高松での生活から八年もたち、生理的欲求の我慢も限界近くなっていた。そこへ札幌への赴任の話が舞い込んできた。よしんば単身赴任であれ、久し振りに都会生活から足を洗え、地方生活の機会に恵まれたのは僥倖だった。それも砂漠ではなく、大自然がそのまま残っている北海道への赴任とくれば、もう随喜の涙を流さずにはいられなかった。
札幌は人口160万を要する大都会というなかれ、完全にアスファルト・ジャングル化した東京に比べれば、まだ田舎そのものである。いや、田舎の良さを残した都会というべきか。私の住んだ宮の森界隈はとくに緑が豊かで、車で十分も走らぬうちに、緑したたる自然を一人占めできるところがいくらでもあった。
自宅の窓を開ければ、自樺が爽やかな風にそよいでいる。大倉山は目の前で、スキーのジャンプ台が見える。夜、空を見上げれば、星は降るように輝いている。都心のオフィスの窓からさえ、野鴨の飛来する大木に囲まれた池が見えるのだ。たちまち生理的欲求も満たされてしまった。
生来、自然大好き人間だから、テレビ番組でも自然ものは見逃さない。アマゾン探検と名がつけば、クストーのものであれ、星野知子のものであれ、テレビの前にかじり付く。アフリカやガラパゴスや熱帯雨林の鳥獣魚爬虫類昆虫樹木草本葺菌類、それに絶減寸前の生物、その形状色彩の多種多様複雑精妙怪奇さ。いつも息を飲んで見る。類人猿も人類の親戚だけあって実に面白い。これまで人類に特有とされていたセックスを社交手段に使うピグミーチンパンジーやら、小石で木の実を巧みに割るチンパンジーやら、なにやら悲しげな森の紳士オランウータンやら、人間によく似ていて、どこか人間離れしているところがいい。
だが、今やテレビで見なくても、実物が目の前にいるのだ。キタキツネ物語の主人公なら、札幌市内の藻岩山でもお目にかかれる。車で三十分走れば日本海、一時間走れば太平洋が望める。どこの海辺でも海猫や鴎がミャーミャ−鳴き騒いでいる。小高い丘の上を無数の鳶が風に乗ってって悠々と舞う。湖畔では鶴や鷺や鴨が餌を啄む。森では小烏の声がうるさいほどだ。雪を抱くく高い山々、大樹、原生花園の可憐な草花。車で走ると北海道の自然の豊かさ、大きさが良く分かる。三六〇度開けた視野のもとに広がる大自然は誠に雄大だ。
大都会のアスファルトジャングルの中では、それに抱かれた感じはしないし、そこから自分自身が生出された実感は湧かない。だが、大自然の中にいると、自分がその中に抱かれていると感じられ、その中から生き物として生出された実感が湧き上がってくる。
地球上に生命が芽生えて三五億年、最初に誕生した原始的な生命から連綿として繋がってきた生命と思えば、自分という存在すら驚異である。単細胞から発して、六十兆の細胞の有機体に達した生き物としての自分の愛しさが、自然の懐の中でこそ素直に感得できるのだ。
ところで、人類の祖先は水生の猿であるという説がある。そのせいか、海や湖を見るのが好きで、何時間見ていても飽きない。幸い北海道には四つの海とそれこそ数え切れないほど湖があった。体毛がイルカのように失われたこととか二本足で立つことなど水生の猿説で説明できるという。前向きの姿勢でセックスするのも水生の動物共通の特徴らしい。同期会のコンパの席でその活を紹介していたら、遠くの方から
「えっ、前向きの姿勢でなにをやるんだって」
と聞き返されたことがあった。
「その件には前向きの姿勢で取り組みたい」という答弁が国会などで流行っていたから仕事の話と勘違いしたらしい。
