単身赴任者の愉しみ(1)

     JIHYOU-ESSAY-1:891129  
 三 度 目 の 正 直
                    阿部毅一郎
 私には、単身赴任の経験が二度ある。最初は、かれこれ十年あまり前、行き先は四国の高松だった。その時のことだ、「単身赴任者の愉しみ」を執筆しようというアイデアが浮かんだのは。しかし、残念ながらそれは実を結ばなかった。たかだか六カ月だけの単身赴任だったから、その道の蘊奥を極める時間的余裕がすこしばかり足りず、途中で筆を折らざるをえなかったのである。

 二度目は札幌行きだった。これは、高松以来八年振りに巡ってきた、未完の「単身赴任者の愉しみ」を完成させる願ってもないチャンスだった。そこで私は、むしろいそいそと札幌へ赴いたのだ。

 だが、赴任の辞令ってやつは、いつも決まってこちらの都合の悪いときを選ぶようにしてやってくるものだ。一度目は、自宅の地鎮祭の直後だった。さて、本格的に建築開始という矢先に、上司に呼ばれて、

「君、人事異動だ。悪いが都内ではない。行先は高松だ」

「はぁー」

 それだけだった。こっちの都合をいうチャンスなんて、サラリーマン社会ではないに等しい。帰って家族に、

「今度、高松に行くことになったよ」

というと悲しいことに誰も信用しないのだ。これには参った。

「嘘でしょう。まただまそうと企んでいる。あなたって、いつも他人を担ぐことばかり考えているのだから。もうそんな手には乗りませんよ」

「そんなに高松に行きたいのならパパ、冗談でもなんでも自分だけで行ってきたら」

日頃の不行跡がこんなところで祟るものなんですね。

「本当だよ、ホントにホントなんだから」

さんざ説明してやっと家内も、亭主は担ぐことに必死になっているわけでもないことに気付いたらしく、

「家を建てようという矢先にそんなことってあるかしら。私一人じゃ家なんて建てられないわ。人事異動取り消して貰えないの」

女房族ってのはサラリーマン社会の厳しさ・切なさってのが分かっていないので、時々気軽なことを宣うものなのだ。

 まあそういう次第で、建築の見張り役に家内を、それに母親が残ることになれば運命をともにせざるを得ない子供たちを残して私一人で高松に赴いた。当時娘が小五、息子は小三だった。

 札幌行きのときは、家族を連れて行こうにも、いろんな不具合が重なっていたうえに、息子は高校三年で丁度大学受験勉強の真っ最中だった。単身赴任もやむを得なかった。

 だが考えてみると、どこかに定着して生活をしている以上、いきなりそこを離れようとすれば、何もかも都合よくいくわけがないのだ。それに、五十近くになれば子供も大きくなっているし、彼らには彼らの人生が始まりかけており、なかなか一緒に行けなくなるとしたものだろう。

 最初のときは、自宅の建築が完了し、子供達にも都合のいい四月に家族を呼び寄せた。それで単身暮らしは六カ月で終ったのだ。ところが呼び寄せて一年一カ月ちょっとで帰京命令が飛び込んできた。それが五月初旬のことで、その四月に中学生になったばかりの娘は、制服を整え教科書を買い、クラスメートに馴染んだところだった。一度赴任してしまうと今度は帰京に都合の悪い時期というものも出来てくる。一片の辞令の陰にはサラリーマン人生の思いがけない非喜劇が隠されている。

 そんなわけで最初の単身赴任は六カ月ぽっきりだったから、私としても単身赴任者「道」の奥深く分け入り、愉しみの極意をつかむまでには至らず、一書をものにするだけの自信がつかなかったのである。そこで、二度目のときは今度こそいいものを書き上げようと実は赴任の前から構想を練り始めた。テーマはたちまち四十近くにもなった。趣味のテニスや碁の愉しみ、それに一人酒、一人旅の愉しみなど本筋を行くもののほかに、あつかましくも、料理の愉しみとか主夫業の愉しみなど、やや異筋に属するものも拾い上げた。

 一つのテーマにつき原稿用紙十枚ずつも書けば一冊の本になるだろう。よし、これを仕上げ、出版することを最後の愉しみに付け加えよう。夢は、風船のように膨らんだ。そのため、東京からわざわざ愛用のワープロを持参したりもした。

 根っからの楽天家で、好奇心を健康法とする私はこうして北海道生活を大いに楽しむつもりで札幌へ赴いた。しかも、札幌では地元のある雑誌社からのエッセイ連載の話が待ち構えていた。テーマはお任せしますという。渡りに船とはこういうことをいうのだ。シリーズのタイトルを「単身赴任者の愉しみ」にしたことはいうまでもない。毎月連載していけば、赴任が終わる頃には放っておいても一巻の書物が完成しているに違いない。とたかをくくっていた。

 ところが、好事魔多しでもあった。せっかくの雑誌が連載二回にして廃刊になってしまったのだ。これで最初の意気込みもたちまち萎んでしまうことになったのである。

 こうして、三度目の正直で今また因縁の同じタイトルで執筆を開始することになった。一体どんな結果にあいなりますか・・・それこそ愉しみというものである。

(時評90/2)


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単身赴任者の愉しみ(3)

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五 段 は イ ロ ハ

 将来、単身赴任をする可能性が、たとえ万分の一にせよある人に是非ともお勧めしたいのが、ゴガクの勉強である。ゴガクさえ出来ればどこへ行っても直ぐ友達ができる。愉しみにも事欠かず、ヒマを持て余すこともない。私も最初から単身赴任する星のもとに生まれたと分かっていたわけではないが、ゴガクをある程度身につけていたお陰で、単身赴任しても、無聊をかこつこと、ゴガクを知らない人の数分の一で済んだような気がしてならない。しかも、相手が欲しい単身赴任時代は、ゴガクに磨きを掛ける絶好の機会なのだ。かくいう私がゴガクの腕を上げたのも、単身赴任時代だった。

 読者の皆さんは、このゴガクに、それぞれ自分の文脈で、語学なり、碁学なりを当てて読まれたに違いない。ここで私がいいたいのは、碁学の方のゴガクである。語学ができて碁学もできればそれにこした事はないが、私は、語学はからきしだめなので語る資格がない。

 碁学は、単身赴任者の配偶者にも絶対お勧め品である。幸いにしてというか、私の妻も、ほんの少しであるが、碁学をかじっていた。そのお陰で、私の単身赴任中に私同様大いに慰めになったこというまでもない。夫婦揃って碁が打てれば、共通の話題もでき、老後の愉しみにもなるとしたものだ。

 妻が碁に興味を持った経緯がいささかふるっている。東京で世界アマチュア囲碁選手権が開催された折りに、ヨーロッパ圏の各国代表を七、八人我が家に連れてきたことがある。ポーランド代表が、かつてワルシャワの日本大使館に勤務したとき、商社の駐在員の人と一緒に毎週碁会所を開いて碁の普及を図っていた際に、井目(九子)から胸を貸したことのある男だったので、その男ともども連れてきたというわけである。

 ところが、我が家に着くか着かないうちに、碁盤を引っ張り出してみんな碁を打ち出したのである。夜が更けるのも忘れて。妻はそれを見て、碁とはそんなに面白いものか、それなら自分もやってみようという気になったのだという。そこでさっさと手続きをして、日本棋院の入門講座に通い出したというわけだ。それまで、私が何度口を酸っぱくして、碁は面白いから始めたら、といっても聞く耳を持たなかったというのに。

 北海道に単身赴任しての最初の夏休み、妻が娘と一緒にやってきた。ちょうどその折、NEC杯争奪のプロの公開囲碁対局が札幌で開催され、私も招待された。対局後の懇親パーティーの出席者の中になんと妻の講座の講師のH六段の名があるではないか。そこで妻、娘同伴で出席することにした。H六段も妻を覚えていてくれて、思わざる場所での会合で話は大いに盛り上がった。

 そのパーティーには、連続四期目の本因坊位の防衛を果たしたばかりの武宮本因坊や林海峰九段など日本でもそうそうたる打ち手が揃っていて、囲碁ファンには垂涎の会だった。中ではアロハシャツに縞の背広の武宮本因坊が異彩を放っていた。大竹九段との本因坊戦第七局の宇宙流を地で行く絶妙のうち回しの話をしていると、娘が近くにやってきた。と、武宮本因坊、早速、小手をかざして、

「君、こっちにおいでよ。ほんとに可愛いね。碁知ってる。難しいって、そんなことないよ。自分の打ちたいところへ打てば勝つんだよ。是非覚えなさいよ」

 この底抜けの明るさ、この屈託のなさ。さすがに一流の人は違う。服装を含めて、娘も妻も心底感心した。

 ワルシャワ時代には我々が囲碁普及に精を出していることを聞き及んで囲碁使節団が二回も来てくれた。その時以来の付き合いが続いているのが、NHKの囲碁講座の司会役でお馴染みの小川誠子四段である。

