になじんでいないので、話の節々に意図せざる論理性の欠如や、論理の飛躍、論理のすり替えを露呈してしまい、不信感を増幅する。自らの信じる理念に欠けておれば、理念の国の人である相手の納得は得られまい。

     個人的な親密な付き合いが成り立つには、理念に絡む話がもっとも深刻だろう。公式の場の討論ならば、建前論や、言いっ放なしでも凌げよう。しかし、一対一で個人的に話し合うとき、その人物の掛け値なしの世界観・見識・教養・論理性が問われるのだ。例えば公式的には自由民主党は自由と民主主義という理念を最大限尊重しているといっておけば済むかもしれない。しかし、実際の政策では、自民党は明らかに自由を抑圧している農産物の輸入制限や食管法の死守を叫び、一対三という一票の重みの開きを放置している。そこに自由民主の理念はどう貫徹されているのか。そこに矛盾を認めるなら、その是正のため、いかなる実践活動をしているのか、と個人的に問われたらたちまち答えに窮してしまうだろう。

     党の方針だから個人としては従わざるを得ないと言えば、それこそ自由民主の理念にもとるではないかと論理の矛盾を突かれるだろう。これは護憲を掲げる社会党や共産党の党員とて同じことだ。真の友人になるためには、口先だけでなく、日頃の実践的活動を通して、自らが自由と民主主義の真の信奉者であることを示さなければならないのだ。

     今後、個人的なレベルで、遠慮のない論理的な意見交換を進め、真の相互理解を図る必要性はますます高まろうが、それを可能とするには、その前に立ちはだかる言葉の壁を越えたこうした大きな壁の存在を認識し、それを乗り越えるため、それこそ地道で真摯な努力が必要なのである。

    (週刊財経詳報90/3/18)

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      豊かさにおぼれない教育             zaikei-kengen900506
     日本のスポーツ界では、団体種目にしても個人種目にしても、国際的に通用する種目は極めて少ない。国民に人気の高いゴルフやテニス界を見渡しても、女子プロゴルフの岡本綾子をのぞけば、世界に通用する選手はほとんど見当たらない。選手はどこかひ弱で、勝負所になるとからきし弱い。一九六八年のメキシコ五輪で、銅メダルを手にした日本のサッカーにも昔日の面影はない。銅メダルの功労者だったD・クラマーさん(西ドイツ)は、請われて昨年から再度日本代表の強化に乗り出しているが、当時の選手に比べると、今の選手は、精神力が不足しており、反則を受けると大した怪我でもないのに直ぐフィールドに寝たがる、など共通の「甘さ」が目につくという。

     これに対して、日本も豊かになって昔ほどハングリーじゃないからというもっともらしい説明が横行している。

     確かに日本が、豊かになったという点は間違いない。一人当たりのGNPも世界一の水準に達したし、ゴルフやテニス大会の賞金額にしても、世界の大きな大会に比べても決して遜色なくなった。むしろそうした豊かな日本市場があることが、世界の厳しい風に揉まれたこともない温室育ちでも、ほどほどにやっていける事につながり、逞しい選手の成長を妨げている面もあるのは事実である。だが、ハングリーでなければ強くなれないとしたら、貧乏に戻らなければならないことになってしまう。

     いかなるスポーツにおいても、試合に負けるのは敵の強さにではなく、自分の甘さに負ける要素が大きい。先週のフジサンケイクラシックゴルフの最終日、最終組で優勝の最短距離にいた二人が、最後の3ホールで短いパットをことごとく外すなどボギーを連発して、一時間も前に5アンダーで上がっていた尾崎将司に簡単に二年連続優勝を許した展開など正しくその事を裏付けるものだ。だが、テレビで観戦しながら、欧米では、こうやすやすと連続優勝を許しはしないだろうという気がしてならなかった。これではせっかくの尾崎の才能もスポイルされ、真に世界に通用する選手になる道をむしろ険しくするだけだろう。