どうして自然がこれほど好きになったのだろう。田舎育ちだったせいもある。自然の中で育ったのだ。物心ついたのが戦後の食料難時代で、潮干狩りは家事手伝いの延長だった。世界有数の遠浅の有明海で、まて貝や巻き貝を取ってきては蛋白質不足を補った。近くの城堀で、鮒ややごをよく掬った。無農薬時代のことゆえ、赤とんぽは空を覆いつくすように飛んでいた。夕暮れになるとそこらじゅうの木の枝にとまっていて、捕まえようと思えば造作なかった。蛍もどこにでもいた。取ってきては良く蚊帳の中に離したものだ。学校には堀端の桜並木のトンネルを潜って通った。梅雨になると水溜まりにもおたまじゃくしが泳ぎ回り、たちまち小さな黒い雨蛙になって、ぴょんぴょんそこらを飛び回った。
幼稚園時代は戦時中のことゆえ、絵本らしい絵本もなく、叔父の旧制中学の理科の教科書が代用だった。それには、原生動物や毒茸や深海魚のカラーの口絵があった。防空壕にもそれを持って入った。そのせいか、太陽虫、アルマジロ・ベニテングダケなどけっこう難しい動植物の名前を知っていた。
小学時代に町に巡回動物園がやってきた時には、丸一日がかりで一匹ずつ写生して回った。少年クラブの付録に、夜光塗料付きの星座表がついて来、それと照らし合わせて夜空を見上げて以来、星や宇宙も好きになった。
北海道を離れてみると、とりわけ青く澄んでいた空が懐かしい。本当の空がそこにはあった。太陽も都会の煤でぼやけたそれではない、万物に生命の恵みを与える本来の己を取り戻して美しく輝く。
今も思い出すのは美しい夕日や夕焼け空である。襟裳岬から見た、荒々しい日高海岸を背景に、見渡すかぎりの広い天地のなか、あたりを朱に染めてゆらゆらと沈んでいく夕日や、留萌へのドライブの帰りにみた、山の端を焦がすような真っ赤な夕焼け、湖畔の木々の間から照り返す洞爺湖の夕日、印象派風のサロマ湖の落日など、具体的な地名と結びついて鮮やかに浮かび上がってくる。
澄んだ空気と雄大な景色の中でこそ、一日の勤めを終えて没していく太陽の輝きがひときわまさるのだ。
ところで、そうした美しい大自然の中にいると、いつのまにか自然を賛える詩人になっている自分に気付いたものだ。それが今では窓を開けても隣家の壁の住環境に逆戻りし、日々生理的欲求不満を募らせるだけの、詩人とは縁もゆかりもない日常に埋没している。
身生活の初期の段階で発見することが多いのだが、私のように、服ならば、脱いだら脱ぎっぱなし、新聞を読めば読んだでテーブルの上だろうがソファの上だろうが広げたまま置きぱなしにする性癖を持つものは、単身生活を始めるか始めないうちにたちまち発見することになる。
夜遅く酔っ帰ると、靴下が玄関口や食卓の足下に転がっている。汚れた下着がソファの上に広がっている。半分飲み掛けたコーヒーカップが電話の脇に置かれている。
最初は不思議でならないが、よくよく考えると、私以外に住人はいないのだから、靴下や下着やコーヒーカップをそこに置いたのも他ならぬこの私であるという理屈になる。
そういえば、その前夜も飲んで遅く帰り、玄関の上がり口で靴下を脱ぎ、寝室の入り口で下着を放り投げ、そのまま万年床に倒れ込んだのだ。次の朝は朝で寝坊してしまい、朝食がわりのコーヒーをすすっていると電話がかかってきて、その後、あわてて職場に出掛けたのだった。
そうした経験を繰り返すうちに、ニュートンの慣性の法則が厳然として現在もこの世を支配しており、その一つの系として位置付けられている「オイタマーマの法則」なるものが、単身生活者を厳しく律していることに気付くのである。
これと類似の法則に「アケタマーマの法則」「ツケタマーマの法」「ダシタマーマの法則」などがある。
これらを次々に発見する頃には単身赴任者としては、もう一人前ということができる。こうした単身生活を律する諸法則の発見自体に愉しみを見出す心境に達したら、もうぺテランの単身生活者といってよかろう。