 この人が勝負師かと思うぐらい優しい人で、私に会うと

「ねえ、見て見て」

と決まって愛娘の写真をハンドバックから取り出される。一月で五万円の現像代に近くのDPE屋の小父さんが

「また現像ですか」

と目を丸くした。ビデオカメラを二台も買って夫婦で撮りまくっている。この頃では

「そんなことをしてはいけませんよ」

と三ツ半になる娘にたしなめられ、

「はいわかりました」

というのですよと、いかにも嬉しそうに話す彼女は勝負師というより、子煩悩な母親でしかない。ところが、その彼女も人一倍悔しがり屋で碁に負けて帰ると部屋に閉じ籠って布団をかぶっていると人伝に聞いたことがある。

 さて、肝心の碁の話しだが、ワルシャワにも来たことのある、春山勇九段に

「アマチュアの五段の実力はどのくらいか

」と聞いた事がある。言下に

「まあ、碁のイロハがわかったところでしょう」

という返事が返ってきた。妙にがっかりもし、安心もした。イロハであれば、誰でもそれぐらいは分かるようになるとしたものだから。当時プロの見立てでは私は強い四段ということであった。

 だが、たとえ未就学児童並みのイロハのレベルにせよ、千変万化し、スリル満点の碁の魅力に取り付かれたお陰で、高松でも札幌でも、多くの碁友に恵まれ、碁会所にも馴染みとなり、様々な碁の大会にも参加でき、プロ棋士の知己も得、プロとの打ち碁を新聞にも掲載して貰い、碁を通じての友人の輪も広がり、碁をめぐるエピソードには事欠かず、新聞の囲碁欄を愉しみとし、碁の週刊誌を待ち遠しがり、テレビ対局に我を忘れ、対局した夜にはなかなか寝付けず、碁の本を買い漁り、プロのタイトル戦の報道に一喜一憂できる。要するに毎日の生活に張りができ、単身赴任者としての愉しみに幅と深みが増した事は疑いない。

 現在では、イロハよりはもう少し分かったつもりで打っているが、天下の藤沢秀行名誉棋聖が、碁の神様が百わかっているとしたら、自分などまだ六か七しかわかっていない、いや、それもおこがましく、もっと下かもしれない(岩波新書「勝負と芸」一八五頁)などといっているのを知って、その自信もいささか揺らいでいる。

(時評90/3)




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単身赴任者の愉しみ(9)

   白球賛歌  

 芸は身を助すくという。

 私には、芸に値するものが何もないので、テニスも芸と認めていただき、しかも、それが芸といえる域に達していると認めていただくならば、この諺は日頃の実感そのままである。

 なにせ、この道四十年に達する。私のいくところ常にラケットがあった。いまも週に一二回はコートに出る。少々気が滅入っていても、しばらく白球を追えばたちまち忘れてしまう。テニスをめぐる友人も多い。表彰状を貰うことなどめったにないが、そのほとんどがテニスの関係だ。とにかくテニスさえ出来ればそれだけで満足で、自らテニス狂徒をもって任じているが、家族全員を道連れにするのにも成功し、おかげで精神的ちゅうたいの核になっている。相手に不足しない。

 私がラケットを初めて握ったのは小学五年のときだから、まさに今年あたりがテニス歴四十年目に当たる。四十年もたてば、食うや食わずやの国さえ飽食の国に変る。腕が上がっていなくてはおかしかろう。森毅は、四十年もたてばあらゆる組織は生きた化石になり、水虫すらも世代交替するという。この伝でいけば、私の芸も、本人の思惑とは別に、すでに生きた化石になりおおせ、テニスの虫もそろそろ世代交替を始めていておかしくない。

 四十年前、九州の片田舎でテニスといえば軟式テニスであり、私が初めて握ったラケットも当然軟式用だった。小学校のテニスコートで、先生たちのゲームを見て興味をそそられ、早速、見よう見まねでラケットを振り回してみた。やってみると結構面白い。そこで中学では、迷わずテニス部に入った。

 九州も西の果てで夏の日没時間は東京より一時間も遅い。しかも日没後もボールに石灰を塗って練習したから、練習を終えると八時にはなっている。とっぷり暮れた中を家に帰り、夕御飯を食べ終わるか終わらないうちにバタンキュー。高校受験勉強の必要のない田舎のことだから三年生になってもこのペースは変わらなかった。

 猛練習の甲斐あって、郡市対抗の団体戦で、わが母校は二年連続優勝を飾った。私は二、三年とも同じペアで出たが、二年のときは前衛、三年のときは後衛だった。幸い、この団体戦では全勝し、優勝に貢献できた。三年生のときは主将で出て、選手宣誓をした。

 それ以来、私のいくところ常にラケットがある。それも社会人になってから、軟式用から硬式用に持ち変えた。その時この人を置いて他にいないほどの名コーチに恵まれ、軟式から硬式にうまく転向できたのは幸運だった。爾来職場のクラブのメンバーとして、クラブのダブルス選手権や、年間十回をこえる団体対抗戦を愉しんでいる。現在形でいうのも、職場を変わった今でも、そのクラブのメンバーだからだ。薄給にボールの白さを掛けた名前を持つそのクラブには、やくざの組同様一度入ったら抜けられぬとの掟がある。

 そんなわけだから当然高松にも、札幌にも、ラケットを持っていった。高松では、早速テニス仲間を作り、毎日曜日車で誘ってもらい試合を愉しんだ。半年遅れて合流した妻もここで、本格的にテニスを始めた。それがいまでは病み付きになり、札幌にきたときも近くのコートでナイターを二人で愉しんむほどになった。

 札幌では、職場対抗戦を何度かやった。東京からの赴任組にかねてペアを組んだこともある本チャン(大学時代テニス部の正選手)組がいたので、戦績は悪くなかった。

 試合は、たいてい屋内コートだった。窓の外では雪が降り頻っているのに、たちまち汗びっしょりになる。帰りがけにヤング・ギャルも一緒にジンギスカンをつつきながら生ビールをキュッとやる。優雅だった。

 東京時代のテニス仲間で現地出身の代議士になった人と久し振りにシングルス戦もやった。その時は、幸い前回の苦杯を雪ぐことができた。

 とはいえ札幌ではややテニスの回数が減っていたので、帰京前の二か月、近くの室内コートで週一回のレッスンを受けた。時間は夜九時二十分から十時五十分まで、しかも上級コースを選んだのでかなりハードだった。コーチは北海道NO・1といわれる人でほとんど休みなしの猛訓練だから終わったときにはさすがにぐったりする。当然、若い人が多く、中には私の娘より若い、高校生の左利きの女子選手もいた。なかなかシュアでボレーを打ち合う練習で私とペアを組んだこともあったが、こちらがたじたじするほどだった。

 レッスンのある日に、宴席や乾杯の音頭を取る催しなどがあると、できるだけ酒を控えて出掛けた。しかし、アルコール分が少し残っていて、途中で苦しくなったことも何度かあった。

 四十年も、テニスをやっていると、それにまつわるさまざまな思い出がある。ワルシャワ時代は、ブリテッシュ・クラブで各国の仲間とよくシングルスを愉しんだ。見上げるような巨漢でターバンを巻いたインド大使館の武官とクラブ選手権のシングルスの決勝戦であい見えたことがある。相手は剛球の持主でサービスやフォアのトップスピンがびしびし決まる。最初は手のほどこしようがなく、ひたすら耐えて拾い捲り、次第に相手の弱点のバックに球を集めてミスを誘い、二セットとも一ー四の劣性を跳ね返し、ロングゲームに持ち込んで粘り勝ちした。もともと格好は二の次で、拾いまくるのが身上のテニスなのだ。

 薄給に白球を掛けた職場のクラブで、若い頃、同期の名手N君と組んで総会のダブルス戦で優勝したところ、すぐ離縁を迫られた。ほっておくと毎年優勝しかねないと思われたらしい。N君も軟式からの転向組で格好よりも実質本位で粘りを身上とするところなど私のプレースタイルとよく似ている。そのせいかお互いに気心が通じて誠に組みやすい。しかし、別れろといわれればそれに従うよりなかった。

 その後十四五年たって二人の年齢の合計が九十を超えたらやっと復縁を認められた。その年から四年連続優勝した。五年目が、準優勝に終わったところで、彼が大阪へ私が札幌へ赴任したのでそのままになったが、今夏彼も二年振りに帰京したので、今度は合計年齢百歳での優勝に挑戦しようと考えている。

 今も、近くのテニスクラブで土日汗を流す。歩いて五分のところにあるので一時間でも暇があれば出掛ける。妻もレッスンを取り、週に三四日はプレイするので、相当腕が上り、この頃は一緒に対外戦に出る。私の都合が悪くても、一人で出、毎年、結構いい成績を残すようになった。昨年も夫婦揃って優秀賞の賞状をいただいた。

 テニスの後のビールは何と言っても最高だ。だからといって、ビールのためだけのテニスにまでは落ちぶれたくない。テニスではネットについて少々楽をする人を担いで、コート中を走り回り、ボールを拾いまくる方を馬という。わたしは今年で五十になったが、まだまだ現役の馬として時には私より年下の人を乗せて(乗せたつもりで?)走り回っている。とにかく、いつ引退してもおかしくない馬としての余命を一日でも長くするため、これからも週末毎の調教を怠ってはなるまいと思っている。

