中東見て歩き

(1998/4/17~4/24)

1998/6/12掲載
 
目次
(はじめに)(砂漠の国)(都市・街・建物)(湾岸戦争の傷跡)(食べ物)人/民族)(気候/風土と宗教)(ベリーダンス)(博物館)(金のスーク)(経済)(石油に浮かぶ国)(重要な中東)(補論) 
 



(はじめに)
 四月(1998年)の中旬、中東のクウエート、ドバイ、バーレーンの三国を駆け足で見る機会があった。初めての中東訪問だったので、見るものすべて珍しかった。これは、そのときの見聞記である。

 中東については、様々なことが言われている。砂漠の国、石油に浮かぶ国、イスラム教の国、などなど。こうした知識・情報が、頭の中には、整理もつかぬまま脈絡もなく散在していて、いま一つ、しっくりした統一的なイメージを結ばない。それが出かける前の状態だった。

 一週間足らずの短い訪問だったが、中東から帰って来たら、そうした知識・情報がかなり整理され、頭の中ですっかりところを得て収まり始めたような気がしてきた。その土台の上に、今後の知識・情報も積み重ねて行けそうである。

 人間の記憶や知識・情報の類は、頭の中でいわゆる土地勘と言われるものによって整理されるのではないだろうか。そういう意味で、現地を訪れ、実際に見、聞き、触れ、味わい、土地勘を養うことは非常に大切なことに思える。
 

(砂漠の国)

 日本では、土地を放置しておくと、雑草が生え、樹木が生い茂る。家を建て、町を作るには、樹木を払い、雑草を刈らなければならない。中東では、もともとどこも砂漠である。土地は放置しようとすまいと砂漠である。家を建て、町を作るには、砂漠を整地し、草にしろ、樹木にせよ、他から持ってきて植えつけ、一木一草に丁寧に水をやらなければならない。したがって、基本的には、都市を一歩でも出るとあたりはすべて砂漠であり、都市は砂漠の中にぽつんと孤立している。

 たまたま、新しい町を開発している現場を見る機会があったが、文字通り砂漠の真只中に、一からまったく新しい町造りが行われているのだ。隣の町と繋ぐのは、砂漠の中を一直線に伸びる道路だけだ。

 都市のなかでも、人手が加わらないところは、砂漠のままである。植物が、みずから生い茂ってくることは基本的にはないのだ。日本に帰り、全国どこでも、ほっておいても、雑草が生える地味をありがたがる必要があるとつくづく思った次第。

 ただ、砂漠といっても、どこもかしこも、砂ばかりというのではない。場所によっては、ブッシュ状の草むらがある。特に今年は、昨年末から、雨が多かったせいとかで、ブッシュがかなりの密度で生えていて、砂地とまだら模様になっていた。高さ7、8メートルはあろうか、樹木もぽつりぽつりと植わっている。その葉の繁みの下のほうが、たいてい、水平に刈込まれている。これは、その辺りにラクダが生息していることを示している。ラクダが食える高さに葉が水平に刈り込まれたようになるのだ。

 ドバイの砂漠をRV車で走ったのだが、ラクダが、砂漠のあちこちから忽然と姿を現わす。のんびりと草を食んでいたり、列を作って歩いていたり、照りつける太陽を全身に浴びながらも、悠然と座り込んでいたりする。

 ラクダは、好奇心も旺盛らしく、砂漠のなかの道路の上を、隊列をなして歩いているラクダを見つけ、それを背景に、写真を撮っていたら、立ち止まって背後から覗き込むラクダがいた。声も立てず近寄るので、振り返ったらすぐそばにいたので驚いてしまった。

 同じように、羊、やぎの群れが、ひょいと現れる。山羊は、白、白黒のまだら、焦げ茶と、色も模様も、バラエティに富んでいた。どれも、所有者が決まっていて、放牧されているのだと言う。あの広い砂漠、どうやって管理しているのだろう。