ひどいときには、帰宅すると、足の踏み場もないほどまでに「オイタマーマの法則」が猛威をふるっており、部屋に入るのを邪魔だてしようとさえするのである。いつぞやスピルパーグ制作の映画で見た小悪党のグレムリン(小悪魔)に瓜二つなのだ。少々憎ったらしい顔をしていて、いたずらもので、増殖力が抜群なところがそっくりなので、私は彼等に「オイタマーマのグレムリン」というあだ名を進呈することにしたのである。
帰宅してドアを開けた途端、グレムリンどもが朝出掛けたときと寸部と違わない姿勢でこちらを一斉にギョロリと振り返るときの不気味さは、経験したことのない人にはとうてい理解できないだろう。その勢いに圧倒され、主人のはずの私のほうが部屋の隅に小さくなってその夜を凌ぐ羽目に陥る。
翌朝になるとグレムリンどもは、決まって、増殖しており、ますます我がもの顔で部屋を占領しているのだ。
単身赴任者の第一の試練はグレムリンとの部屋の占有権を巡る熾烈な戦いに耐え抜き、少なくとも大の字に寝られるだけのスペースを毎晩確保することにある。この戦いは一種の神経戦の側面を持つからよほど神経が図太くないと参ってしまう。
戦いに勝つ要諦は、グレムリンを見付け次第、へたな仏心など起こさずに、片っ端から片付けてしまうことだ。しかし、敵もさるもので、こちらの気の緩み、ちょっとした油断にじょうずに付け込んでくる。単身赴任者は生活が不規則になりがちで、一杯引っ掛けて帰るようなことが多いが、そうした単身生活者の陥りやすいすきをこのグレムリンは巧みについてくるから油断がならない。
「今夜はもう遅いし、まあ、このくらいなら見逃してやろう」とか「明日は日曜日だし、明日ゆっくり片付けよう」なんて安易な気を少しでも出すと、これはもうグレムリンのぺースに巻き込まれたようなものだ。その結果、部屋を占領されるだけでなく、一度彼等の支配下に入ったものは、いざ必要となっても簡単に取り戻せなくなってしまうのである。
ただ、不思議なことがある。というのは、妻が東京から訪ねてくると、このオイタマーマのグレムリンどもはたちどころに姿を消してしまうのだ。だからそれがいかに扱いにくい存在であるか、日頃どれほど悩まされているかを妻に理解させることができないのだ。いや、その存在そのものさえ、信じさせるのが難しいのである。
きっとこのグレムリンは極端な女嫌いに違いない。ひょっとすると女性恐怖症を患っているのかもしれない。それとも男性によほどつれなくあしらわれたことがあり、その恨みをこんな形で晴らしているのだろうか。
オイタマ−マのグレムリンの同類にアケタマーマ、ツケタマーマ、ダシタマーマなどのグレムリンがおり、しょっちゅう互いに手を取り合って暴れ回るのだが、女嫌いであるところは共通している。妻がたまにやってきてくれれることは、グレムリンどもを退散させる効果があり、口にこそ出さないが実は密かに感謝しているのである。
ただ、妻か帰京してしまうと、たちまちその効果が消えてしまい、前よりも一層ひどく跳梁跋扈するのには閉口させられるのだが。
札幌時代に、部屋の大半をグレムリンに占領され、小さくなって食事を取ったことがあった。周りには、三日前からの新聞紙、折り込みのチラシ、アンダーシャツ、ズボン、ステテコ、タオル、シーツ、靴下、雑誌、文庫本、書籍、紙袋、ゴルフのクラブ、ボール、ゴルフの練習用のマット、手袋、扇子、、カセット、バッグ、ファイルホルダー、鋏、アイロン、べ−パーナイフ、折り畳み式碁盤、碁石・・・いまやグレムリンと化した私の身の回り品がたむろしている。その三日前妻が帰京した直後からまたそいつらが姿を現わしたのである。その時私は、このグレムりンが跳梁する現場を写真に撮り妻へ送ってやることを思いついた。私が日頃どれほどの難敵と孤軍奮闘しているかその写真がが物語ってくれよう。それを見ればきっと妻もグレムリンの存在を認め、私への同情を禁じ得まい。