* ラケットも昔の木造のものから、今日のようにガラスファイバーなどの新素材を使い、ミッドサイズでスイースポットの大きなものへと大変換を遂げた。靴やテニスウエアも素材からはき心地まで、ずいぶん良くなった。テニスの人気は、大変なもので、テレビは決まって四大トーナメントや冠大会の模様を放映する。夜が更けるのも忘れてウインブルドンや、全米オープンを見る。選手の高度なプレー振りにはただただ溜め息のみ。じかにみた名選手。ボルグは売りだし中に、ワルシャワで見た。

(時評90/10)


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単身赴任者の愉しみ(10)

   見果てぬ夢           
JIHYOU TANSIN 900630 0809
 人にも土地にも相性は付き物だ。その善し悪しで、生涯の親友にもなれば不倶戴天の敵にもなる。第二の故郷にもなれば、二度と訪れたくない土地にもなる。

 ところで、赴任直後参加したゴルフコンペで、昨日届いたばかりのゴルフクラブで生涯ベストのスコアを出し、いきなり優勝したような場合、これを相性がいい土地といわずして、いったい、どこをいうのだろう。

 札幌へ赴任したら、四日目に商工会議所のゴルフ大会があるので、是非出るようにと誘いを受けた。ゴルフクラブは引っ越し荷物と一緒にその前日に着くはずなので出れぬことはない。ただ、赴任前後のばたばた続きでくたびれているし、どうしたものか、と迷ったが、いつもの伝で思い切って出ることにした。

 と、十一時に車で迎えにきてくれると言う。赴任の一月前に東京でやった時には、朝の四時半に起きて五時に自宅を出たと言うのに。

 前日は、夜遅くまで届いた荷物の片付けをしたが、ゆっくり朝寝坊ができた。約束の時間に出てもゴルフ場には正午前に悠々着いた。早速コースに出ようとすると、まあ慌てずにお茶でもいかがですかという。なんと、午後一時のスタートなのだ。

 初めての土地での初めてのゴルフだ。それもまったく初めての人達に取り巻かれての。とにかく思い切ってプレイしよう。スコアにはこだわるまい。そう思って打つといつもは左右にぶれるティショトが意外と曲がらない。その結果、前半はボギーペースをやや上回る、私にとっては思い掛けぬいいスコアが出た。

 さて、ここで一休みし腹拵えをして後半に備えよう、と思っていると、同伴の皆さんは、クラブハウスの傍らの茶屋にほんの数分立ち寄って、軽くいなりずしを食べたり、おでんをつついたりして、直ぐに後半のプレイに移られるのである。ハーフが終わると一時間も二時間も待たされて、やむなくビールを飲み、昼飯をたらふく食べる東京方式とは違うらしい。ゴルフをスポーツと考えれば、確かにこれは理に適っている。私もおいなりさんを二つ摘んで、すぐ皆さんの後を追った。

 そのせいかいつもは前半が良ければ決まって崩れる後半も前半の好調がそのまま続き、上がってみれば、前半と同スコア、トータルでこれまでの生涯ベストをツーストロークも上回っているではないか。当然アンダーパー。結果はハンディキャップ十八以上のBクラスで、二位と一打差で優勝の栄に浴することになったのである。

 ゴルフ場の地の利は札幌が東京より数段優れている。車で一時間以内に、ゴルフ場が数え切れないほどある。料金も安い。東京の一回分で、二回から三回も行ける。しかも、自宅から歩いて直ぐの所におあつらえ向きに、打ちっぱなしのゴルフ練習場まであるではないか。ゴルフの腕を上げるのに、これ以上恵まれた環境があるだろうか。それに、北海道での第一戦で生涯ベストが出たのである。よし、練習場にもマメに通い、ここにいる間に大いに腕を磨くとしよう。相性のいい北海道のことだきっとうまくいくに違いない。

 マイナス要因といえば、ゴルフシーズンが四月から十一月の半ばまでと短かいことくらいだ。しかし、それにも拘らず、東京時代よりもプレイ回数はずっと増えた。東京でのように五時起きで丸一日掛かりということがない。ここでは一日を二日分に使えるから手軽に出掛けられる。冬の間、半年もクローズするので、芝の状態が実に良く、ノータッチのコースが多い。土地が広いからコースはどこもたっぷり距離があり、OBゾーンが少ない。だから思い切って打てる。私のようにティーショットが不安定ながら、距離の出るプレイヤー向きのコースといえる。梅雨もなく、真夏でも、涼しくて爽やかである。どこのコースも自然が豊かで景色が良い。愉しめる要素が揃っている。

 だが、これほど恵まれた環境にいながら、当初の意気込みほど腕を上げられなかった。いま考えると残念でならない。行こうと思えば何時でも行けたものだから、逆に緊張感を失い、愉しめばいいではないかと安易な気持ちになっていた。練習場でしこしこ練習する気にもなれず、結局近所の練習場には一度もいかなかった。その後の一年間で初回のスコアを上回ったのは、ただの一度、それもワンストロークにすぎない。

 だが、練習場にはいかなかったものの、室内でクラブの素振りだけは結構やった。単身赴任だから誰からも文句をいわれずに済む。それがあまりメタメタに崩れたりせず、三回も優勝できた要因かもしれない。東京に帰ってみると、室内でクラブを振り回そうものなら

「ちょっと止めてよ、危ないわ」

「音がうるさい」

などと家族の総攻撃を受ける。素振りもせず(するわけにもいかず)、ましてや練習場にもいかず、回数は減ったうえ、またぞろ五時起きゴルフに戻ってみるとスコアは北海道への出発前より悪くなった。帰京後一年たっても、その間のベストスコアが、生涯ベストに比べ五つも悪いし、ワーストスコアとは実に三十の開きがある。その昔を知る友人から、

「いったいどうしたんだ」

と同情される体たらくである。

 ティショットで「本一」といわれる会心のショットを放ったときのあの快感。これこそ現在の私にとってゴルフの愉しみのうち最大かつ唯一のものになってしまったが、ただ、この種の愉しみに安住しているかぎり、平均スコアが上がったり、生涯ベストスコアが更新される可能性は絶無だろう。この低迷状況から脱却するには、やはりもう一度北海道へ赴き、あの広大な大地に向かって思いきりクラブを振り回すのが一番なのかも知れない。ひょっとすると、またしても初日に、いきなり生涯ベストを更新するかもしれないではないか。

 しかし、初日に生涯ベストが出るものの、その後たとえ一年いても一ストロークしか改良しない恐れもある。ここまで考えると、果たして本当に相性がいい土地だったのだろうかという疑念が私の頭をよぎるのである。いやいや、生涯ベストを記録した土地にそうした疑念を向けるのは不遜というものだろう。

 下手な私にとっても、ゴルフはとてつもなくおいしい御馳走に思える。だから、直ぐぱくりとかぶりつくのが惜しい。テニスコートを走り回れるうちは先の愉しみにとっておきたい。足腰が衰え、走れなくなったら、その時こそ、ひたすらゴルフに熱中して、プロにも付き、練習場にも通い、それこそおいしい御馳走にありつこう。

 だが、その魂胆が旨くいく保証があるわけでもない。永遠に御馳走は口に入らないかもしれない。だけど、それでもいい。およそ平均的なアマのゴルファーにとって、ゴルフの本質的な愉しみは、見果てぬ夢を追えるところにこそあるのだから。

(時評90/11)


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単身赴任者の愉しみ(11)    

リトリーバル・ミーティング                900907-tansin 
 人と人とのつながりがまるで意図的に紡いだような美しい模様を描きだした稀有の経験がある。

 北大名誉教授のI教授、ワシントン大学教授のジャックとK教授、アラスカ西南大学のパトリシア学部長、シアトルの少壮実業家ブライアン。この五人とも、北海道にいる間に別々に知り合い、一九八九年春のわずか十日ばかりのアラスカ・シアトル旅行で、私がまるでスピンドル(紡錘)のようにその全員の間を紡ぎ回る役回りを演じたのだ。

 そもそもの始まりは北海道への赴任直後のフォーラムだった。「北海道の未来を考える」と題して、北海道の有識者50人を集めて開かれた一泊二日のそのフォーラムに赴任して二週目だったが、この種の催しが好きな私は喜んで参加した。その際、盲蛇に怖じずで積極的に発言したのが主催者の目に止まったのか、その秋、天城で開催するアスペン・セミナーへも招待された。こっちは、外国人八人を含む総勢二十人が、三泊四日寝食を共にしながら日本の政治、産業政策、日本的経営、文化などの広範なテーマについて議論し合う。

 ここでは、私は持論の「気」がキーコンセプトであるとする日本文化論・日本的経営論を展開して、参加者全員と親しくなった。そのとき、共同議長を務めたのがワシントン大学教授のジャックと「イエ」理論などで高名なK教授だった。

 ジャックは、テニス好きだったので一緒にダブルス試合を楽しんだが、最後に二人だけでシングルス戦をやった。これには私が勝った。

 北大名誉教授のIさんとは、三年前、札幌で開催する国際会議の資金的援助を求めて上京されたおり、まだ東京にいた私が手助けしたことがあり、旧知だった。きっと、その時の記憶があってのことらしい、私の職場に頼めばなんとかしてくれると期待され、北海道アラスカ会議を開催したいという話を持ち込まれた。早速協力を約すると、アラスカからアラスカ西南大学の一行が私を尋ねてきた。