     昨今の物質的な豊かさが、ひ弱さ、甘さと関係があるのは確かだろうが、スポーツで何かを達成するのは結局本人の心の持ち方次第なのだ。最後は、人間としての実力、人格の勝負なのだ。基本的には、貧しさや、豊かさとは関係ない。むしろ、豊かさにおぼれて、日本の教育や回りの環境が、勝負所で踏ん張れる日本人を育てて来なかったのではないのか。これからもその気がないのではないか。そのことがよほど心配である。

     スポーツが国際的に通用しないことと、日本や日本人に国際性がないこととは、決して無関係ではない。政官財界に世界の檜舞台で対等に渡り合える人物がどれだけいるだろう。どれも結局、国際的に通用する人格の形成に日本が成功していないことの現れにすぎない。子供に有り余るほどのものをあてがい、甘やかし、その半面で、世界に通用する人格の形成にはほとんど気が回わらず、自分勝手で、思いやりがなく、身内の損得ばかり考える学校や家庭や社会からは、決して強いスポーツ選手も、国際性豊かな、世界から尊敬される日本人も育まれることはないだろう。

    週刊財経詳報90/5/6号

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        政治三流の証明
              ZAIKEI-KENGEN900617
     経済一流、政治三流といわれて久しい。しかし、一流といわれる経済はむしろ三流の政治に乗っかって現在の経済大国の地位を築き上げ、今もその地位を保っているのだ。というのも、政治家の主たる仕事が、国益の擁護より、部分利益の保護に集中しているからである。つまり、国会議員から市町村議員まで族議員化し、自分の贔屓の産業界の利益の拡張と、既得権益の擁護にかまけている。農業族が、常に農産物の輸入自由化絶対反対を唱え続け、現在もコメの自由化を求める国際世論を相手取り「一粒もいれない」と大合唱しているように。

     ウルグアイ・ラウンドの交渉期限を間近に控え、自由貿易制度の最大の受益者たる日本が、食糧安全保障論なる国際的には通用しない論理を振りかざし、自らの経済力の最大の拠り所を自ら突き崩す愚さえ犯している。

     国際社会では、どう見ても正論といえないことを、この方式で、これまでも無理やり押し通してきた。今もって押し通そうとしている。その結果が、日米構造協議に象徴される経済摩擦の構造化であり、日本バッシングの激化であり、日本異質論の台頭である。各国の日本への不信は根強く、日本の孤立化は予想以上に進んでいる。政治家は、こうした国際的不興の見返りに、業界から票や政治献金を提供され、パーティ券を買ってもらう。

     要するにこうした「三流」の政治へ依存しつつ経済もこれまで大きくなり、「一流」と自画自賛する域に達したわけであるが、いわばそうした体質ゆえ、両者の癒着構造の中には、一流の政治に不可欠の自国の国際的な地位や国際世論・他国民への配慮、その経済的地位に相応しい責任感や役割意識、高邁な「世界観」が入り込む余地がない。

     現在、ベルリンの壁の崩壊に象徴される「東欧革命」によって戦後の冷戦構造が一気に崩れるなど、国際政治環境が激変するなかで、こうした政治三流的状況が厳しく問われている。これまでアメリカの尻馬に乗っていれば良かった日本の政治が、にわかに表へ引っ張り出され、この新しい環境への処方箋を求められている。自力で旨い処方箋を出せなければ、日本の経済的地位そのものが怪しくなりかねない。

     戦後の冷戦構造の中では、日本の経済力は西側陣営にとって大きな財産であった。それゆえ、上述のように多少の我が儘は大目にみて貰えた。ところが、冷戦構造が変わってみると、ソ連の軍事力より日本の経済力をより脅威と見る諸国民の意識は、日本にとってたちまち現実的な脅威になる要素を孕んでいる。いまや世界の市場を食い潰すだけで、自らの市場を閉ざした日本は厄介者扱いを受け、新しい国際秩序の中で共通の敵とされ、攻撃の標的にさえ転落しかねない。