ところがその肝心のカメラがどこへいったのか分からないのだ。グレムリンどもがちょろまかしたに違いない。
そこまで小馬鹿にされて、さすがの私も黙っているわけにはいかなくなった。私は、唇の端に残忍な笑いをに浮かべ、不用心にものうのうと体を伸ばしているグレムリンどもを見やったのだ。
「よし、今に見ておれ」と。
その後、グレムりンどもを片っ端から片付けるという単身赴任者ならではの愉しみをたっぷり味わったことはいうまでもない。
しかし、やっとカメラを取り戻すことができたときにはもう、撮るべき相手を完全に葬り去った後だったのである。そういう訳で、今もって妻にはこの恐るべきオイタマーマのグレムリンの存在を証明できないでいる。
私が赴任した四国や北海道も、例外ではなかった。いやむしろその種のものに例外的に恵まれた地域だった。今や食は地方にあり、と言えそうだ。東京に戻り月日がたつにつれ、益々その感を深くしている。
確かに、東京の食料品店には、ありとあらゆる食材が揃っている。今では産地直送の生鮮食品も手に入る。グルメブームで、美味いもの店が軒を連ね、エスニック料理店も雨後の竹の子のように増えはした。だから日本各地の料理は言うに及ばず、あらゆる国のどんな料理でも食べられる。だが、何でも食べられるというのは、逆にどんな料理も、平均化するということでもある。技術の進歩はは様々な食品の輸送を可能にした。だが、急速冷凍、活魚輸送、瞬間乾燥、真空パック等の技術も、所詮、地元で食べるのを補う手段にすぎない。これほど技術が進歩しても、かたくなにそれを拒む生鮮食品もある。食物は必要以上に人手が入ると必ず不味くなる。だから地元で食ぺれれぱそれに越したことはない。
産地と東京とで名前が同じというだけで、同じものを食べているという錯覚に陥りやすい。だが、同じ魚と言っても四国や北海道と東京とではまるっきり違う。四国から高松育ちの猫を連れ帰ったのだが、東京の魚を出しても、四国の猫は見向きもしなかった。同じ魚族に属しているとは思わわないらしい。有明海の魚で育った私も初めて上京したとき同じ経験を味わった。これを食べなければ他に魚と名のつくものがないと観念して(諦めてというぺきか)、猫同様初めて喉を通せるようになった。それもずいぶんたってからである。
とはいうものの、戦後の食料難の時代に育ったせいか、何でも食ぺられるし、しかも、美味しく食ぺられる。あの時代には、今になって考えるとよくぞあんな物を食べたものだ、と思うようなものぱかり食べていた。蚕のサナギ、カボチャや芋の蔓。種芋に使った後のサツマイモ、糠の饅頭などだ。それでも、食ぺられること自体に、幸せを感じたし、もうすこし美味いものーと言っても今から見ればごく当たり前のものーを次々と食ぺられるようになるにつれて、幸せも徐々に広がった。飽食時代に育ったらこうは行くまい。
子供の頃から、我が家では何か怪しげな食べ物を貰った時など、いつも私が毒味役だった。食料難時代の申し子だから、私なら何でも口に入れられるに違いないと思われていた。期待に応えて私が挑戦し、意外と実味いというと皆が恐る恐る口にする。その構図は今も変わらない。何で食べられるというだけでなく、生来の好奇心が手伝って珍しいものには目がないのだ。だから、旅へ出たらその土地の食べ物を愉しむのが私の鉄則である。海外旅行だろうが、海外に滞在しようがこれは変わらない。海外に行ってまで、日本食にこだわる人がいるが、気の毒に思えてならない。
そんな払だから、赴任前から赴任先の食物を愉しむ条件は整っていた。赴任は新たな食の愉しみを開拓する願ってもないチャンスだった。おまけに単身赴任で他の欲望が抑制される分だけ、生来の欲望がが更に肥大し、美味いものへの情熱が燃え上がった。四国にも北海道にもこの私の指ぎった食欲に十分応えうるだけの豊かな食文化があったのは、幸運だった。単身赴任が少々の禍を伴うにせよ、東京では滅多に口に出来ない美味いものを食える福がそれを補って余りがあった。