 団長が経営学部長で美貌のパトリシアさんだった。小柄でにこやかで清潔な魅力の持ち主だった。

 結局この話が纏まって、総勢10人を越える一行が、I教授を団長にアラスカを訪問することになった。北海道とアラスカ、両国の北端に位置し、ラースト・フロンティアといわれる両地域の共通の問題について話し合おうというのが主な目的だった。

 ブライアンとは、夕張市で知り合った。産炭地である空知地域の開発プランの国際コンペがあり、それで特別賞を受賞したチームの一員として、彼は表彰式に参加したのだ。その時、二週間後にアラスカから札幌市の姉妹都市であるポートランドを回って帰る旅行の予定があることを話すと是非シアトルに立ち寄れという。当初の旅程では、シアトルには飛行機を乗り継ぐためほんの数時間立ち寄ることになっていたが、出発も押し迫ってアラスカ側からロシア時代の州都シトカへの旅行をキャンセルする旨の連絡が入った。これでシアトルで二泊出来るようになった。

 その旨、ブライアンにFAXを送った。その際、ワシントン大のジャックと知り合いなので彼にも会えるようにしたい旨書き添えた。折り返しFAXが届いた。ブライアンとジャックとは旧知の仲で、シアトルへのお越しを二人して心からお待ちしている。とくにジャックはあなとのリトリーバル・ミーティングを期待しているので、その用意をして来るように、との内容だった。

 アラスカではパトリシアの計らいで、誠に心のこもったもてなしを受けた。アンカレッジから州都ジュノーへゆったりした旅程が組まれており、アラスカの大自然と行く先々で人々の親切さを十分味わった。団長のI教授も、飄々とした人柄でなかなか評判が良かった。会議では私も、英語でキーノート・スピーチをやった。毎日が充実した実りのある旅だった。会議の合間にパトリシアがいった。

「阿部さん覚えてますか。札幌で私があなたを訪ねたとき、アラスカでもテニスが出来るかと聞いたでしょう。私は忘れませんでしたよ」

彼女は、得意気に人差し指を振りかざした。

 彼女はちゃんと相手まで選んでおいてくれたのだ。室内コートで久し振りのシングルス戦をやった。大熱戦の末勝ったものの、当時練習不足気味だったので、掌に大きなマメができ、三セット目には潰れた。大柄の相手は、一球一球うなるような球を打ち込んでくる。私はそれを拾いまくる。相手は決めたと思ったボールが返ってくるのに焦って、もっと強いボールを打とうとする。そこでミスが出る。ゲームは終始そんな展開だった。試合後、相手は敗北に納得がいかない風で、ここには私のようなタイプのプレーヤーはいないので戸惑ったといった。応援にきていた奥さんも残念そうだった。

 シアトルではブライアンが誠に行き届いたプランで私を迎えてくれた。市の中央の一番高いビルからヘリコプターで飛び立ち、湖に取り囲まれた美しいシアトル市を上空から隅々まで堪能させてくれた。山裾にある美しい大きな滝の側に下り立ち滝に見とれているとその後ろに何時の間にかジャックが立っていたり、昼食には、レストランの一番滝を見やすい個室が予約してあるという按配だった。

ジャックは昼飯を食べながら、リトリーバル・ミーティングの意味は分ったかと尋ねた。えーすぐわかりましたと答えると、ブライアンが阿部さんなら分ると思い、ジャックがテニス・マッチと書けというのを押し切った。職場に打つFAXに遊びのことを書くのも不謹慎だしネとウインクした。いやそのお陰で実はジュノーでもテニスを楽しんで来ることが出来ました、と私は答えた。

 昼食後、美しいワインケラーに案内して貰い、御土産にワインを半ダース買った後、ジャックのテニスクラブに行き、懸案のリトリーバル・ミーティングを開始した。リトリーバルには敵討ちの意味が込められているが、私の返り討ちに終わった。掌のマメに絆創膏を貼ったものの、直ぐ取れてしまうので血を滲ませながらの文字通り痛い血戦だったが次のリトリーバル・ミーティングのためにも頑張ったのだ。

 その夜はジャックの家に招かれ、日本人の奥さん、おしゃべりで冗談を連発するパパを言い負かしてしまう中学生の娘さん、ブライアン、その女友達、いつのまにかワシントン大学の教授になっていたK教授ともども夜遅くまで歓談した。その席でブライアンがジャックは三日前から酒を絶ち、特別のトレーニングもして試合に備えていたと暴露した。

 一年後、東京の我が家を尋ねてくれたジャックは、私との試合で腕を痛めてしまい、実は、その後、半年間もテニスができなかったと告白した。そのせいか彼から次のリトリーバル・ミーティングの申し込みはまだ届いていない。

(時評90/12)


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単身赴任者の愉しみ(12)

   男子、厨房に入らば            
 tansin900605-8-1、901105  
                          阿部毅一郎
「好奇心こそ健康法」を身上とするゆえ、いくつになっても、何にでも首を突っ込みたがる。お陰で愉しみリストは、長くなる一方だが、単身赴任二回目にして料理がいよいよその末尾に登場することになった。

 最初の単身赴任は四国高松へ、しかも単身の期間はわずか六ケ月にすぎなかったので、そのときも自炊したことはしたが、まだ料理を愉しみと言える域ではなかった。ただ、そのときの基礎訓練あってこそ、札幌への二回目にして愉しみの一つに加えることができるようになったのだ。

 高松への赴任に際しては、まさか自ら包丁を持つことになろうとは夢想だにせず、赴任当初はご多聞にもれず外食か、宿舎のすぐ後ろにあった寮のおばさんの手料理で間に合わせた。単身ということで結構夜の会食に誘って貰えたし、それでそれほど不自由はなかったが、赴任して二月もたたぬうちにズボンがきつくなり始めたのだ。

 大学時代から体重はいつ計っても六十キロ、なにを食べても決して肥らぬものだから、自分は肥らない体質と思い込んでいた。ところがである。むくむくと腹が突き出し始め、日に日にズボンがきつくなってくるではないか。これには驚いた。なにか手を打たねばなるまい。

 高松の名物は讃岐うどんである。夜の会食のときも、料理を腹いっぱい食べた後で、ざるにこんもりと盛り上がった釜あげうどんが出て来る。もう食べられません、などといおうものなら、周りの皆さんが口を揃えて

「うどんは別腹ですよ」

とおっしゃる。

 一瞬、讃岐にきて讃岐うどんを食わずして会食を終わるのは、いかにも郷に入って、郷に従わぬやり口だといわんばかりの雰囲気が漂う。そこでやむなく箸を取る。確かに別腹のようで、いつの間にかこんもりいっぱいのうどんが腹に収まってしまう。

 会食のないときは寮のおばさんに作ってもらうことにしたが、故大平首相の実の妹かとみまがう顔つきのおばさんは誠に人が良く、腕によりをかけて毎日食べきれないほどの御馳走を作ってくれる。しかも、つきっきりで給仕までしてくれる。

 これ以上腹に入れたら苦しくて下も向けなくなるのは分かりきっていても、すぐ側から監視されていると、どうしても、とんかつの最後の二三切れ、焼魚の尻尾を残せない。そこで目をつぶって全部平らげる。それを見ておばさんはことのほかご満悦で、翌日はそれより少し多めの御馳走を並べてくれる。こうなるともう戦さだ。だが、胃袋の容量には物理的な限界がある。一方、料理の材料は近くの店からいくらでも買ってこれる。これでは勝負はついているようなものだ。ついに戦さを放棄して、今夜は会食がありますのでと偽り外食で済ますようなことをやる。でも外食は味も味噌汁の具もきまっていて味気ないことおびただしい。

 おそらくこうした食生活が腹がにわかに突き出し始めた原因に違いない。そこで自炊を始めることにしたのだ。

 ちょうど冬に向かう時期で、帰宅後寒風の中を自転車でスーパー通いをし、オーバーコートを着たまま指のちぎれそうな冷たい水で米をとぎ、にわかに買い込んだ「自炊を始める人のためのお手軽料理」とかいった本を傍らに慣れぬ包丁を使い、中華鍋をひっ繰り返すのは大変だったが、慣れてくるにしたがってこれが結構面白くなり、半年後家族を呼び寄せた頃には、煮る、焼く、蒸す、揚げる、炒めるなどといった料理の基本は一応身につけていた。いつの間にか、料理の本の数も増えていた。

 こうした下準備が札幌ではおおいに役にたった。まず、最初から自炊に対するなんらの偏見も躊躇もなく、赴任直後たったの一度近くのレストランに出掛けたほかは、会食のない夜はいつも自ら料理をし、朝食もちゃんと作った。高松時代に買い込んだ料理の本やネジ付きの漬物用の容器も持参し、大いに活用した。

 料理は丁度絵を書くようなものだ。いい色を出すには絵の具の乾き具合に細かに気を配りつつ、次の色を重ねていかなければならないように、いい味を出すには、材料の焼け具合、煮え具合などに細心の注意を払いつつ、新たな材料を加え、調味料を足し、ひっくり返し、掻き回し、火加減を変えなければならない。火が相手だから、瞬時の判断力が要る。つい没入してしまうのでストレス解消にもなる。