 信じられないだろうが、砂漠の中にも川は流れている。近くの山地に降った雨が集まって出来るものらしい。もっともRV車で中を走れるくらい浅い。水飛沫を上げて走り回ったがなかなか爽快であった。その川から導水路で水をとり砂漠の中に小さな集落があったりする。水路にそってキョウチクトウが花を咲かせていた。この植物はとにかく強いのだ。

 ところどころに、大小様々なオアシスがある。泉が湧き出し、その周辺に樹木が繁り、花が咲き乱れている。アル・アインのような、都市を形成するような大きな美しいオアシスもある。日本語にも、オアシスは定着しているが、砂漠の中でオアシスに出くわすと、この言葉に込められた語感が一層強く感じられる。

 砂漠の中にワジと標識の出たところがある。低窪地で、雨が降ると川になるところの意味である。そういう場所は少し掘ると水がしみ出てくるという。砂漠は、水を吸わず、ちょっとした雨でも、すぐ洪水になるらしいから、要注意の標識でもある。目に見える範囲は、晴れていても、近くに降った雨で、目の前のワジが渡れなくなることもあるらしい。

 都市にも排水施設がないので、すぐ水浸しになるという。

 砂漠の砂は七色あるという。確かに、赤みを帯びたもの、白っぽいもの、黄色のものなど場所によって色は様々だ。

 砂漠を走ると結構硬い感じだ。車体ががたがたと揺れる。砂漠に降りてみたら、砂は足を取られるほど柔らかかった。しかも、熱い。

 見た目にはそうは見えないが、砂漠の植物は結構種類が多いらしい。植物の葉肉は厚く、折ると白い乳が出てきた。
 そこに住んでいる動物も、昆虫から鳥類、トカゲ、山羊、らくだまで、結構種類が豊富で、ディズニー映画や、NHKの「生き物地球紀行」でおなじみの、砂漠は生きているの世界があるのだ。

 その砂漠の中に、石油で稼いだ金で、緑地帯が作られ、舗装された道路が延々と走り、高圧電線の鉄塔が立ち並んでいるのだ。

 ドバイの属するUAEとオマーンの国境は自由に往来できる。もちろん、ドバイとアブダビの間などUAEの各首長国の間も自由である。これなども行ってみないとわからないことだ。

 雲一つない空が、常態なのに、クウエートでは、大粒の雨にあった。ワイパーを使う必要のあるほどの降りだった。年間雨量100ミリといわれ、四月にはまったく降らないというのに。バハレーンでも曇りの日があった。昨年末から雨が多いというが、これは、エルニーニョの影響かもしれない。緑地化の効果という人もいる。中東では、雨が降ったり、曇ったりする日が、いい日・いい天気なのだ。太陽の人気がなく、月が崇められている。
 

(都市・街・建物)

 訪れた都市には、どこも近代的なビルが立ち並び、なかなか見栄えのする都市作りが行われていた。街は一様に奇麗だった。ドバイの地下連絡通路にもごみ一つない。行政側も街の美化のキャンペーンをやっている。

 電気代が安いせいか、夜の街も明るかった。ドバイ空港からホテルに向かう道には、ナツメヤシの街路樹が植えられているが、その一本一本が、イルミネーションで飾られていた。豆ランプで、幹をぐるぐる巻きにし、それに、星のマークを配するなどなんとなく、アラビアの匂いがするデザインであった。ホテルのすぐ横はクリークだったが、その回りに一晩中、明るい照明が灯っていた。

 モスクの塔からは、朝早くから、拡声器でコーランが流される。そのモスクの丸屋根は、独特の色彩感覚で作られており、その幾何学模様は美しかった。先年、スペインのアルハンブラ宮殿を訪れ、その美しい幾何学模様に感嘆したものだが、その源流はここにあるのだ。

 走っている車も、新型の立派なのが多い。日本車も多く目に付く。砂漠を走ったRVもトヨタのグランドクルーザーだった。

 建築には見るべき物が多かった。伝統的なアラブ風の建物は、フラットで横長の独特のフォルムをしており、高い空間処理能力が感じられた。

 建物の窓はおしなべて少な目だ。窓の前にカーテンウオールのごときものをつけたり、あるいは緑、青などのきつい色で塗ったりする。これで日光を遮断するのだ。日光はあくまで憎まれ役なのだ。