四国では、名物のうどんや和菓子もさることながら、何と言っても瀬戸内海の魚貝類に止めを刺す。ポラ、サワラ、サパ、ナマコ、ハマチ、タイ、メバル、キス、サヨリ、カキなどいずれも新鮮で美味しく、有明海の魚で育った私も、久しぶりに堪能した。高知まで足を伸ぱせばこれも絶品のカツオが持ち受けている。半年後に合流した家族も魚のおいしさに開眼し、今もって目をきらきら輝かせなから、この時代の魚を懐かしむのだ。
北海道も、水産物の新鮮さや種類の多いことでは引けを取らない。例えば、イクラ。確かにに東京でもイクラは食べられる。イクラ丼もあれば、イクラの握りもある。しかし、北海道で食べるイクラとは似て非なる物である。あのさらっとした美味しさは東京にはない。これは断言してもよい。東京の一流料亭といえども、北海適の名もない漁村の大衆食堂にも歯が立つまい。しかも、その値段は月とスッポン。手頃な値段も、おいしく食べるための必須条件である。
ご紹介したいのが、ハッカクという魚。これは蝶鮫そっくりで、前から見ると八角形の面白い面相だ。刺身にしても、煮ても焼いても美味い。魚では他にチップ、サケ、ホッケ、イカ、サンマ、キンキ、ヒラメ、カジカなどがお勧め品だ。貝類はカキ、ツブ、ホタテ、ホッキ、アワビなど。生でも、煮ても揚げてもいける。蟹も、ケガニ、タラパガニ、ハナサキガニと揃っていて、どれも美味。それにウニ、エビ類。ジンギスカンも捨てがたい。一つ一つ書きき出したら紙面がいくらあっても足りない。
赴任先では、食を通じて季節感を取り戻すにとが出来た。旬という言葉は都会では死語になりつつあるが、地方ではまだ生きている。春を告げるのは山菜である。タラノコ、フキノトウ、ハマボウフウ、ワラビ、ゼンマイ・ギョウザニンニクなど多彩で、お浸し、天麩羅などで愉しめる。アスパラガス、夕張メロン、新ジャガさえも季節感を醸し出す。
板前さんには、職人気質で結構凝る人が多く、カニずくしやアワビずくしの店もある。カニのふんどしや、いかのはらわたまで、ネタに仕込んだ寿司屋もある。そういう板前さんに巡り合うのも愉しみなら、採りたての素材に気の利いたエ夫を加えた肴を出してくれる小料理店と馴染みになり、気風のいい女将相手に地酒を一献頃けるのも悪くない。
いずれにせよ、作る側、食べる側双方に食へのあくなき情熱があってこそ、豊かな食文化も花開く。私は戦後の飢餓時代に育ったせいで、目の前に出されると歳も忘れついつい全部平らげてしましがちだが、今後は量より質と幅をこととし、地方へも出掛けて食の探訪に精を出したい。人間の食への執着が尽きぬように、この探訪にも終点はあるまい。
年賀状も人様々で、工夫の跡もあらぱこそ、毎年同じゴム版で、「賀正」と朱肉で押してくる人もいるが、それはそれなりに、ものにこだわらない人柄が偲ばれ、相変わらずだな、とほっとさせるものがあるのだから、何のそっけもない「謹賀新年」と活版印刷したものを送っても良さそうなものだし、よほど手軽なのだが、やはり、例の駄文が頭を離れないのである。
実は、その前の年に、プリントゴッコなる簡易カラー印刷機を買い込み、カラー刷りの年賀状を出し始めたのである。北海道へ単身赴任した時も年賀状用にこのアイデア商品を持参した。
年賀状のシーズンになると新聞や雑誌を見る眼が違ってくる。何か利用できそうな絵柄はないものかと鵜の眼鷹の眼になるのだ。東京の自宅にはコピーマシンもあって、版下作りは比較的手軽だった。私は辰年生まれで、年男の年には竜の絵を使ったが、新聞に載った絵をコピーマシンで水平方向だけ二分の一縮尺し墨筆でなぞって、ささやかながら工夫の跡を残した。