「料理を作る」とはレサピー(『アメリカの食卓』を読んでからは著者本間千枝子にならってレシピーとは書けなくなった)に従って食べ物を作ることだが、「料理する」とは、材料を選ばず、目の前にあるものから自分の創造力を駆使して新しい食べ物を創造することだ。そこにはコピーとオリジナル、製作と芸術の差がある。さしずめおれは料理するほうだな…などとやや哲学的思考を巡らしつつ、毎回よりうまくより独創的な食べ物をつくらんものとエプロン姿で厨房に立った。

 凝り性のことゆえ、スパイスの類いも二十種類以上も揃え(昔から外国に行けば必ず現地のスパイス類を買い込んでくる)、オーブン付きの電子レンジも買い揃え(単身赴任者向けに開発されたようなもので重宝した)、すこしでもレパートリーを増やそうと、うまいものへのあくなき情熱を燃やしたものだ。北海道は材料が豊富かつ新鮮なので、私のようなものが作っても結構おいしくできる。食物は人間のエネルギー源だが、うまいものへの情熱は生きることへのエネルギーだ、それを作り出すプロセスが愉しみでないわけがない、などと一人悦に入りながら料理に励んだ。

 料理を始めてみて気付いたのだが、お腹が出なくなる利点だけではなく、女性との話題が増えることだ。南欧風の何々料理ができるとか、ニューオーリンズはクリオール料理のガンボ用スパイスを持っているというだけで、親近感もぐんと増すし話も弾む。それに自炊が出来れば、これから先、たとえまた単身赴任になろうと異境に一人放り出されようと、丸元淑生のいうガダルカナルに近づくことにもならず、うまいものから見放されることにもならないとの妙な自信がつく。

 高松からの帰京後はほとんど厨房に立たなかった私の札幌におけるこの豹変振りに妻も驚いたが、自分自身、それほど熱心に料理を手がけ、それを愉しみにするに至るとは予想もしなかった。だが、札幌から帰京後は、もとのもくあみで、妻の評価を著しく落としている。それでも、休日の夕刻、妻と一緒にテニスから帰ってきたときなど、思い出したように厨房に立ち、一二品分担しては札幌時代の料理の水準がまんざら捨てたものではなかったことを証明している。

 そうした折、やっぱり料理が一つの大きな愉しみたりうることを再認識しては、「好奇心が健康法」を標榜するあまり愉しみリストを広げ過ぎ、料理に割くべき時間的ゆとりのない日常をこそまずまな板に乗せるべきかと自省するのである。

(時評91/1)


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単身赴任者の愉しみ(17)

ギドン・クレーメル讃
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阿部毅一郎
 ファン心理というものは片思いそのものだ。相手にとって自分の存在など取るに足らないと分かっていても片思いと同じように忠節を尽くさざるを得ないのである。

 長い間、密かに思いを焦がしていたヴァイオリンニストのギドン・クレーメルが札幌にやって来る。他でもないあのギドン・クレーメルが。そう思うともう矢も楯もたまらず、早速切符の手配をした。行かないと相手を裏切るような気さえした。

 今でこそギドン・クレーメルの名は、日本の音楽ファンに知れ渡っているが、一五年前は未だ無名に近かった。確かに調べてみても、彼の初来日は一九七七年のことであり、レコードが売り出されたのも一九七八年十月のことである。もっとも1970年代のチャイコフスキー・コンクールの優勝者だから熱心な音楽ファンならとっくに知っていてもおかしくない存在ではあった。だが、とりたてて音楽ファンでもない私が、一九七五年ポーランドへ赴任した時点で、彼の名前を一度も聞いていなかったとしても別に非難されることはないだろう。

 彼との初見参はLPレコードの上の      という見慣れない文字だった。ワルシャワの目抜き通りにあるロシアのレコード店の棚のうえにそのレコードはあった。一九七六年のことである。ロシア文字で掛かれたギドン・クレーメルを読むのは大変だった。大学の時にロシア語の講義にほんのちょっぴり齧ったことがあり、ロシア文字だけは読めるようになっていたのが役に立った。どうも演奏家の名前らしいのだが、なんと作曲者のベートーベンや指揮者のカラヤンよりも大きな字でジャケットの上に書いてあるのである。

 これはきっと大変な演奏家に違いないと思い早速買って帰り、聞いてみた。そのシャープな演奏振りといい、伸びやかな高音といい、これがなかなかいかすのである。

 それ以来ギドン・クレーメルの名前の入ったレコードを見つけるとすべて買った。レパートリーも広くて、ブラームスやベートーベンのヴァイオリン協奏曲のような大曲から、難曲といわれる小品、古典から現代の曲まで余すところがない。それに埋もれていた曲をむしろ積極的に発掘して紹介しているような意欲が感じられ、それだけでも好きになった。

 日本に帰ってきてからも、ギドン・クレーメルの名前を見つけるとLPなり、CDなりを購入したから、ギドン・クレーメルのコレクションはかなり増えていた。ギドン・クレーメルに導かれて、やシュニトケの作品にも親しむようになった。

 そのギドン・クレーメルが札幌にやって来る。しかもロッケンハウスの仲間たちを引き連れて。実物にはじめてお目に掛かれる演奏会が待ち遠しくてならなかった。まだ見ぬ、文通の相手にはじめて会う時と同じ心境かもしれない。

 演奏会に行くのは昔から好きで、大学生時代は、せっせとラジオを聞いては富士製鉄コンサートなどの招待番組に応募してよく通った。結婚してからは回数は減ったが、ポーランド時代はそれを埋め合わせてもあまりある音楽好きには応えられない時代だった。まるでただのように安かったこともあって、かなりの頻度で通った。オペラを最高の席で聞いても五百円、スメタナ四重奏団やポリーニのリサイタルがなんと百円に少し毛の生えた程度なのだ。

 五年に一回のショパン・コンクールも入賞者によるリサイタルを除けば驚くほど安かったので、第1次予選からリサイタルまで暇を見つけては、通った。一九七五年に優勝したのは、久し振りに地元ポーランドの出身者でしかも若干十八才のツインマーマンだった。

 観衆の大熱狂の中で彼が、指揮者と微笑みを交わしながら余裕しゃくしゃくショパンのピアノ協奏曲を演奏したのを覚えている。拍手はしばらく鳴り止まなかった。

 ショパン・コンクールを見て感じたのは結局最後に残ったのは、会場の聴衆にゆったりと音楽をともに楽しませる人柄と技量を併せ持った人だけだったということである。日本から一九人も参加したけれどどの演奏者も、聴いてる方がはらはらのしどうしでとても一緒に音楽を楽しむ所まで行かず、案の定全員予選でおちてしまった。

 ポーランドではレコードも割安で、日本の一枚分で十枚も買えるものだから、「世界の名曲」といった類の本を片手に、新盤が出るのを待ち兼ねるようにして、次々と買え揃えていった。ソ連東欧圏は音楽の盛んなことでは、どこにも引けをとらないところだし、演奏者のレベルも高い。そのソ連・東欧の諸国が自前のレコード店をワルシャワの中に開いているのでそこに豆に顔を出して新盤を見逃さないようにして買い込むのである。日本と違ってモノ不足な国だから、より取り見取りというわけには行かない。ソ連のメロディア、チェコスロバキアのスプラホン、東独のエテルナ、ポーランドのムーザなどが代表的なラーベルで熱心に通ううちに八百枚を越すレコードが集まった。その中にギドン・クレーメルのものがかなりあったことはいうまでもない。

 国がレコードを作るわけだから、余程の実力のある人でなければレコーディングしてもらえないのある。レコードの発行枚数がそのまま実力を反映しているといってもよい。当時ロシアのメロディアで活躍していたのヴァイオリンニストは、オイストラッハ、コーガン、イゴール・オイストラッハなどで新顔としてギドン・クレーメルが急速に伸してきたといった塩梅だった。

 演奏会が安いのは、これが国民の言わば大衆文化的な位置を占めているからに他ならない。国としても大変な補助金を出しているのであるが、国民がそれを支持しているから出来るのである。 レコードでお目に掛かった演奏家は帰国後目白押しに来日した。

 八九年五月二九日、私がどんなに胸を弾ませながら会場に駆けつけたか。お分かり頂けよう。ギドン・クレーメルとロッケンハウスの仲間たち、これはギドン・クレーメルが主催して、ソリストクラスの仲間と演奏活動をしているのである。その日演奏されたのは、ベートーベンのセレナード、ニ長調、シュニトケのピアノ五重奏曲、ルーリの「ヴァイオリンとフルートのために」、ブラームスのクラリネット五重奏曲ロ短調、それぞれに腕達者な演奏家だけにその繰り広げる音楽の世界は、まさに多彩で、楽しく、これぞ音楽といってよいものだった。

 いまも鮮やかに覚えているのは、ルーリの「ヴァイオリンとフルートのために」の演奏である。ギドン・クレーメルと美人演奏家のイレーナ・グラフェナウアの絶妙の掛け合い演奏だった。軽妙洒脱。あの息のあった演奏。二人の演奏家の生き生きとした表情。特に美貌のイレーナの表情には見惚れたほどだ。 ギドン・クレーメルは、写真で見、評伝などで読んだりして想像していたが、いかにも知性豊かな、芯の強い、しかも温かみを感じさせる人柄で、演奏は流石に現代を代表するヴァイオリンニストだけあって、比類ない技巧で、音量も豊か、高音の伸びのよさは格別で、充分音楽を楽しませる、聴衆と ともにたのしむ原点に極めて忠実な演奏をする人であった。