 伝統的な家は四角くく囲って作り、囲いの中に中庭を作る。この中庭が、スペインのパティオのように空気を冷やし、冷房効果をもたらす。中庭と建物の間にも、幅の広い回廊を設け、もう一段、空気を冷やし、居住区に導き入れる仕掛けになっている。

 ドバイでは、昔の家並みを修復して保存し、歴史的遺産として展示する工事をしていた。見るとその家屋の壁は、ブロック状に切り取った珊瑚礁で作られていた。珊瑚虫の小さな穴がいっぱいあり、それが断熱効果をもたらしているのだ。

 その現場近くで、修復用に、窓の飾りを作っていた。若い男が二人で、幾何学模様を厚さが10センチもある石膏ボードに刻み込んでいた。

 これで、窓を覆うという。中が薄暗くなり見えない、日除けと目隠しの役割を果たす。幾何学模様は、こうした実用を通しても発達したのだろう。

 建物の一つ一つにウインドタワーがついている。これは、葦簾張りの家の時代からあったもので、当時は、麻布で作った四角い塔を屋根の上に立て、それを×型に区切って、どの方向から風が来ても、部屋の中に風を導き入れることができるようにしていた。下部を狭くすることで、空気の断熱膨張を引き起こし、それで冷房効果を高めるのである。これが現在の建物にもつきもので、屋根の上に、ちょうど煙突のように乗っかているのである。もちろんもはや麻布ではなく、きちんとした構築材で作ってある。

 住宅は、どれも大きい。土地はたっぷりあるし、狭いと暑さもこたえる、ということだろう。商社の若い駐在員の家を訪ねる機会があったが、その家も大変広く(200平米)特に印象深かったのは、天井が高いことだ。居間の天井は棒高跳びのブブカの飛ぶ6メートルはあったろう。

 このように、すべてが、暑さ対策、湿度対策なのだ。湿度が100%にも達するので、冷房は今や必需品になっている。出張や休暇で国外に出るときも、切るわけにいかないようだ。切ってでかけると、衣類がかびついてしまっており、使い物にならなくなるのだそうだ。初めて赴任した人で、それで大失敗した人の話を聞かされた。

 空港、ホテル、事務所、男性用のトイレはどこもかなり高かった。少し背伸びしなければ届かないのではないかという圧迫感があった。

 一本の木に一日40リットルもの水が要るという。黒いパイプで水を引いている。花壇もまず黒いパイプを敷設してから作られていた。

 ドバイのクリークに面して、緑したたるゴルフ場がある。見物に行ったが、ここでヨーロッパサーキットの開幕第一戦が行われるという。クラブハウスも近代的な洒落た建物でなかなかのものだった。これだけの面積を緑に保つコストたるや大変な額に昇るだろう。

 どの都市にも、世界一流のホテルチェーンが進出していて、豪華な人工的な施設を持っている。バハレーンのメリディアンホテルには、人工の砂浜、噴水、屋外、屋内のプール、池、鯉、鴨類、様々な植物、樹木、フィールドアスレティック、テニスコートなどの施設が整い、まったくの別世界だ。そこでゆったりと泳いだり、日光浴をする女性、家族や子ども連れの若い母親もいる。どういう種族だろう。

(湾岸戦争の傷跡)

 クウエートでは、イラクの侵略の痕跡を残した建物が公開されていた。至近距離からミサイルをぶち込み、抵抗した青年隊を虐殺した生々しい跡だ。殺された青年たちの顔写真とプロフィールが展示されている。建物の前には、破壊されたイラクの戦車や乗用車も展示してある。

 侵略したイラクのサダト・フセインはまだ、健在である。戦争前には、四国より少し小さい国土面積のクウェートには210万人の人が住んでいたが、戦後外国人の入国規制をしたので、140万人になっており、国内経済の活動規模が縮小している。
 
 中東の政治的な不安定さはまだ、解消されたわけではない。
 

(食べ物)