札幌では何か地域性の滲むものにしたいと思ったが、なかなか適当な絵が見つからず、コピーマシンも手元になく、最後に落ち着いたのは、プリントゴッコの付録の図案集から雪だるまの絵を選び、一言、札幌での生活にも慣れ大いに楽しんでおります、と書き添えるおそまつなデザインだった。
だが、たとえおそまつでも、絵柄にとどまらず、色の組合せはどうしよう、なんと書き添えようかといろいろと思案を巡らすと年賀状作りも結構愉しい。それにまた、いろんな人から様々な年賀状をもらう愉しみも大きい。山の版画の専門家、干支の折句の名人、自画像のポンチ絵の名手もいれば、私同様プリントゴツコ活用派もいる。写真を利用する人も増えてきた。
こうした年賀状工夫族と称すべき人は結構多く、今年はどんなものが貰えるかと今から待ち遠しい。
遅れぱせながら私も年賀状工夫族の仲間入りしたが、絵柄も安定していないので、まだ愉しみに待ってくださる人は少ないとは思うものの、それでもその道の先達の爪の垢でも煎じて飲み、少しは絵柄に独自性と一貫性を滲ませる工夫をせねばなるまいと思うようになってきた。
絵を描くことはもともと嫌いではない。小中学生時代にはスケッチ大会によく参加した。新婚時代には妻子や自画像などを描いた。ポーランド滞在時は、三階の部屋がそっくり格好のアトリエになったこともあって、創作意欲がピークに達した時である。その時代の代表作を今もわが家の居間に掛けている。十号大のホビーの絵だ。サムホールから十号大までの十枚ほどは、最近増設した三階の屋根裏部屋に並べている。
油絵を描くには時間的ゆとりはともかく、テレピン油のにおいを完全にシヤットアウトできるだけの空間的ゆとりが欲しい。東京のわが家では、手狭すぎて家中がテレピン油の臭いに汚染されてしまいそうだ。
その意味では、一人で3LDK八十平方メートル強を独占できた札幌時代は絵筆を再び執る絶好の機会だった。そこで、よはど油絵のセット一式をもっていこうと思ったのだが結局諦めた。
持って行ったとしても、時間的なゆとりが足りず描かずじまいになったことだろう。絵心を癒したのは、もっぱら美術館やギヤラリー巡りだった。絵の展覧会や美術館を覗くのは好きで、外国滞在中や海外出張時も寸暇を惜しんで足を運んだ。
パリのルーブル、ロンドンのナショナル・ギャラリー、マドリッドのプラド、ニューヨークのメトロポリタンなどの大美術館だけでなく、フィレンツェ、ウィーン、ワシントン、アムステルダムなど各地の美術館にもいった。
どこでも展示されている絵の多さにあきれながら、文字どおり走り回って見たものだ。オークションに出せば五八億円の「ひまわり」も顔色を失いそうな絵が無造作に廊下の隅の壁に掛けてあったりする。日本の美術館とではスケール・厚みがまるで違う。
絵の前に立つと、画家本人と同じ空間をわかち合っているようで興奮してくる。その絵がたとえ五百年前に書かれたレオナルド・ダ・ビンチの絵にせよ、間違いなくあの大天才が私と同じ位置に立ち、精魂を傾けて、このモナリザを描いたのだ。そう思うと直接作者の息吹に触れたような親近感が湧いてくる。これは複製の絵を見るのと決定的に違うところだ。
札幌では、道立美術館を覗いたり、展覧会や近くのギャラリーを冷やかした。木版画家とも親しくなり、個展にも駆けつけた。会社を訪れた際、応接室の絵を見るのも愉しみだった。いい絵だと文化度の高い立派な企業と思う。ただ、
「いい絵ですね」
と誉めても、素敵な図柄のネクタイを締めた経営者でも絵には関心がないとみえて、
「先代社長がこんなものに散財しましてな。どこがいいのかさっぱりですわ」