     最近、若手国会議員を中心にまたしても安易な集金パーティが開催されている。これは、若手にも、真摯に政治改革を断行し、政治一流への覚悟を新たにする姿勢がないことを示すものだ。新風を送り込むどころか、国際社会で問題児になりやすい体質への反省や危機意識もなく、先輩政治家の尻馬に乗って旧態依然たる政治を展開すれば足りるとの認識に基づくとすれば、政治一流への道は遠い。金のかからぬ政治はもちろんだが、激変する国際環境の動向を見据えて、日本の将来を誤らしめない政治家を生み出せるような政治改革が成し遂げられなければ、世界から孤立し、せっかくの経済一流もたちまち三流化しよう。

    週刊財経詳報900617号

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       公共投資に利用者の視点を 
                   KENGEN900726KA
     今年の夏は大変な猛暑だ。エアコンや扇風機が飛ぶように売れ、据え付け工事をする業者が連日走り回ってもさばききれず、据え付けは注文から三週間も先になるらしい。首都圏では、電力消費量も連日ピークを更新し、東京電力は大手メーカーなどに節電依頼をする事態に追い込まれている。カラ梅雨、猛暑と続き渇水の心配も日増しに高まっている。少々天候異常が続くと、直ぐあちこちにほころびが出る。我々の生活が極めて脆い基盤の上に成り立っていることに気付かされる。

     先日、この猛暑の中、都内から中央高速道路を使って山梨のリゾートへ行った。たった百五十キロメートル走るのに七時間もかかった。すんなり高速道路に乗るのさえ難しい。一般道路は狭く捩れ、渋滞している上、道路標識が、驚くほど不親切ときている。

     主要道路の曲がり角にさえかならずしも主要な行き先の表示がないなど、標識の仕方・位置などに統一した思想がない。一般道路と高速道路の標識の間に連携プレーがない。設置位置の悪さ、タイミング遅れや、必要な情報の欠けた標識など、せっかく設置しながら、ドライバーを迷わせ、不安にさせるだけのものや、道を良く知らなければ役にたたないものがいかにも多い。

     日本人でもこれ程迷うのだから、外国人だったらどれ程困惑していることだろう。ヨーロッパを夏休みに六千キロメートル近く走ったことがあるが、迷ったことはほとんどない。分かりやすい標識が多く、しかも陸続きのせいもあって多いところでは六ケ国語で書かれていた。日本ももう一度こうした優れたシステムをイロハから学び直す必要がありはしないか。

     やっと高速道路に乗ると、最初から渋滞の連続。猛暑の中、のろのろと走るとエンジンがオーバーヒートして、エアコンも止めなければならない。いらいらが高じて路肩を走る車が出てくる。くたびれてパーキング場に寄ろうとしても、数が少ない。やっと辿り着くと、車が溢れていて、中にさえ入れない。順番がきて中に入ると駐車の場所がない。さんざ待って車を留め、トイレに行くと外まで人が溢れている。男性用のトイレに女性が入り込んで来る。目的地に着いたときにはもうへとへと、暑く長くうんざりした一日だった。

     これが経済大国日本の夏の現実・レジャー風景なのだ。底の浅さに改めて唖然とする。

     日米構造協議は、アメリカの要請をいれ公共投資額を増やすことで話がついた。アメリカ人には日本社会の至る所にこうした歪みが目につき、内政干渉にも近い要請を突き付けざるを得なかったのだろう。

     欠陥公共投資が大手を振って歩いているのは、縦型の官僚組織や文化の浅さもさることながら、全体システムをコーディネートする思想、それを実施できる人材が不足しているからだ。個別の専門家がいくらいても、こうした構造的な歪みは是正できない。公共投資をしても欠陥だらけの、利用者に難儀を強いるモノばかりが増える。従来の縦割りの公共投資から、今後は相互に良くコーディネートして行う方式に変えなければ、せっかく増額することにしたものの、金をドブに捨てるのと何等変わるまい。

     これから各省は来年度の予算要求原案造りの最終段階に入るが、公共投資のぶんどり合戦だけに頭をつかうのでなく、せっかく投資するなら、それが相互によく調和し、利用者が喜ぶ、利用者の立場にたった使い方にこそ頭を絞っていただきたいものだ。