 どんなものが出てくるかと心配だったが、杞憂だった。もともと、なんでも食ってやろうの精神を持っているので、出てきた料理はどれもおいしくいただけた。訪問した先でお昼にご馳走になったチキンのシシカバブ(串焼)や、レバノン料理もおいしかった。

 レバノン料理は健康食だ。前菜として小鉢に様々なものがテーブル狭しと並べられる。ナスや豆類をすり潰したペースト状のものや野菜がたっぷり、スパイスをたくさん使っているようだ。イランから、輸入されたキャビアもいただいた。その後のメインに頼んだ骨付きのラムチョップもうまかった。

 イスラム教徒は、豚肉は食べていけないことになっているが、ホテルのビュっフェ形式の朝食や昼食のときには、これは豚肉ですと、注意書き付きで一番端に豚肉の料理が供されていた。

 野菜類は、温室栽培ならぬ冷室栽培されたものだ。ビニールシートで囲った空間を冷房して野菜を育てるのだ。オアシスの中に、その手の施設をよく見かけた。

 東南アジアに比べると、食中毒になり難い環境かも知れない。高温で、雑菌があまり繁殖しないように思えた。

 ラクダの子の丸焼きが大ごちそうという。羊の丸焼きも同じらしい。どちらも、結婚式の披露宴にも出るという。王族の披露宴ともなると、7、8人のテーブルに一頭供されることもあるという。主賓は目玉をご馳走になるのが決まりらしい。あるとき、主賓になり、断わる分けにも行かず、おっかなびっくり食べてはみたものの、一週間お腹の具合が悪かったという日本人の話を聞いた。

 ラクダ市場を見に行った。ほんとにおとなしい動物で、日陰もない小さな金網の囲いの中に4、5頭ずつ入れられ、実にしずかにしている。

 その近くの広場に、トラックの屋根に脚を折り畳まれ、紐で縛り付けられ、あばれるでもなく、おとなしくしている三頭のラクダの子どもがいた。丸焼きにされる運命も知らず、表情は穏やかそのものだった。 

 アラビア湾はいつ見ても穏やかだった。魚も、結構取れるらしい。鯛より美味のハムラーなどがいる。日本から来た釣好きも、この魚に挑戦しているらしい。この魚の骨は非常に固く、素人では切断するのが難しいらしい。大きいのになると、一メートルを超えるらしい。黒くごつごつした魚だ。噛まれると指が喰い千切られるらしい。

 日本食がブームで店も増えたという。どの店も客がいっぱいいた。ウニとか、イクラなどの寿司の種は日本からも、運んでいるという。さきのハムラーの寿司は結構うまかった。
 
 アラビアン・ティーあるいはアラビアン・コーヒーと言われるものは、ハーブティの趣がするものだ。この種の味が嫌いではない私は、会談中に、訪問先のアラビア人から、飲み物は?と聞かれると、いつもアバビアン・ティを所望した。銀製の注ぎ口が鶴のくちばしのように長い独特の形をした容器で供され、お猪口のような小さな容器で飲む。呑み干すとすぐ注いでくれる。そのお猪口を、親指と人さし指の間で、くりくりと動かさない限り、いつまでも、これが続くのだ。

 ナツメヤシの木は至るところに生えている。街路樹としても多いし、オアシスの中でも、この木が一番めだった。したがってその実であるデーツの産出量は莫大で、大切な輸出品になっている。赤黒いもの、黄色いもの、種類も結構多い。

 スパイスもたくさん採れるらしく、ドバイには、スパイスのスーク(市場)があり、ところせましと商品を並べていた。一種独特の香ばしい匂いがたちこめていた。
デーツや乾燥したイチジクなども売っている。イチジクにも多くの種類があって、黄土色の干しイチジクをスパイス・スークで買ったが、直径1,5センチメートル程度で、固いほどに干し上がっているが、甘味が強く、おいしかった。