とおっしゃったりする。経済力が必ずしも文化度の高さと結びつかないのは、人も企業も国家も同じらしい。
このように、自ら油絵を描く愉しみから遠ざかって久しい。料理を作ることには絵を描くことに通ずるものがあると引合いに出す程度だ。絵筆を振るうといえぱ大袈裟過ぎて気恥ずかしいが、その唯一無二の機会が、年賀状の絵柄を作ることに矮小化してしまっている。それ故に、葉書一枚の小さなスペースの中に一年分の絵心を発散しようと躍起になるのかもしれない。それにしては出来映えは大したことはなく大方の徴苦笑を誘う程度のものに過ぎないが、今年もまた年賀状を書く時節になり、図案を考えなけれぱならないときがきた。
いつもさんざん迷うものだから投函締め切りに間に合った例がない。札幌でも、時間に追われなが、プリントゴツコで必死に刷りまくり、宛名書きで幾夜か徹夜した。今年も徹夜は覚悟せねばなるまい。またしてもこんな文章を書いてしまったからにはなおさらのことだ。
ときおり描きたいという欲求が突き上げてくる。とくにいい絵を見た後など無性に絵筆が恋しくなる。屋根裏部屋を作ったのはアトリエとしても活用したかったからである。これを宝の持ち腐れにせず、せっかくの絵心を年賀状の図案ごときでまぎらさないためにも、新しい年の抱負として実作復活の狼煙を上げるべきかも知れない。ただ、忙中閑を求むべき余技の復活で更なる忙を求める結果となるのであれば薮蛇ではあるが。
手元に「北海道の思い出」と題した一冊のアルバムがある。丁度三十年前、大学三年の秋に二週間近く、一人で北海道へ旅行したときのものだ。急行「みちのく」で九月末に上野を発ち、青函連絡船で函館に渡り、虻田、洞爺湖、室蘭、支笏湖、襟裳岬、広尾、帯広、然別湖、釧路、根釧原野、阿寒、摩周湖、屈斜路湖、美幌峠、網走湖、濤沸湖(原生花園〕、北見、留辺蕊、温根湯、層雲峡、上川、旭川、札幌、小樽、長万部、函館の経路で道南を巡った。
よほど印象の深い旅行だったらしい。アルバムが丹精込めて作られているのだ。後にも先にもこれほどのものはない。
一頁目には、北海道全図の中に、旅程や、宿泊した旅館の名前から、訪問地の印象やコメントが記されている。写真は、時代を映して全部白黒だが、一枚ごとに和歌や俳句や、詩が書き添えられている。それ以外にその当時の和歌など残っていないのだから、旅にはなにか歌心をくすぐるものがあるらしい。全七五首、どれも拙い歌だが、和歌や俳句の訴求カは大きい。
洞爺湖ときくと私の頭の中には
−わが胸を澄ますがごとく吹く風も光も水も清き洞爺湖
の洞爺湖が思い浮かぶのだ。もちろんこのアルバムは北海道へ赴任するとき持参したが、こうした歌で定着させられた、あるいは固まったイメージを結ぶ場所に、その再確認のためにも、赴任中になんとか一度訪ねてみたいと思い、それを愉しみにしてのことであった。
−いつかまたこの景色をば愛でむ日ぞ眼を凝らし見る幌泉行きバス
これは日高の様似から幌泉へのパスの中で詠んだ歌である。この歌があるために、なんの変哲もないこの地に是非とも行ってみたいと思っていたのだが、なかなか機会がなく、赴任後丸一年も間近い六月半ば、自分の車で行った。三十年振りと思うと何故か胸が踊った。
砂埃を巻き上げて走った砂利道は、すっかり立派に舗装されていた。ただ荒々しい目高海岸のイメージは残っており、無心に戯れる海鳥は、三十年前の写真と変わらなかった。
ー海原は淡き緑に輝いてさかまく波の泡ぞ白けり
しかし、三十年は時が経ち過ぎたきらいがある。すっかり変わってしまい、昔の面影が何も残っていない所も多い。
幌泉の先の襟裳岬にしても、往時は何もない春と歌われたようにそれこそ何もない岬で、夕刻近く風が吹き荒れていた。岬の端まで行き、荒れた海をこわごわ覗き込み、旅で知り合った友達七人とコートの裾を風に捲られながら記念撮影した。