    週刊財経詳報90/7/30

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        本性の確認と反省こそ急務

                     KENGEN-900911
     思いも掛けないショックを受けたときほど、人は本性をさらけ出す。これは国とて同じ事だ。 

     トイレットペーパー騒ぎや狂乱物価に明け暮れた第一次オイルショックのときの日本がそうであったように。今回のイラクのクウェート侵攻に際しても、日本の本性が様々な側面で露呈している。

     まず、こうしたいわば危機的な状況に対応するための体制がほとんどできていない。危機管理のための法律、制度、手続きなど何もない。そこで慌てて、泥縄を結うことになる。 

     「中東貢献策」にしても、自発的にこの際是非とも国際社会に貢献したいという発想ではなく、アメリカに強く求められ渋々まとめたにすぎない。渋々だから国際世論を満足させるものなど出来ない。タイミングは失する。緊急事態だと言うのに、首相のリーダーシップは乏しく、相も変わらず官僚主導型の政策決定に終始する。国際社会の一員であり、しかも中東地域に、他の国に比べ格段に高く依存しているという意識や、国際社会のシステムを利用して経済的繁栄を享受しているという意識は見事に欠落している。

     実際、中東情勢がこれ以上悪化したら、原油の七割をこの地域に頼る日本はたちどころに息の根が止まってしまいかねないのに、あたかも非当事者然、傍観者的に振る舞っている。これでは各国が苛立つのも無理はない。日本は自ら好んで国際的孤立化の道を歩んでいる。

     また、石油製品価格の値上げを巡る一連の動きにも、日本の本性がかいま見える。各国が、おしなべて、原油価格の高騰にリンクして石油製品価格を値上げしている中で、日本のみが、強権的な行政の介入で値段を据え置き、やっと九月七日、閣議の了解を得、通産省の通達によって解禁措置をとった。それを諮った最初の閣議(九月四日)では、現行の在庫評価法である後入先出法の見直しなどを求める閣僚に押されて、差し戻されさえした。しかも、今後当分の間は、通産省が毎月各元売りからヒアリングして、価格を監視するという。

     ここにみられるのは、価格への行政の安易な介入にほとんど無頓着に近い政府・官僚の体質・感覚である。確かに、物価の安定は重要な政策目的たりうるし、そのために便乗値上げを阻止すべきことは理解できるが、自由経済を標榜するわが国としては、安易な行政介入を避けることもそれに劣らず重要な政策目的たりうるはずだ。

     一次、二次の石油危機のときの過剰な行政介入が石油製品価格体系に極めて歪な構造を残し、これが今もって重要なエネルギー供給を担う石油各社の財務体質を脆弱なものにしている。今回も、行政の要らざる介入が、需要を抑制すべきときに仮需を引き起こしている。しかも、値上げの先送りのためなら、会計原則さえ、行政の介入で変更を強いることも厭わないという意識があることも問題だろう。これは、自由主義諸国と分かち合うべき民主主義、自由主義経済の大原則すら、閣僚や政府高官さえまだ十分信奉していないことを露呈するものだ。

     昨年来のソ連・東欧経済の地滑り的な破綻は、価格統制経済、非民主的経済の失敗でもあった。これを他山の石とし、非常時に露呈する上述の様な日本の本性についてこの際大いに反省・点検し、今回のイラク侵攻を、真に自由主義圏の一員に相応しい、主体性のある国造りに向けての一歩を踏み出すための奇貨としなければなるまい。

    週刊財経詳報90/9/13

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           世界に通じる言葉の欠如        

    KENGEN901029
     最近の内外の事象を見ると、日本の世界との連帯感の欠如が際立っている。経済面での日本のプレゼンスが大きく、その一挙一動が目立つだけに、せめて世間並に振る舞おうと努めているにも拘らず、思惑通りには振る舞えない日本の孤立感は深く、その修復は容易ではない。相変わらず、身勝手な論理や世界に通用しない言葉、カネの論理のみの行動が多く、世界の一員として話すべき共通の言葉に事欠いている。

     日本に今、世界に通じる言葉で話せる人がどれ程いるのだろうか。言葉を論理、哲学、価値観と言い換えてもよい。政界、財界、官界、学会、文壇、映画界など、どこを見渡しても、人材不足は覆いがたい。