 面白いのは、スパイス類と並んで、香が売られていることだった。香を焚く習慣があり、そのための大小様々な香炉も売っている。この香がまた種類がおおく、小さな粒状のものから、岩石そのもののかたまりのようなもの、ろうそくのようなもの、と色々ある。こうしたものを取り混ぜて焚き、その家独特の薫を出すのだそうだ。

 アルコール類はバハレーン、ドバイではかなり自由だった。ホテルやレストランで自由に飲める。クウエートは、厳しいが、すこし、緩和の動きがある。といっても、アルコール抜きのビールを供する店がある程度。一番厳しいのはサウディアラビアである。ここでは、アルコール類を持っているだけで外国人でも牢屋にぶち込まれるらしい。バハレーンに、24kmのコーズウエイ(橋)を渡って、酒を飲みに来るサウジアラビア人がいるらしいが、自分の酒の量をわきまえていないので、問題を起こすケースが多く、サウジアラビア側では、酒を飲ませないようにしてくれとの要望を出しているとか。
 

(人/民族)

 基本的には、どこも、多民族国家である。アラブ人だけでなく、インド、パキスタン、イラン、バングラディッシュ、フィリピンなどのアジア各国からかなりの人が移民してきている。エジプト、イギリス人もいる。空港でも、町中でも、いろんな人種、肌の色、服装、言語が混在している。決してターバンばかりではない。女性の服装も様々で、多様化が進んでいるようだ。

 空港で、出稼ぎのフィリッピン人の若い女性にあった。5年前に来たという。空港で、外国人のビザの手伝いなどをするのが仕事ということだが、英語が出来るので、いいポストに就けたらしい。このように、自国人が少ないので、労働力を諸外国から受け入れているのだ。民族によって、就く職業に差があるらしい。金のスークの店員がインド人であったり、経理を扱う人がイエメン人であったりするのだ。

 日本人に比べ、おしなべて、時間の感覚がゆったりしているように感じられた。スークの近くで座り込んでいる人も居るし、町中にも、あちこちにベンチが置いてある。夕刻、そこに座ってゆっくりお茶会をするという。

 女性の自由化の動きもある。職場にも進出し始めている。ドバイの博物館でも受け付けは女性だった。しかし、写真は撮ってはならないという。

 サウジ・アラビアはいろんな意味で、厳しいらしいが、飛行機の中でサウジ・アラビアのコンピュータのアッセンブル会社を経営している社長と隣り合わせた。メールで、自国内やクウエートから注文を取り、部品を台湾に発注して、自社で組み立て売る商売を7年前に始め、順調にいっているらしい。インターネットの普及はどうですかと聞くと、いろいろ規制がうるさくて、今のところそれほど普及はしていないけれど、なにやかや言っていても、便利だから、これからは発展しますよという、インターネットの自由性が社会そのものも変えていくのだ。このサウジアラビア人とは、まったく普通の会話が出来た。そんなに異邦人がいるはずがない。
 
 ところで、インターネットと言えば、私のホームページをクウエートで開いて見たが、よく見えた。まったく、同じアドレスで世界のどこででも、開くことができるのだ。やはり、これはすごいことといわなければなるまい。
 

(気候/風土と宗教)

 照り付ける日差しの強さは、いいかげんなものではない。日向で45度はあった。湿度もそれほど高くなかったが、これから乾期に向かうと、気温が55度にもなり、湿度が100%にもなるという。こんなところで、いい加減な生き方をしていたらたちまち憔悴して、死んでしまうだろう。コーランという厳しい戒律を生んだのもこの気候風土なのだ。アルコール類に対して、まだ、厳しい国が多いのも、むべなるかな。若者の宗教離れがいわれているが、朝な夕なモスクの尖塔からは祈りを捧げる声が町中に聞こえるようにスピーカで流されていた。

 中東では、先祖の墓を大切にしない。町の中や外れに、砂漠のような何もない空き地があり、ほんのすこし土が盛り上がっている。そに死者が埋められているという。墓石一つない。どんな偉い人でも死ぬと、あっというまに土に埋めてしまうという。放置したらたちまち腐敗してしまうからだろう。そして、その墓を訪れ参拝する風習がない。一箇所に定住せず、砂漠を遊牧する民族にとって、死者を葬り、墓石を立て、墓碑銘を刻んでも、砂漠の形は日に日に変わるのだから、同じ場所に戻ってこれる保証はない。その風習が定住するようになっても、お墓を作らないことに結びついているのだろう。日本人がお墓を大切にするのも、稲作定着民族なればこそなのだ。