ー天と地の吠え声ならむ猛き風襟裳岬に黄昏こめて
三十年振りの襟裳岬はすっかり観光地化して、コンクリートの立派な展望台や、大きな土産物屋や食堂が出来、駐車場には大型の観光パスや乗用車が並び、人が右往左往している。石の階段を隆りてずっと海の中まで延びた岩場まで行けるようになっている。
恐々の感覚はなくなり、いかにも飼い慣らされた自然の趣である。六月とはいえ、その日も風は強く冷たく、日高海岸に沈んでいく夕日の眺めは雄大だったけれど。
アルバムに登場するのは、学生服の七分刈りの若者だ。なにせ若い。和歌にも、コメントにも若気と甘さが漲っている。丁度三十、歳が違う息子と同じ歳なのだから止むを得まい。行く先々でいろんな人と知り合い、中には密かに心をひかれたらしい女性も登場する。
一旅に会いともに旅せし乙女子のほのかに染めしくちぴる愛(かな)し
−その人の名をも知らずにポール投げも五目並ぺもともにせし女(ひと)
と、盛んに熱を上げ、帰京後も、思いを馳せた歌を詠むのだ。
ーわれ独り下宿の部屋の片隅に旅の乙女を想う夜の雨
ー雨音のかそけき夜の暗闇にわかれし女(ひと)の姿浮かぺり
網走湖畔にあったユースホステルも、是非とも訪ねたい所だった。
−網走湖は人の情けの色に染み清き優しき水の色かな
と歌った一首があるからである。宿の主人はとても心遣いの優しい人で感じがいい、というコメントも残っている。その人の妹さんとは、一緒に宿の玄関口で撮った写真を送ったのがきっかけだったか、年賀状のやりとりも数年続けた。
赴任後も、道東へはなかなか足を延ばす機会がないまま、たちまち一年の赴任期間は過ぎた。そこで退官後、北海道での最後の一週間を充てて、車で道東を旅行することにし、層雲峡、石北峠、摩周湖、美幌峠などを逆方向に辿り、網走湖へ向かった。
どこも開発が進み、舗装路が通じ、快適なドライブが楽しめた。町の外れのイメージの強かった網走湖も、周囲には立派な道路が巡り、葦の生い茂っていた湖畔も綺麗に整備されていた。
見覚えのある風景の一角に赤煉瓦色の立派なビルが建ち、観光ホテルの看板が出ていた。恐る怒る入っていき、此処がかつてのユースホステルかと尋ねると間違いないという。
幸いご主人にもお目にかかれた。ほぼ三十年振りに訪ねて来たと話すと喜んで頂き、記念に自ら作られたというアイヌの神を題材にしたキーホルダーを下さった。記憶は定かでなかったがその優しげな話し振りには、「人の情け」と詠ませた人はこの人に違いないと思わせるものがあった。この人だからこそ、これほど立派な観光ホテルに育てえたのだろう。北海通観光連盟の副会長も勤めておられるらしい。妹さんは他家に嫁がれたとのことだった。
この宿のコメントには、ご馳走が出たとあるが、中身となると海老フライ、イカの刺身、カボチャの煮付け、シジミのおつゆとなっている。これ以外にも出たのかもしれないが、三十年前のユースホステルの食事のレベルや、貧乏旅行の実態が推し量れよう。
是非行きたいと思いながら果たせなかった所に然別湖の山田温泉がある。ランプの中で温泉につかり、親切で鄙には稀な美しい人に会い、寒い早朝、パスまで素足で見送って貰った所だ。いつか此処を訪れ、あの人にも巡り合い、やり残したノスタルシック・ジャー二−の最終章を書き終える日があるだろうか。
今や写真は溜まっても、丹精込めてアルバムに編む元気も失せ、様々な場所へ旅行しても、新たなノスタルジーを喚起する景色や人々に邂逅する機会が少なくなりつつあるのを感ずる。ノスタルジーとは若い情熱の反映であり、若い時代への憧れの要素を多分に含んでいるように思える。とするなら、あの道東への旅こそ、最後の本格的なノスタルジック・ジャニー−だったのではあるまいか。