     政界では、泥縄を結うような国連平和協力法案の国会審議が示すように、世界の常識から遠く隔たったところで生煮えの論議が繰り返されている。今後世界の中で日本が過去の歴史を踏まえた上で長期的にどういう哲学で、いかなる具体的な政策を講じて世界と連帯しつつ生きていくか真剣に考えた上での論議からほど遠い。

     その一方で、法と人権を守る立場の法務大臣が人種差別的暴言を吐き、米国で辞任を求める動きが盛り上がっても、国内的には頬かぶりで押し通す。これは日本人の国際性の欠けた利己的な体質を露骨に示すものだ。こうした有様では世界の人々は日本を理解出来ず、不信を増すだけだろう。

     最近のガット・ウルグアイ・ラウンドの政府交渉でも、自由貿易体制の最大の受益者でありながら、率先して交渉を成功に導くイニシアチブを取る心構えはなく、食糧安全保障論なる身勝手な論法を振りかざし、交渉成功の成否を左右するコメの自由化に対して、かたくなな態度を取り続けている。交渉期限を間近に控えながら、相変わらず受け身の待ちの戦術に徹するだけだ。土壇場の政治的判断で無原則に後退すれば失笑を買うだけだろう。

     財界を見れば、利益一位の銀行のトップが退陣を余儀無くされたことが象徴するように、儲け一辺倒で倫理感に欠けた経営者が跋扈している。作家・知識人の世界でも最近行われた日独知識人によるシンポジウムが示すように外国の知識人と共通の問題意識で、普遍的な問題について話し合える人が意外と少ないようだ。一様に私小説的な個別に執着する視野狭窄症に陥っている。これが、日本文学や映画の輸出の少なさの真の原因でもあろう。

     国際的に通ずる言語、普遍的価値というと日本人はすぐ、自由とか、人類の平和といった抽象性の高い言葉でしかも感覚的な議論をしがちだ。確かに、自由、結構、平等、結構。民主主義も個人主義も世界の平和も結構だろう。だが、さてそのためになにをするかという具体的な政策、行動(act)のレベルになると、いつも日本人は沈黙してしまい、受け身の対応(react)に終始する。要するに本当にそうした価値を信奉し、深く思考を巡らし、自らなにをすべきかを選択し、日頃から実践しようとしない。

     自由貿易、結構という言葉の裏で、コメの輸入自由化は一粒たりとも許すべきでないと、なんの論理的な破綻も、良心的な苦痛も感じないで言う。言える。世界の平和、結構といいながら、自ら汗を流すことにはそっぽを向く。こうした思考・行動を日本人は容認してきた。しかし、これが世界に通用する論理・言葉でもなく、世界との連帯感を増す行動でもないことをはっきり肝に銘ずる必要がある。このままでは日本の孤立化が進行するのは目に見えている。 具体的な政策・中身がなく実践が伴わない。日本の限界がそこにある。

     

    週刊財経詳報90/10/29号

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            余暇について             KENGEN901210K.ABE
     師走、師も走る忙しい月である。こういう時にこそ余暇について考えてみる意義があるのではないだろうか。

     国語辞典で余暇を引くと広辞苑にも、「あまった時間。ひま。いとま」程度の語義しか載っていない。これでは、西洋文化を支えている基礎の一つと言われる余暇(ヨゼフ・ピーパー『余暇と祝祭』講談社 1988年)の本質を伺い知ることは出来ない。

     同書によると、ドイツ語で余暇はMusseであるが、その語源はギリシャ語でスコレー、ラテン語ではスコーラ、ドイツ語でシューレ(学校)となり、ドイツ人が教養、あるいは人格形成の場をさすのに用いる言葉自体が、余暇を意味しているという。