 今年はギドン・クレーメルもツインマーマンも東京にやってくる。飽くまで忠節を守らざるを得ないのが片思いの辛いところである。もちろんギドン・クレーメルは聴きにいく。久し振りのツインマーマンの演奏会にも行かざるを得ない。彼も着実に世界の名演奏家への階段を登っている。その成長ぶりを見るのが楽しみだ。密かな片思いの二人に遠くから熱烈な拍手を送ることにしよう。

(時評 91/6)


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単身赴任者の愉しみ(18)

定点観測の着想
JIHYOU910504-2 阿部毅一郎
 単身赴任した札幌での私のオフィスは五階にあり、すぐ前が北海道庁の前庭で、左斜め前には旧北海道庁の建物、俗に赤レンガと呼ばれる洋風の瀟洒な煉瓦作りの建物が見えた。

 丁度その年が、その建物が出来て百年になるというので、各種の記念行事が行われていた。その回りはちょっとした庭園になっており、池があり、アカシヤやポプラなどの木が生い茂っていた。その眺めは実に素晴らしく、七月に赴任したときから写真に撮りたいと思っていたのだが、そのうちそのうちと思っているうちに、十一月になってしまった。

 そこでコロンブスの卵的アイデアが閃いた。わずか一年しか滞在しないとなると、赴任地の季節感を掴むのは容易でない。後でものを書くときなど、いつ頃初雪は降るのか、リラは吹くのか思い出せたものではない。日記をつければいいのだがそれも億劫だ。その代わりに、このお気に入りの風景を毎日写真に収めておけばいいことに気付いたのである。

 日本人は写真好き、カメラ好きといわれるが、私もその面では人後に落ちない。札幌にもちゃんとカメラは二台持参していた。そのうちの一台をオフィスに常置し、毎朝、オフィスに着くといの一番に部屋の一番右端の窓を開け、シャッターを切った。

 撮り始めたのは、一九八八年十一月十一日、今、その日の写真を見ると、すでに雪がうっすらと芝生を覆い、赤レンガの屋根も白い。その三日後に雪は消える。木々の落葉もまだ完全ではない。二二日、池には、いつ飛来したのか頭が緑黒色の真鴨が泳いでいる。その後、雪は積もったり融けたりしながら、十二月の半ばから根雪となる。木の葉もすっかり落ち、それまで半ば隠されていた赤レンガもよく見えるようになり、晴れた日には雪の白と煉瓦の赤とがよく映える。吹雪の日には、近くの大きな樹の幹が黒々と見えるだけで赤レンガはかき消える。ブリューゲルの描く北国の雪景色さながらの日々がしばらく続いたあと、三月の半ばに根雪も融ける。四月の下旬、木々が一斉に芽吹き始める。日一日と緑が濃くなり、次第に赤レンガは新緑の陰に隠れていく。五月から六月、こんもりと木の葉が生い茂り、陽光が溢れ、赤レンガは緑の丸屋根だけをちょこんとその間から覗かせる。

 こうしたことが書けるのも、五冊のポケットアルバムに収まった定点・定時観測記録写真があるからである。このなんの変哲もない写真集が、今の私にとって何物にも代えがたい宝物だ。今になってみると、七月から十一月までの写真がないのがいかにも惜しい。

 欲張りのせいか、何事によらず、残すべきもの、撮っておくべきものを、残さなかったり、撮っておかなかったりすると、ひどく勿体ないことをしたような気になる。だから、つまらない思いつきでも、努めてメモする。いい記事があるとせっせと切り抜く。ちょっとしたところへ出掛けるにもカメラを持参する。メモやスクラップは山のように膨らみ、収拾不能に陥る。アルバムが書架の相当部分を占めるようになる。メモやスクラップを利用していつか本に纏めよう。いつかアルバムを繙いて、往時を懐かしもうと思っているだが、日頃の忙しさに押し流されてままならない。

 いくら写真好きでも、歳をとり生活が定型化し、目新しい体験が減ってくると、撮る意欲は衰える。幼い頃のわが子は恰好の被写体だったが、成長して高校生や大学生になるとその適格性を喪う。カメラが活躍するのは、たまさかの小旅行のときぐらいで、日頃は、引き出しの隅で手持ち不沙汰をかこつことになる。

 ところが、見知らぬ土地へ単身赴任せよとの突然の辞令は状況を一変させる。赴任地のあらゆる物が被写体としての適格性を帯びる。しかも一年きりの赴任となると、毎日が最後の日で、どの季節も最後の季節だ。一日たりと無駄に出来ぬ。赴任地の状況を家族に伝える使命もある。

 かくして、放っておかれたカメラにもお呼びがかかり、単身赴任者ならではの写真を撮る愉しみが生まれる。

 写真歴は結構古い。中学生時代に、二眼レフで初日の出や、祖母と弟が並んで餅を丸めているところを写真に撮り、中学生新聞へ応募し入選した。それ以来写真好きになり、いつもカメラを身近に置いていた。カメラ遍歴というほどではないが、試したり、盗まれたりしながら、いろんなカメラを使ってきた。

 現在でも大小、新旧、六台のカメラが手元にある。そのうちの二台、一眼レフとコンパクトカメラを北海道へ持参した。後で、四倍ズーム付きの多機能コンパクトカメラが一台増えた。撮影機も、第二子の誕生時からヨーロッパ滞在時代に活用した8mmフィルム用、義理の妹の結婚式から北海道時代のβ方式のビデオカメラ、つい半年前買い込んだばかりの8mmのビデオカメラの三台ある。

 戦後のカメラは二眼レフから始まったといってよいが、これまで買ったものを並べればその後の代表的なカメラの技術進歩の跡が辿れる。カメラはひたすらバカチョン化を目指してきたといってよい。高級な一眼レフさえもほとんど自動化した。もう一つの流れは、小型・軽量化だ。ワイシャツのポケットに入る二百グラム未満のフルサイズのカメラもある。私と同類のカメラ好きが、こうした日本カメラの進歩・躍進を支えて来たのである。

 札幌では、カメラを片手に町中を歩き回った。雪祭りもフィルム何本分も撮った。道内各地への出張、礼文、利尻などの離島への旅、スキー、様々な催し、各種の大会などで、自分でも随分撮ったが、他の人が撮ってくれたものもかなりあって、合わせるとアルバム数十冊分になる。

 アラスカ旅行には四倍ズームを携行した。ヘリコプターで、氷河の裂け目の中を飛行したときのグレイシア・ブルーの輝きも、シアトルの大滝の飛沫も見事に捉えてくれた。ビデオカメラでは、自宅を出てからオフィスの部屋に入るまでの一部始終や、北海道を去るに当たって、道東を一週間ほど車で旅行したとき撮ったものなどがある。

 自分で撮影したものは、不思議とそのときの心理とか周りの状況を覚えている。それ故どれも懐かしい。一枚の写真の訴求力は、並の文章の及ぶところではない。写真や映像は情報量が多く、その片隅にも意外な情報を蔵している。最近8mmビデオカメラを買ったのも、まだまだ映像への意欲が衰えていない証拠だろう。

 これからは自らを定点と定めて、じっくりと身の回りの観測を続けていきたい。蓄積ができてはじめて成果も生まれる。写真には撮る愉しみと後で見る愉しみがある。撮る愉しみを長続きさせるには、生活のマンネリ化を避け、単身赴任時代同様、身の回りにつねに意欲をそそる被写体を創出し続ける必要がある。見る愉しみの方は、「いつか」という、茫漠たる未来に当面委ねておこう。

(時評91/7)


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 単身赴任者の愉しみ(19)

マニアからの転落
阿部毅一郎
 何事につけ、ファンとマニア、マニアとプロとの間には、越えがたい一線がある。

 相変わらずミステリー・ブームでミステリー・ファンは数多いが、マニアとなるとぐっと少ない。プロのミステリー作家となるとその数は激減する。マニアには限り無くプロに近い人もいるだろうが、プロといえるからには、それで飯が食えなければならないだろうから、それが極めて分かりやすい識別標になりうる。

 ところで、ファンとマニアを分かつ分水嶺は何だろうか。思うに、ミステリーをひたすら読むだけでは、例え毎日一冊読むにしても、ファンの領域に止まらざるをえないだろう。マニアともなると、どこか尋常ならざる所がなければなるまい。例えば、シャーロキアンのように、シャーロック・ホームズに惚れ込み、女優アイリーン・アドラーとの秘められた恋愛を発掘したり、遠路ロンドンはベ−カー街に出掛け、ホームズの扮装をして辺りをうろつき回ったりしなければならない。

 難しいマニアの資格要件を掲げた後でいささか気が引けるが、自らミステリーを書き、雑誌の新人賞に応募したりする程度でも、マニアを自称して差し支えないと思うのだがいかがなものだろう。というのも、かつて、私自身がそうした経験を持ち、マニアをもって任じていたからに他ならない。単身赴任時代もミステリーが私の息抜きで、その夜長をよくマニア的視点からミステリーを読む愉しみに当てたものである。