(ベリーダンス)

 ベリーダンスは、アラビアンナイトの世界だが、格式の高いホテルなどで見ると、日本の踊りと同じで、年を取った名取りの名演技を楽しむことができる。格式の高くないところに行ったほうが、演技力は多少劣るにせよ、駆け出しの、従って若い踊り子を見ることが出来る。というわけで、さほど格式の高くないホテルに出かけ、若いダンサーの踊りを楽しんだ。始まるのは夜の11時。踊りが2ステージあって、それは同じダンサーが衣装を変えて踊った。その後は歌になり、女性歌手が歌った。演奏は4人組の男性のグループ。アラビア風の音楽も捨てたものではない。午前1時頃引き上げたが、ステージの回りのテーブルの客は悠然と構えていた。ショウは、いつまで続くのだろう。アラビア人も夜には強いらしい。

 

(博物館)

 ドバイの市中に、昔の砦を博物館にしたものがあった。古い砦で何のへんてつもないが、その地下は、きわめて現代的な展示場になっていて、歴史や文化を工夫を凝らした見事なディスプレイで見せるようになっていた。このあたりも、金のある証拠である。

 バハレーンの石油博物館は、1936年に発見された中東での一号油井を記念して、つくられたものだ。このあたりは、それまでは世界一の天然真珠の輸出国だったのだ。アラビア海に産出する真珠貝を素潜りで捕まえるパールダイバーの写真がたくさんある。ところが、日本の御木本幸吉が人工真珠を開発し、1920年代にそれで壊滅的な影響を受けたという。博物館のすぐ隣にその一号油井は今もある。石油が溢れ出てこないように封じ込めるコンプレッサーが今も音をたてていた。

 このバハレーンは人口59万人の淡路島程度の小さな島国で、サウジ・アラビアと間にコーズウエイ(橋)がある。全長24キロ。橋の中間地点に国境があり、展望塔が立っている。そこから、サウジ・アラビアを遠望できるのだが、その日は霞んでよく見えなかった。
 
 その同じバハレーンの海岸で、昔のポルトガルの砦の遺物を発掘している現場にもいってみた。16世紀に作られたものという。結構大きな砦であった。かなり昔から、様々な勢力がこの地域にも現われては消え、消えては現われているのだ。そう言えば、砂漠の中にも昔の井戸を復元した展示とか、まだ遺跡を掘り進めているところもあった。歴史を振り返る気運が起こっているようだ。これも国や民族にゆとりが出てきた証であろう。

(金のスーク)

 ドバイには、スパイス類のスークのすぐ近くに、金のスークがある。店が150軒も密集して立っている。店員はインド人が多い。店頭に飾られているのは、見るからにキンキラキンといったデザインのものだ。女性用に、それこそ頭のてっぺんから下半身までどこにでも飾れるようにそれぞれの飾りが考えられている。あの黒いベールの下に付けるのだ。結婚するときには、この一式を男性は女性に贈らなければならないらしい。男はどこでも大変だ。

 結婚式も男女分かれて披露をするらしいが、新郎だけが妻の女の席に同席し、女性の素顔を拝めるらしい。
 

(経済)

 ドバイは昔から、物資の中継基地としての、存在意義を持っている。イランはホルムズ海峡を挟んだ対岸150キロの至近距離にあり、小さな木造のダウ船でも、交易可能な距離だ。クリークにはその種の船が折り重なって接岸し、川岸には野積みにされた物資が溢れていた。米、タイヤ、クーラー、電気冷蔵庫、ごちゃごちゃと何でもある。米国によるイラン制裁、どこ吹く風の世界だ。