     日本語にそうした背景を示唆する適当な訳語がないことこそが、わが国の文化の中に占める余暇の位置を明白に示している。以下同書によりつつ、余暇について考えてみよう。

     ギリシャ語やラテン語では週日のれっきとした「仕事」を指す言葉がなく、ただ「暇なし」という否定形があるだけだという。ところが現代社会では労働と本当の意味の余暇が占めるべき位置がさかさまになっている。労働が絶対視され、余暇はなにもしていないこと、怠惰以外の何ものでもないと見なされる。ところが西洋中世の人生観では「余暇の喪失」つまり「余暇を実践する」能力の喪失こそが正しく怠惰に結び付けられている。余暇と怠惰とが結び付くのでなく、せわしなく働くこと、「労働のための労働」をモットーに休みを知らずに働くことが怠惰のしるしだとみなされている。つまり、「怠惰」とは、人間が彼固有の尊厳にふさわしい生き方を放棄してしまうこと、と当時は考えられていた。

     余暇は一つの精神的態度を指す言葉であり、休憩時間、自由時間、週末、休暇などのように「そこにある」ものとは違う。現代において余暇のための空間、つまり、人間が、何物にも脅かされることなく、真実に人間的に生きることのできる空間を保持することができるかが問われている。つまり、人間がたんにある社会的機能をはたすだけの“労働者”になってしまうことを阻止できるだろうかということが問われていると著者はいうのだ。

     さて、ひるがってわが国の現状を見ると、日本人の労働時間は相変わらず長く、労働のための労働をモットーに休みを知らずに働いている。自由時間にさえも、職場の付き合いが持ち込まれ“労働者”から解放されるわけではない。真実に人間的に生きることのできる空間を保持することが出来ず、「勤勉」ではあっても「怠惰」な生活を送っている。人間には、労働の義務、家庭人としての義務、地域社会の一員としての義務の三つの義務があるといわれるが、多くの成人男性は労働の義務だけは果たしているだろうが、それ以外の義務は放棄している。その意味でも「余暇を喪失」しており、「余暇を実践する」能力は著しく低い。労働者はいても、市民も、真の家庭人も少ない。つまり人間固有の尊厳にふさわしい生き方をしている、本当の人間らしい人間は少ない。

     今年も慌ただしく暮れようとしている。自由時間を忘年会に充て、すべてを忘却するのも結構だが、たまには余暇が本来占めるべき位置について考える時間に充ててはどうだろう。それこそ余暇と呼ぶにふさわしい時間になるのではなかろうか。

    週刊財経詳報90/12/10号

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           ルール違反と手段としての戦争

            KENGEN910212
     湾岸戦争は、長引いており、日本のいわゆる「貢献策」の国会審議や実施は相変わらずもたついているが、日本としては、この戦争からせめて教訓を読取り、この戦争の後にくる状況に備えなければならない。なかでも、今回示されたルール違反(国際法侵犯)に対するアメリカの断固たる措置を、今後の日本にとって、貴重な教訓とすべきであろう。

     平和的解決の最終期限とされた一月一五日からほとんど間髪を入れずアメリカが戦端を開くという事態を日本の多くの識者が予測出来ず、最後まで平和的解決を予測していたのは、今回のアメリカのビヘイビアが、日本人のセンスからまったく掛け離れたものであったことを示している。この点では日本もまた、フセインとともに、誤算を犯したのである。

     なぜ、このような誤算を犯したのか。

     「平和ぼけ」もその一因であったろうが、基本的には、ルール違反に対する無感覚がその背後にある。伝統的な喧嘩両成敗の思想、足して二で割る現実主義、ルールよりは話し合いを優先させその場を丸く収めることを優先させる機会主義的体質がその原因である。つまり、ルールがあっても、自分の都合によって遵守したり、無視したり、軽視したりし、その場の状況に応じて、うまく、悪くいえば、ずるく利用する。この点が、これまでも国際的にもアンフェアと非難されてきたのである。

     例えば、ガットのルールにしても、戦後一貫して最大限に享受し、経済大国にまで登りつめながら、いざ自国が不利な立場に置かれると、農業や建設業や金融業のようにローカル・ルールを主張して譲らない。中東貢献策に対して憲法を盾として反対する論者も、衆議院の定数問題や、選挙権の不平等、自衛隊の存在など、憲法違反状況を放置している。事態を丸く収めることを優先するあまり、常に問題先送りで、これまでその経済力や国際的な地位に相応しい、国際ルールを遵守できる国に改革することを怠ってきた。