  小さい頃からミステリー・ファンで、手当たり次第に読むうち、自分でも書いてみたくなった。書ける気がして幾度となく挑戦してみたものの、いつも途中で行き詰まった。

 それは今年成人式を迎えた第二子の出産を間近に控え、妻に付添い妻の実家で寝泊まりしていたある夜のことだ。布団の中で手持ち無沙汰でとりとめもない物思いに耽っていると、突然、ミステリーのプロットが閃いた。深夜だったけれど、やおら起き出し、台所のテーブルで書き止めた。

 いけるプロットと思ったので、今度だけは途中で投げ出すことなく一気に書き上げようと必死になった。通勤の電車の中で立ったまま書きさえした。人は一生に一作だけは小説が書けると言う。せめて、その一作にならないものかと念じた。願いが叶って、原稿用紙百八十枚の第一作が完成した。家族もまあまあの出来という。そこで、和文タイプで印刷し(当時はまだ便利なワープロが無かった)、友人知人に配った。

 友人の中に、有名出版社に勤めている大学時代のクラスメートがいて、親切にも、自社の文学賞の選考担当者に読んでもらい、直筆の講評を送ってくれた。それには、なかなかよく書けている。特にベッド・シーンがいい。筆者の文学修行が偲ばれる(この皮肉にも当時は気がつかず、まともな文学的修行などしたこともないのになァと思っていた)。当社の雑誌の推理小説新人賞へ応募したらいい所まで行くでしょう、とあった。

 その雑誌を買ったこともなく、推理小説新人賞の存在も全く知らなかったので、本屋に駆けつけた。年に一度確かに募集している。しかも、もう締切まで一月しかなく、原稿の枚数は百枚以下となっている。百八十枚を百枚に縮めるのは不可能だ。そこで慌てて、別のプロットを捻り出し、きっちり百枚に纏めて応募した。

 それっきりその雑誌を買うでもなく忘れていたら、数カ月たったある日葉書が舞い込んできた。「あなたの応募された作品は候補作品五編に残りました。選考会を○月○日夕刻、開催しますのでその時刻には自宅に待機しておいてください」というのである。当時は何も分からず、それほどのこととも思っていなかったので、ほどほどに待っていたが、結局なんの連絡もなかった。

 翌月の雑誌を見ると、別の人がちゃんと新人賞に輝き、候補作五編と筆者名との中に確かに私の筆名があった。選考委員は、いずれも名の知れたミステリー作家で、わたしの作品には芳しからざる評価を下していた。だが、「最終五編に残った人たちの努力は近い将来必ずや報いられるだろう」という女流作家の励ましの選評に慰められ、もう一編書いた。

 一年待つのもと思い、別の雑誌を探したら、新人賞を募集しているのがあったのでそっちに応募した。ところが、これも候補作品五編に残った。選考会当日は前回同様ナシのつぶてで、翌月号をみると新人賞受賞者とともに候補作への選評も載っていた。前回よりは数段改善され、「好感が持てた」「巧くまとまっている」とも評されていた。

 その後も二三編挑戦したが、新しいプロットを次々に考えるのが大変なことは当然として、ディテールのしっかりしたものを書こうとすると、その方がむしろ大変なことが分かってきた。

 ミステリーではたとえ細部にせよ、少しでも嘘を書くと作品全体が疑いの眼で見られる。例えば舞台を軽井沢の早春の朝に設定したとする。単に鳥が囀り、花が咲く小道を和服の若い女性が歩いていた、と書くのでは味もそっけもない。そこで、遠くでホトトギスの声がした。コブシの花の匂いが漂う小径を、淡い萌葱色の振り袖を着た若い女性が何か気忙しげに歩いていた、と書こうとする。と、本当にその時節、朝からホトトギスが鳴き、コブシが咲き匂うのか、萌葱色の振り袖を若い女性が朝から着るのか等々、きちんと裏を取らなければならない。それに物凄く時間を要するのだ。一方で忙しい仕事を持ちながら、これと両立させるのは無理ということで、ついに筆を折ったのである。

 私が候補作に残った際の新人賞受賞者は二人ともその後プロに転じた。今を時めく赤川次郎もこの新人賞の出である。もし、あの時、新人賞をとっていたらどうなっていたろう。それこそミステリーだが、人生にはいつもIFが付きまとう。

 今も単身赴任時代に負けず劣らず、ミステリーを読むのを愉しみにしている。実作の経験者の視点から読める愉しみは何物にも代えがたい。日本のミステリーのレベルはいま一の気がするが、プロットやトリックの工夫、人物配置や描写の苦心、一見些細なディテールのツメの苦労を知るだけに、プロとしてやっている人には一様に敬意を払っている。今もって自称ミステリー・マニアに止まっている私からの、最近の推薦版は「推定無罪」だ。原作も映画も実によくできている。こんな作品を見せつけられると、件の出版社の友人に、キャリアを生かして経済ミステリーでも書いたらと勧められても、到底腰を上げる気がしない。その意味ではもう既に、マニアからファンへ転落しているのかもしれない。だが何と言っても、ただのファンは、サラリーマン同様気楽な稼業ときたもんだ、なのだ。

(時評 91/8)


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単身赴任者の愉しみ(21)

薄野慕情
阿部毅一郎
 単身赴任者たるもの、多少のアバンチュールを望まぬ者はいまい。日頃謹厳実直で通っている私が言うのだから説得力があろう。奥さま族の監視の目が少しでも弱くなれば、男たるもの原始の血が騒ぎださずにはおかないのだ。

 そういう男どもの習性は天下周知だから、単身赴任者の多い都市には、夜の歓楽街が決まって発達する。札チョン族を多数擁する札幌の薄野を引き合いに出すまでもない。

 しかも、日本社会は、そもそも単身生活者向きに出来ている。日頃から経済優先で、儲けのためなら接待に継ぐ接待をもよしとし、妻帯者も、家には帰って寝るだけの、単身者とさして変わらない生活を送っている。こうした生活を支える社会構造が単身赴任者をも支え、その増加を助長する。単身赴任者が増えてしまうと、今度はこれが単身向きの構造をより強固なものにする側に回る。両者の相乗効果で、夜の盛り場はますます賑わうことになる。そして日頃そういう構造に批判的な男も単身赴任の身となるとそのおすそ分けに預かり、いつの間にか批判の矛先を鈍らせてしまう仕掛けになっている。

 札幌に赴任して間もなく、あるメーカーの支店長のマンションに、豊平川の花火大会を見る会をやるので来るように誘われた。所がその席に、思いがけない顔が混じっていたのだ。

 赴任した直後に前任者から色々と引き継ぎを受けたがその中に夜の部も含まれていて、Aランクの客ならこのクラブ、Bランクならあそこのバー、一人でぶらりと飲みに行きたいときはどこそこのスナックがいい、などと親切に教えてもらった。その折りに会ったママさんや芸者さんまでが顔を出し、せっせと世話を焼いているのだ。

 知人の家で会えば親しみの度合いがまるで違う。これで薄野がぐうっと身近に感じられるようになった。

 その安心感も手伝って、本来家庭重視派の私も、東京にいるときに比べたら遙に足繁く夜の街へ通うようになった。アバンチュールを求める心が少しもなかったというと嘘になるが、その実単なる無駄口を叩く相手を求めて出掛けたのだ。

 単身赴任者というものは、本質的には寂しいものだ。一日仕事に追われ、ストレスを一杯溜め込んで家に帰っても、温かく迎えてくれる家人がいるでもなく、無駄口を叩く相手がいるでもない。たわいのない無駄口こそ人生の潤滑油であり、活力源なのに、ひとり黙然と過ごさなければならない。そこで、たまり兼ねて、誰しも、盛り場に繰り出すのだ。だから無駄口が叩けるだけでも単身赴任者は十分満たされるのである。

 ママさん達をみて感心するのは、実に気配りがいいことだ。並の奥さま族の及ぶところではない。ちょっとしたことにもぶすっとしがちな奥さま族に比べて、何時もニコニコ顔で、奥さま族が耳を貸そうともしないつまらない話にも聞き入ってくれ(少なくともそのふりぐらいはしてくれ)、感心してくれる。話題も豊富で、種切れになると相手のほうから提供してくれる。無味無臭の空気のようになってしまった奥さま族に比べれば、多少とも未知の秘められた香りを漂わせている。その種の香りに敏感になっている単身赴任者はついつい引き寄せられてしまう。

 ママ族の中には、下々の情報に通じていて、なるほどと思わせる人もいる。当時札幌では大きなイベントが催されていた。あるママなどは、その責任者の夜の街における生態からそのイベントは失敗するに違いないと予言していたが、その通りになった。ところが、その人を任命する立場の人は、清廉潔白を旨とし夜の街などに足を運ぶ人ではないから、こうした情報が手に入らない。それが失敗に繋がった。たまには、足を運ぶべきではないかとも言うのである。この話は、夜の街に繰り出す私の絶好の口実になった。