 ドバイの首長一族は、このクリークの海の出口に関所を構え、出入りする交易船から関税をとることで財力を築いたのだ。その屋敷が公開されている。大きな建物で、四角に囲った中庭のある伝統的な作りである。中には一族の写真がたくさん掲示されていた。中東はどこへ行っても、公共の場所には、こうした首長や王族の写真が大きく引き伸ばされて掲示してある。

 クウエートの工業化は、まだ、あまり進んでいないようだ。バハレーンのアルミ精錬もまだまだ確固たる基盤を築くまでには至っていないようだ。各国とも、石油後を模索しているが、まだまだ、どうなることやら未知数である。労働者の養成・教育、インフラの整備、工場の集積など、課題は多い。

 ただ、幸いにして石油がある。これを利用して、一日も早く工業化を進めたいところだろう。日本は自国のためにも、そのお手伝いをしなければならない。

 労働力はナショナルと言われる自国民と外国人労働者の労働力の二重構造がある。ナショナルがたとえ能力がなくても中枢部を占める。これが弊害を呼ぶらしい。

 外国人が社会の低層部の労働を担っている。流入を制限したり、制限しすぎて人手が足りなくなって、緩和してみたり、色々試行錯誤をしている。イエメン人の評価は計算に明るくしっかりしていると、いいらしい。シバの女王の国の古い伝統に対する尊敬の念を周辺諸国の人は持っているようだ。

 ある公社を訪ねたら、日本で背広姿でお目にかかった人が全部ターバン姿だった。おれのことがわかるか、と聞く人がいた。わかりますとも、その特徴のある丸い顔と立派な髭と、言い、固い握手を交したことだ。事務所中、白いターバンの人ばかり。ちょっと、異様に感じられた。
 
 

(石油に浮かぶ国)

 今回、立ち寄ったところは、すべて近代的な整備された都市だった。建築物には見るべきものが多い。独特のフォルムの伝統的なアラブ風の建物に並んで、洋風の近代的な素晴しいデザインのビルが立ち並び、良く整備された道路には、日本車をはじめ、世界各国から輸入された新型車が走り、街路樹は緑の陰をなしている。

 世界の一流のホテルが競ってチェーン展開をしており、新築間もない大理石張りの豪華なショッピングモールには、世界のブランド品が溢れていた。

 レストランも、レバノン、インド、中華、日本、フランス、どこの国のもある。日本食は、いまブームとかで出店数もかなり多い。テーブルには、温室ならぬ冷室で栽培された野菜が供されている。あらゆる工業製品が、世界中から輸入されており、それを取り持つ商社が店を連ねている。

 個人の住宅も立派で大きい。国民の所得レベルは高く、人工密度は低く、東南アジア的な貧しさはない。

 しかし、こうした繁栄の陰に危うさも、感じられた。

 中東の国のほとんどが、経済力の基盤を石油に置いている。国家財政収入を産出した石油の売却費に依存しているのだ。世界でも有数の金持ち国になっているが、石油以外に見るべき産業が育っておらず、石油が産出しなくなったら、もとの砂漠を遊牧する生活に戻らざるを得ないのだ。

 都市部には、近代的なビルが立ち並び、良く整備された道路には、街路樹が緑の陰をなしている。しかし、これもすべて石油あってのことなのだ。街路樹の一本一本に、黒いビニールのパイプを引き、一日40リットルもの水をあてがわなければならないが、年間雨量100ミリの国では、その水を海水を淡水化したコストのかかるものに依存せざるをえない。近代的なビルを24時間冷房するのも安い石油発電ができてこそだ。所得税がなかったり、各種の税金が安いのも、石油からの財政収入があってのことだ。

 現在の中東諸国は、若年層の失業問題、産業の多様化の失敗、石油価格の低迷で財政収入が減り、財政のやりくりが一段と難しさを加えていることなど、多くの難題を抱えている。
 

(重要な中東)
 

 わが国にとっての中東の重要性は今さら言うまでもない。わが国のエネルギーの大宗を占める石油の大半を中東に依存しており、しかも、確認埋蔵量の点から見て、将来は益々中東に対する依存度を高めざるを得ないのだ。