     それに対し、アメリカはルールの遵守を最重要視し、そのため必要ならば戦争という手段にも訴えることを辞さない。ルール破壊に対しては、足して二で割る妥協を排するのだ。

     開戦後、日本国内では、戦争反対の動きがあちこちで起こっている。とにかく戦争を早く終わらせよ、平和を取り戻せという主張である。これも、日本人の上述の基本的な考え方と同根である。ルールや原理・原則の尊重よりも、事態を丸く収めることを優先させる考え方だ。問題先送りで基本的な解決とはほど遠くても平穏を尊ぶのである。その背後には、ルール破壊よりも、戦争を悪と見、平和(たとえ見せかけの平穏にすぎなくても)を善と見る見方がある。

     これは伝統的な、喧嘩両成敗の思想の延長線上にある。何のための喧嘩か、あるいは、ルールに照らして、どちらに理があるかを問わず、喧嘩そのものを悪と見て、両者を等しく罰するのである。

     現在日本は戦後の問題先送りの結果、国際ルールへ適合して来なかった科を痛切に支払わされている。しかも、事態の改善への努力は遅々として捗っていない。湾岸戦争の片がつき、東西融和が進んだ暁にも、日本が今のままの状況で臨むならば、日本は、アメリカがルール違反に対して断固たる手段に訴える国であることを思い知らされるであろう。そのときになって、泥縄を結っても遅い。

    週刊財経詳報91/2/12号
     
     


           

    共存共栄の思想new
                   阿部毅一郎 
     「世界とともに歩む日本」-これが竹下政権の新経済運営五ケ年計画のスローガンであ
    る。戦後四十年たち、長期経済計画でも世界の中の日本を意識し強調せざるをえない時代
    になった。この背後には、日本の今後の発展・存立は国際社会との調和的な関係なしには
    ありえないとの認識-むしろ危機感に近い-がある。ただ、この認識が国民一人一人、企
    業一社一社の共有するものとなっているかといえば、まだまだ不十分のようだ。
     中曽根政権時代の経済計画「八十年代経済社会の展望と指針」でも世界の中の日本は意
    識されており、対外不均衡の是正がうたわれたが、結果は全く裏目に出た。不均衡は先の
    計画期間中増大の一途を辿った。国際経済摩擦が激化したはずである。新計画では同じ目
    標を表看板に押し立てたが、今回もお題目に終わらせたら国際的な不信を一層煽りたてる
    ことになろう。笑いごとではなく、国は無論のこと、大企業も中小企業も頭を絞ってその
    是正に取り組まなければならない。そのためには大いに内需を拡大するとともに,国内市
    場の自由化、海外投資、技術の対外供与などを率先して実行しなければならない。
     こうした自由化や国際化の被害者は常に中小企業だという見方をする人も多い。しかし
    、中小企業の中にもすでに国際的に大活躍している企業も少なくない。国際化や自由化を
    発展・飛躍のチャンスとして大いに利用するぐらいの発想がこれからは必要だろう。子供
    にしてもいたずらに保護するより冷たい風に当てたほうが強く育つものだ。戦後の一連の
    自由化や石油危機、円高の中で日本経済はここまで成長・発展してきたのである。
     ところで、円高を背景にわが国の海外直接投資が近年急増している。これは、対外不均
    衡是正のためにも、また世界経済にとっても望ましいことだ。世界各国とくに近隣諸国は
    日本の中小企業の技術や経営法の移転を求めている。そうした要望に出来るだけ前向きに
    応えていくことによって、今後は「共存共栄」を図らなければならない。一国で利益や富
    や技術を独占する一国繁栄主義の時代は終わった。これを続ければ様々な面で反目を招く
    ばかりか、自らも長く繁栄を続けることは不可能だ。近隣諸国が窮乏すればどれほど立派
    な製品を生産しようが買ってくれる国がなくなってしまうわけだから。「共存共栄」の「
    共」の中に日本のみならず世界の国々を等しく含める度量・覚悟ほど「世界とともに歩む
    日本」に、今必要なものはない。

    商工金融(1988年)
    
     


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