 女給時代の最後の時代に属していたというママ、随分つらいめにあったこともあったらしい。しんみりとその話に耳を傾けていると気丈なママが突然涙声になって 

「今日みたいに忙しくてろくすっぽお化粧しないでお店に出るとつい涙っぽくなるの」

と、目頭を押さえる。化粧崩れを気にしないですむからだそうだ。

 OL生活に飽き足らずママになった人。婚家から飛びだしてママになった人。様々な人生を抱えながらも、何時も笑顔を絶やさず、張り切ってカウンターの後ろに立っている彼女たちの健気さに私は何時も感動した。

 店に入ると

「あーら、アーさんいらっしゃい」

 元気のいいママの声が待ち受けている。この名前覚がいいのも彼女たちの特性である。あっと言う間に覚えてしまう。

「申し訳ありませんが、何方様でしたか」

などとやっていたのでは、自分こそママの大切な客と思い込んでいる(思い込まされている)客の不興を買う。

「一月振りね」

あるいは

「一週間振りね」

「半年振りじゃないの。何処かで浮気してたんでしょ」

等々、すらりと言ってのける。その記憶力の良さ。自分のことを覚えていてくれたんだということで先ず酔わされる。いつの間にか自分の名札の付いた置きボトルがカウンターに現れ、

「薄めの水割りでしたわね」。

手際良くおつまみが並ぶ。それがアーさんの好物の手作りの山菜のお浸しだったりする。世間話の間に

「例の○○さんとの話はうまくいったの?」

こっちの方でさえ忘れかけていた前回の話題をさりげなく出されたりすると、ますます感激も深まる。

「あなたがドライブ好きだというから、交通安全の御利益で有名な神社に行って貰って来たのよ」

などと交通安全のお守りを差し出されたりすると感激は絶頂に達する。

 何をその程度で感激しているのだ。ありふれたたらしこみの手口ではないか、実に下らんというこの道のベテランもおられようが、分かっていてもその場に臨むとついほだされるのが人情というものだ。

 単身赴任時代、全くアバンチュールが無かったというつもりはないが、所詮アバンチュールの愉しみは実践の中にしか存しない。思い出すことは出来てももはや愉しめる鮮度は失われている。そもそも人に吹聴するものでもない。これはセックスと同じだ。

 あるママの説では、男と女は、三度会うまでのうちにどうにかならないとその後どうにもならないという。どうにもならなかったせいで、どうにかなるとはどういうことかついに分からないまま、帰京してしまった。今ではすっかり元の家庭重視派に収まっているが、いつかまた薄野へ舞い戻って、どうにかなってみたいという気までなくしてしまったわけではない。

(時評91/10)


                                            
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単身赴任者の愉しみ(22)

ワープロの効用
910806ジヒョウ・タンシン 阿部毅一郎
 忘れもしないというのも、その日が七夕だったせいだ。

 いまを去る八年前の七月七日、わが家にワープロ第一号機が到着した。B4サイズを横向きにも印刷できるプリンターと合わせて、定価で百二十万円するのを、負けに負けてもらったが、それでも百万円を少し上回った。当時、まだワープロという言葉さえ定着していない時期だから、私が必要とするスペックを全部満たすものとなると、どうしてもこの値段になった。それより僅か四年前に売り出された日本の第一号機は六百万円もしたのだから、その時点でも技術の進歩に驚かなければならなかった。とはいえ、いま私が使っているわが家の第四号機ーブック型で定価は二十万円もしないーに比べると、使い勝手や機能は、格段に落ちる。逆に重さは五倍以上だ。その後の技術進歩が更に輪を掛けたものだったのだ。

 生来悪筆だが、書くことは好きだったせいで、梅棹忠夫の「知的生産の技術」を読んで以来、知的生産性の向上に関心を持つようになった。だから、アメリカ映画で作家が、書斎にタイプライターを三台も並べ、まるで機関銃のように次々と作品を打ち出すシーンを見て涎を垂らしたものだ。日本でもこんな便利なものが早く開発されないものかと首を長くしていた。

 タイプライターといえば、梅棹著に勧められるまま、ひらがなタイプライターなるものまで買い込んだ。しかし、これは実用には程遠く、買って直ぐにポーランドへ赴任することになったので一応持って行きはしたが、殆ど使わないまま箪笥の上に放置しておいた。ところが、ある夜侵入した泥棒が、他の家財もろとも持ち去った。日本人にさえ見放されていた代物がその後ポーランドでいかなる運命を辿ったか今もって気になる。

 ワープロが発売されて以来、私はこれこそ待望久しい革新的知的生産用ツールと目を付け、カタログを集め、実物を見、触り、スペックを丹念にチェックした。辛抱強く待った甲斐があってやっと私の欲しい機能を全部備え、しかも、なんとか手の届く百万円近辺のものが売り出された。安月給のサラリーマンにとっては大金だったが、渋る大蔵省を、ゴルフを趣味とする人の中にはクラブにさえ百万円を投ずる人もいる、書くのが趣味の私がワープロに同額をかけてもおかしくないではないかと説得しやっとの思いで購入した。

 買ってみると確かに便利だった。まだ、漢字の転換率が低いなどの難点はあったが、機能的には英文タイプライターの比ではない。修正、移動、挿入、削除、複写など思いのまま。お負けに一枚のフロッピーに本一冊分の原稿が入ってしまう。手を焼いていた原稿の管理も一挙に解決した。書きたいことがあったら何でもかんでも先ず入力する。あとは備え付けの編集機能を使って、順序を入れ換え、重複を避け、不必要なところを削る。これをプリントアウトして朱筆を入れる。このプロセスを四五回繰り返せば、一応読める文章になる。

 それに何よりいいのは、清書の手間が全く要らないことだ。原稿が出来上がると、即活字同然の印刷物になって出て来る。これなら悪筆を恥じずに済む。粗稿段階で他人にも目を通して貰える。多くの人がワープロを使い始めた動機に悪筆を上げるのも頷ける。私の文章生産性が格段に向上したことはいうまでもない。

 以来、ワープロ抜きには、文章が書けなくなった。 札幌赴任の辞令を貰った時点で、私は二つの連載物を抱えていた。一本は日本的経営と文化とのかかわりに関するもので月刊雑誌に二十七八枚、もう一本は、週刊経済誌に三月に二回の頻度で三枚程度のコラムだった。

 編集部からどうしますかと聞かれたが当然続けますと答えた。毎月、三〇枚近い原稿を書くのは大変だが、大袈裟に言えば書くことは生きることだと肝に銘じていたから、簡単にはギブアップしたくなかった。原稿をFAXしてホッとしているともう次の締切りが迫っている。深夜、誰もいない部屋で持参したワープロ一号機に向かい、必死の面持ちで、よくキーを叩いたものだ。どんなに夜が更けても煩いと言われずに済むのが単身者ならではの特典だった。

 月刊誌の連載は、丁度札幌にいる間書き続け、二〇回で完了した。もともとある出版社の依頼で書き始めたものだったから、連載完了後早く本に纏めて欲しいと矢の催促を受けた。だが、その後、東京へ戻り、長年勤めた職場を変わるなどの身辺の変化のなかで何となく気が熟さず、やっと昨年の十月に出版にこぎ着けた。これで三冊目の出版になった。

 他にコラム欄に書いたのが八年分、一年連載したエッセイが二つ、論文が数編あって、そのうちの一つはイギリスの雑誌にも掲載された。多くは、ペンネームで書いているが、全く別人として生きる領域を持っていることは精神衛生上もいいようだし、二倍とは言わないまでも、普通の人より三割増しぐらいは余計に生きている気がしないでもない。これもワープロあってのことだ。

 ものを書くには、梅棹も言うように、日頃からつまらない思いつきでもメモっておかなければならない。そのため、網を仕掛ける漁師のように、思いつきの浮かびそうなところに用紙を置いておく。妙案の浮かぶ三上は、鞍上、枕上、厠上といわれる。札幌では枕元にはシステム手帳を置き、厠にはポスト・イットを置いていた。トイレの壁という壁がポスト・イットで黄色くなり、下手に動くとパラパラ落ちるほどだった。これとて単身生活なればこそできる芸当だった。その時のアイデアを、このシリーズでも幾つか利用した。知的生産の舞台裏は時に痴的ですらある。しかも、しばしば、用紙を切らし、回収を忘れ、整理を怠り、せっかく網に掛かりかかった大物(と本人は思う)を取り逃がす。

 知的生産や生活に関する本は、梅棹の前著をはじめ、数十冊は持っている。中には知的生活者に相応しい配偶者の性格に触れた本もある。いや知的生活者たらんと欲するもの結婚するかどうかさえ真剣に考えなければならないという本さえある。私など結婚後読んだので遅きに失したが、少なくとも単身赴任時代は、妻帯問題から解き放される意味では知的生活に適していたのかもしれない。

 帰京後の私の知的生産の生産性は確かに落ちている。だが、これが、知的生産者に相応しい妻を慎重に選ばなかったせいか、単に元の怠け癖に戻ったせいか、にわかには決めがたい。書くほどに書くや恥との思いはつのるものの、技術進歩に惑わされ今やワープロ四台の未償却資産を抱え込んでしまった以上、わが家の厳しい大蔵省の監視の手前、簡単に断筆するわけには行きそうもない事だけは確かである。

(時評91/11)


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