 こんな大切な国とは、できるだけ仲良くし、人的交流を密にし、中東の実状を良く知り、細心の注意をもってフォローアップすることが極めて重要である。ところが、悲しいながら、現状では、日本から一番遠い国だ。

 世界を熟知しているように見える商社でも、中東の理解が不足しているらしい。湾岸戦争の際、中東ということでイッパひとからげにかんがえ、本社人事部はすぐ帰国を命じたという。現地側から見ると明らかに中東についてまったく無知な人が指揮をとっていることが、明々白々だったという。

 今回の私の訪問を多とし、ある公社は、帰国後、早速、特別の取り扱いをしてくれた。そうした義理人情もある。人なつこいところがある。地道な友達関係の維持がますます重要になってくるように思う。

 ところで、携帯電話は中東のどの国でも共通に使える。東南アジアも同じだった。東南アジアでは、日本だけが別になっていて、使えない。こんなことや中東への対応も含めて、規制国家日本は、世界から取り残されて行き、一番遅れた国になるのではないかという危惧を持っている人が中東にいる。

 他の国は中東の重要性に気づいて中東との付き合いをもっと大切にしているにもかかわらず、日本の対応は遅れ、その遅れを生み出す体制の自己改革能力は乏しく、一向に改善の方向付けが行われていない。なんとかなるさでは、どうにもならないことが多い。いまでこそ、石油はグラッドだが、足りなくなってから慌てても遅い。今なら、たいしたコストを掛けずにすむことがある。それを粛々とこなしていく姿勢が必要と痛感した。
 
 

 (補論)

 人間の記憶や知識・情報の類は、頭の中でいわゆる土地勘と言われるものによって整理されるのではないか、という仮説を立てて見たい。

 頭の構造は情報をマッピングするようにできているのではないか。そんな風に思えてきた。土台に地図があって、それと関連付けて情報・知識を蓄えるのではないかということである。

 初めての中東訪問、それも一週間足らずの短い駆け足訪問だったが、中東から帰って来たら、中東に関する情報、いままで整理がつかず、散在し、宙ぶらりん状況だった中東の知識や情報が、かなり整理され、頭の中ですっかりところを得て収まったような気がするのだ。

 土に足の付いた情報や知識、記憶でないとなんとなく危うく、自信をもって活用しようにもなんとなく心許ない。そんな心許なさが薄れて、安心して物がいえるようななったのを感じる。ここでも土=土地=地図と位置関係が関わっている。

 これまで中東の地図を何度見ても、クウエート、UAE、バハレーンの位置関係ですら、ぴんと来なかったが、実際に飛行機に乗りその国の間を往来し、歩いて見ると、相互の位置関係がはっきりわかる。距離勘が働く。そうなると物事に整理がついてくる。

 これまで、中東に関心がなかったわけではない。片倉もと子のアラビアノートやイスラム教の書物を読んだり、幾度も中東に関する講演を聞いたりセミナーや研究会に出たりしたこともあったのだが、一向に身に付かなかったのだ。

 ヨーロッパや、アメリカや東南アジアには出かけたことがあるので、つまり、少しにせよ土地勘があるので、それなりに整理して、身についた情報になっている。ところが中東の場合、その土台になる土地鑑がまったくなく、砂上の楼閣ならぬ、砂上の知識・情報として、根無し草同様ふらふらと腰が定まらず、それを、生かそうにも、よりかかろうものなら、すぐ、ずるずるとくずれてしまっていたのだ。

 それが、実際、砂漠の中をRVで走り、ホテルに泊り、人と食事を共にし、市場で買い物をし、砂漠の中に、石油で稼いだ金で、緑地帯が作られ、舗装された道路が延々と走り、高圧電線の鉄塔が立ち並び、周囲を砂漠に囲まれた都市には、近代的なビルとモスクが混在し、そのモスクからは、朝な夕な、祈りを捧げる声がスピーカで流されるのを目のあたりにして帰国すると、すべてが収まるところに収まり始め、なるほどとが点が行ったというわけなのだ。
 
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